2008/06/30

鳴かない犬、ハナ



「夏のハナ」(2008)





僕は犬を飼っている。
名前は『ハナ』。

13年ほど前に
緑地公園で拾ったメス犬で、
柴犬によく似た感じの雑種犬だ。

長いわりに
面白くない話かもしれないが.

その『ハナ』のことを
話したいと思う。



初めて見たときのハナは、
手のひらに乗るほど小さくて、
ぴょんぴょん跳ねるようにして
ちょこまかと歩いていた。

よく似た色合いの、
兄弟らしいオス犬と一緒にいた。


友人とスケボーの練習をしていて、
その小さな2匹の犬を見つけたのだが。

つい、無責任にもなで回し、
さらには売店で買った
スナック菓子を与えて、
おいしそうに食べるさまを
見て喜んでいた。

気を使ったと言えば、
同じ『カール』でも「うすあじ」を
選んだという程度。

ただただ一方的な可愛がり方で、
2匹の野良犬とじゃれ合っていた。


ずいぶん前に、
飼っていた犬が死んだとき
悲しかったから。

もう、犬は二度と飼いたくない。
そう思っていた。


帰り際、
なかなか2匹の犬たちと
離れられなかった。

犬たちもかまってもらえるのを
喜んでいるふうに見えた。


「もし、ついてきたら。
 そしたら飼うことにしよう」


友人にそう宣言して立ち上がり、
その場から足早に離れた。

20メートルほど足を進めて、
立ち止まり、ふり返ってみた。

2匹の犬たちは
先ほどの場所に座ったままで、
じっとこちらを見ているだけだった。


(なんだ、そっか。
 人なつっこい野良犬だった
 だけなんだな・・・)


ほっとするどころか、
どこか残念に思いながら、
再び足を進めようとしたそのとき。

何かの合図でも受けたように、
体の大きなほうのオス犬が
こちらに向かって走り出した。

小さいほうの、メス犬も、
置いていかれないよう懸命に、
オス犬のあとを追って走り出す。

2匹の野良犬は、
先ほどの場面の焼き直しのように、
僕の足元で尻尾を振っている。


結局僕は、
宣言どおり犬を飼うことにした。


『わび』と『さび』。

2匹をそう名付けて呼んだのは、
ほんの3日間のことだった。

目を離したすきに、
飼っていた猫が『わび』を脅かし、
そのままオス犬の『わび』は
どこかに逃げていってしまった。

すぐに追いかけ、探し回った。

けれど、1週間以上探しても
『わび』は見つからなかった。


悲しかった。

ほんの短い付き合いだったけれど、
僕は『わび』のことが好きだった。


兄妹だった2匹の犬は、
僕の不注意から一人っ子になってしまった。

残された小さなメス犬には、
あらためて『ハナ』という名前を付けた。


ハナは要領が悪かった。

遠慮がちな性格らしく、
オス犬と一緒だったときにも、
割って入ることができず、
なかなかエサが食べられなかった。

帰宅した僕に飛びつくのもオス犬が先で、
何をするにもハナは出遅れてばかりだった。

寂しさを訴えて鳴くのもオスのほう。
少しその場を離れただけでも、
うるさいくらいにワンワンと鳴いた。


ハナは、1匹になってからも
うるさく吠えることはなかった。

帰宅の「出迎え」も、
ただただ尻尾を振って、
黙って見上げるくらいだ。

それでも、
ぺったりと寝かせた耳と
ぱたぱた振り回された尻尾の動きが、
喜びを充分表しているように感じた。


* *


猫が死んでからは、
ハナを室内で飼うようになった。

外にいるときでも、
ほとんど吠え立てることは
なかったのだけれど。

家の中に入ってからは、
何か「異変」を感じたときに、
外に向かって吠えることはあっても、
ねだったり、甘えたりして
吠えることは滅多になかった。

それほど「おとなしい」ハナの
吠える声を聞いたのは、
もうどれくらい前のことだろう。

たまに「わんわん、うう、わん」という
鳴き声を聞く。

けれどもそれは、
たいてい寝言だ。

夢の中で何かに向かって
吠えているのか。

寝言だけでなく、おっさんのような
立派ないびきをかいたりはする。


それでも、
ハナが何かを訴えて吠えることは、
もう何年もない気がする。


ハナが何かをねだるときは、
前脚を伸ばしてカリカリとかいてくる。
スネやヒザなど、手の届くところをカリカリとかく。

遠慮がちな性格でありつつも、
頑固で忍耐強い部分もあるハナは、
なかなかあきらめようとしない。

遊んで欲しいときは、
そばに座ってじっと視線を送り続ける。

テレビでサッカーの試合を
観戦しているときなど、
45分ハーフくらいは軽く待つ。


こたわりが強く、
嫌なものは嫌だと「拒絶」する。

けれどもその拒絶の仕方がゆるやかで、
吠えたり逃げ出したり暴れたりするわけではない。

嫌なものを差し向けられたときには、
迷惑そうに顔を背ける。

風呂に入れたときなどは、
悲しげな顔で浴室の外に
上目を向けているのだが。
されるがままにじっとしている。

濡れてみすぼらしくなり、
しゅんとしおたれたその姿には、
申し訳なくも思わず失笑してしまう。


1ヶ月ほどの長期旅行から帰ったとき。

久々の再会に、
僕のほうが「ハナシック」気味の勢いで
飛びつくのだが。

出迎えのハナは、
まるで今朝別れたばかりような涼しさで、
尻尾を振り回して「歓迎」してくれる。

まるでクールなホステスのような態度で、
感情をあらわに表現することはないのだけれど。
そのあとは寝るまでずっとそばを離れなかった。


年々、寂しがりになってきたのか。

いまでは「ひとりぼっち」になるのが嫌で、
家じゅうついて回ってきたりもする。

かと思えば、
知らぬ間にそばを離れていたりもする。

猫と同居していたせいか、
どこか性格が猫っぽいのかもしれない。

前脚を舐めて
顔を「洗ったり」する動作などは、
まるで猫そのものだ。


そんなハナとの生活。

ハナがいることが当たり前になって、
気づけば13年も経っている。


* * *


木曜の朝。

ハナの様子がおかしいので、
動物病院に連れて行った。

熱が39度以上あった。
人間でいうと40度以上の感覚だ。


最近「さかり」なのか、
朝早くから遠吠えをしていた。

ずいぶん久しぶりのことだったので、
「おばあちゃんになっても、
 まだまだ色気はあるもんなんだな」
などと呑気に思っていた。


食が細いのも
そのせいかと思っていたのだが。

レントゲンなどの診断の結果、
左の腎臓がかなり
腫れていることがわかった。

しきりにおしりを舐めていたのも、
経血かと思っていた。

けれど、ハナはすでに
閉経しているということだった。

大きく腫れ上がった腎臓が
子宮を圧迫しているのか、
それとも子宮自体に
何かの病気があるのか。


その日は抗生物質などの注射を
2本打ってもらい、
自宅で静観することにした。

病院から戻ったハナは、熱のせいか、
体全体でハアハアと激しく息をして、
足取りもふらふらとおぼつかなかった。

尻尾も、根元から力なく垂れ下がっている。


まったく鳴かないハナが、
悲しげに鳴く。

いかにも苦しげに、
いままで聞いたこともないような
低い声で「オオン」と鳴く。

切れ切れに
短い眠りに落ちるようだが。
痛みのせいなのか、すぐに目を開け、
天井に向かって「オオン」と吠える。

本当は眠りたくて仕方がない様子で、
顔を持ち上げた姿勢のまま、
何度もうつらうつらと首を揺らしていた。


時間が経つにつれ、
短い睡眠が少しずつ長くなり、
苦しそうに鳴く回数も減ってきた。

きっと薬が効いてきたのだろう。
そう思った。


エサも食べず、
散歩に出ても排便をしない。

いつもよりも奮発した、
おいしそうなエサでも
見向きもしなかった。

水すら口を付けないのに、
生理のときのように、
しきりにおしりを舐めている。

嗅いだことのない、
生臭い血の匂い。

くさい、というより、
何か不吉で、
不安に感じる匂いだった。


この日、風呂場に
排便のあとがあった。

どろどろで、黒っぽくて、
泥のような少量の便。

どうやら朝方に
ハナがしたものらしい。

家の中で暮らすようになってから
初めてのことだ。

いままで、ソファや床の上などで
することすらなかったのに。

誰に教わったわけでもなく、
ハナなりに気を遣ってか、
風呂場を選んでうんこをした。


お利口というか、
いじらしいというか。

高熱でふらつく体で選んだ
行動だと思うと、胸が詰まった。


その日は心配だったので、
1日じゅう、ずっとハナのそばにいた。

僕が動くと、
ハナのほうもついてくる。

少し眠っては目を開け
「オオン」と鳴く。

その夜は0時ごろ1回吐いて、
午前1時と3時と5時台にまた、
風呂場に暗褐色のうんこをした。

朝方、30分ほど
うたた寝しただけで、
すぐまた目を覚ましてハナを見ていた。

何ができるというわけでもない僕は、
苦しそうに鳴くハナの頭を
撫でることしかできなかった。


* * * *


明けて金曜日。

いっこうに具合が
よくならないので、再び母が、
ハナを病院へ連れて行ってくれることになった。


突然悲しみに
襲われるのが怖い臆病な僕は、
こういうとき、
いちばん最悪なことを考えてしまう。


けれど、口には出さない。

その代わりにハナの写真を撮った。

僕は仕事があるので、
朝、ぎりぎりまで粘って家を出た。

ふらつく足取りで僕を追いかけ、
出かける用意をするのを見ているハナ。

黒く、潤んだ目は、
いつもと何も変わらないように見えた。

痛みも、苦しみも、
まるで感じさせない、
おだやかな顔つきだった。


本当は仕事どころでは
なかったのだけれど。

担当しているクラスの
生徒たちの声を聞き、
顔を見ていると、
いくらか気持ちがやわらいだ。


眠っていないせいもあったのだろう。
僕は、いつもより饒舌に、
ほとんど黙ることなくしゃべり続けた。

そうしていないと、
不安で不安で、落ち着かなかったから。


授業中、僕あてに
電話があったと知らされた。


「お家の方からです」


僕は、全身から
血の気が引くのを感じた。

階段を下りる足が、
まるで他人のもののように曖昧だった。

講師室で電話を借り、
家に連絡を入れる。母が出た。


「ハナ、手術しなきゃいけないって・・・」


不安げな母がうろたえながら、
賛同と同意を求めてくる。

ハナが、年齢的にも体力的にも
手術に耐えられるのかどうか。

手術をすることが、
ハナにとっていちばん
楽になる方法なのかどうか・・・など、
母に聞いた。

手術をしなければ、
まず痛みは治まらないという。

放っておけば、
子宮を蝕んでいる「毒」が
どんどん体に回ってしまう。
すぐにでも処置したほうがいい、と。

子宮の摘出。

その日の午後、
子宮摘出の手術が
行われることになった。


いったん落ち着いた僕の不安は、
また別の形になって膨らみはじめた。

午後の授業が終わるとすぐ、家に帰った。
駅に着くと、家まで走った。

こんなに走ったのは
どれくらいぶりだろう。

途中、思わず
足をゆるめそうになったけれど、
ハナの苦しみに比べれば、
自分の感じている「苦しさ」なんて
何でもないように思えて、
家に着くまでひたすら
全力で走った。


手術後のハナは、
ステンレスのケージに入っていた。

首には、傷口を舐めないよう
「ラッパ」が付いていて、
前脚からは点滴の管が延びていた。

体の左側、脇腹の毛を
剃られた姿が痛々しい。


オリの中から、
ひどく不安げな目で
こちらを見ている。

「どうして出してくれないの?」

とでも言うように。


注射を打たれ、腹を開かれ、
ラッパや管を付けられて。

何も分からないまま、
団地のようなオリの中に入れられ、
「ひとり」にされて不安なわけがない。

自分がハナの立場だったら、
不安で仕方ないに決まっている。

レントゲンや手術行程の写真を
見せてもらいながら、
医師からの説明を聞いた。

摘出した子宮は、病気に冒され、
ボールペンの芯ほどの管の部分が、
直径2センチほどにまで肥大していた。

子宮口に近い辺りでは、
球状に膨らみ、
こぶのような塊ができていた。

今回の手術では、
子宮と卵巣を摘出した。

そのため、当初の来院目的である
「痛み」は治まるということだった。


他に気になる点。

それは、肥大した腎臓だという。


現状では、
左右両方とも機能しているので
「すぐに悪さをする部分ではない」
というのが医師の見解だった。

体力的な問題や将来的な見通しなど、
医師の説明を聞いて、
しばらく様子を見ることに合意した。


医師の言うことに納得もできたし、
少しは安心もできた。

けれども、
まったく不安がなくなった
わけではない。

そんな思いでハナの特徴を語り、
医師にあれこれと質問を投げかけた。

話すほどに不安が膨らみ、
怖くて泣きそうになった。

それが伝染したのか。
若い医師は、少し目を潤ませながら
僕の話を聞いていたように見えた。


そのままハナは、
2日間入院することになった。

明日の土曜日は
面会ができるらしいが。

帰る前、もう一度
ハナの元へ行き、
柵の隙間から手を入れ
頭を撫でた。

悲しげにハナは、
じっと僕を見ていた。

他の犬たちは
ワンワン鳴いていたけれど、
ハナはくうんと小さく
鼻を鳴らしただけだった。


空腹なのに食欲がない。
寝ていないのに寝れそうになかった。

今晩が「ヤマ」だと感じた。

眠れないので絵を描いた。

猫がいなくなったときと同じように。
 動くものがあるとふと、
いるはずのない姿を探してしまう。

寝不足で感情が高ぶっていたせいもある。
夜中に僕は突然泣いた。


* * * * *


オリの中に入れられた、
不憫なハナの姿を見たくない。

そんな自己中心的な理由で、
面会には行かないでおこうとも思った。

けれども。


僕は、後悔をしたくなかった。

もう二度と、後悔はしたくない。


猫が死んでしまったとき、
ヒザの上に乗りたそうにしていたのに、
出かける前だからという理由で
乗せなかったことを悔やみ続けた。

乗りたがっていたのは、
死んでしまう2日前のことで、
それが最後の「わがまま」だった。

自分の「エゴ」だけではなく、
面会をすることでハナの精神的な
支えになるだろうとも考えて、
午前中の面会時間に病院へ向かった。

いきなり色々なことが起こって、
自分が捨てられたのかと思ったりしたら
負担になるだろうし、
変なトラウマが残ったりしたら嫌だった。

入院なんて、
ハナには初めての体験なのだから。


精神的な面だけでなく、
実際、面会に行ってよかったことがある。

ハナはまったくエサを
食べようとしていなかったのだが。
手に取って口元に運ぶと、
勢いよくぺろりと食べたのだ。

このエサは、
単なる食事だけではなく
「処方食」でもあり、
腎臓機能の回復を促す
「治療」もかねている。

エサを食べなければ、
よくなるものもよくならない。

全部は食べなかったが。

すきを見て出ようと試みる
ハナを押さえつつ、頭を撫でながら、
しばらく看護士さんと雑談していると、
自分からも少しエサを食べた。


食べるということは
「生きる」ということ。


自分からエサを食べたのは
「生きよう」という意志がある証拠だ。


気になったので、
午後の面会も行くことにした。

結局、午後も、
僕の手からでないと
エサを食べなかった。


ケージの外にかけられた
カルテを見て初めて知ったこと。

それは、ハナの性格的な
特徴について書かれたもので、


『甘えんぼうです♡』


とあった。


・・・甘えんぼう。

なるほど。
言われるまで気がつかなかった。

他の犬と比べたこともなかったので、
ハナが「甘えんぼう」に
属するとは思ってもみなかった。


飼い主の手からしか
エサを食べないハナ。

どう見ても僕は、
まさにその瞬間も「甘やかして」いた。

甘えんぼうに育ったのは、
もしかすると自分のせいか?
そんなふうにも思った。


こだわりが強く、
“お気に入り”を守り続けて、
ときどき頑固。


僕は、そういうのを
「甘えんぼう」と呼ぶとは
気づかずにいたらしい。

エサを3分の2ほど食べたハナは、
しばらくして眠りはじめた。

面会中は、
ケージの扉も開いたままだ。

眠るハナを見守り、
看護士さんと1時間以上
話し込んだ僕は、
やっぱり「甘やかし屋」かもしれない。


日曜日は休診日なので、
面会ができない。

ことあるごとに、
過保護な親よろしく、

「エサ、ちゃんと食べてるかな」

「うんこ出たかな」

などと心配ばかりしていた。


ケージの中で何度か尻尾を振り、
見るからに活力を
取り戻したように見えたハナだけれど。

まだ、
安心と呼べる手応えは
つかみきれずにいた。


手術後の血液検査の結果が
まだ出ていない。

白血球の数値が
基準値の倍以上あるということ。
それは血液中に炎症・感染が
見られるということだ。

血小板の数値が少ないのも気になる。
そのせいで術後の回復が遅ければ、
またそれで問題が起こるかもしれない。

自分のことだと
それほど心配しないのだけれど。

他人のことになると
「こんなに気弱だったか?」
と思えるほど、
おそろしく心配性になる。


* * * * * *


月曜日。

ハナの退院の日だ。


嬉しさ半分、
検査結果への不安が半分。

午後診が始まる夕方5時の、
15分以上前に病院へ着いた。

待合室にはたくさんの人と犬と猫がいた。

年老いた犬やふくよかな猫。
籐で編んだカゴの中から、
赤ん坊のような声で鳴く
猫の声が聞こえる。

名前を呼ばれ、
診療室に通される。

足元にはハナがいた。

目の色も、表情も、
くるくる回る尻尾も。
ずいぶん元気が戻ったように見える。


医師からの説明を聞き、
複雑だった。

腫れた腎臓は、
いずれ何かしらの処置が必要だと。
つまり、手術する以外に
回復する見込みはないということだ。

いまはまだ沈黙しているが、
周辺器官に悪影響を及ぼすようになれば、
開腹して切除するほかないそうだ。

血液の値は、
正常値に戻ったものもあるが、
下がってはいるものの、
まだまだレッドゾーンに
あるものも複数ある。

ひとまずは、
薬と処方食で様子を見ながら、
1週間後に再検診という形になった。


今回の検査で
初めて分かったことがある。

それは、ハナの喉元の
気管支がずいぶん細いということだ。


気道が非常にせまくなっているせいで、
興奮したり息を荒げたりすると、
ぜいぜいとぜんそくの発作のような
息づかいになる。


たしかに思い当たる。

激しく咳き込むように息をしたあと、
ひどいときにはけいれんしながら
倒れてしまうことがある。

暑い日の散歩などは
特に気をつけているのだが。
倒れてしまわないよう、
いつも不安で仕方がなかった。


「最近、ほとんど吠えないんですよ。
 それも気管支と関係あるんでしょうか」

そう訊ねる僕に、医師は、

「ないともいえない」

と神妙に答えた。


医師が言うには、
わんわんと吠え立てる性格でなくてよかった、
ということだ。

よく吠える犬だと、
気道の閉塞がもっと顕著に現れ、
進行具合もかなり早くなるそうだ。


知らなかった。


当然ハナは、
そんなことを気にするふうでもなく、
いままでずっと暮らしてきた。


鳴かないハナは、
鳴けないのかもしれない。


そんな自分の体を
当たり前のことだと思い、
鳴けないことも、
激しく走れないことも
当たり前に思ってきたのかもしれない。

正常とか異常とか、
自分の体のことなど、
他の犬とは比べようがないのだから。


診察室を出たハナは、
すぐにでも外に出たそうだった。

車に乗せて、
ゆっくりと家に向かう。

信号待ちで、
助手席に座ったハナを見ていて、
後続車からクラクションを鳴らされた。


家に戻ると、
散歩に行きたそうだったので、
そのまま散歩に出た。

高校脇の電柱で、
流れるほどのおしっこをした。

やっぱり、
ずっと我慢してたらしい。

慣れない場所や室内では
しようとしないし、
いくらしたくても、
ワンワン鳴いたりしない。


鳴かないハナは、
ワンワン鳴いて訴えることはない。

痛くても、苦しくても、
ハナは文句を言わない。

けれども、
訴えないわけではない。

見ていればそれと分かる合図が
いくつもある。


言葉はしゃべらないけれど、
言葉よりも分かることがある。


犬は、嘘をつかない。


寡黙だけれど、教わることは多い。

子どもの書いた詩で
こんなものがある。

『いぬは
 わるいめつきは
 しない』

そのとおりだと思う。


死別を考えると、
動物を飼うのは悲しい。

けれども、
動物のいない生活はもっと寂しい。


先のことを
考えるのはよそう。


病院から家に戻ったばかりのハナは、
どこか落ち着きがなく、
エサも食べずに水ばかり飲んでいた。

疲れたのか、少し眠って。


しばらくしてようやく、
じわじわとゆっくり
「いつものハナ」に戻っていくのが分かった。

エサもおいしそうな早さで、
夢中になって食べた。

首のラッパをぶつけながら、
うろうろと家の中を歩き回ったあと、
僕の顔に鼻先を寄せてきた。


そこで初めて、
僕は、ほっとした。


ここ数日間の
凝り固まっていたものが、
すうっと抜けたような感じがした。

それは、
数値で示された検査記録よりも
確かな実感があった。


心配ごとは絶えないけれど。

考え出したらきりがない。


いつのもハナに戻ったのだから、
「いま」を取りこぼさずにいようと思う。


いま、ハナは静かに眠っている。

いまがあれば、大丈夫だ。


13歳と4ヶ月のハナは、
首のラッパを柱にぶつけて、
ぷうっとオナラをするほど
おしゃれなレディなのだから。



**********************

こんな長文を読んでくれた奇特な方へ。

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つきあってくれて、どうもありがとう。
何か伝わったのなら、嬉しく思います。
こんな長文を読んでくれる特殊な方は、
きっとかなりの甘やかし上手でしょう。

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