2011/12/01

見えない境界線



最近、某美術館の方とやり取りする機会があった。


その方は、《アートディレクター》のお仕事をされている女性で、
同美術館の企画・運営にたずさわっている。




その方とやり取りしていて。




あらためて、
自分の「絵」について考える
いいきっかけが持てた。




自分はなぜ、絵を描くのか。




自分にとって絵とは何なのか。




「こたえ」なんかはないけれど。




思っていることを「言葉」にする
いいきっかけになった。






ぼくは思う。




「絵」だとか「作品」だとか、
そういったものに境界線などないと。


いわゆる「アート」とか「芸術」とか、
そういった「くくり」もなければ、
そういう「枠」もないものだと。




きれいとか、おもしろいとか、
かっこいいとか。


ぼくの絵や作品を見たとき、
見た人が、そんなふうに
たのしい気持ちになってもらえたら
うれしく思う。




花を見て「きれい」と感じる気持ち。


銀色に光る飛行機を見て「かっこいい」と感じる気持ち。


変な組み合わせの服を着て歩くおじさんを見て、
「おもしろい」と感じる気持ち。




ブルース・リー氏の言葉じゃないけれど。


考えるよりも感じることが、「ほんとう」だと思う。






感じること。


感じたこと。


そこには、理由もない。


あえて言葉にしようとするから「理由」ができてくるだけで、
本当は「理由」なんて何もない。


あるのは経験からくる「直感」だけだ。






直感。感覚。






伝統的な「住み分け」や、
学術的な「区別」なんかより。


きれいとか、かっこいとか、
おもしろいとか。
そっちのほうが「はやい」し、たのしい






色、形、模様、配色。


線と線、流れ、色と色の重なり、勢い。


配置や構図、絵の中身も、もちろんそうだけど。




自分が「きれい」とか、
「かっこいい」とか、「おもしろい」とか、
そんなふうに感じる絵を描いて。


見た人が、「きれい」とか、
「かっこいい」とか、「おもしろい」とか、
何かしらたのしさを感じてくれたら
すごくうれしい。




それが、まったく同じ感覚である必要はないと思う。




共感よりも、共鳴。




見た人それぞれが、その「感じ」を増幅させて、
その人なりのおもしろさで見てくれたら、
いちばんうれしい。






絵は、鏡だ。




絵を描いた人自身の鏡であり、
絵を見る人自身の鏡でもある。




ぼくはそう思っている。




そこにどれだけ写し込めるか。
そこからどれだけくみ取れるか。




結局、その人自身の感覚が頼りだ。










ぼくは、絵を描くのが好きだ。




絵を描いているときは、すごくたのしい。








絵を描いているときはすごくしあわせな気分で、
小さいときのたのしい思い出とか、
きれいな映像の記憶とか、
昨日あったおもしろい出来事とか、
あれがあんなふうになったらおもしろいのにな、とか、
いろいろな断片が浮かんでは消えて流れていく。




たくさんの断片が、
色の洪水みたいに、
どおーっ、と流れていくこともあれば、
景色を写すゆるやかな川面みたいに
ゆったりと流れつづけることもある。




逆に、まったく何も考えていない瞬間もたくさんある。




目の前に広がる色、形。


たくさんの色や形が散らばった画面のなかは、
にぎやかであざやかで、ものすごくたのしい。


その変化を、自分自身の手で感じながら、
自分自身の目でたのしむ。


それは、描いている瞬間しか味わえない、
たのしい世界でもある。




好きな音楽を爆音で聴いて、
絵を描く。




好きなお菓子を食べながら、
絵を描く。




だから、絵を描いているときはたのしい。






逆に、絵を描いていないときは、苦しかったりする。


四六時中、絵を描いていないと気がすまない、
というわけではないけれど。


絵を描かない日がずっとつづくと、つらい。




常に描きかけの絵が置いてあって、
いつでも絵が描ける状態だったり、
ちょっとした線とか、
らくがきがすぐに描ける状態だとうれしい。


キャンバスとか、パネルとか、
スケッチブックとか。


いつでも手に届く場所にあれば、うれしい。






絵を描いていても、
苦しいときはあるけれど。


描かないでいるときのほうが、やっぱり苦しい。






ぼくにとって、絵とは何なのか。






ぼくにとって、
「絵を描く」ということは、
「空白をうめていく」ことなんじゃないかと。


そんなふうに思う。




時間的にも、空間的にも、
自分の目の前にある「空白」をうめていく。


その時間(空間)は、
個(孤)であるかもしれないけれど。


絵を見てくれた人に「いいね」とか、
「おもしろいね」とか言われたら、
塗りつぶした時間(空間)は、個(孤)ではなくなる。




少しでもたくさんの人に、
「いいね」とか「おもしろいね」とか、
言われたらうれしい。




だから、自分の絵が「閉じて」しまわないように、
見た人がたのしい気持ちになれるように、
なるべくたのしい絵を描いていきたい。




まじりっけのない絵を、
できるかぎりまっすぐに描いていく。




ぼくには、まだまだ、
分からないことばかりだけど。




たのしく描いた絵は、
見た人もたのしさを感じるのだと分かった。






殺風景な部屋のなか。


ほんの一輪でもいいから花を飾ると、
部屋のなかがぱっと明るくなって、
空気の色が変わったように感じる。




そこがどんな場所でも。


犬がいるだけで、空間がふわっとなごむ。
猫がいるだけで、空間がゆったりなごむ。




最近のぼくは、
自分の絵に、そんな価値を求めている。








ぼくは、小さなころからずっと絵を描いている。


小さなころからずっと、絵を描くのが好きだ。


絵を見るもの好きだ。






けれども、絵のことは分からない。


ぼくは、絵を「勉強」してきてはいないからだ。






今回、美術館の方のお話で、
絵にも、境界線や住み分けがあるということを知った。




境界線は、
見る人がつくり出すものだということも分かった。






見えない、境界線。






ぼくにはまだ、
見えない境界線が見えないままだ。




こんなことを言うのはかっこ悪いことだけど。




ぼくはその、見えない境界線を、
こわしていきたい。








< 今日の言葉 >




「ちちくりマンボの人、死んだらしいね」


「どくとるマンボウでしょ」


「今いくよ、だっけ?」


「北杜夫(きたもりお)でしょ」




(10月の昼下がりの、不毛な会話より)

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