*
甥っ子が、
フェレットを飼いはじめた。
「 母さん、
フェレットってわかる?」
「なにそれ。知らん」
「そういう名前の動物。
何かわかる?」
「サルのちっさいやつ?」
「それはサルでしょ。フェレット」
「鳥かなんか?」
「ちがう」
「あれか、ほら、
ピーナツとか食べる子・・・
ええと・・・・・・リスか」
「あ、近い。
ちょっと似てるかも。
けど、もっと長い」
「なにぃ、長いって。
変なやつかね。
にょろにょろっとしたヘビとか」
「ちがう。
フェレットっていう、
そういう動物なんだよ。
犬とかより小さくて、
かわいくて、尻尾が長くて。
イタチにちょっと似てる。
イタチってわかるよね?
着物着たとき首に巻く毛皮みたいな」
「モグラか」
「ちがうって。フェレットだって」
「サルに似た人?」
ついには「人」になってしまい。
「フェレットっていう、
そういう名前の動物なんだよ」
「サルの小さいやつじゃないの?」
母が、なぜそこまで
「サルの小さいやつ」に
固執しているのか、
それはわからないが。
とにかく、
重ねて挟みこまれた
「サルの小さいやつ」
という言葉の持つ音感と
破壊力は抜群で、
その都度、
腹を抱えて笑わせてもらった。
「こないだ新聞に、
かわいいバンビちゃんの
写真があったで。
切り取って額に入れて
飾ったんだわ」
母は、鹿のことを——
特に子鹿のことを
「バンビちゃん」と呼ぶ。
そんなお洒落で欧米風の母だが。
もしかして、
イタリア人なのかもしれない。
ずいぶん昔の話だが。
「買い物行くけど、
なんか欲しいものある?」
母に聞かれたぼくは、
「『荒挽きスナック』買ってきて」
と、リクエストした。
帰ってきた母が、
テーブルの上に物を広げているのを見て、
さっそくぼくがそれを探した。
「あれ、母さん。
『荒挽きスナック』は?」
「なにそれ?」
「頼んだお菓子」
「これじゃないの?」
「全然違う」
母が差し出したのは、
『アラ・ポテト』だった。
「たしか『あら』なんとか
だって思って。
あら、あら、あら・・・
なんだったかなって。
『あら』は合っとったけど。
これじゃなかった?」
ふと、
そんな懐かしい一幕を思い出す。
もう30年以上前の話だ。
* *
母さんは変わらない。
よくも悪くも、変わらない。
何年、何十年と、変わらない。
コンロを使う時には
換気扇を回そうね、と言っても。
玄関の靴を揃えようね、と言っても。
返ってくるのは、
同じ「答え」ばかりだ。
母さんから学ぶこと。
人は、変えられないということ。
自分が変わるべきだということ。
何度言っても変わらない、
変えようとしない母に、
父はよく癇癪を起こしていた。
まるで子どもの喧嘩みたいに。
変わらない、変えようとしない、
一見、頑固にも見える
融通に利かない部分ばかりに
目を向けると、
父のような感情になりかねない。
母さんは、できない。
母さんには、できない。
それを「理解」した上で向き合い、
こちらの側が身の振り方を変えて、
受け止めたり、かわしたりして
対処するしかない。
悪い部分じゃなくて。
いい部分を見ること。
体のあちこちが痛いと言いながらも、
毎日、家事をしている年老いた母さん。
焦げた野菜炒めも、
開けっ放しの玄関も、
しまい忘れたゴミ箱も。
みんな、母さんの頑張った証だ。
忘れないようにメモをして、
たくさん壁に貼り付けられた
貼り紙たち。
忘れてしまうけど、忘れないよう、
懸命に努力している。
たとえそれができていなくても。
やろうとして、努力している。
そう思うと、泣けてくる。
頑張ってるなと。
ありがたく思う。
悪い部分じゃなくて、
いい部分を見よう。
年老いた母さんと向き合いながら、
それを実践することで、
たくさんのことを教えられる。
毎日毎日、くり返し反復。
頭や理屈ではなく、
心と体に染み込ませる。
思いどおりにいくことなんて、ない。
他人のことは、コントロールできない。
すべて思うまま、
思いのままに動かすことなど、
空想まみれの暴挙に等しい。
願望。
〜してほしい。
落胆。
〜してくれない。
そういう力みが邪魔をする。
心をねじり、物事を曲げる。
どうでもいい。
なるようになる。
ならないものはならない。
あきらめでも、
無視でも、鈍麻でもない。
感じた上で、受け流す。
よけいな心配や、準備はしない。
そのとき、どうするか。
ただ、それだけ。
再三再四、
同じことをくり返している母さんと同じく。
自分もまた、同じ言葉をくりかえす。
「ま、いいか」
そういうことかと、母さんに学ぶ。
おかげで少しは、
懐が深くなっただろうか。
小さな器も、
少しは広くなっただろうか。
短気な父は、いつも怒っていた。
短気は損気。
怒っている人の周りには、
びりびりとした
見えない電気みたいなものが漂い、
人を委縮させたり、
相手を怒りに染め上げたりする。
父と母から学んだこと。
忘れないよう、何度もくり返す。
奥の奥まで染み込んで、
洗い流しても取れないくらいに、
何度も何度もくり返す。
意固地にも見える母さんの態度に、
落胆したり、悲観したり。
ちょっと怒りを覚えることもあるが、
口には出さない。
出したとしても、
やわらかな声で、感情には訴えない。
すぐ笑顔に戻る。
その日のことをは、その日限り。
寝て起きたら、みんな流して、
笑顔で「おはよう」と挨拶する。
失敗しても笑って、
正論で正したりはしない。
怒りや悲しみは、
それを超えてやってくる。
けれどもその都度立ち止まり、
なるべく最初に立ち返る。
母さんは、無邪気で呑気で、
ゆたかでおもしろいい、
心根のいい人なのだと。
母さんは、ぼくの母さんなのだと。
* * *
そんな母さんのおかげだろうか。
最近毎日、成長している実感がある。
父の「やり残し」のおかげか、
日々、学ぶべきことがある。
自分が変わること。
成長。
かっこつけでもきれいごとでもなく。
ぼくは、母さんを使って、
成長したい。
母さんという教材から学び、
失敗しながら、大きくなりたい。
固く乾いたものは、やがて折れる。
柔らかく、しなやかに、たわみながら、
かわし、受け止め、成長したい。
相手が母さんだからできる学習。
ありがとう
かつての自分では
感じられなかったこと。
見えなかった景色、情感、思い。
ありがとう
老いていく母さんの姿に、
ぼくは学ぶ。
同じことを
何度もくり返すことはできても、
同じ日を、やり直すことはできない。
だからこそ、
目の前の時間を大切にしたい。
平凡すぎて
あくびが出そうな「ドラマ」を
見逃さないように。
なるべく笑って、
楽しんでいきたい。
「9対0。
もう負けだわ」
古めかしいラジオに耳を傾けて、
嘆き、顔をくもらせる母さんに、
微笑み返す。
「ねぇ、母さん。
これ聴いてみて」
と、これまた時代遅れの、
使い込みすぎて
角が丸くなってきたのでは、
というほどの、
お気に入りのiPod classicの、
しかも有線イヤフォンを
母さんに差し出す。
「これ、耳に入れるの?」
うなずくぼくに、母さんが、
こわごわと耳にイヤフォンを入れる。
「なにこれ!
きゃんきゃんうるさい。
なに言っとるのかわからん」
母さんに聴かせた曲は、
セックス・ピストルズの
『God Save The Queen』だ。
「お母さん、こういう、
耳に入れるやつ、嫌いなんだわ」
眉をひそめて
イヤフォンを突き返す母さんに、
重ねてぼくが言った。
「じゃあ、これは?」
流したのは、
石川さゆりさんの
『天城越え』だった。
つい今しがた、
「嫌い」だと言ったばかりの
はずなのに。
一人、気持ちよさそうに
目を細めながら、
母さんは、
石川さゆりさんとともに
『天城越え」を熱唱している。
「母さん昔、カラオケで歌ったよね」
家族で温泉旅行へ行った時——
ぼくが高校生くらいだったか。
父と、母と、姉とぼくと、
初めて家族で
カラオケに行った時のことだ。
「じゃあ、これは?」
続いて『津軽海峡冬景色』を流すと、
またも母さんは、
気持ちよさそうに歌いはじめた。
ぼくの耳に、曲は聞こえない。
聞こえているのは、
母さんの唄声だけだ。
なんだかおもしろい
おもちゃみたいに。
歌う母さんの唄声を、
ぼくは笑って聞いていた。
日本舞踊やら三味線やらを
かじっていたせいか。
母さんは、歌がうまい。
そして母さんは、
全然イヤフォンを
返そうとしなかった。
「何、これ、ラジオ?」
「違う。こういう、音楽を聴く器械」
母さんが、
いかにもうらやましげに、
ぼくのiPod classicを
まじまじと見つめる。
「この中に、何千、
何万曲とか入るんだよ」
「ふうん」
「欲しい?」
と、聞いてみたものの。
母さんには使いこなせそうもない。
実際、昔買ってあげたラジカセも、
うまく馴染まないままほこりにまみれ、
ついには動かなくなってしまった。
母さんはもう何台も、
手持ちの小型ラジオを買い直し、
その都度それを愛用している。
おそらく十数台は買ってきただろう。
イヤフォンを返してもらった後、
お風呂の準備をしている母さんが、
『津軽海峡冬景色』を
歌う声が聞こえてきた。
父の一周忌を
明日に控えた9月12日。
梅雨のように蒸し暑い、
雨降りの夜。
ドラマにもならない、
退屈極まりない日常の「ドラマ」に、
ぼくは、胸の奥がほわんと温かくなり、
目の奥が、じわっと熱くなった。
「あっついね。
今日、外、70度くらいあるらしいよ」
そんな、
めちゃくちゃなことを言う母さんを、
笑ってあげられる一人として。
忘れっぽさに磨きがかかり、
何を言っても右から左で、
失敗ばかりで、
同じ話を毎日くり返して、
同じことばかり尋ねる母さんと、
ぼくは、なるべく笑って向き合いたい。
だってそれが、
ぼくの「母さん」なのだから。
・・・この1年、
そう思って母さんと接してきて。
少しはそれが、楽しめるようになった。
フェレットみたいには可愛くないけど。
フェレットみたいに無邪気で奔放で、
ちっとも言うこと聞かない母さんを、
律したり、制御したり、
思い通りに操ることはできない。
フェレットを飼いはじめた
甥っ子たちに、ぼくは学んだ。
「ぼくたち」に合わせるのではなく。
「母さん」の「行動」を理解すること。
ああ、母さんは、こうなんだなと。
できないことを数え上げるより、
できることを愛でていきたい。
「お母さん、
食いしん坊なのかな。
いくら暑くても
食欲がなくなることもないし、
毎日ごはんが
おいしくてしょうがない」
晩ごはんを前にした母さんは
毎日、決まってそう言う。
食前のお祈りみたいに、
もう100回くらいは
聞いたように思う。
「いただきまーす」
ごはんを食べながら、
鼻唄を歌う母さんの姿は、
子どものような、少女のような、
とてもきれいで
透き通った顔をしていて。
ぼくは一人、
悲しくもないのに、
泣きそうになった。
人は、こうやって老いていくのだなと。
母さんを見ながら、日々思う。
老いることは、悲しみじゃない。
年を取るということは、
ゆっくりと子どもに戻りながら、
透明になっていくみたいで、
なんだかとても清らかな気がする。
母さんを元気にしたくて。
母さんを笑顔にしたくて。
1年間、
まっすぐ母さんと
向き合ってきたご褒美。
気づくと自分が、笑顔だった。
ありがとう
ぼくは、この景色を忘れない。
って。
いつも同じことなかり
言っているのは、
ぼくも同じかもしれない。
子どものころ、
あんなに大切にしていた
はずなのに。
大きくなると、
大切にしなくなる。
嘘をつかないこと。
約束を守ること。
ありがとう、ごめんなさいを
きちんと言うこと。
わからないことは、
わからないと言うこと。
けんかをしたら、仲直りすること。
おじいちゃん、おばあちゃん、
お父さん、お母さんを
大切にすること。
大切なものを、大切にすること。
大人になると、
何やらそれが「むずかしく」なる。
母を愛してくれる人が言った。
「こんなに邪(じゃ)のない人は、
見たことがない」
すごく嬉しかった。
自分もそう思う。
ときどき嘘をついたり、
ごまかしたりはするけれど。
邪(よこしま)なものは、
感じられない。
純粋で、素直で、
損得勘定なく動く母を、
いい人だな、と思う。
自分の親だから、だけではなく。
血のつながりのない人から
そう言ってもらえてことは、
本当に嬉しくて、ありがたいことだ。
そこにいるだけで、
みんなが笑顔になる。
犬とか猫とか、
赤ちゃんみたいな存在。
なるほど。
だから「邪」がないのか。
9月13日。
父の命日である昼下がり、
買い物帰りの母さんが、
その人に向かって言った。
「恥(はじ)かいちゃった。
お金がないのに買い物しちゃって。
恥ずかしいわぁ、もう」
屈託のない顔で、母さんが笑う。
帽子をかぶった母さんの姿は、
小学生の子どものようだ。
「あそこ(駅前のスーパー)に行くと、
いろんなものがたくさんあるもんで、
ついつい買いたくなるんだわ」
「わかります、私もそうです」
とてもいい時間が、ゆるやかに流れた。
冷蔵庫も食料庫も、
物でいっぱいなのだが。
ついつい買い込んでしまう母さんに、
声なく笑みをこぼす。
父さんとの約束——
母さんのことを、よろしく頼む、と。
父さんと話した、
最後の電話で託されたこと。
この1年間、
はたしてそれが、できているのか。
よくわからないが、
ぼくは、母さんの笑顔を大切にしてきた。
怒ったり、叱ったりするのではなく。
「答え」が「笑顔」に
なるような算数をする。
これは、母さんがくれた、
いや、父さんと母さんがくれた、
最後の「教材」かもしれない、と。
そう思って、
今日まで向き合ってきた。
俺みたいになるなよと。
私みたいにならないでねと。
両親からの、
最後のプレゼントなのかもしれないと。
立派な人にも孝行息子にも
なれないぼくだけれど。
目の前の人を、
笑顔にすることだけは、
できるようになってきた。
ありがとう
1年という節目。
目の前に広がるこの景色は、
すこぶる平凡で、平和で、
ひどく退屈かもしれないけれど。
とてもきれいで美しく、
本当に尊い。
1年。
この1年は、
人生の中でも、
いちばん大切な1年になった。
気づいてよかったな、と
何度も思う。
何が大切で、
自分が何をするべきなのかを。
ほかの誰かではなく、
自分しかできないことに
気づけてよかった。
少しばかりは成長できた姿を、
天国(または地獄)の父は、
見ていてくれてるだろうか。
ややこしくて、大変で、
投げ出したくなるような、
大きくて重たい
すてきなプレゼントをありがとう。
ぼくは、
このプレゼントを、
いつまでもずっと
大切にしていきたい。
< 今日の言葉 >
『いま息子よ、
おまえにはわかっただろう。
そうしたものは所詮、
束の間の戯れだ。
いま月の下にある、あらゆる黄金も
昔あった黄金も、
この疲れはてた亡者のただ一人にも
安らぎを与えることはできない』
(『神曲』ダンテ・アリギェーリ:地獄篇・第七歌)












