2020/05/10

ぼくのファッション遍歴 〜あすなろ編〜









なろうなろうあすなろう

明日は檜(ひのき)になろう



 (藤子不二雄『まんが道 あすなろ編』より

 / 原典:井上靖 氏『あすなろ物語』)





☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ★






ファッション。

日本語でいうと、はやり、流行。

特に、服装や髪型などについていう。



みなさんは、

ファッションに興味、ありますか?



ぼくは、どちらかといえば、あるほうだ。

いや、大いにある。


といっても、流行には疎いほうで、

いま、自分がいいと思うものを

選んでいるという感じだ。


だから、

自分のファッションは、

つねに「最先端の流行おくれ」である。



電車を待つ女子高校生に笑われたり。


本土から離れた島で男子高校生に、

こっそり写真を撮られたり。

(こっそりがばれてるから、もうこっそりじゃあないか)


郊外の街で、外国人とまちがえられて、

英語で話かけられたり・・・。


とにかく、

世間的に見て「おしゃれ」とは

いえないスタイルかもしれないが。


自分は、おしゃれが大好きで、

いつもそれをたのしんでいる。



そんなぼくの、

ファッション遍歴。



この記述は、

今日までに至るおしゃれな足跡を

たどってみようではないかという試みであります。



『ぼくのファッション遍歴

     〜あすなろ編〜』



おしゃれボーイもおしゃれガールも、

もちろんそれ以外の方々も、

みなさまどうぞ、

最後までおつきあい願います。



今回も、

おそらく長旅となりそうな気配ですので、

お茶やお菓子の準備もお忘れなく。






☆ ☆ ☆ ☆ ★ ★





実家の物置に眠っていた服








幼稚園のころ。

最初の、ふたば幼稚園のころの制服は、

帽子も上着もズボンも、みんな茶色だった。


セーラースタイルの制服で、

帽子には、ふちが上に反りあがった「つば」がついていて、

長いリボンが2本垂れていた。


カバンは黄色。

肩から斜めに、たすき掛けするカバンだ。


その制服とのつき合いは、ほんの1年で、

引っ越して短期大学付属幼稚園に入った。


すると、制服が紺色に変わった。

ブレザータイプの制服だった。


当時のぼくは、そのことが不服だった。


刷り込みなのか愛着なのか。

それともただの好みの問題か。


当時の気持ちを説明できる根拠はもう何もないが、

とにかく、新しい制服の、

色も形も、すべてが気に入らなかった。


体操着もきらいだった。

ぼくは「ふじぐみ」で、

帽子の色が「ふじ色」だったのだが。

当時のぼくは、

その色が、非常にいやだった。


これを読んでいる方がいま、

ふじぐみ、または、ふじぐみの関係者でないことを祈るばかりだが。


その、淡くてぱっとしない色合いもさることながら、

カップリングの色(赤白帽でいうところの赤と白、表裏の関係)が

さらにいやだった。


ふじぐみ帽子の、

ふじ色のカップリングの色は、黄色。


「ふじ色  C/W  黄色」


どうしたものか、

その2色の組み合わせが、

とてもいやだった。


自分の意思と関係なく執り行われた

引っ越しに対する不満の気持ちが

反映されていたのかもしれないが。



ぼくは、茶色い制服と赤白帽が、

恋しくてならなかった。




先ほどの画像の服のポケットに入っていた、くしゃくしゃのシール。
おそらくいっしょに洗濯したもの。




そんなころ。




母と姉といっしょに、

百貨店へ行ったとき、

好みの絵柄のTシャツを選んで、

そこに自分の名前を入れてくれる、

というお店を見つけた。


Tシャツの上に、

フエルトの、ひらがなの切り文字を配置して、

アイロンで圧着させる、という仕様のものだった。




姉は『キャンディ・キャンディ』の絵柄を、

ぼくは『ヒゲダンス』の絵柄を選んだ。


デカダンスでもなく、

桐ダンスでもない、

『ヒゲダンス』。



昭和の同胞の方々は、

当然ご存知であろう。


ザ・ドリフターズのメンバーである、

志村けん氏と加藤茶氏とが、

『8時だヨ!全員集合』のなかで

大流行させた演目である。


ヒゲダンス。



タキシードを着たふたりが、

おどけたポーズで踊る姿が描かれた図柄。


ぼくは、迷わずその絵柄を選んだのだが。

自分の名前は入れてほしくなかった。


その、Tシャツだけがほしかった。



拙い言葉で、

百貨店の人にそのことを伝えると、

ちっともうまく伝わらず、


「これは、名前を入れて売る物なので。

 名前を入れないと売れないんです」


みたいなことを言われて、

思いが伝わらぬまま、

結局、名前を入れることになった。


自分の名前が入った『ヒゲダンス』のTシャツなんて、

恥ずかしくて着られない。


この思いは、

誰にも伝えられずに、

『ヒゲダンス』のTシャツとともに、

(ヒゲダンスだけに)

 衣装ダンスの奥にしまわれつづけた。






幼稚園の、

紺色の制服を脱ぎ捨て、

私服の毎日、小学校へ。




小学1年生のころは、

まだまだ半ズボンが主役だった。


「デニム」とは呼ばない時代の、

ジーンズの半ズボン。


それは、自分で選んだものではなかったが。


オレンジ、または、

黄色いステッチで縫われた

藍色のジーンズ生地が、

すごく好きだった。


すべり台や地べたにこすられすぎて、

どんどん色も生地も薄くなっていく。


新しいズボンを買ってもらっても、

色のはげた、そのズボンが手放せなくて。


お尻に穴が開いて、

母親が見るに見かねて、


「いいかげんにもうやめなさい」


というまで履きつづけた記憶が

うっすらとある。



お気に入りほど早く、だめになる。



毎日のように履いて、

毎日のようにこすられつづけたジーンズは、

どんどんはげて薄くなり、

ほつれて、やぶれていった。


それは、そののちのズボンたちにも、

おなじことが言えた。



3年生になって、

半ズボンより長ズボンが主流になっても、

お気に入りのズボンはやはり、

いたむのも早かった。


膝がやぶれたり、お尻の部分がやぶれたり。

新しいのを買ってあげると言われても、

首を横にふりつづる家原少年。


そんなときは、

母が「アップリケ」を施してくれた。


星型や、丸型、

アルファベットの英文字や、

変な形に切った、アップリケ。


自分で履くのだから、

アップリケに使う布を、

自分で切らせてもらったりもした。


1度だけ、

母がハート型に切ってくれたことがあった。


遊具で遊んでいたとき、

となりのクラスの先生が、


「男のくせにハートか」


と言った。


ぼくは、

そのひと言ことが恥ずかしくて、

くやしくなって、

そのズボンは二度と、はかなくなった。


家に帰って、母に、

ハート型に切ったことを、

ひどくなじった。


「どうしたの、急に。

 昨日はよろこんでたのに」


ぼくは、そのわけを話さなかった。

話せなかった。



そのときの母へ。


せっかく一生懸命やってくれたのに、

わけもわからず怒ったりしてごめんなさい。


きっといま話しても、

母はもう、そのことを覚えてはいないだろう。






☆ ☆ ☆ ★ ★ ★







家原少年、小学3年生。


ようやく自分の意思が

伝えられるようになってきて、

自分の服は、自分で選ぶようになった。


それまでは、

母が買ってきてくれた靴下に、


「ちがう、赤とこんいろの線のがいい」


とか、


「なんかいつものとちがう」


と、靴下のメーカーや

買ってきたお店のちがいに反応してしまったりとか。

母にはいつも迷惑をかけていた。


もちろん、まだ、

ひとりで電車やバスに乗って、

百貨店で買い物するまでには至らなかったが。


少しは自分の意思を

表現できるようになった。



母といっしょに、

子供服コーナーで、

腕を組み、眉根を寄せながら、

真剣に洋服を選ぶ。



家原少年、

「ファッションへの目覚め」の

時期であります。




母と姉と3人で、

東京のおばさんの所へ行ったとき。


原宿の、表参道のお店で、

ジージャン(ジーンズのジャンパー)を買った。

その路上でクレープを食べていて、


「ああ、なんておしゃれなんだろう」


と、軽い目まいを覚えた。



その、わずか数分後。



小学3年生のぼくは、

チョコレートソースと

カラフルなスプレーチョコに

手や口を汚しながら、

あんずジャムのクレープを

スマートに食べる2歳上の姉を見て、

ちょっとくやしく思った。




4年生。


この歳、

初めてコンバースのオールスター、

ハイカットを買った。

色は黒だ。


脱いだり履いたりするのに、

かなり手間取るのだが。


下駄箱の前に腰かけて紐をしめるその行為が、

何だかすごく「かっこいい」気がしていた。



それまでは、

幼稚園・小1でのキャラクター靴を経て、

アシックスや、パンサー、

セカイチョーの運動靴を履いていた。



サッカー部に入ったぼくは、

野球部の先輩に、


「サッカー部のくせにバッシュか」


と言われて、

バッシュ(バスケット・シューズ)という

言葉を知った。


たしかに、

ボールを蹴る競技のサッカーに、

オールスターは不向きだった。


つま先の、

ゴムとキャンバス(布地)の継ぎ目の部分が、

すぐにやぶれた。



代わりに新しいオールスターを、と思い、

母に頼んだ。


買ってきてくれたものは、

似て非なるもの。

よく似た感じの外見だが、

決定的にちがう部分があった。


ジップアップ。


そう。

その靴には、紐の横の部分に、

ジッパーが付いていた。


オールスター・ハイカットを模したデザインの、

子ども向けに、

履きやすさを考慮してつくられた靴だったが。


ぼくには「にせもの」にしか思えなかった。



例のごとく、

わがままボーイの少年家原は、

憤懣(ふんまん)やるかたない具合に

手足をばたばたとふりまわし、

不満の言葉をまき散らしたにちがいない。


そのさまを見ていた父が、


「そんなんやったら履かんでええ。

 明日からはだしで行ったらええねや」


と、一喝。


しゅんとうなだれた家原少年は、

泣く泣く仕方なく、

その「にせものオールスター」を履いて

登校したのでありました。



ジッパーのついた、


にせものの紐靴。



誰も何も言わないのだが。

なんだかとても恥ずかしい思いで、

毎日、その靴を履いてすごしました。



心のすみで、

早くやぶれますように、と、

こっそり念じながら。





小学校に上がってから、

髪の毛を切りに行くのは、

母と姉といっしょの美容院だったが。


小学4年のこの歳、

初めて自分の意思で

してほしい髪型を伝えた。


「まえがみは、まっすぐ、こうじゃなくて、

 こういうふうに、ばらばらにしてほしい」



翌年、初めて、

「ムース(整髪料)」なるものに

手を出した。


スケルトンブラシに

白い泡をぷしゅっと吹きつけ、

髪の毛になじませて

前髪をさくさくとばらけさせる。


そのときのぼくは、

自分がめちゃくちゃおしゃれな人間になった気持ちだった。






☆ ☆ ★ ★ ★ ★





5年生になって。


小学校生活初めての、

泊まりのキャンプ合宿の日が近づいてきた。


そのための洋服を、

母といっしょに買いに行った。


いろいろな百貨店を回って、

何かのついでに、

量販店のようなお店にも行った。


そこで見つけたセットアップの服。


エスカレーターを上がってすぐ。

真っ白なマネキンボーイがまとった、

真っ白なセットアップのお洋服。



白く、燦然(さんぜん)と輝いて見えるまぶしい姿に、

ぼくの心はわしづかみされた。


当時、Tシャツの上に、

タンクトップ的な「そでなしシャツ」を

重ね着する着こなしが巷でよく見受けられた。


80年代は、

パステルカラーと、

エアロビクス的なファッションが

流行っていたと思うので、

おそらく、それの影響だろう。


真っ白いTシャツに重ね着された、

真っ白なタンクトップ。

ズボンは、裾がリブになっていて、

ジャージのようにきゅっと締まったシルエットだ。


真っ白い生地に、

ピンク色のラインのアクセント。


タンクトップとズボンの側面の、片側だけに、

ピンク色の線がプリントされている。


「これほしい」


量販店で服を買うのを好まない母も、

そのときばかりは、ぼくの熱に撃たれて、

マネキンボーイが着ていたその服を

キャンプ用にと、買ってくれる意志を示した。


残念ながら、ピンク色はMしかなくて、

Lサイズはラインが黄色のものしかなかった。


Mでは裾も短く、

シャツも「ちんちくりん」だった。


仕方なく、黄色のラインの、Lにしたものの。

それでも、その服の魅力が翳(かげ)るには至らなかった。


値段は、いつも買う服の半分以下くらいだったが。

ぼくにとっては、まことにすばらしい、

宝物を見つけたかのような買い物だった。


まっさらなその服を、

キャンプで着たあとも。


ぼくは、ことあるごとに、

その真っ白なセットアップの洋服を着て出かけた。



あれは、どこの観光地だったのか。


他県の観光地へ、

家族と行ったときのことだ。



河を見下ろす、石造りの橋。


父と姉と別れて、

トイレにでも行ったのか。

ぼくは、母とふたりだった。


橋の向こう側から、

橋を渡るぼくのほうに向かって、

歩いてくる人の姿があった。


見ると、それは少年で、

歳のころもおなじくらいの男児であった。


彼もおなじく、

母親らしき人と歩いている。


「おや、やけに白いな」


彼の姿は、全身真っ白だった。



もしや、と身がまえる。


まさか、とうろたえる。


そんな、と立ち止まる。



立ち止まったのは一瞬。


いや、立ち止まったのは意識だけで、

体も足も、止まらなかった気がする。



橋の向こうからやってきた少年は、

まるで鏡写しのように、

ぼくの姿とそっくりおなじだったのだ。



量販店で買った、

お気に入りのセットアップ。


真っ白い、セットアップ。

横に、黄色いラインの入った、セットアップ。



鏡像に見えた彼は、

ぼくより少し小さくて

歳もいくつか下らしく

母親と、手をつないでいた。



すれちがう彼と、すれちがう瞬間、視線を交わした。


その目は、

勝ち誇ったようでもあり、

共振のようでもあり、

挑発的なようで、

どことなく親しげな色をしていた。


母が言った。


「おんなじような服だったね」


ぼくは何も言わず、

下を向き、ぎゅっと唇を噛んだ。


心のなかで、言った。


「ちがう、ちがう、

 ほんとうはピンク色がよかったんだ」


ぼくの異変に気づいた母が、のぞき込む。


「どうしたの?」


その問いにも応えず、

ぼくは少し足を速めて、

橋の向こう側へと急いだ。



橋を渡りきったところで、

ちらり、ふり向いてみた。


彼もおなじく、ふり返っていた。



橋の上で見た、真っ白い彼の姿は、

いまでもはっきり覚えている。



そのときの、

突き落とされたかのような

恥ずかしさにも似た感情とともに。




ぼくは、もう二度と、

マネキンが着ている服など買わない、と、

そのときつよく思った。




そのことがきっかけだったかどうか、

それは定かではないが。


5年生の秋ごろくらいから、

おなじ売場で買うにしても、

自分でコーディネートすることに意識が向いた。



当時、ぼくは好きだった着こなしは、

ギンガムチェックやタータンチェックの襟つきシャツに、

トレーナー(いまで言うところのスウェット)を着て、

ズボンのベルト(布製で、金属の無段階バックル)を

たらりと垂らすものだった。


シャツの裾は、

トレーナーの裾からちらりとのぞかせる。


シャツの色は、

白地に紺のギンガムチェックや、

緑色系のタータンチェックがお気に入りで、

その上に着るトレーナーは、

茶色やグレー、オリーブグリーン。

赤やピンクなど暖色系のシャツのときには、

ペパーミントグリーンやライトブルーなどを着た。


ズボンは、

ジーンズのほかに、

濃いグレーやこげ茶色の、

ややゆったりめのシルエットのものを好んだ。



当時、裾を折り返すと

裏地の色がのぞくズボンが流行った。


ぼくは、裏地が赤いのと、黄色いのと、

白地に黒のタータンチェックズボンを持っていた。





あるとき、

姉の買い物の番のとき、

ふと目の前のトレーナーが、気になった。


茶色い生地に、

ピンク色の英文字が

でかでかとプリントされたトレーナー。


左の、二の腕のあたりにだけ、

白い生地の切り返しラインが入っていた。


ぼくはその服が、

どうしてもほしくなった。


「女ものだよ」


と、母に言われた。


「こちらは女性ものですよ」


店員さんにもそう言われた。


そんなことは関係ない。


脇のラインがゆったりとしたデザインの

そのトレーナーは、

サイズ感もそれほどシビアではなかった。


その服は、ぼくにとって、

初めての「女もの」だった。


「女もの」のその服は、ぼくにとって、

すごくお気に入りの一着となった。


遊園地へ行くにも、街へ行くにも、

ぼくは、誇らしげにそのトレーナーを着て出かけた。



このころになると、友人たちを引き連れて、

電車やバスや地下鉄を乗り継いで、

街へくり出し、買い物することにも慣れていた。





5年生の、

もうひとつの忘れられない出来事。





いとこの家に遊びに行ったとき、

いきおいでそのまま一人、

泊まっていくことになった。


それは、初めてのことだった。


季節は秋だったか春だったか、

それは覚えていないが。


暑くもなく寒くもない、

よく晴れた日だった。


そのときももちろん、

おしゃれボーイを気取ったぼくは、

お気に入りの服を着て遊びに行っていた。


朝起きると、

いとこのおばさんが、

ズボンを洗濯しなさい、と言った。


それほど汚れていたわけでもないし、

なぜズボンだけなのか、

それはよく分からなかったが。


いやだと首をふって渋るぼくから

半ば強引に奪い去るようにして、

ズボンを洗濯してしまった。


代わりに、と、

おない歳のいとこのズボンを借りることになった。


腰の部分にゴムの入った、

ジーンズだった。


彼より背の高いぼくには、

少々裾が短かった。


広がった裾から、

必要以上に見える足首。


なんだかひどく、

みじめな気分だった。



その格好で、

近所の商店街へ出かけることになった。


にぎわうアーケード。


いつもはたのしいその場所が、

そのときばかりは「地獄」に思えた。


早く帰りたい。

早くズボンが乾いてほしい。


そのことばかりが大半を占めて、

景色も気持ちも、色を失っていた。


と、向こうから、

同年代くらいの女の子が歩いてきた。


髪を、ふたつ結びにした女の子。

かわいこちゃんである。


「どうしよう。

 かっこわるいやつと思われる」


伏せ目がちに歩きながらも、

ぼくは、女の子の姿を

視界のすみにおさめていた。


いやでも短い裾が、目に入る。


「ちがうんだよ、これはちがうんだよ。

 ぼくのじゃないんだよ。

 ほんとうは、こう、すそにボタンがついて、

 きゅっとしまる、うすグレーの

 かっこいいズボンをはいてきたんだよ。

 さっき、おばさんが洗っちゃって、

 だからいとこの・・・」



そんな、声にもならない言いわけを、

頭の中でぐるぐる唱えつづける。


すれちがうとき、

女の子と目が合った。


「ぜったいかっこわるいズボンだって思われた」


何の根拠も確証もなく、

ぼくは、がーんと打ちひしがれた。


そう。


誰もそんなことは思っていない。


ほかの誰でもなく、

自分自身が、そう思っているからだ。


いとこの家に戻ったぼくは、

まだ少し湿り気の残ったズボンに足を通し、

そのあとすぐ、家に帰った。



なんとも気むずかしい、

困ったぼくちゃんではありますが。


このときの感覚は、

いまでもはっきり鮮明に覚えております。





☆ ★ ★ ★ ★ ★




6年生になって。

カラフルな色が、

ぼくのファッションに取り込まれていった。



夏、女性もので、

大人用のTシャツを買った。


パステルピンクがメインで、

青や紫のパステルカラーの切り返しがあって、

襟口と袖口の色がパステルイエローの、

だぼだぼのTシャツ。


これを着ているときのぼくは、

本当におしゃれだなあ、と、

うぬぼれて湖面を見つめたくなるほど、

自信と満足感にあふれていた。



モトクロス(BMX)用の着衣の、

肩と肘(ひじ)と胸の部分にスポンジの入った、

赤地に青のトレーナーも好きだった。




それと同時期に、

もともと好きだった「軍物(ミリタリー/サープラス)」への

興味がふくらんでいった。


というのも、

それが買える場所を、見つけたためだ。


繁華街のお店のほかに、

もうひとつは「通信販売」というルートを知った。


お店だと、ときどき子ども扱いされて、

まともに相手をしてくれないときがある。


そんなとき、心づよい味方が通信販売。

当時のぼくには「現金書留」が頼みの綱だった。


郵便局に行って、

現金書留用の封筒を買う。

そこに、当時はたしか

300円くらいだったように思うが、

手数料を添えて。


ほしい商品を書いた紙を同封して、

送料とともに代金を入れ、窓口へ。


わくわく、そわそわ。

待つこと数日。


商品が、手元に届く。



素材や質感、サイズなど、

何度か失敗したことはあったが。


おなじ失敗は、二度とくり返さない。

ばかでも学習能力だけはあった。


米軍の実物シャツや、

スイス軍のカバンやドイツ軍のベルトなど。

お店で見かけないものは、

通信販売で買った。



オリーブドラブや国防色、

カーキやフィールドグレーなど。


いまとなっても、軍物はもちろん、

色だけでも、心惹きつけられる。








小学校最後の日の、卒業式。


そのためのコーディネートは、

普段よりも念入りに、

すみずみまでこだわることができた。



リブの部分に黒い線が入って、

左胸に、金糸を使ったエンブレムのついた、

白いカーディガンを羽織り。


白いシャツに黒いネクタイ、

腕には、袖の長さを調節するための

「シャツガーター」をつけて。


ライトグレーに近いほど淡い草色のズボンは、

黒いゴムのサスペンダーで吊って。



靴が、革靴やコンバースではなく、

運動靴だったことは、

いま思うと残念だが。


さらさらヘアーを伸ばしたぼくは、

小学校の、私服の日々と

さよならしたのであります。




その数カ月後。


坊主。



マルガリータ(丸刈り)。


フランス語いうところの「ボンズ」。


われらが中学校は、

いにしえよりのしきたりによって、

男子は丸刈りという規則でありました。


(関連記述:『しょうちゃんの校則改正』)



校則。


そんな言葉も、

そのとき初めて耳にした。





色白で髪の長いぼくは、

学生服売場で女の子とまちがえられた。



ぎりぎりまでねばっていた頭髪も、

ついに、丸く刈り上げられた。



まるで蛹(さなぎ)から揺り起こされたかのように、

小学生から中学生へ。



背も伸び、体もつくられて。


丸刈りにも、学生服にも、

すこしは慣らされていった。



中学校の日々は、

生活のほぼ半分以上を、学ランですごす。



学ラン。


学生のための、

黒い、詰襟(つめえり)の制服。



ちなみに学ランの「ラン」は、

江戸時代の隠語で、

洋服を意味する「ランダ」からきているって、

知ってましたか?


「ランダ」は、もちろんオランダのこと。

鎖国時代は「西洋=オランダ」だったので、

学生が着る洋服のことを「学ラン」と言ったそうです。


いつの時代も、

隠語や略語って、あったんですね。




さて。




丸刈りの校則の中で、

うっすらと、それと分からないように、

部分的に長さを変えて刈ってもらって、

前髪や後ろ髪、

てっぺんの部分などを伸ばす髪型が、

一部の「おしゃれ族」のあいだで

流行っていたそのころ。


例にもれず家原少年も、

「できるかぎりのこと」やっていた。


髪の色を少しばかり変色させてみたり、

眉毛の形を少しいじってみたり。


学生服も、

最初は裏ボタンを、

トランプや花札の図案のものに

変えてみる程度にはじまり。


(「仏恥*義理(ぶっちぎり)」や

「夜露*死苦(よろしく)」や

「愛死天流夜(あいしてるよ)」などもあったが)





学生服の裏ボタン1





学生服の裏ボタン2






学ランの丈が、

ちょっとばかり短かったり、

長いものにしてみたり。



裏地が玉虫色や

ワインレッドのサテン調のものにしてみたり。



ズボンの形も、

裾を極端に細くしたり、

袴のように太くしたり、

乗馬ズボンのようなシルエットにしてみたり。


校則という権威の目をかいくぐって、

「できうるかぎりのこと」を試し、

意気がり、見つかり、こてんぱんに叩かれた。



母に頼んで、

細いズボンのシルエットを、

いっそう自分の体に合うよう、

仕立て直してもらったりもした。


和裁と洋裁の免許を持っているお母さまの、

その能力を活かす場を設ける、

心やさしき親孝行な家原少年でありました。



夏には、

学校指定のものとは若干異なる、

綿100%の半袖シャツの下に、

色のついたタンクトップを着てみたり。



冬、学ランの下に、

ガラのシャツを着て、

サスペンダーをはめてみたり。



親孝行なはずの家原少年は、

ちょくちょく職員室に呼び出されて

先生方にお叱りを受ける、

そんなおちゃめな一面もありました。




もはや学ランが皮膚なのではないかと思えるほど、

長い時間をともにすごした、学ラン漬けの日々。



部活が忙しかったので、

休日にはほぼジャージで、

「私服」の出番などほとんどないのだが。


だからこそ、なのか、

よけいに気持ちが入った。




家原利明、

「メンズ・ノンノ時代」であります。



部活動の合間、

わずかな休日を利用して、

紳士服店やジーンズ・ショップなどで

買い物をした。


正月休みなどには、

父の車で連れて行ってもらって、

革ジャンや革靴など、

普段では手に届かないようなものを

特別に買ってもらえることもあった。



毎年お盆に帰省する、

大阪の、梅田で。


色とりどりで華やかな店々を回って、

おしゃれな品々を手に取り、

あれこれと買いそろえていく。




中学2年生。


当時のぼくが、気に入っていた服装。


白いシャツに、

焦げ茶色のコーデュロイのウエスタン・ベストを羽織って、

ストレートのジーンズを履いて、

裸足に焦げ茶色のスウェードのモカシンを履く。


当時の家原少年のバイブル、

メンズ・ノンノを参考に。

「よく似た感じ」に仕上げていく。


そのころは、

模倣(もほう)するのがやっとだった。



マルガリータ(丸刈り)の家原少年が、

精いっぱい背伸びして、

なんとかそんなふうになりたくて、

懸命にもがいていた時代。


手さぐりで、

試行錯誤の毎日。



中学生になって、行動範囲が広がり、

百貨店や量販店以外の店々に行けるようになって、

情報量も、選択肢も広がった。


商店街や繁華街、

しゃれたお店がいっぱい入った

ファッションビル。


商品そのものだけでなく、

店員さんや街を行き交う人たちなど、

たくさんの刺激がぼくを育てた。


センス。

感性。


見る、触れる。


選ぶ、ということ。

試す、ということ。



そのころは、

流行というものに耳を傾け、

心をなびかせていた。


限られた範囲の、限られた選択肢の中で、

全力で「正解」を見つけようとしていた。




当時のぼくは、当時らしく、

かなり「おしゃれ」をしていた。


全力でおしゃれをしていたからこそ、

いま見ると、全力で「ダサい」。


めちゃくちゃかっこわるくて、

恥ずかしい格好をしている。



甘酸っぱくて居心地悪い、

過去の記憶。





中学3年生には、

白いワイシャツに、

アイス・ウォッシュのジーンズを履いて、

足元は裸足で、

ケッズの白いデッキシュースを履いていた。


初対面の人にたびたび、

「大学生?」

と訊かれた。


このころ身長も、

急激に伸びた。



「音楽」というものに出会って。


意味も分からぬ英文字がプリントされた

白い長袖Tシャツを着て、

黒いスリムジーンズに、

底の分厚い、ラバー・ソールを履いた。



どれもが青くさく、

気負いに満ちて気恥ずかしい、

若気のイタリーでありマンジャーレ。






★ ★ ★ ★ ★ ★ 





高校生になり。



丸く刈られた髪の毛が伸び、

風にあそんで頬をくすぐる。



高校1年生。


初めてのアルバイト。

(関連記事:『初めてのアルバイト』)



繁華街の裏路地、

聞いたこともないような名前の、

ハンバーガー・ショップ。


そこから大通りに出れば、

「パルコ」があった。


少し歩けば、繁華街にも、

市内随一の商店街にも行ける。



家原利明、

「ストリート&古着」の時代です。


このころになると、学校生活よりも、

デートや遊びに時間を費やすようになりました。



もともと勤勉だけが

取り柄であった家原ですので、

おいしいお店やおもしろい場所、

いいものが買えるお店など、

あちこち歩き回って、

あれこれ見つけて回ったわけです。


「おいしいオムライスが食べたいんだけど」


という友人の問いかけに、


「ああそれなら、地下街の・・・」


といった具合に。

うどん、和食、中華、洋食、ハンバーガーなど、

それぞれの名店探しに

躍起(やっき)になっていたころでもある。


そんなころ。


高校の同級生たちを引き連れ、

市内の繁華街や商店街で、

服やレコード・CDなどを買い回った。



そのころのぼくの印象では、

中古レコード店やCDショップには、

かっこいいお客さんがいることが

多いように感じていた。



流行という大きな流れの中にいながらも、

なんとか自分で泳ごうと、

必死で手足をばたつかせていた時代。


お手本は、街の中にあった。



かっこいい服装の人を見つけると、

レコードやCDを見つつも、

横目に、その服、その姿を

じっくり観察する。


それを、

脳裏に焼きつける。


頭のなかの映像をたよりに、

いろいろお店を探し回って、

「近い感じ」に仕上げていく。



仕上がるとまた、

うれしさとともに街へ出る。


ガラスに映った自分の姿に、

なんてかっこいいんだろう、と思う。



それでも。


かっこいいなと思える人に出会ったとき、

なぜだろう、

自分がみすぼらしく感じた。



どこかちがう。


何かちがう。



なぜだろう。


どこが、どうちがうんだろう。



鏡に映った自分を見直してみる。


そのときはまだ、分からなかった。



決定的なちがい、

足りないものが何なのか、

それがまるで分かっていなかった。



つねづね、思っていた。



レコード店で見たあの人みたいに、

かっこよくなってやるぞ、と。




なろうなろうあすなろう


明日は檜になろう 





電車に乗るたび、思った。



「この車両の中でいちばん

 かっこいい存在になってやる」



まずは、

目の前の世界で

いちばんになること。



つかんだと思っていたはずが、

おしゃれというものの尻尾に

ようやくふれたかどうか、

そんな程度でしかなかった。



まだまだ未熟な自分に気がついた、

家原少年、16歳のことでした。






・・・・さてさて。


いかがでしたでしょうか。


『ぼくのファッション遍歴
     〜あすなろ編〜』



次は、感動の『激動編』です。



おそらく完結となるはずですが、

どうぞつづきをおたのしみに。



またお会いする、

そのときまで。



オッシャ〜レ!





< 今日の言葉 >


平凡すぎる毎日と今をなげくよりも

追いつく自分の弱さを

追いこしてゆきたい


(『Blieve』渡辺美里/中学2年生のとき。友達にCDを貸したら、貸したCDをなくてしまったから代わりに、と、まったく別のアルバムを手渡された。当時、渡辺美里氏のことは知らなかったが、この歌詞を聴いて、言葉の意味はよくわからないけど、とにかくすごく頑張ろうと思った)