2025/05/15

みんな初めて


『大人のふりをした子供』(2008年)




 



子どものころは、

何をやっても

「初めて」のことが多かった。


初めて海の水を舐めたこと。

初めてかさぶたができたこと。

初めて自転車を買ってもらったこと。

初めて水彩絵具で絵を描いたこと。

初めて犬をなでたこと。


枚挙のいとまがないほどの

「初めて」が、毎日、

ずらりと列をなしていた。


気のせいだろうか。


大人になると、

そんな「初めて」が影をひそめる。


「初めて」のことが

なくなるわけではないのだけれど。

「初めて」だということに、

わくわくやときめき、

喜びや感動などを感じにくくなる。


かつての「初めて」とは

また少し違った形の、

「初めて」を感じる場面は

依然としてあり、

むしろそっちのほうが多くなる。


初めて食べるお菓子、料理。

初めて行く場所、国、お店。

初めて聴く音楽、観る映画。

初めて着る服、帽子、靴。


「初めて」が、何となく、

内面ではなく、

外面の行為に変わっていく。


メンタル(精神的行為)から

フィジカル(物質的行為)へ。


中身だけ変わって、

入れ物は同じなような。

そういう種類の「初めて」が

増える気がする。


みんながみんな、とは言わないけれど。


「おじさん」になると、

「初めて」を避けるようになる。


決まった店で、

決まった席に座って、

決まった物を注文して。

決まった順序で、

決まった早さで食べながら、

いつも決まった新聞を手にして、

決まった時間の、

決まったテレビに目を向ける。


同じ道を通り、

同じ角をまかり、

同じような服を着て、

同じ髪型で、同じ靴を履いて、

同じ歩幅で歩いていく。


同じ時間にすれ違う犬を横目に見て、

同じ場所で顔を会わせる人に

毎日同じような挨拶を交わし、

同じような笑顔を浮かべる。


それが悪いとは思わない。


けれど本当は、

毎日、全部が「初めて」なんだと。


それに気づいている人は、

そんなに多くないようだ。


もし「初めて」だとわかったら。

もっとわくわく、しないだろうか。

もっと瞬間瞬間の出来事と

丁寧に向き合い、

もっとしっかり味わわないだろうか。


子どものころは、

毎日意味なく、

馬鹿みたいにわくわくしていた。


朝起きてから寝るまで、

ずっとわくわくしていた。


それは、

全部が「初めて」だったから。

毎日「初めて」だと思っていたから。

毎秒が「初めて」の瞬間の連続だったから。


見たい、知りたい、感じたい。


今日という日が、

毎日「初めて」だったから。


ふと思う。


それは今も同じなんじゃないかと。



 * *



父や母の姿を見ていて、思った。

父は父であろうとしていたし、

母は母であり続けている。


けれども本当は、

初めてのことばかりで、

戸惑ったり、迷ったり、

わからないことばかりで

おろおろしてる。

・・・のだけれど。


「大人」のふりをして、

「親」のふりをして、

「歳上」のふりをして、

そんな迷いを

おくびにも出さないよう、

懸命に「大人らしく」

ふるまっているのではないかと。


なんだか、

そう見えてくる場面が、

ときどきある。


大人、の人たち。


わからないなら、

わからないって言えばいいのに。

できないんだったら、

できないって言えばいいのに。


失敗したっていいのに。

ごめんね、って言えばいいのに。

そんな偉そうにしなくてもいいのに。


どうしてやる前から、

そんなに心配ばっかりするんだろう。

頭ばっかり大きくなって、

体がちっとも動かなくなってる。


経験と学習。

それが、じゃまをしている。


失敗して、転んで、痛い目を見て。

もう二度と味わいたくないから、

ぬかりなく準備をするようになる。


それは、悪いことではないと思う。


けれど、何でも行きすぎると、

かえって障害や毒にもなる。


そしていつしか、

大きく育てたはずの「大人の器」が、

どんどん小さく狭く、

固いものになっていく。


大人になって、

できることが増えたはずなのに。

やらないことが、増えている気がした。


恥ずかしい。みっともない。

こうしなければいけないし、

そんなことはすべきでない。


かちかちになった大人は、

「初めて」を嫌うようになる。

「初めて」のことを恐れるようになる。


準備をして、下調べをして、情報を集めて。

せっかくの「初めてのこと」が

どんどん「初めて」ではなくなっていく。


別にそれも悪くはない。


それでも。


わくわくする心は、

なりをひそめて

じっと何も言わなくなる。


「何かおもしろいことないかなぁ」


刺激に飢えて、

変化を求める気持ちは

あるのだけれど。

危ない橋は、渡らない。


十徳ナイフひとつで、

密林のジャングルに

飛び込んだりなんかしなくても。


冒険は、すぐそばにある。


今日というこの瞬間は、

全部「初めて」の瞬間だ。


わかった顔をしないで、

予備知識も準備も情報も捨てて、

いつでも白紙の心で向き合えば。


かつて味わったのと同じような、

「初めて」のわくわくが

また目を覚ます。


「何これ?!」


「すごい、初めて見た!」


「こんなの知らない!」


知ったかぶりより。

全部「初めて」で、

いいじゃないか。


生きてることは、

仕事や義務じゃない。


「もっとわくわくしようよ」と。


心の声が、ぼくに囁く。


これが、悪魔の誘惑なのか。

それとも、天からの啓示なのか。


どちらにせよ、

「初めて」だから、

ぼくには答えがわからない。


この先に何が待っているのか。

それもわからないけれど。


どんな瞬間も「初めて」だから、

全部が大切で、愛おしくて、

余すことなく受け止めたい。


* * *


老いた母を見て思う。


たとえ母が、

グラスを落として

割ってしまっても。


「ほら、いつも言ってるでしょ。

 そんなとこに置くから落とすんだって」


などと、

過去を引き合いに出して

嘆いたり。


「もう、けがでもしたら、どうするの?」


なんて、

まだ起こってもいない

未来の心配をしてみたり。


そんなことで「今」を使うより。

同じようでも違う「初めて」と、

しっかり向き合ってみるのも

悪くはないはず。


母だって、

年を取るのは「初めて」で、

老いていく自分と対面するのも

「初めて」なのだから。

戸惑うのは、当たり前だ。


母だけではない。

誰でも同じだ。

若くても、年を取っても、

みんなこの瞬間は

「初めて」なのだから。


失敗だろうが、2回目だろうが。

毎回が「初めて」。

同じ瞬間は、二度とない。


この瞬間が、一期一会。


みんな初めて。


そう思えばもっと、

やさしくなれる。


今この瞬間が

「最初で最後」だと気づけたら、

目の前のことが

もっと大切で、

もっと愛おしくなるんじゃないかと。

そんなふうに思った。




< 今日の言葉 >


「何これ。

 誰か人が入っとるの、それ?

 あ、それって、

 あそこにおる子じゃない?

 パンダじゃなくて。

 あそこの動物園の。

 イルカじゃなくて・・・

 ラッコちゃんだ、この子!

 割るやつね、コンコンて」


(水族館の広告写真を見ながら、懸命に「ラッコ」を思い出す母)




2025/05/01

日常デッサン

 






デッサン。


日本語では、

下絵、素描などと表される。


英語では、ドローイング、

などとも称されるが。

個人的な

「ドローイング」のイメージは、

面や陰影よりも、

輪郭や形を重視した画、

「クロッキー」に近い絵を

連想する。


デッサンと聞いて、

おそらく思い描くのは、

尖った鉛筆を片手に、

イーゼルまたは

画板に固定した大きな画用紙に向かい、

静物や石膏像を

描いている姿ではなかろうか。


または「デッサン」そのもの、

鉛筆で描かれた、

モノクロの絵ではないだろうか。


デッサン。


形を拾い、面をとらえ、

線を重ねて陰影を表現する。


ハッチング

トリミング

スティプリング

パースペクティブ

モチーフ

輝度(きど)

明度 彩度

コントラスト

グラデーション

順光 逆光

フォルム

ディテール

テクスチュア

マチエール

マッス 重量感


デッサンとは、

絵を描くための技術のことを

言うのかもしれないが。


デッサンすること自体は、

技術ではない気もする。


デッサン。


それは、観察力。

見る力。感じる力。

そしてそれを、表現する手腕。


デッサン力とは、

そういうものだと、ぼくは思う。



* *



専門学校1年生。

4月。


人生初めての

デッサンの授業があった。


「まずは思うまま、

 好きなように描いてみて」


「にぼし」を1匹渡されて、

90分×2コマの授業で、

四つ切り画用紙いっぱいに

1匹の「にぼし」を描いた。


絵を描くのが好きなぼくは、

絵を描いているうちに

すっかり絵の中に没入していた。


HBの鉛筆を握りしめたまま、

削ることも忘れて、

ひたすら画用紙と向き合う。


「きみ、うまいね。

 画塾、行ってたでしょう?」


背後から聞こえる声に、

顔を上げる。

そこには、

授業の講師である「先生」が

立っていた。


首をかしげるぼくに、

先生が言い募る。


「絵の学校。

 予備校とかで、

 デッサン習っきたでしょう?」


「習ってないです」


「嘘つけぇ。そんなはずない。

 絶対、習ってきたはずだ」


「習ってないです」


「それじゃあ、

 なんでステッドラーなんて

 使ってるんだ」


ぼくの手に握られた鉛筆を指差し、

先生は眉をひそめた。


「ドイツ製が、好きなんで」


当時のぼくは、

『Made in U.S.A.』を経て、

『Made in Germany』の文房具に

凝り始めていた時期だった。


目の前に立つ先生は、

そんな説明では

納得できない模様で、

まるでぼくの言葉を信じていない様子を

ありありと顔に浮かべて、

そのまま声にして言った。


「そんなわけない。

 これで習ってないなんて

 いうはずがない。

 オレは東京芸大卒なんだ。

 オレが言うんだから、

 間違いないはずだ」


「だから、習ってないって」


呆れたぼくは、

半ば吐き出すようにして

言葉を返した。


「そんなはずないけどな・・・。

 絶対に習ってるはずだけどなぁ・・・」


なおもぼやき続ける先生から

目をそらし、

ぼくはまた、

絵の中のにぼしと向き合った。



ぼくは、絵を描くのが好きだった。


特別うまいわけでもないと思うが。

下手でないことは自覚していた。


絵画コンクールでは、

いつも何かしらの賞をもらっていた。

大賞こそもらったことはないが、

佳作というのは、

出せば必ず誰でももらえる

「参加賞」のようなものだと

思っていた。


ぼくは、絵を描くのが好きだった。


授業中、

おしゃべりや居眠りができない授業では、

こっそりノートに絵を描いていた。


お菓子のパッケージを「模写」したり、

前に座る女子の後ろ姿を描いてみたり、

自分の手や足を描いてみたり、

資料集の写真を見ながら、

歴史上の人物を描いてみたり。


小、中、高校と。

6、3、3の12年間、

大好きな「お絵描き」を

思いっきり楽しんできた。


家でもたくさん絵を描いた。


クレパス画、鉛筆画、

ペン画、水彩画、色鉛筆画。

画材は変われど、

とにかく「お絵描き」はずっとしてきた。



勉強でも習い事でもなく。

義務でも仕事でもなく。

描きたいから絵を描いてきた。


専門学校1年生の4月。


その積み重ねが、

たまたまそこに現れただけだ。


高校生のとき、今後の進路を考えて。

ぼくは、いったん芸大を視野に入れつつも、

芸大に行くという選択をやめた。

絵よりも知りたいことがあったからだ。


絵は、習うものではない。

当時のぼくは、そう思った。


今にして思えば、

芸大に行っていれば、

絵以外の周辺知識や技術も

たくさん学べたろうな、と思う。

専門的な知識や情報なども、

きちんと備わったことだろう。


ぼくは、絵を習っていない。

だから、

絵のことはまるで分からない。

好きだから描いてきた。

ただ、それだけだった。


専門学校で、

デッサンの先生に言われたひと言に、

当時のぼくは、素直に喜ぶことができず、

なぜか悔しさにも似た気持ちを

感じたりした。


1年生の基礎科目である

デッサンの授業では、

「A(ラージエー)」しか

取ったことがなく、

優秀作品に選ばれないことは

一度もなかった。


いや、1回だけあった。


そのときはひどく悔しくて、

次の画題はいっそう本気を出して、

描きあげた。


選抜される作品は、

自分以外、ほとんどが

画塾出身の生徒ばかりだった。


ぼくは、絵を習っていない。

好きだからずっと描いてきた。


自分の絵が、

きちんと学んだ人たちと同じように

評価されていること。


それが自信にもなり、

また、誇らしくもあった。


「たくさんの絵を見てきたけど。

 ほかの絵には感じられない、

 空気感みたいなものを、

 きみの絵からは感じる」


先生の言葉は、

素直に嬉しかった。


ただ、

自分がどうやってそれを

やっているかとか、

どうしてそう感じられるのかなどは、

まるで分からなかった。


自分はただ、

いいなと思う絵を描いているだけ。

ただそれだけだった。


絵で何かをやっていくとも、

やっていけるとも

思っていなかったぼくには、

技術や技法や点数などは、

あまり興味のない事柄だった。


とにかく自分が

100点だと思える絵を描く。


「大いなる自己満足」


若かりし頃のぼくの興味は、

それだけだった。



* * *



今ぼくは、

こうして文章を書いている。


絵を描くのも好きだけど。

文章を書くのも、大好きだ。


「書く」と「描く」は、同じ。


日常の風景をじっくり見て、

観察して、感じて、それを書く。


デッサン。


日記やブログは、デッサンだ。


書く力を磨くための、

毎日の積み重ね。


形のあるものや、

形のないものを、

言葉にして書き表わす。


日記を書き始めて37年。

途中、書いたり書かなかったりもあったが、

日記は、なんとなく今日まで続いている。


絵もしかり。


描いたり描かなかったり。


日記やブログだけでなく、

物語を紡いで編んでみたり。

日常の「デッサン」だけでなく、

存在しない世界のお話を

「描いて」みたりもする。


デッサン。


「絵」を「描く」こと。


想像力は、

観察力と記憶力の賜物だ。


だからぼくは、デッサンを続ける。


スケッチブックと同じように、

たくさんのノートを言葉で埋める。


キャンバスを塗りつぶすように、

画面に文字を並べていく。


言葉か色か。単語か形か。

文章か図案か。構想か構図か。


点と点、

線と線をつないで、

一枚の「絵」に仕上げていく。


書くのも、描くのも、同じことだ。


まだまだ未熟で

拙いかもしれないけれど。

技術や技法よりも、

ぼくは、楽しむことを楽しみたい。


「としくんの作品はさ、

 絵でも小説でも、

 魂がこもってるから

 五感で自分が捉えたものを

 投影できてるのかもしれないね。

 あんまり芸術論とかわからんけどさ。

 うまく書こうとか、

 かっこよく見せようとか、

 こうしたらウケるんじゃないかとか、

 そういうのがない

 ピュアなところがいいんだよね』


姉からの言葉に、涙したり。


『Yes, why not?』


同志の言葉に、

ゆるぎない勇気をもらったり。


なんていうのか、

うまくは言えないけれど。


じたばたしながら、

試行錯誤と探究心で、

ひたすら前に進んでいくこと。


ぼくは、うまくなりたくない。


こつを覚えて手を抜いたりせず、

毎回が初めての気持ちで全力でやる。


そんなやり方が好きだから。

だから、習ってこなかった。


自分の目で見て、感じて、

自分の思う形で表わしたい。


下手でも構わない。


ぼくしかできないことをやる。


そして伝える。


それが、ぼくの「意味」だから。



そんなことを教えてくれたのは、

先生でも学校でもなくて。


一生懸命、

全力でもがいていたときに

出会った人たちだった。


自分一人の小さな力で

 変えようとするには

 世界はあまりにも大きすぎる。

 私たちにできることは、

 自分と自分の周りの笑顔と

 幸せを叶えてゆくこと。

 作品、特に物語を

 生み出すっていうのは、

 まさにそれだと思う



頑張ったことがない人からは、

出てこない言葉がある。


必死で頑張ったことが

ある人にだけ、

見える景色がある。

言える言葉がある。


自分はようやく、

その景色の一端が、

見えるように

なってきたのかもしれない。



ありがとう、と思える心。



美しい目でなければ、

本当に美しい景色は見えてこない。


技術や技巧だけでは見えてこない。


この美しい景色を、

いつか表わすことができたらと、

拙いぼくは、

づよく思うのでありました。




< 今日の言葉 >


「何、チーズボール!?

 チーズでできた

 ボールがあるの!?」


(広告を見ながら叫んだ母のひと言)