2023/09/26

(帰) 家原美術館だより#1

橦木館(2012)


 (帰) 家原美術館。

(Kaettekita-iehara-bijutsukan)


無事、閉館いたしました。


実質14日間の

宴(うたげ)ではありましたが。

おかげさまで、

まぢ大盛況で、

大大大成功の会でした。


ご来館いただいた

たくさんのお客様方、

本当にありがとうございました。


自分にとっても忘れがたい、

本当にたのしい会となりました。


これまででいちばん、

のびのびと等身大でたのしめた、

いちばんたのしい会でした。



さて。


この『(帰) 家原美術館だより』では、

開館の経緯にはじまり、

会期中の出来事や

会場のようすなどを

日記や記録をもとに、

記述していく心づもりであります。


まずはその第1弾、

『(帰) 家原美術館だより#1』。


レッツ、はじまりです。





 「橦木館、

 いろいろ変わりました」


今回、

声をかけていただいた館の方、

Yさんからのメールに、

そんな言葉があった。


Yさんはそれ以上語るでもなく、

後日、お会いする約束をして、

打合せに向かった。


6月20日。

退院したばかりの

ぼくを気づかうYさんは、

つい昨日も会ったような顔で、

あたたかく迎えてくれた。


文化のみち橦木館での開催は、

2012年以来、

約10年ぶりのことだ。


Yさんは、

そのころからの「古株」メンバーで、

かれこれ10年以上の

お付き合いということになる。


2012年以降にも、

毎年年間パスを作り、

少なくとも年に2、3回ほどは

館に顔を出していたのだが。


ここ数年は、

すっかり足が遠ざかっていた。



久しぶりに見た橦木館。

何かが変わっていた。



外見上の変化、というより、

目に見えない何か、

感覚的な「何か」が

明らかに違っていた。


郷愁でも固執でもなく。

館内の「空気」が変わっていた。



**



2012年、

ここから始まった『家原美術館』。


「おなじ所では二度開催しない」


こだわりというより、

まだ見ぬ新しい場所を試したくて、

さらには、

恒例化することを避けての

断り文句だったが。


お世話になった

Yさんからの「頼み」とあれば、

断るにはおよばない。


「帰ってきた家原美術館

 っていうのは、

 どうですか?」


その命名に、

むしろ心がときめいた。


「おもしろそうですね、

 やりましょう」


そんなふうにして今回、

『(帰) 家原美術館』

開催の運びとなった。



Yさんは、館の、

何がどうのように変わった

ということに関して、別段、

不満や文句をならべたてた

わけではない。


ただ、ここまでの経緯を

簡単に話してくれた。


その話によると、

館を管理する会社が

変わったということだった。


そのせいか、

自分の見知った客層と

違っている気がした。


時代の流れなのかと思ったりしたが。

なるほど。

広報や告知の仕方が変わり、

ターゲット層が

変わったようだった。



かつてぴかぴかだった

廊下や建具。

この10年のあいだに、

木肌が乾き、荒れているのが

目に見えてわかった。


「古いのと、ぼろいのとは違う」


自分がよく、

人に説明するときに使う言葉だが。


久しぶりに見た橦木館は、

古いだけでなく、

少しぼろくなっていた。



10年前。

館には「ミスター橦木館」がいた。


勝手にぼくが

そう呼んでいただけだが。


当時の副館長は、

がたぴしと、まるで動かず、

滑りの悪かった館内の建具、

扉という扉を、

するすると指で開けられるほどに

修復した人である。


道具は、

えごま油とぞうきんだけ。


あとは根気と熱意、愛情をこめて、

ひたすら磨きつづけるのだ。


「毎日ちょっとずつ、

 何年もかけて油を塗ったら、

 動くようになったんですよ」


指1本で障子をするりと開けながら、

副館長は、こともなげにそう言ったが。


ここまでくるには、

並々ならぬ労力が必要だったはずだ。


ぼくは、副館長が好きだったし、

副館長の磨きあげた館も大好きだった。


Yさんをはじめ、

職員の人たちみんなのことも、

大好きだった。


ここにこれば、ほっとする。


そんな空気が、そこにあった。

そんな顔が、いつもあった。



2012年。

初めて『家原美術館』を

開催するにあたって。

県内外の施設をちらほら回った。


いくつかを見て回ったり、

話を聞きに行ったりして。


橦木館にたどり着いたとき、

ぼくは、


「ここだ!」


と感じ、その場ですぐに、

使わせてもらえないかと話して、

手続きを済ませた。



そのときの「感じ」。

決め手となった、その「感じ」。


いま、言葉にするなら、

この古い建物が、

手に触れられない博物館や、

箱に入った文化財ではなく、

「現行の古い建物」だと

感じたこと。


戦火を免れ、

取り壊されることからも免れ、

いろいろな人に使われ、

守られ、大事にされて、

今日まで「生きている」建物。


子どもからお年寄りまで、

いろいろな人が来て、

みんながゆっくりしている空気感。


みんなに愛される「古い家」。


その姿にぼくは、

絵本『ちいさいおうち』を連想した。


大好きな絵本の「おうち」が、

そのままそこに

あるような感じがして、

ぼくは、

すごくいいなと思った。



いい建物にはいい人が集まる。


そして、そこにいる人がまた、

場所をつくる。

場所の空気をつくっていく。


2023年6月。

ぼろぼろになった館の姿を見て、

ぼくは、かなしく思った。


そして真っ先に、

ミスター橦木館の

副館長を思った。


あちこち傷んだ建物は、

輝きを失っただけでなく、

かつての威厳(いげん)が

なくなっていた。




***



展覧会打合せの日々で。

Yさんを介して、

新しい人たちと顔を会わせた。


これまで文化財や美術・博物に

携わってきたわけでも

ない人たちだからか。

ぼくには、どこか違和感があった。


「作品」というものに対する、

意識や思いが乏しい。

もっと言えば、

「物」に対する愛情が低い。


これは、

人柄や性格ではなく、

見識や分別の問題である。


習うものではなく、

これまでの経験で学ぶことだと、

そんなふうに思う。


ものをつくったことがない人に、

ものをつくる人の気持ちはわからない。

だから、想像する。

その思い、その気持ちを想像する。


想像力と感性(センス)と愛情。


時間と労力、心を費やし、

つくりあげたものは、

物であって、物ではない。



今回、

自分の展覧会の期間を

打合せして決めたあと、

いくつかの行事を

「ダブルブッキング」された。


正確には、

ダブルブッキングでは

ないものもあるが。


打合せ時に確認した際、

出てこなかった話が

あとからぽろぽろと出てきた。


そのぽろぽろが、ころころと転がり、

約束が約束でなくなり、

あと出しじゃんけんみたいなことが

くり返された。


最終日や夜のイベントなど。

展覧会の会期が決まったあとに

「ブッキング」したものがある。


黙っておくこと、隠すことは、

「言わない嘘」である。


ぼくは、自分の作品と、

展覧会を守るために、

思いを伝えた。


Yさんを介して

伝えてもらうことが、

だんだん申し訳なくなり、

ついには自分で思いを伝えた。


ぼくは、わがままだし、

言いたいことを言うので、

ちょいちょい人に迷惑をかけてしまう。


それでも、

約束はきちんと守るし、

筋だけは通してきたつもりだ。


かつての自分は、

子どもみたいに、


「もう、あの人きらい!」


とか、


「展覧会、やめようかな」


と、思うことがあった。


今回も、

ダブルブッキングや戸惑う行為に、

心がうごかなくなりかけた。


「もうやめようかな」


何度か頭をよぎる思いに、

Yさんの姿が浮かぶ。


展覧会の下準備、

教育委員会や

新聞社への後援申請など、

まるで自分のことのように、

いや、自分のこと以上に

一生懸命、奔走してくれたこと。


楽しみにしてくれている

みんなのこと。


そんなことを思うと、

おいそれとは

やめるわけにはいかなかった。


2022年も、いろいろあった。


うつくしいものをあつかう人が、

うつくしいとはかぎらない。


それを思い、

心がくじけかけた。


あたたかい言葉。

みんなの言葉が、心をすすいでくれる。

家族や友人、

応援してくれている人たちの声。


やめてよろこぶ人よりも、

かなしむ人のほうが多い。


やめるわけには、いかなかった。



かつての自分は、

思いを伝えるとき、

むきになったり、

よけいなことを言ったりしていた。


「帰ってきた家原利明」は、

そうではなかった。


(帰) 家原利明は、

感情に流されず、

自分が正しいと思うことを

まっすぐに伝えようと努力した。


『罪を憎んで人を憎まず』


タツノコプロのアニメ、

『ヤットデタマン』の

「大巨人」ではないが。


そんな言葉を胸に、

うるさ型のお客のごとく、

ぼくはぼくの思いを口にした。


怒ることが悪いのではない。

怒りをぶつけることが、悪なのだ。


(帰) 家原利明には、

痛いほどそれがよくわかっていた。


その結果は・・・・。


言葉は意味をなさず、

音としてのみ届き、

音のような言葉が返ってきた。


言葉や思いはちぐはぐで、

価値観も感覚もばらばらで。


ぼくはひとり、苦笑いした。


これは、心のリハブ

(リハビリテーション)なのだと。




会期中のある日、

ぼくの作品の上をまたぐ格好で、

館長の女性と、副館長の男性が、

送風機を渡しているのを見た。


ぼくは、

すごく腹立たしく思った。


その様子で、

すべてがわかった。


「作品」というものに対する、

意識や認識、感覚の低さが。


まず副館長の男性に話した。

次に、館長に話した。


変わってほしいからではなく、

ぼくは、ぼくの作品を守りたかった。

ただそれだけのことだ。


ぼくは、作品づくりも、

展覧会の会場づくりも、

本気で全力で、真剣にやっている。


新しい人たちの言動は、

ぼくの温度が

まるで感じられないような

ことばかりだった。


わがままなぼくは、

自分の作品が、展覧会が、

軽んじられていることに

がまんできなかった。


何かが変わるとも思わない。

変わってほしいとも思わない。


けれど、言う人がいなれば、

そのまま終わってしまう。


期待でも願いでもなく、

いけないことをいけないと言う。

言いつづける。


口論する気も論議する気もない。


だめなものはだめ、

嫌なものは嫌だ。


理屈や都合をならべられても、

おかしいものはおかしい。

ぼくはぼくでしかないのだ。



そして思う。


(帰) 家原利明は、

「見きわめ」というものが

できるようになった。


動かない岩に向かって

「どいてくれ」

とは言わなくなり、

別の道を歩くことを覚えた。


自分の目的は、

岩を動かすことではなく、

前へと進むことだ。


それを見失わない判断力。


自分にはやることがある。


時間は有限だから。


動かない岩と

戯れているひまなどない。


いざ、前へ。


それでもまだまだ、

くじけそうには、なりますけどね。



次の山はでかい。


だからもっと、

大きくつよくならねばと。


そう自分に言い聞かせる、

(帰) 家原利明でした。



****



目が悪くなり、

5メートル先の人の顔が見えない。


眼鏡をかければいいのだが。

見えないおかげで、

目の前の世界に集中できる。


そのせいで

ついつい話しこんだりしてしまい、

せっかく来てくれたにもかかわらず、

お客さんの存在に

気がつかなかったり。


全員と話せなくても、仕方ない。


体も頭も、

心も1個しかない。


不器用な自分は、もう、

考えることをやめにした。


面よりも、点と線。


いま、この瞬間。


そっちのほうが、自分は好きだ。


正しいとか間違いとかより、

自分の好きを選びたい。


自分が自分であるために。



10年ぶりの、橦木館。


10年経って、

橦木館だけでなく、

自分も変わった。


2012年。

巨大な文化財に

圧倒されていた自分。


やたらめったら、

自分がやりたい、見せたいばかりで、

勢いと力技で何とか形にした。


10年の経験を経て、

調和を考えられるようになった。


全員にじゃなくてもいい。

自由に見てもらえばいい。

前よりもいっそう、

そう思うようになった。


会場に来たお客さんと、

話すことは楽しい。


これまで、

のべ何万人の人と

しゃべってきたのだろう。


まだまだ

教わることがたくさんあるし、

学べることが、いっぱいある。


作品で訴えたいことは、

何もない。


自分がいいと思った絵を

飾っているだけだ。


それを見て

楽しい気持ちになってもらえたら、

すごくうれしい。



誰に言われるでもなく、

自分が好きなことを、

好きなようにやる。


言葉でなく、

自分がそれを体現していれば。


そんな仲間が、一人、二人と

増えていくかもしれない。


大切なものを、大切にしていれば。


そんな人たちが、少しずつ、

増えていくかもしれない。


絵だけでなく、

空間や展示や存在すべてで、

うつくしいものを伝えていければ。


美術でもアートでもなく、

純粋できれいな純度のかたまりに、

価値が生まれるはずだ。



次の山はでかい。


だからこそ、

みんなの声を聞きながら、

迷子にならないよう、

ぐねぐねとまっすぐ進んでいきたい。



家原利明、活動歴14年。

家原美術館、11年目。


ここから見る景色は、

悪くなし。

完成度、達成度も、

低くなし。



10年経って、

帰ってきた家原利明は、

ここにそれを刻んでいきます。


また10年後に、

どんな景色が見えるのかを

楽しみにしながら。


展覧会9日を終えて、

残りの会期を

全力で楽しみます。



2023年9月19日(会期中の休館日)



→ 次回へつづく


< 今日の言葉 >


母・家原恵美子(77)の応援文




2023/09/21

決定版・これが円校舎だ




中学生のころ、

ぼくらの学校には

「円校舎」というものがあった。


円校舎(えんこうしゃ)。


読んで字のごとく、

円形状の校舎である。


その円形校舎のことを、

ぼくら生徒や先生はみな、

「円校舎」と呼んでいた。


この、円校舎。

老朽化ということで、

ぼくらが入学した年の

後期には取り壊されて

しまったのだが。

(新校舎ができるまでは、

 運動場に建てられた

「プレハブ(仮設)校舎」だった)


ぼくはこの、

円校舎のことが

すごく好きだった。


もう、

なくなってしまった円校舎。

その付き合いは

ほんのわずかではあったけれど。


かすかで曖昧な記憶をもとに、

円校舎の記録をしたためていきたい。



短かいお付き合いでの記憶のため、

細部の記憶がかなり曖昧で、

まちがっているところ、

ぬけている部分があるかと思いますが、

何とぞ、ご了承くださいませ。



* *



円校舎には、

入学したての1年生が入る。


教室の数は7部屋。


ぼくらの年は、

8クラスだった。


ということで、

1クラス「はみ出る」形になった。


はみ出たクラスは、

2年生のいる校舎に入った。

そこはもちろん円形ではなく、

ごくふつうの、

四角い校舎だ。


1から8組のうち、

「はみ出した」のは1組だった。


残念なことに、

ぼくはその1組だった。


そのせいもあって、

ぼくは、休み時間ごとに、

円校舎の友人のもとへと

遊びに行った。


部活に入るまでの

ほんのつかのまの期間。

授業後に、

図書館などへかよっては、

円校舎の雰囲気を

胸いっぱい吸いこんだ。


うれしいことに、

2クラス合同の授業や、

特別活動などの時間は、

円校舎で授業を受けられた。


あの、おそろしい職員室に

ご指名でお呼びがかかったときにも、

円校舎の空気は味わえましたが。


それ以外に、

学年委員会などの舞台も

円校舎だったので、

1組代表の「級長」として、

授業後の円校舎へ足を運んだ。


ちなみに、

ぼくが「級長」になった

いきさつは、

出席番号が「1番」だったことと、

小学生のころの、

学級委員経験者だということ。


この「学級委員」というのも、

小学6年生のとき、

なかよしの親友と

クラスが別々になって、

ちょっとでも一緒になれるようにと、

おたがい、自分のクラスの学級員に

立候補したのだった。


親友は1組、ぼくは2組。


おかげで修学旅行のときなど、

一緒にみんなの前に立ち、

大きな声で、


「手を合わせて、

 いただきます!」


などと号令をかけたりできた。


それだけでも

うれしかったりしたのだから。

つつましやかですてきな、

よき思い出であります。



中学に入って。

1組の1番となって、

「級長」となった。


学級委員のバッヂは、

紫色のキクみたいな模様のまん中に、

白で「委員」という文字が

刻まれていた。


級長のバッヂは、

深い赤色のサクラ型で、

すすけた真鍮(しんちゅう)の

金色文字で、

「級長」と書かれていた。


級長。

バッヂの書体もさることながら、

その、なんだか古めかしい呼び名が、

妙に背筋をぴりっとさせた。


あゝ、

もう小学生ぢゃ、

なゐのだな、と。



それにしても、

「イエハラ」で1番とは驚いた。


2番は「イワモト」、

3番は「ウチコシ」。


 「イイダ」も「アンドウ」もおらず、

「イエハラ」が1番となりました。


級長になると、

背の順とは関係なく、

列のいちばん前になるから

嫌だった。


背の低いイワモトくんは、

そこでもぼくにつづいて

2番目だった。


1年1組1番。

1ならび。

ぼくにはちっともめでたくない、

1の3ならびだった。



* * *



「いいなぁ、円校舎で」


うらやましがるぼくに、

友人が眉をひそめる。


「たまに来るから

 よく思えるだけで。

 ずっと暑いし、

 ぜんぜんよくないよ」


気づかいでも謙遜でもなく、

そう言いのける友人。


その「よゆう」が

よけいにうらやましく思えた。

ぼくもそんなこと、

言ってみたいと。


円校舎は、

中央にらせん階段があり、

廊下というのか、

円形のフロアがつづいて、

その周りを教室が囲むという

造りだった。


パイナップルのような、

シフォンケーキのような、

そんな形を想像してもらえば

わかりやすい。













円校舎は、

その円形の構造上、

南側の、陽のあたる教室は、

あたたかいが、

夏場はとても暑い。


反対に、北寄りの教室は、

夏でもひんやり涼しいが、

冬場はじんじん冷える。


真冬を迎える前の季節に、

円校舎は解体作業に入ったが。

たしかに、

北向きの教室はとても寒かった。


毎日、

温まる時間がないまま

朝から昼、そして夜になる。

冷えた鉄筋コンクリートの教室は、

本当に冷え冷えとしていて、

足もとから底冷えする感じだった。


雨やくもりの日には、

気持ちまでもがどんより沈んだ。

薄暗い廊下までもが、

ひんやりと、重たく見える。


南向きのl教室は、

いつも明るく、あたたかだった。

が、言うとおり、

夏場は温室にいるようで、

ものすごく暑かった。


冷えるのとおなじく、

温まった鉄筋コンクリートは、

ずっと熱を持ったままだった。



教室前方(教卓側)





教室後方(窓側)




扇(おうぎ)型の教室の後方は、

ほぼ全部がアルミサッシのガラス窓。


夏場は窓を開けて、

教室の前方の、

教卓側にある扉を全開にする。


ぬけ道を探してさまよう風は、

円い校舎の中で、

その行き場だけでなく、

涼しさもいっしょに失った。


容赦ない夏の日射しにくわえ、

風が流れない教室は、

本当に暑かった記憶がある。


7組の女子の1人は、

「3階の日当たり良好な教室」の、

最後部席で夏を迎えて、

セーラー服の背中が

熱い太陽に直射されつづけ、

「とにかく暑かった記憶しかない」

といった話である。


誰もが下敷きでばたばたとあおぎ、

勢いよくあおぎすぎて、

バキッと下敷きを折る音が、

教室に響いた。



それでもぼくは、

円校舎が好きだった。


わが「角校舎」から

ちらりとうかがえる円校舎を、

授業中、

あこがれのあの子を見守るようにして、

ずいぶんと眺めたものである。



* * * *



円校舎は、

校舎のまわりをぐるりと

ベランダが囲う構造となっている。


言い換えれば、

校舎の周りをぐるりと一周できる、

ということでもある。


輪っか状のベランダが、

ぐるりとつながっているおかげで、

授業中、こっそり窓から抜け出して、

ほかのクラスのおともだちに

「やあ」とごあいさつして回り、

何ごともなかったように

また自分の教室へ戻ってくることができる。



ベランダ徘徊(はいかい)の図




まっすぐな、直線型のベランダでも

おなじかもしれないが。


行って帰ってくるのと、

一周するのとでは、

何となく「感じ」がちがう。


何だろう。


一周し終えたときの、

あの爽快な達成感は。


気持ちの問題かもしれないが、

何となく、何かがちがった。



そんな円形構造を「悪用」して、

こっそり着替え中の女子を

のぞきに行く、

不届きな輩(やから)もいたりした。


かくいう自分も

たった一度、

体育の着替え時間、

円形のベランダを

這い進んだことがある。


姉のいるぼくは、

正直、着替えをのぞくという行為に、

それほど甘い幻想を

抱いてはいなかった。


着替えは着替え。

下着は下着。

めずらしくもありがたくも

何ともない。


そんな感じだったが。


「ちょっと行ってみよう」


胸はずませる友人の、

何とも言えないドキドキ感に押されて、

ベランダへとおどり出た。


女子が着替える教室の窓。


ほんの少し、ちらりと顔を上げて、

教室の中をのぞいた。


「見えた!」


と、友人にささやいたものの。


見たようでいて、

何も見ていなかった。


きれいごとでも何でもなく。

そのときのぼくは、

罪悪感のほうがまさって、

すぐまた来た道を引き返した。


「遊び」が

「遊びでなくなる」気がして。


好きな子の姿を、

そんなふうに見たくないと思って。


中学1年坊主のぼくは、

気分だけ味わって、

そのまま教室へ戻った。


そして思った。


ぼくはこういうの、

好きじゃないな、と。


そんなことを「学んだ」円校舎。


円形の、円い学び舎(や)で、

しっかり「学べて」よかったと思う。



のぞきは犯罪です。


もし円校舎を見つけても、

みなさんは絶対に

真似をしてはいけませんよ。




* * * * *




円校舎の廊下は、

30センチ角の、

タイル状のリノリウムが

敷き詰められていた。


色は、

ビターチョコレートのような、

深い色のこげ茶色だった。


ところどころ、

角の欠けたリノリウムタイルは、

何十年もの歴史のあいだ、

たくさんの生徒たちの

足裏に磨きこまれ、

エナメルみたいにぴかぴかと

輝いていた。


その質感が、

すごく好きだった。


廊下に窓らしきものはない。

教室の扉についた窓があるだけだ。


薄暗い廊下に、ほのかな光が反射して、

濡れたように光っている。



らせん階段と廊下




らせん階段を囲う、

直径1.5センチくらいの鉄の棒。

白にアイボリーを混ぜたような、

あわい灰色の表面は、

何度もペンキが塗り重ねられ、

公園の古い遊具みたいな表情だった。


ところどころ

漆黒の鉄の肌をのぞかせ、

まだら模様になっていた。


見あげると、

その細い鉄の棒が、

上階からこぼれる光の筋に

沿うようにして、

放射線状に降りそそいで見える。


棒と棒の間隔は、

こぶしや腕は入るが、

頭は入りそうにない、

といった幅でつづく。


造形ではなく、

階段を支えるための構造であり、

柵でもあったのだが、

すごくリズミカルで、

規則的な連続性が見事だった。


それは、円校舎の

「見どころ」のひとつと言えた。



教室の扉は、

見た目にも重厚な鉄製で、

床の色に似た感じの、

深いこげ茶色だ。


扉の表面もまた、

長い歴史の中、

何度も何度も塗り重ねられた、

重厚な肌をしていた。


はげたり、割れたりした

塗料の上から塗り重ねられ、

でこぼことした表面は、

SLや列車などをも思わせた。


扉の取手は真鍮製で、

つるりと円い形状が、

いかにも時代を感じさせる。


人の手によって

磨きこまれた表面は、

ぴかぴかと黄金色に輝いていた。


鍵穴は、

マンガに出てくるみたいな

「前方後円墳型」で、

それがまた古めかしさを彩る。


ぼくは、この扉のことも

すごく好きだった。



鉄製の扉と真鍮製の取手




扉の窓は、

ワイヤー入りの半透明ガラスで、

暗い廊下を照らす

照明器具のようでもあった。


教室によっては、

開け閉めするのにかなり重たく、

ギギィッと大きな音を

きしませる扉もあった。




手もとに資料がないので、

詳しいことはわからないが。

たしか、昭和30年代の建築だと、

聞いた気がする。


愛知県には

『博物館明治村』という、

すばらしい施設があるのだが。


そこにあってもおかしくないような、

そんな深さと重みがあった。


中学生当時、

こんなにもぼくが

円校舎のことを好きだということは、

同級生はもとより、

先生方など、知る由もなかっただろう。


当時は自分でも気づかなかった。

まさかこれほどまでだとは。


こんなにもぼくに

「影響」をあたえるものだとは、

まるで思いもしなかった。



つよく、うつくしいものは、

いつまで経っても忘れない。


深く、つよく、うつくしく。

心の中に、刻みこまれている。


花のようにうつくしく、

流星のようにきらきらと、

消えない花火の残像のように

はっきりと。



円校舎の思い出。


写真や映像ではなく、

記憶の中の思い出。


怒られてばかりの

中学時代だったけど。


円校舎の記憶は、

いまでもずっと色あせない。



* * * * * *



大掃除の日。

机やイスの点検があった。


ガタつきや、

ぐらつきのあるものには、

先生が赤いチョークで

バツ印をつけた。


「おい、家原。

 バツがついたのを、

 屋上まで運んでくれ」


先生にそう言われたとき。

いつもなら「ええ〜っ」と

のけ反るところだが。


ここは、円校舎。


円校舎の屋上は、

ふだん鍵がかかっていて、

生徒が出入りできる場所ではなかった。


屋上!


円校舎の屋上!


禁断の屋上への切符を

手に入れたぼくは、

重たい机もなんのその、

らせん階段をぐるぐるのぼり、

屋上へとつづく扉に到着した。


すでに何台かのイスや机が

運びこまれていたためか、

鍵は、開いていたように記憶している。


取手に手をかけ、

扉を開ける。


薄暗かった景色が、

火が灯ったように明るく染まる。



「・・・・!」



目の前に広がる

その光景に、

思わず息を飲んだ。


街が、景色が、

広々と広がる。


見慣れたはずの景色が、

すごく特別な感じの景色に見えた。


空が、高かった。


青くて、高くて、大きくて、

そしてどこまでも広くつづいていた。


円校舎は、

高台に建っているため、

ほかのどこよりも高く、

何もじゃまするものが

ないように感じた。



ぼくは、

あのとき見た景色、

空の広さを忘れない。



額を転がる汗もそのままに、

自分の目的も忘れて、

しばらくその場にたたずんでいた。


それが、

数秒間だったのか、

数十年だったのか。


それすらわからない、

永遠の一瞬だった。



記憶の中では、

蟬しぐれが降りそそぐ、

残暑の季節の出来事だったが。


それも、曖昧な記憶だ。



広く、大きな空が、

すごく青くて、

白い雲が

悠然と浮かんでいた。


ぼくは、あの景色を忘れない。


円校舎の屋上から見た、

あの大きな空を、

ぼくはずっと忘れない。








いかがでしたか。


みなさんはどんな校舎の、

どんな思い出がありますか?


消えてしまった建物と、

そこで紡いだ思い出たち。


みなさんにも、

忘れられない建物は、

ありますか?


そこから見た景色。


そこから見た空。


忘れられない風景は、

ありますか?



時は移ろい、

街も景色も変わっていきます。


それでも、

うつくしい記憶は、

けっして変わりません。


記憶は体験です。


特別なんかじゃなくっても、

すてきな体験を、

ひとつひとつ

大切にしていきたいものですね。



・・・・えっ?


本当ですってば。


ぼくは本当に、見てないですよ。


シミーズ姿の、

女子の姿なんて。


(※シミーズ(シュミーズ):昭和のころの女性用下着。現在のキャミソールより丈が長く、袖のないワンピースのような仕様)



(正しくはこんな感じでした):緑区誌より




< 今日の言葉 >


無理やり、

力づくで物ごとを

押しつける人のたとえで、

『北風と太陽』の話を例に出して。


「・・・そうだね、

 そういう人もいるからね」


と、納得したあと、


「あれって、本当の話?」


そう母に聞かれて、

鼻水が出た。


(イエハラ・ノーツ2023『ある日の思ひ出』より)


2023/09/14

決定版・これが小林模型店だ





お待たせしました。

待望の第3弾、

今回は、「小林模型店」です。


小学生のころ、

足しげくかよったこの場所。


おもに、

プラモデル・エアガンなどを

あつかうお店です。


たしか、

自分が中学にあがるくらいのとき、

小林模型店は、

となりの学区に移転しました。

(その後、閉業


そんな小林模型店の、

記憶の記録。


今回も、

曖昧な記憶をたどって、

もやもやもこもこと

記録していきたいと思います。



* *



小林模型店に、

初めて行ったのは、

たしか小学1年生。


自分の「足」で

行動できるようになって、

学区内のその店へ行くようになった。


同級生から聞いたのか、

それとも自分で見つけたのか。

きっかけは忘れたが、

旧東海道ぞいにあるそのお店は、

ぼくらにとって、

駄菓子屋に次ぐ「楽園」だった。


店内にプラモデルが

いっぱい詰まったその場所は、

「理想郷」と呼んでもいいくらいだ。



風邪で学校を休んだとき、

午後にはすっかり調子がよくなり、

寝ているのも退屈になったので、

ふらりと小林模型店へ行った。


そのとき、

すでに学校が終わった時間に

なっていたらしく、

プラモデルを買った帰りに、

安藤くんに見つかった。


「あ、ずる休み!」


と、ののしられ、


「ちがうもん、

 もうなおったんだもん」


と言い返した、小学1年の思い出。


それほどまでに慕った

小林模型店である。



店の外観、

外側には、ショーケースがある。


向かって右手の棚には、

ガンダムの

モビルスーツのプラモデル。

きれいに着彩された、

完成品のプラモデルだ。


中央には、おなじくガンダムの、

モビルアーマー(乗物)の

プラモデルをはじめ、

半分「メカ」になった

シャー専用ザクや、

戦闘場面を再現した

ジオラマなどが飾られていた。


もちろん、すべて着彩ずみ。


ショーケースに

飾られるほどなのだから、

その完成度たるや

文句のつけようのない

出来栄えだった。


それはもう、あこがれであり、

崇拝にも似た心持ちで、

ショーケースの中の

プラモデルを見つめていた。


飾られたプラモデルの前には、

作品名とともに、

作者(つくった人)の名前が

記されている。


小学1年生のぼくには

ものすごくまぶしい存在で、

うらやましさとともに、

とうてい届きそうもない、

はるか高き雲のような

対象でもあった。


歳を重ねると、

今度はそれを

「手本」とするようになり。

やがては「ライバル」として

見るようになり、

ついには批判的に見るようになり。


最終的には、


「あそこにかざられるより、

 自分の家にかざっておくほうが

 いいにきまってる」


などと、

負け惜しみめいたことを

つぶやくまでになった。


プラモデル屋さんの店先の、

あの感じ。


よくできてるな、と思う。


まず、ほしいと思わせて、

さらにはあこがれを抱かせて、

いつかはきっと、と

上昇意欲をあおらせる。


その手に

まんまとはまったぼくは、

本当にたくさんの

プラモデルを買った。


向かって左手の

ショーケースにある、

エアガンなどにも手を出した。


やや構造的な趣向のつよい、

ラジコンカーにはあまり

興味を示さなかったが。


とにかく、

小林模型店には、

本当に「お世話に」なった。



* * *



<店内見取図>


中に入ると、

ものすごくたくさんの

プラモデルが、

整然とならべられている。


量もさることながら、

その種類の多さにも驚かされる。


おそらく、

かつては書店だったと

思われる店内に、

きっちりときれいに

プラモデルがならんださまは、

見ているだけでも圧巻だった。







ごちゃごちゃとならんだ店内でも、

探したり、発掘したりする

「楽しみ」はあったが。


やはり、

ほしいものがすぐ見つかり、

すぐ手に取れるお店というのは、

快適である。


それがそのまま

購買につながるのだから。

優秀なお店と言ってもいい。


小林模型店は、

店主のおばさんの性格や

気質をしっかり反映した店内で、

整然と、きれいに、

たくさんの商品が詰めこまれていた。



<図1>:店内右側



<図1>

右手側の棚には、

戦車や車などのプラモデルが

ならんでいる。


トラック野郎的な「デコトラ」、

戦車や戦闘機、軍艦など、

兵士をはじめ、

レンガや土のうや武器などの、

細かなプラモデルも

こちらにならぶ。


レーシングカーやスポーツカー、

バスや旧車やバイクなど、

各種乗物のプラモデルも

ここにあった。


そしてその左手、

店内中央部にそびえる棚には、

当時の青少年の

垂涎(すいぜん)の的、

ガンダムのプラモデル——

通称「ガンプラ」が、

ぎっしり詰まっていた。


「144分の1サイズモデル」は、

いちばん手ごろな価格で、

当時は300円だった。


色は単色で、

関節などの可動部分も少なく、

完成像が立像みたいで味気ない。


けれどもぼくは、

その「あまい」造形が好きだった。


どこか昔のソフビ(※)を

彷彿(ほうふつ)とさせる、

単色でゆるいそのスタイルが、

なぜかぼくにはど真ん中だった。

(※ソフトビニール人形)


「60分の1」になると、

価格は600〜800円とかになり、

買うのにちょっとばかり

気合いが必要だった。


組み立て前のパーツも、

単色ではなく、

2〜3色くらいの部品に分かれ、

色を塗らなくても、

そこそこいい感じに見える

ものだった。


可動部分もふえて、

先の「144分の1」が

「お人形さん」だとすると、

「60分の1」は、

超合金ロボに近い

ギミック(動き)になる。


ディテール(細部)も

よくつくりこまれており、

圧倒的な完成度ではあるが。


なぜかぼくは、

144分の1が好きだった。


ジオラマを作ったり、

写真撮影をしたりするとき、

60分の1では、やや大きすぎる。


改造をするのも手ごろだし、

何かと144分の1は、

小学生の自分にぴたっときていた。


とはいえ、

60分の1や48分の1などの

サイズのものも、

ひととおり手を出し、

次々と作ったことは

事実なのだけれど。


ガンダムには、

モビルスーツ(人型)のものと、

モビルアーマー(乗物)とが

登場するのだが。


ガンプラにもその2種類があった。


モビルアーマーについてくる、

おまけみたいに小さな、

モビルスーツの「人形」ほしさに、

あまり思い入れのないような

モビルアーマーのプラモデルにも

触手を伸ばした・・・


そんな経験、キミにもあるよね?


レゴやソフビなんかでも、

そういう「おまけ」みたいなものが

逆に「本命」になって、

大きなものを買わされてしまう。


その小さな「おまけ」のおかげで、

メインのはずのものが、

「大きなおまけ」になったりして。


ガンプラでもちょくちょく、

そんなことを味わった。


おそらくこういう「子」は、

少なくなかったはずだ。


作り手の思うつぼ。

思えばとてもいいお客でした。



中央の棚の奥、

ちらりとのぞいているのは、

プラモデルを着彩するための

「カラー(塗料)」の棚だ。






水性カラーは、

その名のとおり、

乾く前なら水で洗って落とせる。


向かいの棚には、

油性のカラーがあった。

ふたの形が特徴的で、

外ぶたの下にまた、

やわらかな中ぶたがある。


こちらは油性なので、

筆を洗ったり、

色を薄めたりするには、

「うすめ液」が必要になる。


水性が1瓶100円、

油性は120円だった気がする。


一度、

調色してあまった油性カラーを、

水性カラーの空きびんに入れて、

とっておいたことがある。


何日後かに見たとき、

その、水性カラーの外ぶたが、

火であぶったみたいに

どろりと溶けて、沈みこんでいた。


「うわあっ! なにこれ!」


おばけ的な

怪奇現象にでも感じたぼくは、

一人おそれおののき、

わなわなとおびえた。


そして悟った。


油性カラーのびんにある、

半透明の、中ぶたの役目を。


「なるほど・・・。

 油性のカラーの揮発成分が、

 石油系の樹脂を

 溶かしてしまうのだな」


などと、

アカデミックに思ったかどうかは

不明だが。


とにかく、その特性だけは、

身をもって覚えた。



油性カラーの棚の左、

そこには、ジオラマ作りに必要な、

「パウダー(粉)」などがあった。


「パウダー(粉)」とは、

芝生や土、砂利などの地面を

再現するとき、

ぱらぱらと敷きつめる

「粉」のことだ。


緑や茶色、赤茶、黄土色、

灰色や褐色。

粒子の細かさも、

数値で記載されており、

ジオラマのスケールによって

選ぶことができる。


ジオラマ上級者になると、

手前のほうに粗めの粉をまき、

奥に行くほど細かい粉をまく、

という手練(だ)れもいるらしい。


木や芝やガードレール、

電柱や人物などの模型もあった。


それは本来、

鉄道模型のものであり、

さまざまな模型の

ジオラマに使われて、

発展していった感じである。


ビルや建物などを

自作するための、

プラ板やプラ棒なんかも

売っていた。


色を塗るための筆は、

それこそ画材屋さんのように、

ほっそいほっそい面相筆から、

幅の広い平筆まで、

いろいろな太さ・形状の

筆があった。


塗料を混ぜるための小皿や、

ヤスリやペンチ、

マスキングテープや下地材、

スプレーやカラーマーカーなども

そろっていた。


本当に。

感心してしまうほど、

かゆいところに手の届く

豊富な品ぞろえだった。


新しいもの、

わからないものを買って試し、

そのつど、驚きと発見と、

よろこびを得た。


小林模型店の

おばさんの知恵なのか。

それとも、

商品をおろす業者さんの

手腕なのか。


限られたせまい空間の中、

きれいに、うまく、

見やすく探しやすく、

手に取りやすいように

ならべられていた。


「模型作りでほしいもの、

 必要なものは全部そろう」


そんな頼もしさがありありと漂う、

まさしく模型の「専門店」だった。


専門店って、やっぱりいい。


上を目指せば天井知らず。

初めのうち、

何に使うのかわからなかったものも、

経験を重ね、お店へ通ううちに、

それが何たるか

わかるようになる。


知る者の、優越感。


そこには、目に見えない、

格や級、ランクのようなものが、

たしかに存在していた。



その反対側、

右手の引出し棚には、

理科の実験や工作に使うような

器具や部品が詰まっていた。


豆電球、ソケット、

電池ボックス、スイッチ各種、

プーリー(滑車)や歯車、

モーター、プロペラなど、

いろいろな部品があった。






見ているだけでも楽しくなるし、

何を作ろうかとわくわくする。


意味なく

「トグルスイッチ」と呼ばれる

スイッチを購入し、

何かに使えないかと

家じゅうをうろうろと

歩き回ったり。


目覚まし時計を解体して、

イヤホン式に

改良(改悪?)してみたり。


扉を開けると、

いくつものプーリー(滑車)が

回転しながら糸を引っぱって、

「だれかきた」

と書かれた札が持ち上がる・・・

という、無意味な発明(?)を

部屋に仕組んでみたり。


小林模型店では、

創意工夫の図画工作でも

大変お世話になった。


小学1年から3年生ごろまで。

ぼくがもらった

お年玉のほとんどが、

小林模型店に注ぎこまれたと言っても

過言ではない。


4年生になって、

サッカー部に入っていなかっら、

さらにその資産を

つぎこんでいたであろう。



* * * *




<図2>:店内左側



<図2>

お店の外から見て、

左手にあたる場所。


そこは、どちらかというと、

やや年長者向きの商品がならぶ。


エアガンやモデルガン。

完成品のものあれば、

自分で組み立てるものもある。


『対象年齢18歳以上』


などと、

記されたものもあったが。


昭和のご時世、

「親の承認」さえあれば、

買ってもよし、という具合だった。


エアガンの価格は、

3.000〜5,000円、

高価なものでは8,000円台、

ぼくの記憶では、

いちばん高くて

1万5000円というものがあった。


それは、小学生には

手にあまるほどの大きさの、

M16型のライフルだった。


いつかほしいな、とも思ってはいたが。

ついぞ手が届かないまま、

終わってしまった。


壁の、アクリルケースには、

拳銃やライフルなどが

標本のように飾られていた。


赤い布を背景にしたそれらは、

真っ黒い体に光を反射して、

静かにじっと飾られていた。


ながめるだけの

博物館とちがうのは、

お金を出せば、

買えてしまうということ。


ここでもやはり。


うまーく、

欲求をくすぐる陳列だった。


すぐ買えそうなものから、

あこがれの品まで。

左から右へ、

どんどん格が上がっていく。


完成品にくらべて、

自分で組み立てるものだと、

おなじ型の拳銃でも、

値段が手ごろだったりする。


小学3年生になったぼくは、

「ワルサーP38」のエアガンに

手を伸ばした。


自分で作る、

エアガンキットのほうだ。



『対象年齢15歳以上』


その半分ちょっとの年齢のぼくは、

「親からの承認」があることを示し、

2.980円のその商品を買った。


どきどき緊張しながら、

わくわく期待しながら、

それを買った。


対象年齢15歳以上。


その壁は、数字以上に

はるか高いものだった。


いちばん最後の工程で、

太いバネが、

いくらやってもうまくはまらず、

それを収めようとすると、

いままで組み上げた箇所がまた

バラバラになったり、

バネがびよーんと

どこかに飛んでいったり。


おなじ場所を走りつづける

ハツカネズミのように。


いくらやっても、

なかなか完成へは

たどり着けなかった。


くりか返すうちに、

なんだかようすが

おかしくなりはじめた気がするのだが、

それを気のせいだと打ち消して、

暮れ沈む太陽を横目に、

汗をふきふきワルサーと格闘。


「できた!」


ようやく組み上がった

ワルサーP38を手に、

引き金を引いてみる。


『ふにゅっ』


弾の装填のために、

スライド部分を引き下げた銃身が、

たよりない速度でゆっくりと戻る。


もう一度。


『ふにゅっ』


額(ひたい)に嫌な汗が

じっとりとにじむ。


何度やっても『ふにゅっ』。


細かく記された組立説明書を

穴があくほど見直す。


わからない。


何度やり直しても『ふにゅっ』。



ぼくの大事な1日と、

2,980円が、

ただの「ぬけがら」と化した。



『飾りじゃないのよ涙は

 ハ ハーン』

(『飾りじゃないのよ涙は』中森明菜)



飾りじゃなかったはずの

ワルサーP38が、

丸1日かけて、

ただの飾り物になってしまった。



あのときのくやしさ、

無力感と言ったら。


形容しがたいかなしみと

くやしさに歯がみした家原少年は、

対象年齢というものを

現実的な警句として、

痛いほど理解したのでありました。



話は店内に戻って。


こちら側にならんだプラモデルは、

お城や建物をはじめ、

やや構造が複雑なプラモデルもあった。


ゼンマイやモーターなどを使った

プラモデルもあって、

うっかり手を伸ばしたぼくは、

ワルサーP38のときとおなじ

穴に落ちた。



ゼンマイを巻いて走らせると、

車体を上下にゆらしながら、

おもしろい動きで走るバギー。


工程をまちがえて、

それでも力ずくで押しこんでいくうち、

大切な部品をボキッと

真っ二つに折ってしまい、

声なく顔面蒼白になった。


タイヤの部分と車軸をつなぐ、

後輪の部品——。

それは、

「おもしろい動き」をする

「要(かなめ)」の部品だった。


進退きわまり、

じっと考えたあげく、

瞬間接着剤での接着を試みるも、

結合面積の小ささのわりに、

そこにかかる負荷の大きさゆえに、

すぐまたポキリと折れてしまう。


「・・・・・・」


自分で折ったはずの部品を、

じいっと何分ものあいだ、

うらみがましく見つめつづける。


当時、

ガンプラでもそうだったのだが。

説明書についた

「申込書」といっしょに、

破損したり、なくしてしまった部品を

「注文」すると、

数週間後に、その部品が送られてくる、

という手厚いサービスがあった。


あわてんぼうだったぼくは、

当時、そのサービスを

幾度となく活用した。


それはもう、手なれたもので、

必要な部品の番号と

その個数を書いた「申込書」とともに、

部品に応じた代金+送料分の切手を

封筒内に同封する。


ポストに投函して数週間後。


晴れて破損した部品が

手もとに届く・・・・


のだが。


あわてんぼうで、

待ちきれない「子ども」にとって、

数週間は、数年にも等しい。


到着したそのころには、

もう、ほかのものに興味が移っており、

届いた部品を見ても、


「はて・・・なんぞや、これは?」


といった塩梅(あんばい)。


そうでなくても、

部品の到着が待ちきれず、

そのあいだによけいな

「チャレンジ」をして、

本当にもう、

どうにも取り返しがつかない状態に

おちいっていることが

ほとんどだった。


『あわてる乞食(こじき)は

 もらいが少ない』


小学生のぼくは、

小林模型店から、

がまんと忍耐、そして、

説明書をきちんと読むことを教わった。


熱意も大事だけれど、

準備も大事。


プラモデルは、彫刻ではない。


完成像という「こたえ」

きっちりあって、

そこに向かって、

合算するようにして

工程を積み重ねていく。


粘土細工や彫刻が

好きだったぼくにとって、

「こたえ」の決まった

プラモデルやジクソーパズルは、

ときに、修行や

試練のようでもあった。


がまんと忍耐。


完成しないまま、

こわれてしまったプラモデルを見て。

本当にそうだと、何度も思った。




さて。


そんな「年長者向け」の

プラモデルの中にも、

むずかしいだけではなく、

やや「渋い」種類のものがあった。


お城や建物も、その部類に入る。


そんな中、

なぜかぼくは『渡し場』

という商品名のプラモデルに

手を伸ばした。


作る工程自体は簡単で、

あっというまに、

何の問題も難もなく完成した。






渡し場』は、

川を渡るための船乗場を再現した、

半分ジオラマのような

プラモデルだった。


完成したプラモデルの土台に、

付属の薄いスポンジを敷きつめて、

水を引いて、種をまく。

もちろん種も付属品で、

「完成図」を見ると、

ひょろひょろと芽が伸びて、

青々とした草が生い茂るのだ。


これはたまらん。


ふだん『学研』の付録に

慣れ親しんでいた家原少年は、

種をまき、水をやり、

草が生い茂るそのときを

待ちこがれた。


アブラゼミの鳴き声が、

ヒグラシの声に変わった。


けれども、ぼくの渡し場の草は、

いっこうに伸びる気配がない。


伸びるどころか、

発芽するようすもまるでない。


鼻を近づけ、においをかぐと、

なんだかちょっと、くさかった。


小林模型店のおばさんに、

そのことを報告しに行った。


おばさんの口からこぼれた答えは、

ぼくにとっては、

意外なものだった。


「種が、古かったんじゃないの?」


それ以上、

何も語らないおばさんの口に、

つたない言葉で言い募った。


たぶん、

何とかしてほしいというようなことを

言ったにちがいない。


「作っちゃったんでしょ?

 それだったら、もう、

 どうしようもできない」


いつも涼しげで、

もの静かな感じのおばさんの顔を、

そのときばかりはうらめしく思った。


けれど、

おばさんの言うとおりだった。


ぐうの音も出なくなったぼくは、

そのまましょんぼりと肩を落とし、

とぼとぼと家に帰った。


芽の出なかった「渡し場」を見ながら、

頭の中で、

ぼうぼうと草が

生い茂った姿を想像する。


たりないものは、

想像力でおぎなう。


まぶたの裏に浮かんだ

渡し場の景色——。


背の高い草が豊かに生い茂り、

その草の壁を縫うようにして、

小舟がゆらゆらと進んでいく。


魯(ろ)をこぐ音が、

割れた水面がもとに戻るように、

なめらかに消えて、またつづく。


『家原のだんな、

 今日はいい天気でさアねェ』


古くて芽の出なかった種の代わりに、

想像力の種からは、

豊かな芽や草や花が、

立派に芽吹いたのでありました。





再び店内へ。


左側、中央の棚には、

『ロボダッチ』のプラモデルが

積まれていた。


当時を生きた少年少女諸君なら、

説明は不要であろう。


「ロボット」と「トモダチ」を

かけ合わせたネーミングの、

『ロボダッチ』。


世界の民族を模したロボットや、

昔の偉人や鳥や動物など、

さまざまなキャラクターの「人形」が、

小さなプラモデルになって

箱に入っている。


そのキャラクターを

ならばせたりできる、

建物や島などのプラモデルもあった。






詳しい説明は、

インター・ネット様に委ねるとして。


『ロボダッチ』のプラモデルは、

チープな感じの、

お菓子のおまけみたいに簡単な構造で、

色合いも赤と黄色とか、

青と赤、茶色と赤など

2色での構成がほとんどだった。


そんな感じが、

なんともかわいらしく、

キャラクターセットなどは

値段も手ごろであり、

思わす集めたくなっちゃう要素が

満載だった。



「南極大陸」シリーズとか。

「アフリカ大陸」シリーズとか。


まだ海外旅行へ

行ったことがなかったぼくには、

見ているだけでわくわく、

世界旅行をしている気持ちになった。


主人公らしい「ロボダッチ」と、

その敵役であるらしい「ロボゼット」。

ぼくは、そのふたつには、

あまり興味がそそられず、

そのほかの、

こまごまとしたキャラクターに

魅了された。


きっと、いま見ても飽きないだろう。


当時の「創造物」の、

なんとも言えないほのぼの感が、

平和ですごく楽しかった。


あこがれは「宝島」。

つづいて「軍艦島」。


「宝島」はたしか、

1万円くらいしたと思う。


値段もそうだか、

何よりその大きさに、

ほしくてもなかなか手が出なかった。


それを買ってしまったら、

部屋にはもう、

ほかのおもちゃは置けなくなる。


そんな巨大なサイズだということは、

小林模型店や

ほかのおもちゃ屋さんでもらった

『ロボダッチ通信』を見て知った。


ほかの「おともだち」が、

うれしそうに、ほこらしげに、

「宝島」といっしょに写った写真。


それを見て、

ほしい、というより、

ちょっとだけ「引いて」しまった

記憶がある。


こんなのを買って、家に置いたら。

誰かに怒られそうな、そんな気がした。


無意識的なブレーキが、

ぼくの心に抑制をかけた、

めずらしい例である。



カレンダーの裏紙に、

仮面ライダーの怪人を、

1話から100話まで

びっしり描いたこと。


『ロボダッチ』の世界には、

そんな「ぎっちり」とした

にぎやかさがあり、

ずっとながめていたくなる。


こんなことを言うと

身もふたもないが。


『ロッボダッチ』は、

作るより見るのが楽しいものだった。


飾ったり遊んだりするより、

見るのが楽しいものだった。


そんなこともあり、

たくさんのキャラクターが

びっしりと描きこまれた、

大きなポスターみたいなものを、

学習机の卓上に敷いた

透明マットの下にはさみこんで。


毎日、ながめているだけで、

それだけで充分、満足だった。


とはいえ、

いろいろ買ってはみたし、

たくさん遊んだりもしていた。


いま、思い返して、

いろいろ「踏みとどまった」理由を

分析してみたら、

なるほど、

そういうことだったのか、と。

自分で納得した次第である。



* * * * *






小林模型店のおばさんは、

お店の中が示すように、

いつも清潔で、

こぎれいな感じの人だった。


プラモデルを買うと、

素早く、正確な手つきで、

箱をびしっと包んでくれる。


やや青みがかった紫の、

「タミヤ模型」の包装紙で。






おばさんの手さばきは、

百貨店の人に

まさるとも劣らない。


商品をまとめてみて、

ちょっと変わった形になったとき、

本当にごくまれに、

おばさんの手が、

一瞬迷ったように止まるときが

何度かあったが。


そんなときにも、おばさんは、

表情をいっさい変えることなく、

淡々と、商品を包みこんでいく。


ぼくは、仕事をする人の、

迷いのない手さばきを見るのが好きだ。

子どものころから、ずっとそうだ。


当時、旧東海道ぞいには、

小林模型店のような「専門店」が

たくさんならんでいた。


とうふ屋さんのおばあちゃんの、

ふるえながらも、熟達した手つき。


靴屋「不二屋」さんのおじさんが、

傘を直してくれる、その手さばき。


八百屋マーケット「ふうたん」の、

ナンバープレートみたいな札のついた

帽子をかぶったおじさん。

そのおじさんの、野菜をあつかう、

やさしくも素早い、的確な手つき。


線路を渡ったクレープ屋さん、

「アンドレ」のおじさん。

薄いクレープを、

1日に何枚も何枚も

焼きつづけている、

リズミカルで軽やかな手つき。


駅前のたこ焼き屋さん「愛ちゃん」。

名前とは裏腹に、

いつも無表情で、仏頂面のお兄さん。

けれどもその味は絶品で、

100円で4個のところを、

何も言わず、

1個おまけしてくれたりする。

お礼を言っても顔は向けず、

機械みたいに素早い手さばきで、

くるくるとたこ焼きを

回転させつづけている。



そんな専門店の中で、

「有松チキンコーナー」という

お店があった。


おそらく

鶏肉が売りのお肉屋さんで、

揚げ物が豊富にならんだお店だった。






小学生のぼくには、

お肉屋さんというより、

揚げ物屋さんという分類だった。


学校帰りの「買い食い」は

禁止されていたけれど。


名札の台座の布に、

かくしポケットを

作ってもらっていたぼくは、

そこに毎日、

100円硬貨を1枚だけ忍ばせていた。



サッカー部が終わると、

帰りの時間は5時をすぎる。


ぼくの家は、

学区のいちばん端っこだったので、

通学路をまじめに歩いて帰ると、

15分は軽くかかる。


家までの15分。

部活を終えたぼくには、

帰るだけのエネルギーが、

もうなかった。


そんなとき、

学校の正門を右手に曲がり、

少し坂をくだると、

明かりの灯るお店が1軒あった。


それが、

有松チキンコーナーだ。


ぼくはよく、

1コ上のキャプテンといっしょに、

有松チキンコーナーへ寄り道した。


当時、そのお店では、

100円あったらいろいろ選べるほど、

安い揚げ物を用意してくれていた。


それはもう、駄菓子屋感覚で。


きっとぼくらみたいな

「子ども」のことを、

よくわかっていたにちがいない。


コロッケが30円(20円かも)、

うずら串が40円。

ぼくのいちばんのお気に入りが、

10円のハムカツだった。


10円!


うまい棒とおなじく、10円。



10円のハムカツは、

風が吹いたら

飛んで行ってしまいそうなほど、

薄切りのハムのフライだったけれど。


その薄さがまた

なんともたまらなくおいしくて、

かえって贅沢な感じすらあった。


極端なぼくは、

ときどきハムカツを10枚買った。


揚げたてのハムカツが、

白い、紙の袋に入れられる。

油がしみて、

そこだけ透明な質感になる。


本当なら毎日でも、

ハムカツ10枚を

食べたかったのだけれど。


ハムカツばかりたくさん買うと、

お店の人が、ちょっとだけ

「ちっ」というような

顔をしているような気がして、

(たぶん気のせい)

ウズラ串やコロッケなどを

はさみながら、

毎回、2、3枚はハムカツを食べた。


おかげでほかの品目を、

あまり覚えていない。






大人になって。


揚げ物があるお肉屋さんへ行くと、

コロッケの次には、

必ずと言っていいほど、

ハムカツを選ぶ。


ない店も多いが、

あれば必ずハムカツを食べる。


どのお店もおいしいし、

どこも甲乙つけがたい。


けれども、

あの、10円の、

有松チキンコーナーみたいに

薄っぺらなハムカツは、

どこにもない。


初めてほかのお店で

ハムカツを食べたとき。


その「厚さ」にびっくりした。


「なんだ、このぶあつさは⁈

 まるでステーキではないか!」



有松チキンコーナーの、

薄いハムカツ。


厚さ1.5ミリのハムの、

極薄ハムカツ。


またいつか、

どこかで出会えることを夢見て。


今日もお肉屋さんの店先で、

指先と唇をてかてかにしながら、

ハムカツをほおばるのでありました。




・・・以上。


小林模型店の記録、

プラス、専門店の数々、

アンド、10円ハムカツ、

有松チキンコーナーの記憶でした。




みなさんの「模型店」は、

なになに模型店でしたか?


どんなプラモデルに魅了されて、

どんなプラモデルに

ふりまわされましたか?


そして。


どんなお店の、

どんな手さばきに見とれましたか?


あなたにとっての10円ハムカツは、

いったい何でしたか?



消えゆくもの、残るもの。


残すのは、人の思いと記憶のつよさ。


すてきな記憶のバトンを、

リレーしていきたいですネ。




< 今日の言葉 >


ワンピースの森をくぐり

コートの谷を飛びこえて

片手にコーラ片手にタバコ

髙島屋の外に出ると

熱いメタンガスの 海が押しよせ

ああ 風邪をこじらせた


人からうしろ指さされ

仕事から追い出され

いつまでも売れ残りになってはと

人並みのやり方で愛らしく

チャンスさえあれば しゃしゃりでる

そんな自分には

どうしてもがまんできなかった


ふらふら うろつきはぐれ

パン屋の前にさしかかると

スポーツシャツの若者が

スポーツカーから首を出して

ドライブに誘った 二人の仲間と

サングラスが よく似合ってた


琵琶湖のロックコンサート

比叡山のビアガーデン

涼しい所で汗流そうと

日焼けした手で私を たぐりよせ

一気に町をはなれ ハイウェイ

買物かごを 置きっぱなしで


疲れるまで踊りまわり

眠りこけるまで飲み続け

いつしか山に城がたち

湖水に浮かんだ ヨットは進み

赤いリンゴも 腐り

時はまたたく過ぎてゆく


サイレンが鳴りつづけ

ベッドからころげ落ちると

水たまりに しわだらけの顔が

髙島屋で別れた 母の面影

暗い空を 見上げて こと絶え

山火事は血のように赤かった


転がるように坂をおり

焼けこげの帽子をぬぐと

ガラスが飛び去っていく

真新しい塔婆の間をぬって


やがて 静かな 温もりに包まれ

享年19身元不明行倒れ


制服のエレベーターガールが

くりこむ善男善女に 最敬礼

まばたきもせず大量殺りく

スカートにまつわる その風は

最新型エアコンから 流される

あの文明のため息


(『夢のドライブ』中山ラビ)