2009/04/21

遊べなくなったらおしまい


仕事が早く終わった日の午後。

いい天気だったので、帰り道、
ひとつ手前の駅で降りてふらふらと散歩した。


一軒の古本屋に入り、おもしろそうな本を物色していて、
『マックス・エルンスト展』の図版(1983年/読売新聞社)を見つけた。

マックス・エルンスト(1891-1976)。
彼は、ドイツの、ケルン近郊生まれの作家(画家、版画家、彫刻家)だ。


その名前は聞いたことがあり、
いくつかの作品も原画で見たことがある。

けれど、彼の「人となり」となると、
あまり詳しく見聞きしたことがなかった。

彼の名前を聞いて思い浮かべるのは、
フロッタージュ(紙などの下に模様のある素材を置いて、鉛筆などでこすって模様を写し取る技法)や、
デカルコマニー(画面の絵具がまだ乾かないうちに素材を押し付けて、模様を写し取る技法)など、
いまでは専門用語となった単語が思い浮かぶ。

マックス・エルンストの作品説明を見て、
「こすったり」「写し取ったり」する手法に、
きちんとした名前がついていることを知ったのだ。


もうひとつは、「鳥」に対する執着だ。
彼の作品には、ちょくちょく「鳥」をモチーフにしたものが登場するのだが。
それにまつわる逸話で、すごく印象に残ったものがある。


彼が10代の頃、飼っていたインコが死んだ。
その死骸を見つけたときに、妹が生まれたという知らせを聞いた。
インコの死と、妹の誕生との「つながり」。
そのせいで、人と鳥とを混同するようになった、と。

どこかの美術館のキャプションで、そんな物語を読んだ。
おもしろい人だな、と思った。

『1906年。彼の親友のひとり、
 いちばん利巧で思いやりのある桃色のインコが、
 1月5日の夜に死んだ。

 翌朝その死骸を見つけたとき、ちょうど父親が彼に、
 妹のロニが誕生したということを告げたので、
 マックスはおそろしいショックを受けた。

 少年の心中の騒乱はあまりにも大きく、
 気絶してしまったほどだった。

 想像のなかでは、
 彼は両方の出来事を結びつけており、
 鳥の命の消滅を赤ん坊のせいにしていたのである。

 一連の不思議な失神、
 ヒステリーの発作、昂奮と銷沈(しょうちん)がつづいた。

 鳥と人間とのあやうい混同が彼の心になかに根をおろし、
 デッサンや絵のなかにも顔を出すようになった・・・』


・・・と。

彼自身の手によって書かれた『伝記のためのノート』に、
そう記されているらしい。

(この手記のなかでマックス・エルンストは、
 自分のことを「彼」という三人称で呼んでいる)


古本屋の片隅に置かれた、マックス・エルンスト展の図版。
買って帰って、さっそく彼の「人生」の一部を読んでみた。


彼は「あるかなきかの “ ずれ ” の魔術師」と呼ばれた版画家でもある。

その反面で、彼自身、

『私には、専門家を喜ばせる才能がない』

と自己評価をしている。

彼は、直接的な定義や明言はしない。
そういった「作業」が好きではなかったようだ。


彼は、作品の中でしゃべる。

その「こたえ」も、強要はしない。


『これら(作品)を好きなように解釈するのはいい。
 しかし、理詰めのやり方で、その意味を解き明かし、
 それによって作品を平板化するべきではない』


彼の、この言葉を聞いて。
大きくうなずいた人は、少なくないだろう。


当人以外があれこれと枝葉をつけたり、
ありもしない注釈を入れたり。

どうしてわざわざ、おもしろくなくするんだろう。


スポーツでも、映画でも、音楽でも。
そして、絵画などの作品でも。

おもしろくないことを言って、
どうしてわざわざ、おもしろくなくするんだろう。


マックス・エルンストの言葉で、
他にもおもしろいものがあった。


『流行に栄えあれ。芸術よ、くたばれ』


彼の魂に、パンクを感じた。

かのジョニー・ロットンに勝るとも劣らない、
ふつふつと燃える、パンクスの魂。


表現の仕方は違っても、原動力は同じ。

怒りや哀しみ、不安や疑問、そして喜び、たのしみ。

彼らは、平和的な表現手段でメッセージを伝える。

人々が忘れかけてしまっていたり、
おろそかにしてしまっていることを、


「大事にしろよ」


と気づかせてくれているに違いない。


絵画は絵具のなかに。
音楽はメロディに乗せて。


こたえは、机の上にはない。
教科書にも載っていない。

日々の生活の中に、それはある。


『書を捨てよ、町へ出よう』と、寺山修司氏は言った。

書物のつくり手である作家自身が
「書を捨てよ」などと言うなんて。

これまたパンクだ。


僕が思うに。

マックス・エルンストは、どこにも属していない。

彼は、自由だ。


体制や形態、アカデミックな解釈などに囚われず、
彼は自由に「遊んでいた」ように感じる。
彼が崇拝する鳥のように。

自由を求めて、もがいて、はばたいて、
飛びつづけていたように思えてならない。


どんなときでも、自由に遊べるように。


目の前におもちゃがあるのに、遊ばないなんて。
いい音楽が流れているのに、踊らないなんて。

遊びに名前なんて、いらない。
遊びは、習ったりして教わるものではない。


言葉じゃ言えないから、
言葉じゃ足りないから、
だから、思いっきり遊ぶ。



広場には、変わった形をした石ころや、
きれいな色の木の実や、いい匂いがする花や、
誰かの捨てたぼろぼろの靴とか、ネジとかお菓子の袋とか、
いろんなものがたくさんある。

こんなにおもしろそうなものがあふれているのに。
遊べなくなったら、おしまいだ。



< 今日の言葉 >

『意味はなく、誰もが呼びやすい小学生でもわかるような英語で、バンドの音楽性が見えないような名前』
(「ブルーハーツ」という名前について/甲本ヒロト)

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