2008/08/04

お菓子 〜たとえパンがあったとしても


「クリームマン」(2008)



最近、立て続けに
チョコレートパフェを食べている。

さいわい、太りやすい
体質ではないものの。

あまりの暑さに、
冷たいものばかり食べて
おなかがゴロピカドンだ。


お菓子。


生きるうえで「お菓子」は、
なくてもいいもの。

「ごはん」さえあれば、
人は生きていける。

けれども「お菓子」の
ない生活は、とてもさみしい。


こどもは胃が小さくて、
一度にたくさん
食べることができない。

だから、3時のおやつの
時間にお菓子を食べて、
たりない栄養を補ったり、
空腹を満たしたりしている。


大人になると、
3度の食事で「たりる」はずなのに、
やっぱり甘いお菓子や
せんべいなどが恋しくなる。

やっぱり「お菓子」は、
ないとさみしいもの
なのかもしれない。


お菓子を食べない人は、
いるのかなぁ。


袋に入った
スナック菓子。

工夫をこらした
チョコレート菓子。

さくさくふわふわの
コーン菓子。


素材にこだわった
お菓子や、食感の新しさ、
組み合わせの斬新さなど。

古くから親しまれている
お菓子もあれば、
新商品のお菓子もある。


スーパーマーケットや
コンビニエンスストアの
お菓子売り場には、
色鮮やかなお菓子が
ずらりと並んでいる。


まるでおもちゃ売り場の
ような華やかさだ。


マドレーヌやドーナツ、
焼きたてのクッキーなど。

手づくりのお菓子も
たくさんある。

ケーキやアイスクリームも
お菓子だし、
わらび餅や麩(ふ)まんじゅうも
同じくお菓子だ。


古今東西、世界各国、
家庭や地域ごとに
違ったお菓子がたくさんある。

まだ見ぬお菓子の
何と多いことか。


「パンがなければ、
 お菓子を食べれば
 いいじゃない」


その昔、
とある国のお姫様が
言ったとされる、
有名な言葉。


彼女の言った
「お菓子」とは、
クーゲルホッフ
(クグロフ)という、
パンに近い焼き菓子だと
いう話もある。



思うに。


「食」は人をつくる源で、
ひいては人の思考や
感性をつくる「栄養」と
なるのならば。

食べるもので
人の価値観や考え方は
違ってくると
いうことなのか。


「最近の若いもんの
 考えは、よう分からん」


などと諸先輩方が
なげくのも。

それは「食」の「文化」の
違いが陰にあるのでは。


パリパリと乾いたお菓子を
好んで食べる人の感覚と、
しっとりもっちりした食感の
お菓子を食べる人とでは、
やっぱり考え方が
違ってくるような気がする。


先天的な、そもそもの
「好みの違い」だけではなく、
後天的に作用する「なにか」が
あっても不思議ではない。


そう考えると、
「おせんべい・あられ世代」
(年齢の高い低いだけでなく、
 好みも含めて)と
「さくさくスナック世代」
とでは価値観も違って
当然だろう。


いわゆる「年輩者」でも、
原色バリバリのグミを
好んで食べている
画家もいっらっしゃる。


若くして和菓子に
番茶がしっくりくる、
といういぶし銀の
小学生だっていなくはない。


「高級感」や
「ブランド・知名度」

好む人の趣向と、

「素朴感」や
「駄菓子的なチープな感じ」

好む人とも
また違いがあってしかり。


感覚で選ぶ人もいれば、
論理的に「分析」して
吟味する人もいる。


ファッションや音楽は
「保守的」なのに、
お菓子では冒険心、
探究心を燃やす
「野心家」ということもある。


ニワトリが先か
タマゴが先か。


食の好みと
その影響については、
おそらくもっと偉い先生が
答えを出してくれるはずだ。


ひとつ言えることは、
「お菓子」の好みや
趣向を取っても、
その人の「らしさ」は出る、
ということだ。


お菓子は、
人をやさしくする。

お菓子は無駄な
贅沢品のようで、
生活を潤す大切な
「油」のようなもの。


僕にとって
「絵」は「お菓子」だ。


僕の描く絵を、
お菓子を食べるような
気持ちで見てもらえたら。

そんなふうに思いながら、
ずっと描いている。


文章にしても同じ。

お菓子を食べるみたいな感じで
味わってくれたら、
とても嬉しい。


いつか、噛めば噛むほど
じわっと味が出てくるような、
そんな「お菓子」をつくれるように。


生きるうえで「お菓子」は
なくてもいいものだけれど。

「お菓子」のない生活は、
やっぱりさみしい。



< 今日の言葉 >

ここまでバターを濃くするなら、
いっそチーズ味にしたほうがいい。
                          by H. Nakata

(中田英寿氏が、新商品の開発過程の試食で言った言葉。ものごとは何でも、
 やりすぎると本来のよさが失われてしまうということのたとえ)