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『大人のふりをした子供』(2008年) |
*
子どものころは、
何をやっても
「初めて」のことが多かった。
初めて海の水を舐めたこと。
初めてかさぶたができたこと。
初めて自転車を買ってもらったこと。
初めて水彩絵具で絵を描いたこと。
初めて犬をなでたこと。
枚挙のいとまがないほどの
「初めて」が、毎日、
ずらりと列をなしていた。
気のせいだろうか。
大人になると、
そんな「初めて」が影をひそめる。
「初めて」のことが
なくなるわけではないのだけれど。
「初めて」だということに、
わくわくやときめき、
喜びや感動などを感じにくくなる。
かつての「初めて」とは
また少し違った形の、
「初めて」を感じる場面は
依然としてあり、
むしろそっちのほうが多くなる。
初めて食べるお菓子、料理。
初めて行く場所、国、お店。
初めて聴く音楽、観る映画。
初めて着る服、帽子、靴。
「初めて」が、何となく、
内面ではなく、
外面の行為に変わっていく。
メンタル(精神的行為)から
フィジカル(物質的行為)へ。
中身だけ変わって、
入れ物は同じなような。
そういう種類の「初めて」が
増える気がする。
みんながみんな、とは言わないけれど。
「おじさん」になると、
「初めて」を避けるようになる。
決まった店で、
決まった席に座って、
決まった物を注文して。
決まった順序で、
決まった早さで食べながら、
いつも決まった新聞を手にして、
決まった時間の、
決まったテレビに目を向ける。
同じ道を通り、
同じ角をまかり、
同じような服を着て、
同じ髪型で、同じ靴を履いて、
同じ歩幅で歩いていく。
同じ時間にすれ違う犬を横目に見て、
同じ場所で顔を会わせる人に
毎日同じような挨拶を交わし、
同じような笑顔を浮かべる。
それが悪いとは思わない。
けれど本当は、
毎日、全部が「初めて」なんだと。
それに気づいている人は、
そんなに多くないようだ。
もし「初めて」だとわかったら。
もっとわくわく、しないだろうか。
もっと瞬間瞬間の出来事と
丁寧に向き合い、
もっとしっかり味わわないだろうか。
子どものころは、
毎日意味なく、
馬鹿みたいにわくわくしていた。
朝起きてから寝るまで、
ずっとわくわくしていた。
それは、
全部が「初めて」だったから。
毎日「初めて」だと思っていたから。
毎秒が「初めて」の瞬間の連続だったから。
見たい、知りたい、感じたい。
今日という日が、
毎日「初めて」だったから。
ふと思う。
それは今も同じなんじゃないかと。
* *
父や母の姿を見ていて、思った。
父は父であろうとしていたし、
母は母であり続けている。
けれども本当は、
初めてのことばかりで、
戸惑ったり、迷ったり、
わからないことばかりで
おろおろしてる。
・・・のだけれど。
「大人」のふりをして、
「親」のふりをして、
「歳上」のふりをして、
そんな迷いを
おくびにも出さないよう、
懸命に「大人らしく」
ふるまっているのではないかと。
なんだか、
そう見えてくる場面が、
ときどきある。
大人、の人たち。
わからないなら、
わからないって言えばいいのに。
できないんだったら、
できないって言えばいいのに。
失敗したっていいのに。
ごめんね、って言えばいいのに。
そんな偉そうにしなくてもいいのに。
どうしてやる前から、
そんなに心配ばっかりするんだろう。
頭ばっかり大きくなって、
体がちっとも動かなくなってる。
経験と学習。
それが、じゃまをしている。
失敗して、転んで、痛い目を見て。
もう二度と味わいたくないから、
ぬかりなく準備をするようになる。
それは、悪いことではないと思う。
けれど、何でも行きすぎると、
かえって障害や毒にもなる。
そしていつしか、
大きく育てたはずの「大人の器」が、
どんどん小さく狭く、
固いものになっていく。
大人になって、
できることが増えたはずなのに。
やらないことが、増えている気がした。
恥ずかしい。みっともない。
こうしなければいけないし、
そんなことはすべきでない。
かちかちになった大人は、
「初めて」を嫌うようになる。
「初めて」のことを恐れるようになる。
準備をして、下調べをして、情報を集めて。
せっかくの「初めてのこと」が
どんどん「初めて」ではなくなっていく。
別にそれも悪くはない。
それでも。
わくわくする心は、
なりをひそめて
じっと何も言わなくなる。
「何かおもしろいことないかなぁ」
刺激に飢えて、
変化を求める気持ちは
あるのだけれど。
危ない橋は、渡らない。
十徳ナイフひとつで、
密林のジャングルに
飛び込んだりなんかしなくても。
冒険は、すぐそばにある。
今日というこの瞬間は、
全部「初めて」の瞬間だ。
わかった顔をしないで、
予備知識も準備も情報も捨てて、
いつでも白紙の心で向き合えば。
かつて味わったのと同じような、
「初めて」のわくわくが
また目を覚ます。
「何これ?!」
「すごい、初めて見た!」
「こんなの知らない!」
知ったかぶりより。
全部「初めて」で、
いいじゃないか。
生きてることは、
仕事や義務じゃない。
「もっとわくわくしようよ」と。
心の声が、ぼくに囁く。
これが、悪魔の誘惑なのか。
それとも、天からの啓示なのか。
どちらにせよ、
「初めて」だから、
ぼくには答えがわからない。
この先に何が待っているのか。
それもわからないけれど。
どんな瞬間も「初めて」だから、
全部が大切で、愛おしくて、
余すことなく受け止めたい。
* * *
老いた母を見て思う。
たとえ母が、
グラスを落として
割ってしまっても。
「ほら、いつも言ってるでしょ。
そんなとこに置くから落とすんだって」
などと、
過去を引き合いに出して
嘆いたり。
「もう、けがでもしたら、どうするの?」
なんて、
まだ起こってもいない
未来の心配をしてみたり。
そんなことで「今」を使うより。
同じようでも違う「初めて」と、
しっかり向き合ってみるのも
悪くはないはず。
母だって、
年を取るのは「初めて」で、
老いていく自分と対面するのも
「初めて」なのだから。
戸惑うのは、当たり前だ。
母だけではない。
誰でも同じだ。
若くても、年を取っても、
みんなこの瞬間は
「初めて」なのだから。
失敗だろうが、2回目だろうが。
毎回が「初めて」。
同じ瞬間は、二度とない。
この瞬間が、一期一会。
みんな初めて。
そう思えばもっと、
やさしくなれる。
今この瞬間が
「最初で最後」だと気づけたら、
目の前のことが
もっと大切で、
もっと愛おしくなるんじゃないかと。
そんなふうに思った。
< 今日の言葉 >
「何これ。
誰か人が入っとるの、それ?
あ、それって、
あそこにおる子じゃない?
パンダじゃなくて。
あそこの動物園の。
イルカじゃなくて・・・
ラッコちゃんだ、この子!
割るやつね、コンコンて」
(水族館の広告写真を見ながら、懸命に「ラッコ」を思い出す母)