2025/10/01

アンテナ青空シンガポール






 猛暑日の昼下がり。


ふと、

母の様子が気になり、

母の部屋を訪ねてみた。


母が言った。

テレビが観れなくなった、と。

さっきまで観ていたはずのテレビが、

いきなり観れなくなったらしい。


BSなどは受信している。

観れないのは地デジだった。


テレビをまるで観ないぼくには、

最近のテレビの操作知識も、

トラブル・シューティング・スキルも

まったくない。


いろいろ調べて

試してはみたものの。

事態は改善しなかった。


テレビを観てばかりの母には、

ちょうどいい「変化」かもしれないと。

ひそかに思いつつも、

屋根の上のアンテナの具合を見ようと、

庭に出てみた。


夏空の下。


暑い日差しの中で、

まぶしさに目を細める。


蟬しぐれ。

空が、青い。


わたあめみたいな入道雲が、

ゆったり悠然と、

形を変えながら流れている。


猛暑が続く毎日。

冷房の効いた「箱」の中から、

四角い窓に切り取られた空ばかり見ていた。


窓の外側の世界。

窓も壁も天井もない景色。

あるのは地面と空だけだ。


風の音が聞こえる。

草木を撫でる風の感触が

肌に心地いい。


木陰は暑くもなく涼やかで、

そのままここに机とイスを並べて、

サンドイッチかおにぎりでも

食べたいなと思うほど気持ちがよかった。


しばらく空を眺めたあと、

室内へ戻り、母の様子をうかがった。


母は、

何の問題もなかったかのように、

BS放送の番組を観ていた。


「よかった。テレビ、観れるわ」


母がそう言うのであれば、それでいい。


地デジの受信は、

しばらくこのままにしておいてみよう。

いじわるでも何でもなく。

母がいいと言うのなら、

それでいいと思った。



四角い窓に

切り取られた世界。



ぼくの四角い窓には、

空の写真が届いていた。


ベランダから見た、

青い、夏空の風景。


すごくきれいだった。


おなじ時間に、

おなじ空の下で、

おなじ空を見ていた偶然。


そんなことが、無性に嬉しくて。

偶然以上の何かを感じた。


きっかけは、

母の様子が気になって

見に行ったことに始まり、

テレビの受信の不具合から、

アンテナの具合を見るため

外に出たことだった。


こんな「偶然」を、

単なる「偶然」として片づけられないぼくは、

この出来事を書き記しておこうと思った。


何の目的もなく、

何のメッセージもないものだからこそ、

野に咲く花のようにうつくしい。

広い世界の路傍に、

そんな「物語」が、

一輪くらいあってもいいはずだ。


つながらない電波と、

つながった空。


空にはたくさんの電波が飛び交って、

見えない波長が錯綜している。


声、顔、音、光、

言葉、気持ち、心、感情、思い・・・。


空がぼくらをつないでくれる。


青い空は、何も言わない。


けれど、いつも語ってくれる。


四角く切り取られた窓が、

いかに小さく、

限られたものかということを。


四角い窓から覗いた世界の中でも。

心の窓は、小さく四角く切り取らないよう、

いつでも広く開け放っておきたい。


窓の外の、見えない部分。

そこにひそむ、大切なもの。


ぼくはときどき空を見る。


大きな空は、何も言わない。


何も言わないからこそ、雄弁に語る。


答えもなく、際限もなく、

無限に広がる空の前では、

いかに自分が小さいことか。


答えのない空の前では、

答えなど無用のことだ。


心のままに。


理由も理屈も関係ない。


Just bring yourself.


今を楽しむ心があれば、

それでいい。


今この瞬間の、

目の前に広がる青空を曇らせるような、

せまくよどんだ心は風に預ける。


空を歌う唄は、たくさんある。

その時、その瞬間、

お気に入りの空の唄を歌って、

空を眺める。


心のままに。


心の天使がそっとささやく。

聞こえないほど、ささやかな声で。


「こっちだよ」


聞くほどに声は

どんどんはっきり聞こえるようになる。


「こっちにおいでよ」


「いっしょにあそぼう」


電波も天使も妖精も、

決して目には見えないけれど。


心のアンテナの感度がよければ、

きっと感じられる。



「心を亡くす」と書いて

「忙しい」と読む。


なるべく心をなくさないよう。


心の窓は、

大きく開いておきたい。



* *



母に代わって、

ぼくが夕食を作った時。


出し巻き卵を食べながら、

母が言った。


「おぉいしいねぇ、これ。

 味つけがちょうどいいわ。

 たまごの味がちゃんとするもん。

 ほんと料理上手だね。

 あんたは天才だわ」


「ははは。ありがとう」


やや大げさな賛辞を浴びつつ、

ぼくが笑う。


「そういえば。

 シンガポールに行く朝、

 お父さんが作ってくれたわ。

 卵焼き。

 めずしいこともあるもんななって。

 ふだん文句ばっかり言って、

 自分では何にもやらん人かと

 思っとったけど。

 案外、やさしいとこもあるんだなって。

 あの時は嬉しかった」


「へえっ。

 そんなことあったんだ」


母の口から、

父を賞賛する言葉を聞いたことは、

ほとんどないと言っても

よかっただけに。


母のこの、

ちょっとした「喜び」は、

ぼくにとっても嬉しい感触だった。


依然として母は、

父の死を知らない。


父の死は、ずっと伏せたままだ。


長年、別居してきた父は、

死別してなお「別居」のまま、

母の中では生き続けている。


事実を知らないはずの母だが。


もしかして母は、何か、

感じているのかもしれない。


お空の上の父と、何かしら、

つながっているのかもしれない。


そんなふうに

思ってしまうくらい。


生前はまるで

なかったことなのに。

最近、不意に母が、

父の思い出話をすることがある。


かつてに比べて

やわらかな顔つきで、

憎まれ口ではなく、

やさしい口調で。

父とのことを、回想するのだ。


母のいない場所で、

ちょうどシンガポールの話を

していた翌日。

母が、

シンガポール行きの

朝の一幕を話してくれた。


ぼくの作った、

出し巻き卵がきっかけだとしても。


ふと思い立ち、

出し巻き卵を

作ろうと思ったことも不思議だし、

前日までに、

何度かシンガポールの話を

していたことも不思議に思えた。


単なる「偶然」の仕業かも

しれないけれど。


偶然だけでは割り切れない、

妙なつながりを感じたぼくは、

目には見えないけれどたしかにある、

大気中を漂う「不思議なもの」に、

そっと笑いかけた。


その夜、

一人、湯に浸かりながら、

父に言った。


「だってさ。

 よかったね、父さん」


信じるとか信じないとか。

存在するとかしないとか。

そんなことは、どうだっていい。


父はたしかに生きていたし、

母が笑顔で思い出したのだから。


「ありがとう」


死んでからでは遅いから。


生きているうちに、

言っておきたい。


顔いっぱいの笑顔で、

心の底から伝えていきたい。


「ありがとう」


父と母に足りなかったのは、

お互いへの感謝の気持ちだ。


ぼくは、

感謝の気持ちを忘れたくない。


なぜなら、

父のようになりたくはないし、

母のようにもなりたくないから。


ほこりにまみれた母の記憶が、

静かに流れる時間にすすがれて、

清らかで美しいかけらが

表出しはじめたのなら。

それは、とても嬉しいことだ。


生きているうちには

できなかったけれど。


出し巻き卵が、

父との思い出につながった。


うれしかった、と言った母の顔。


とてもきれいな顔だった。


80歳のおばあちゃんの顔が、

一瞬だけ、少女に戻ったような。

愛らしい表情が

ちらりと覗いた。



ふと、心に浮かんだもの。


心に身を任せ、表現すること。



こうして生まれる「偶然」は、

偶然ではなく、

漫然とたゆたう

必然への糸口なのかもしれない。


つかむか、つかまないか。

気づくか、気付かないか。

感じるか、感じないか。



『E202』



心のアンテナに、

エラーメッセージは表示されない。


現実に答えなど存在しないから。


何を選び、

何をつかみ、

何を感じるのか。


ただ、それだけの「違い」でしかない。



* * *



電波を拒むテレビを指して、

母に言った。


「母さん。

 テレビが悪いものだとは思わないけど。

 ただ、テレビばっかりじゃあ、

 生きてる時間がテレビになっちゃうよ。

 これはぼくのアイデアでしかないけど。

 テレビを観る代わりに、

 また昔みたいに、クッキー焼いたり、

 ジャムを作ったりしてみたら、

 生きた時間になるんじゃないかな。

 そうやって作ったものを、

 ぼくとか姉ちゃんとか、

 りんた(孫)とかにあげたら、

 みんな嬉しいって思うよ。

 疲れちゃうくらいに、

 無理することはないけど。

 そういう時間は、

 みんなの中にずっと残るし、

 嬉しい記憶になると思う。

 テレビを相手に、

 一人で過ごす時間を選ぶか。

 生きた時間を自分でつくるか。

 それは、自分次第だって思う。

 ぼくは母さんに、

 いつまでも元気でいてほしいから。

 生きた時間を、

 楽しく過ごしてくれたら

 いいなって思う」


この思いが、

母にどれだけ伝わったのかは

わからないが。


結果はさておき、

母の「アンテナ」を信じて、

言うだけは言ってみた。


「花を植えたり、

 イチゴとかトマトとか育てたり。

 そんなのも、母さん上手だよね」


「そうだね。

 また苗とか買って、植えてみようかね。

 テレビばっかり観とったらいかんね。

 ちょっとのつもりが、

 ついついずうっと観ちゃうから」


「ねえ母さん。

 この種、植えたら出てくるかな?」


「アボアボ、じゃない、

 アボガボだっけ?」


「アボカド、でしょ」


「そうそう、アボガボ。

 植えたことあるよ。

 植えると芽が出てくる」


「え、実はなるの?」


「実はならんけど、芽は出る」


「へえ。植えてみよっか。

 もしかして、実もなるかもしれないよ」



明日になれば、

母は忘れてしまうかもしれない。


ぼくと話したことも、

自分で言った、反省と決意も、

明日には

どこ吹く風かもしれない。


たとえ実はならなくても。


後ろを向くより、

こうして目の前の景色を見て、

ちょっとずつでも前に進んでいくほうが、

ぼくは好きだ。


一進一退。一喜一憂。


あきらめたりあきれたりせず、

まっすぐ向き合うこと。



ぼくは、

ちっぽけで、ささやかで、

石ころみたいだけどぴかぴかしてて、

手のひらにすっぽり収まるくらいのそれを、

落とさないようにしっかりと、

こわさないようにそっと、

いつまでも大切に握りしめたい。



アンテナ

青空

シンガポール


・・・ぼくの古びたアンテナは、

見えない何かを受信して、

こんなことを

語らせるのでありました。





< 今日の言葉 >


『我王よ、彫るがいい。

 お前の心の内にある、悲しみ、苦しみ、怒り。

 それは、この世が終りを告げるその日まで、

 生きとし生けるすべてのものが、

 ひとつ残らず死に絶えてしまうその時まで、

 はるかなる時を超え、

 お前の子孫によって未来永劫

 受け継がれていくのです。

 さあ、我王。

 お前の心のおもむくままに、

 無心に掘り続けるがいい。

 それが、今この時代に生きている

 お前の証なのです』


(『火の鳥 鳳凰編』

 二月堂にこもる我王への

 火の鳥からの言葉)