2024/04/01

黒い羊は誰なのか






ー1ー



協調性。

漢字で書くと、3文字。


英語では、

「cooperativeness」。


今回、調べるまで、

一度も聞いたことが

なかった単語だ。 


通知表によく書かれた言葉。


「協調性がない」


たしかに、

1対1とか、

3人とかでいるといいのに、

大勢になると居場所を失う。


結局、その中の

2、3人と話してしまう。


自分が取り仕切る

「会」ならまだしも。

誰かの「集まり」では、

居場所に困る。



協調性。


それって何なのか。


集団の中で、

いったい誰がつくるのか。


イワシの群れが泳ぐとき、

どのイワシが「指示」を出しているのか。

どうしてあれほどまでに

見事な統率がとれているのか。


敏捷性? 共振力? 生存本能?


人間の「群れ」は、

誰が合図を出しているのか。


法律や法令でもなく、

道徳や規則ともまた違う。


協調性。


たくさん生きてきて、

少しはわかったつもりだったが。

いまだにまったく

わからないままだ。



ー2ー



最近、

英語のヒアリングがてら、

日本の歴史をまとめた

動画を何本か観た。


自分たち「日本」から見た

「日本」ではなく、

海外から見た「日本」。


どんなふうに見えているのか。


つたない英語力なので、

理解度は6割くらいかも

しれないけれど。

知らなかったこと、

初めて知ることがたくさんあった。


ここで、

日本の歴史について

講釈するつもりはないので

どうぞご安心を。


自分が観た動画は、

史実に基づいた、

中立的で公平なものが多く、

意見を述べたり、

善悪を問いただしたり、

極端に色づけをしたものは

少なかった(と、思う)。


そんな中、

ひとつの動画で、

ちょっとした問いかけがあった。


礼儀正しく、繊細で、

美しい国の日本が、

なぜハラキリや大量虐殺などの

野蛮な行為を行なったのか、と。


それについての

一人の日本人の答え。


『日本人は、

 よくも悪くも「従順」であり、

 教育や方針、風潮などを

 遵守する傾向にある。

 それによって、

 ハラキリ、カミカゼ、残業などを

 足並みそろえて行なった。

 出る杭は打たれるという文化が、

 長く続く民族である』


(For better or for worse, Japanese people tend to be ''obedient'' and adhere to education, policies, and customs.. As a result, Harakiri, Kamikaze, overtime work, etc. were performed in unison. They are a people with a long-standing culture of being driven in if a stake sticks out.)



島国で、単一民族、

単一言語を話す単一国家。

国境を意識することなく、

北へ南へ、東へ西へ、

陸の上をすみずみまで

移動できる国だ。


ひと昔前は、外国人を見て、

「あ、ガイジンだ」

というくらいの民度だった日本人。


西暦1639年から1854年の、

215年間の鎖国から

ずいぶん経った今でも、

もしかすると、

見えない柵に

囲まれているのかもしれない。



ー3ー



広告代理店に勤めていたころ。


当初はデジタルではなく、

「紙入稿」の時代で、

原稿に直接、指示を書きこんだり、

紙の「版下」に

トレーシングペーパーをかけて、

赤や緑のボールペンで

指示を書いたりして、

印刷物を制作していた。


「太ゴ(太ゴシック)

 20Q(級)24H(歯送り)」


「平明(平成明朝)

 14pt(ポイント)ベタ(送り)」


といった具合で、

レイアウト原稿などに

指示を入れる。


ちなみに図案の指示は、


「photoカクハン使用

 天地40ミリ」


「ロゴ50%使用」


といった感じだった。



あるとき、

モノクロページを制作していて、

ふと思った。


原稿を200〜300%に

拡大して印刷したものを、

そのまま「版下」として

入稿してはどうだろうかと。


そうすれば、

指示ミスや入力ミスもなくなるし、

(といっても、

 版元がミスすることなど

 ほほなかったが)

数字だけでは表せないような

細かなニュアンスも

そのまま再現できる。


これは名案だ。


われながら画期的な発案を、

すぐさま実践してみた。


悪くない。


入稿整理の手間も省けて、

制作に充てられる時間もふえた。


幾日か経過して、

版元(出版社)から電話が入った。


「家原さんがやり始めたと

 聞きましたが。

 あれは、何なんですか?」


電話の主は、進行課という

印刷工程の下準備をする部門の

担当者からだった。


その声は、

やや困惑したような、

あきれたような色をしていた。


「だめでしたか?

 何かまずいこと、ありましたか?」


と聞くと、


「いや、だめとかではないんですが。

 一応、確認しておきたくて」


とのことだった。



それ以前にも、

表現に関する手法で、

「革命的な試み」を始めた前例があり、

ほかの代理店にまで広がって、

そのことが問題視されたことがある。


そのときも、今回同様、

奇をてらってやったわけでは、

けっしてない。


具体的な説明は

ややこしいので割愛するが。

この現象を、例えてみたい。


小学校の時など、

自分が考えた遊びが広まって、

それが学校じゅうの問題になる。


自分の場合は、少なくとも、

いろいろ配慮していたつもりでも、

真似や亜流で広がったものが

問題を起こしたり、

けが人が出たりして。


先生が生徒に問いただす。


「誰がやり始めたんだ」


「家原くんです」


「またあいつか」


・・・と、

そんな感じである。


「それでも地球は回っている」

("And yet it moves.")


とは、さすがに

言わなかったが。


ああ、そうだ。

ずっとそうだった。


小学生のころから、

ずっとそうだった。


協調性を乱す、というのは、

そういうことなのかもしれない。


ちなみにその「進行課」は、

入稿のデジタル(DTP)化とともに

廃止され、

そこにいた人員は異動、

またはいなくなってしまった。



先生の仕事をしていた時にも、

同じような景色を見た。


熱血先生を気取るつもりはないが。

生徒目線に立ってみて、

あれ?っと思うことがあり、

会議の場面で口にした。


すると、長である先生が、

明らかに「めんどうな」顔色を浮かべた。


「今までそうしてきましたし、

 そんなことは、前例がないので」


「けど、生徒のことを考えると、

 どうかと思うんですよ」


ねえ、と言わんばかりに、

あたりを見回す。


(うそぉ〜ん・・・)


と言いたくなるような

心細い風景。


さっきまで

休憩室で談笑していたときには、


「まったくその通りです」


「そうですよ! 本当、そう思います」


と。

まこと、援軍を得たかのような、

心強き気持ちだったのに。


会議室では、

その同志たちの誰一人とも目が合わず、

悲しいくらいの孤立を呈した。


賛同が得られないどころか、

「長」の意見とデュエットして、

みなでハモるかのような勢いで、

最初から一点の曇りもなく

その意見でしたよ、

といった風情でうなずいている。


たしかに。


来年度の席を決めるのも、

授業のコマ数を増やすのも、

すべて「長」の判断なのだから。


そりゃ、そうもなるか。


わかっていても、

実際、そんな場面に遭遇すると、

それはそれで圧巻の景色である。


漫画でもドラマでもなく、

現実に起こる出来事なんだと。


フィクションが先か、

ノンフィクションが先か。


初めて見た

「うそみたいな現実」の風景に、

声も言葉も失い、

自分が呼吸しているのかどうかさえ

忘れてしまうほどだった。


怒りはない。


あるのは悲しみ。

さみしさと落胆。

自分自身への悔恨。


あゝ、たとへ一瞬でも、

信じた自分が莫迦(ばか)だった。


こんな風景になることを

想像できなかった自分の、

想像力のなさ。

いや、むしろ想像力が

たくましすぎたのか・・・。


がむしゃらに走って帰ってきてくれる、

メロスはいない。

ひたすら信じて待っていてくれる、

セリヌンティウスもここにはいない。


そう。

ここは「社会」。


目の前にいるのは

友でも同志でもなく、

仕事の「同僚」だ。


みなそれぞれに事情があり、

守るべきものがある。


ぼくにはそれがわからなかった。


理解できないという、

否定的な意味での

「わからない」ではなく、

そういう思考に欠けていた。


だから、あれ?っと思うことを、

あれ?っと口にしてしまう。


空気が読めないと言われると、

デリカシーがないみたいで、

やや反論したくもなるが。


まあ、ようするに、

場というか、

社会の空気が読めないのだから。

社会的なデリカシーが

欠如しているのだろう。



ー4ー



カナダにいたとき、

カナダ人が言った。


「日本人はどうして本人に言わずに、

 いなくなったあとで言うのか」


似合わないなら似合わないと。

おかしいならおかしいと。

なぜ本人に伝えてあげないのか。


日本人は、冷たい。

陰で言うだけでは悪口だ。

それでは、やさしさがない、と。


そのときのぼくには、

説明できる語彙力がなかったが。


「We don't want to cause any trouble,

 this is our Japanese culture.」


(波風を立てたくないのが、

 私たち日本の文化なのです)


平和を愛する民、日本人。


「やさしさ」の形、表現の違い。


場の空気を尊重するのが、

日本の風潮であり、文化である。


和を重んじる、日本人の美徳。


そんなあたりまえのことが、

なぜかぼくにはできていない。


日本の和を乱す

夾雑物(きょうざつぶつ)。


もはやぼくは異邦人。


日本を愛する、異邦人。


最近、こういう局面が

つづいたせいで。

・・・いや、むしろ、

「それ」を意識していたせいなのか。


協調性、和、について、

いろいろ思った。



自分に何が欠けているのか、

と考えたとき。

「大衆」というものを理解する力が

欠けているのだと思い至った。



目の前の「個」が何を考え、

何を思っているのかを

想像することはしてきたが、

集団が何を求めているのか

想像したことはほとんどなかった。


集団の「総意」。


多数決。趨勢(すうせい)。

一般。みんな。

風潮。流行。主流。スタンダード。


「こたえ」の秘匿が

確保されない場面において、

集団(または組織)の総意は、

強いもの、長いものの「こたえ」が

そのまま「総意」になる。


「こたえ」は流される。


水とは反対に、

高いほうへと流されていく。


自分は、大衆という、

実体がなく、その時々で変容する、

つかみどころのないものの姿を

とらえる能力が劣っている。


集団社会の中で生きるための

致命的な欠陥。


わかろうとはしても、

わからない。


「ああ、たしかに。

 あれはいいよね」


と、歩み寄ろうとするぼくが

提示するものに対して、

返ってくるのは、


「変わってるね」とか

「よくわからない」

「知らない」という、

檻(おり)の向こう側からの声ばかり。

(もちろん「ばかり」とはいえ、「だけ」ではないです。念のため)



そして、つい先日。


またしても「それ」は起こった。



いたはずの賛同者が

傍観者になった、悲しい風景。


人は、身を守るためのうそをつく。

都合のいいように、情報を編集する。


そんなことは言っていなくても、

本人不在の「伝言ゲーム」では、

そう言ったことになっている。


たくさんの景色を見て、

たくさんの時間を過ごして、

たくさんの経験を重ねてきたと

思っていたけれど。


「家原くんがやった」


小学校の時と、

まるで変わらないこの景色。


「個」のときは「YES」でも、

「みんな」になると

「I don't think so.」または、

「I'm not sure.」になる「こたえ」。


表の顔と裏の顔。

表のこたえと裏でのこたえ。


これが「本音と建前」というやつか。


言い換えると、

「理想と現実」と言ってもいい。


いくら「個人」が望んでも、

「みんな」が求めていない「正論」は、

厄介者のおせっかいに過ぎないのだ。


たたただ場の空気を乱しただけ。


どうしたものか。


ぼくにはそれがわからない。


その線引きが、区別が、判断が、

今もってまるでわからない。



けれど、

わかったことが少しはある。


自分が思っている以上に、

「みんな」は、変容する。


裏での言葉がそのまま、

表の言葉になるとは限らない。


よく知っている間柄であればまだしも。

そうでない場合の過信は、

おとぎ話のような

メルヘンにしかならない。



あの日に見た景色。


人は、変わる。


いやむしろ、

変わらないのか。


一人歩く帰り道、

街灯の光に照らされて、

真っ黒な空に浮かんだ

白いモクレンの花が、

とてもきれいだった。



黒い羊。


英語で「black seep」というのは、

「組織や家族の中での

 厄介者、ならず者」

という意味らしい。



黒い羊は誰なのか。


「みんな」にとっての黒い羊は、

「ぼく」なのかもしれない。


平和に凪(な)いだ海原に、

よけいな波風を立てる黒い羊。


サムライ、チュウギ、

スシ、ハナミ、ゲイシャ、

カラオケ、マンガ、

フー・イズ・ニンジャ?



少なくとも、

「まあ、いいか」

と、笑えるようにはなったけれど。


「ヒツジが1匹、ヒツジが2匹、

 ヒツジが3匹、ヒツジが4匹・・・」


外国人にも日本人にも

なれない自分であっても、

せめていつかは

白い羊になれたらと。


そう願うのでありました。




< 今日の言葉 >


「もし私が死んだら、

 下あごの骨を

 キハーダにしてほしい」


(If I die, I want you to make quijada

 out of my lower jawbone.)


4月1日に父がたわむれで書いた遺言状を真に受けて、単身キューバへと渡り、キハーダを作るために高名な先生に弟子入りをして、キハーダ作りを学んだという孝行息子がいたとかいないとかいう、4月1日のおたわむれのお話。


(ちなみに『キハーダ』とは、馬やロバの下あごの骨を乾燥させて作った楽器で、『ギロ』のように、バチなどでこすって鳴らしたり、『ヴィブラスラップ』のように、手や膝に打ち付けて鳴らす、ラテンアメリカの楽器です)