2025/08/01

白紙の心




 *


「あの子、なんだった?

 チンパンジーじゃなくて。

 笹食べる子。

 ああそうだ、コアラだ。

 あの子、かわいそうに、

 帰らないかんのだってね。

 ちいぃさいネズミみたいな

 赤ちゃんから育てて、

 せっかく大きくなったのに。

 寂しいね、返さないかんなんて」


後半でようやく、

母がパンダのことを

言ってるのだと解った。



そんな母が、ある日、

真面目な顔で、ぼくに言った。


「今日、お医者さんに

 行ってきたんだけど。

 母さん、心不全だって。

 いつ死ぬかわからん。

 あとはたのむね」


初めて聞く話ではないが。

やはり、聞いていて

楽しい話題ではない。


「ぼくだって

 明日死ぬかもしれないし。

 みんなおなじだよ。

 だから、先のことを心配するより、

 今日のことだけ考えて、

 楽しく笑っててよ。

 長く生きてきたんだから。

 なんにも考えず、

 あとは母さんの好きなように、

 楽しく過ごしてよ」


「そうだね。

 つまらんこと言っとっちゃいかんね。

 毎日元気に、笑っていかないかんね」


単純な母は、

すぐぼくの言葉に「だまされて」、

満面の笑顔で笑っていた。


その日の夕食どき、母が、

またおなじことをくり返し口にした。


けれどもその内容は、少し違っていた。


「母さん、ジンウエンとかいう、

 よくわからんやつなんだけど。

 まぁ、どうでもいいわね、そんなの。

 自分でなんともないし、

 これまでと変わらず、元気だから。

 別にどうでもいいよね」


ぼくの言葉が効いたのか。

思考のメカニズムも、

変換システムもわからないが、

母は、先ほどとは打って変わって、

何の心配もない顔つきで、

にこにこと話した。


母と話していると、おもしろい。


ときどき噂話や、

愚痴っぽい話題にもなるが。

そういう話題に興味を示さない

ぼくの顔色を見るや、

母はすうっと話を変える。


「連休は暑なるらしいよ。

 昔の天皇誕生日が

 昭和の日になったんだよね。

 昭和の天皇さん、眼鏡かけた、あの人。

 あの人は、天皇、って感じだったねぇ。

 ・・・・・あの人、病気らしいね。

 もう一人の人は、女の人のあれで、

 前から出とらんけど。

 もう一人の人も病気になったもんで、

 今、出とらんのだわ。

 テレビはそのまま

 やっとるのかもしれんけど。

 二人ともおらんようになったもんで、

 なんか寂しいね。

 ようしゃべる人だったもんねぇ。

 別れてはおらんのだろうね。

 まだ大阪とかで、

 舞台とかにはやっとるんかなぁ。

 昔観に行ったもんね。

 便利なとこに住んどったね、おばあさん。

 梅田の百貨店が市場みたいな感じだもんね」


時には正すこともあるが。

あえて正すことはせず、

黙って聞くこともある。


母の話は、

でたらめなラジオみたいに、

淀みなく流れ続ける。


「本当にあの子はいい子だねぇ。

 顔見とるだけで嬉しくなるし、

 にこっと笑って、本当に可愛いわぁ。

 しっかりして、気も利くし。

 仕事もできるんでしょう?

 手先が器用で、センスもあるんだね。

 芯がしっかりしとる人なんだなって。

 母さんはそう見とる」


笑顔で話す母の声は、

音量が少し多きめだけれど、心地いい。


そう。


あと何年、何カ月、

何日、何時間、何回、

母の話が、聞けるのだろう。


父の話も、

もっと聞いておきたかった。


父が死んでからというもの、

前にも増して、

母の死を考えるようになった。


母に限ってのことではなく。


一回一回、

その日一日一日が宝物だということ。


それを、父と母に教わった。


じめじめした気持ちではない。

いつかなくなるからこそ、

思いっきり味わいたい。

そういう晴れやかな感覚。


終わって欲しくないものでも、

永続することはなく、

必ず終わりがある。


だからぼくは、出し惜しみをしない。

思ったことは、全部やる。

思わないことは、極力やらない。


痛みや苦しみから目をそらさず、

ごまかしたりせず

まっすぐ向き合って、

じっくり観察する。


一人で我慢はしない。


目の前の景色を台無しにするような、

馬鹿な真似はしない。


自分の弱さで現実を見失い、

芽も出ていない不安の種に水をやり、

不幸の花を咲かせるようなことはしない。


細かいことはどうでもいい。

目の前の人が、笑っているなら。

過去や未来のことなど、どうだっていい。

今現在の笑顔を曇らせてまで、

伝えるようなことは何もない。


信じること。

信じ続けること。



大切な人から、教わったこと。


老いた母に、日々教わる。


まるで「おばあちゃん」みたいに、

おだやかに、やさしくまるく、

まろやかなっていく母。


近ごろの母は、

よく笑い、よくしゃべる。


「最近、父さんどうしとるんだろうね?

 全然、顔見んようになったけど。

 元気にしとるんかな?」


事実を告げられないまま、

父の死を知らない母が、

ふと、ぼくに尋ねる。


父が死んでから、

7カ月ほど経っていた。


「どうだろうね。

 どっかで元気に

 してるんじゃない?

 母さん。

 父さんと会った

 最後の記憶って、いつ?」


「もう2年くらい前かなぁ。

 庭で木を見ながら、

 じっと立っとった。

 あれが最後だと思う」


母の思い違いである。


昨年会っているはずだから、

少なくとも、

1年少し前が最後のはずだった。


「母さん、父さんと一緒に、

 お見舞い来てくれたよね。

 ぼくが入院した時。

 あれ、嬉しかったなぁ」


「え、あんた入院したの?」


このやりとりも、初めてではない。

最初は、忘れられたみたいで、

何となく悲しく感じたものだが。


姉いわく、


「母さん、あんまりショックすぎて、

 あんたが入院したこと、

 なかったことにしたいんだと思う」


おなじようにして、

父との悲しい記憶、つらい記憶も、

「なかったこと」にしているのだろうか。


人間の、曖昧な、都合よくできた、

記憶のメカニズム。

記憶の捏造、改ざん。再編集。


『思い出は美化される』


などというように。


思い出したくない記憶は、

なかったものとして、

記憶の奥底に沈められ、

忘却されていくようだ。


思い出す必要性がないのなら。

もう二度と、悲しい過去は、

蒸し返したくない。


歳を重ね、もう、

学習や準備などを

する必要がなくなった母にとっては、

なおさら「回想」することなど

無用なのだろう。


反省よりも、学習よりも、

今をどう生きるか。

これから先を、どう生きていくか。

それだけで精一杯なのだから。


過去に費やすエネルギーは、

それほど多く残って

いないのだろう。


母の口からこぼれる過去の話は、

黄金時代(ゴールデン・エイジ)の

きらきらした思い出話がほとんどだ。


悔しかったり、悲しかった話も、

つらかった時期の話ではなく、

母が、楽しかった時代の

記憶の一端だった。


おなじ話をくり返す母。


これは、

人生を締めくくるための、

回想録なのか。


人が死ぬ前に、

走馬灯を見るのは、

生きるための手がかりやヒントが、

自分の人生のどこかに

ひそんでいないか、

必死で探しているためだと。

最近、漫画で読んだ。


思い出話は、そのためなのか。


残された機能を

効率よく使った結果の行動なのか。


余計なものは捨てていく。

今を生きるための、最小限の割り振り。


そう考えると、

老いが、

人を幼児化させるのにも

うなずける。


やりたいことを、わがままにやる。

動物的な衝動と欲求。


昨日や明日より、今日のこと。

今しか見えない、狭窄した視野。


「今だけを見て、今を全力で生きる」


そう願うぼくは、

はたして子どもなのか、

それとも老人なのか。


そんなのは、どっちだっていい。


ぼくは、犬みたいに生きていきたい。


今日までずっと、そうしてきた。


自分に嘘をつかず、

手を抜くことなく、

すべて全力で向き合ってきた。


愛犬、ハナを見習って。

ハナみたいになりたくて、

一事が万事、一期一会で生きてきた。


『過去に拘わらず、

 未来に幻想を持たず、

 今現在を充実させる』


そんな言葉をどこかで読んだが。


ぼくは、自分を信じる。


自分の心に従順であれば。

今の自分が運んでくれる

その場所が、

自分の求める景色へと

つながる道だということを。


だから、頑張る。


だから、大切にする。


大切なものを、

大切な人を、

大切な宝物を大切にして、

執着しないで、つかみ続ける。


つかめば壊れてしまいそうなほど脆く、

手からこぼれ落ちそうなほどなめらかで、

見落としてしまいそうなほど小さくて、

どこかに紛れてしまいそうなほど儚くとも。


何度も何度も、つかみ続ける。


たくさんは、いらない。


大切なものは、ほんの少し。


大切なものが、何なのか。

大切にするということが、

どういうことか。

ほんの少しずつだけど、

わかりつつある。


放しちゃいけないものが

あるということを。


大切な人が、

父と、母が、教えてくれた。



忘れっぽいぼくは、ここに記す。



忘れたくなるような記憶に

囲まれるより、

忘れたくない思い出を

重ねていきたい。


忘れても、忘れても、

気にならないくらいに

ずっとずっと重ね続けたい。


時間は、有限だ。


最後は思いっきり泣くかもしれない。


それでも、手を抜いたりはしない。

逃げたり、ごまかしたり、

するしたり、なかったことにはしたくない。


誰よりも笑って、誰よりも泣きたい。


いつもありがとう、と。

ありがとうの気持ちを伝えていきたい。

何度も何度も何度でも。


大切にするということは、

箱に入れて飾るのではなく、

壊れることを恐れず、

壊さないよう丁寧に

思いっきり使っていくことだ。


変化をいとわず、

あわてることなく、急ぐことなく。

悠然と、ゆったりと、

今この瞬間の景色をかみしめたい。


何色にも染まらずに、

自分だけの色を塗ること。


何色かに染まって、

ゆたかな色を塗り重ねること。


父の人生は、どんな色だったのか。


母の人生は、どんな色なのだろうか。


何も考えない、という、考え方。


すべて受けて立つという覚悟。


準備するのは、心だけ。

受けて立つという、心の準備。


何の準備もしていない、

白紙の心だからこそ、

できることがある。


こだわりを捨ててこそ

見えるものがある。


決めるのは、

その時その時、その瞬間。


事が起こる前に、

構える必要はない。


心の準備は

できているのだから。


待つのではなく、迎えに行く。

守るのではなく、攻めの姿勢で。

型に押し込めるのではななく、

流れに任せて、受け止める。


未知なるものに遭遇したとしても、

間違いなく判断するための感覚を、

今日まで磨いてきたのだから。


臥薪嘗胆。

日進月歩。

百折不撓。


そんな泥臭い言葉を

腹いっぱい飲んで吐き出して。

できた泥の水たまりに、

つかめそうなほどくっきりと

虹が映る。


そんな人生は、

はたして何色なのだろうか。





母が言う。


「これ、

 チョコクロワッサン

 買ってきたんだけど。

 チョコ味かと思ったら、

 中にチョコが入っとって

 びっくりした。

 焼いてから刺すんだろうね、これ。

 かたまりのまま、溶けとらんもんね」


チョコチップ・クッキーとおなじで。

おそらく、チョコクロワッサンのチョコは、

最初から入れて焼いていると思ったのだが。

ぼくは笑って、何も言わなかった。


(ちなみに

 チョコチップ・クッキーは、

 チョコレート味のクッキーを

 作ろうと思って、

 砕いたチョコを混ぜ込んだことが

 きっかけで誕生したんだよ。

 溶けて混ざると思ったチョコが、

 溶けずにかたまりのまま残って。

 失敗から偶然生まれたってわけ)



何も考えずに書いたこの記述。


白紙のままで書いた記述は、

とこにも辿り着かないまま、

再び白紙へと

帰するのでありあました。



< 今日の言葉 >


本当の金持ちは、

語尾に「ざます」と

つけない事実を私は知っている。

本物の金持ちは、

語尾に「金(かね)」とつける。


「そうかね、そうかね


「いいかね、きみ


「これは、誰のかね?」


・・・といった具合に。


ありあまった「金(かね)」を、

語尾につける。