ホテルなどの宿泊施設ではなく、誰かの家に泊めてもらうと、
生の文化を味わうことができ、さらにおもしろい。
旅行者向けの「よそいき」の顔ではなく、
その国の「素」の顔が見られるからだ。
異文化交流。
何も「外国文化」にふれることだけが異文化交流ではないと、
最近よく思う。
いってみれば、「自分以外のすべてが異文化」だ。
犬も歩けば、ではないけれど。
道を歩くと「異文化」にぶつかる。
昭和歌謡曲を大熱唱しながら歩くおじいさんも、
置物みたいに座っているタバコ屋のおばあちゃんも、
二重跳びの練習をしている小学生も、
2つとも同時に鳴り出した携帯電話をじっと眺める女子高生も。
みんな、それぞれの「文化」を持った「独立国家」だ。
そんな人たちと話し、交流するのも、立派な「異文化交流」だと思う。
見ているだけでも、異文化に触れることはできる。
まずは「異文化」に興味を持つことで、異文化交流の扉は開くのです。
自分は「学校」という場所で働かせてもらっていることもあり、
さまざまな分野の、幅広い世代と接する機会がある。
10代、20代の生徒をはじめ、同世代の先生、さらには大先輩の先生や校長、
親ぐらいの年齢の掃除のおばちゃんや、警備のおっちゃん。
ちょっとしたきっかけで、
あいさつを交わすだけの関係から一歩踏み込むと、
いろいろな「文化」が見えてくる。
フタをあけてみると、みんなおもしろい。
年齢や世代はもちろん、性別や生活環境、趣味や趣向など。
いままでその人が歩いてきた足どりの違いで、
「個性」というものがつくられている。
選ぶものも違えば、考え方、ものの見方も当然違う。
いままで自分が見向きもしなかったようなこと(もの)に気づかされたりもするし、
ものすごく「せまい」部分で共感しあったりすることもある。
本やCDを貸したり借りたり。
「これはおいしい」というものを教えたり教わったり。
おもしろかった出来事を話したり聞いたり。
一方通行じゃないからこそ「交流」がおもしろくなる。
ときには意見を言いあって、ぶつかることもあるけれど。
そうやって自分の「ものさし」を「たしかめて」いく。
伸ばしたり整えたりしながら、自分の「ものさし」を磨いていけば、
測りづらかった事柄も、いつかは寸法が採れるようになるのだろう。
先日、芸大に遊びに行って、何人かの学生さんと話をした。
みんな、それぞれの「世界」を温めていて、
自分の世界と「外の世界」とをつなごうと、表現している。
日付をふられ、箱に入れられた落葉。
どの箱も、落葉が1枚ずつ入れられている。
「落ちてきた葉っぱを、指でつかむんです」
作品を見せてくれた院生の彼は、おだやかで、
曇りのない声でそう説明してくれた。
ひらひらと舞い落ちる葉っぱを見ると、
彼のことを思い出す。
今日も葉っぱをつかまえてるのかな、と。
きっかけは、ほんのちいさな種だったかもしれないけれど。
彼の「世界」は、僕の中にしっかりと根づいた。
こんなふうに、お互いの「文化」を交換していく。
コーヒーを飲みながら、タバコをふかし。
ときにはアルコールも交えながら。
自分の奥底にある、どうでもいいような「文化」を掘り出し、
外の世界にさらけだす。
たとえイスに座ったままでも、海外旅行なみに濃密な時間がすごせる。
外国から戻ってくると、自分の国のことが、あらためて見えてきたりする。
それは、個々人の異文化交流でも同じことが言える。
慣れ親しんだ文化にとどまることなく、
異文化にふれることで、「自分」が見えてくる。
必要なものも見えてくる。
『仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない』
(ザ・ブルーハーツ「チェインギャング」より)
さあ、みなさんも、素顔をさらけだして、
生の異文化交流をたのしみましょう。
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+++++ クリプレ(クリスマス・プレゼント) ++++++
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