2026/07/01

アルバム・ザ・ベスト20くらい






さて。


今回は、

個人的に好きな音楽を、

並べてみようと思うのでありす。


好きな曲・・・となると、

計り知れないくらいにきりがないので、

今回は、「アルバム」として、

個人的に完成度が高いと思うもの、

または、好きだと思うものを

ざっくりと並べてみました。


題して、

『アルバム・ザ・ベスト20くらい』 


順位はつけられないものなので、

順不同でお送りいたします。






NEWEST MODE L

『Crossbreed Park』



高校2年生の時に、買ったアルバム。

20代になっても、

カセットテープに録音して、

古い車のステレオでずっと聴いてた。


1枚のアルバムとは

思えないほどの密度と完成度。

どの曲もみんないい上に、

アルバムとしてのまとまりがあるのがすごい。





Blanky Jet City

『幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする』



学生時代の10代から、

社会人になった20代にかけて、

いちばんよく聴いたアルバム。


料理をしながら聴いたりしていて、

台所の机の上に開いたままだったジャケットが、

油でうっすら汚れている。


1本の映画を観たような。

短編集を読んだような。

アルバム単位では、

この作品がいちばん好きだ。


今でもよく聴く。


BJCのバトンは、

次世代の、

甥っ子たちに受け継がれている。


甥っ子の一人は、

ベンジーと同じステージに立ち、

一緒に唄ったこともある。





Stive Reich

『Music for Musicians』 



56分32秒。

1枚のアルバムで1曲。

何かをつくったり、

作業に没頭するのに最高のアルバム。


ある瞬間、

静寂よりも静かになる。


エンドレスに

1日じゅう聴いていられる。


氏の作品の中で、

いちばん好きなアルバム。





ゆらゆら帝国

『空洞です』



選ぶことはできないのだけれど。

アルバムとして選ぶなら、

この1枚か。


「最新作が最高傑作」


出すたびにいつも最高傑作で、

バンドのオリジナル・アルバムとして、

最後の作品。


夜な夜な鉛筆を削りながら。

昼夜逆転した真夜中に。

真昼のまぶしい光の中で。


ずっと聴いてきた、

ずっと聴いている、

大切な1枚。





ヤプーズ

『ダイヤルYを廻せ!』



これまた選べない中で、

どうしても・・・というなら

この1枚になる。


特に『ヒステリア』が

たまらなくいい。


そこに続くすべての楽曲が、

『ヒステリ』アに向かって

疾走していくような。

そして最後の曲へとつながるような、

曲の構成がすばららしい。


うっかりすると、

泣いてしまう。





スピッツ

『名前をつけてやる』



このアルバムの時代のスピッツは、

ライブハウスの観客が

50人もいなかった。


高校生だった僕は、

どきどきしながら

最前列の、

手を伸ばせば届きそうな距離で

演奏を聴いた。


どのアルバムも好きだけれど。

時にこのアルバムに

思い入れがある。


ライブの思い出と、

学生服の記憶。

今でも大切な1枚だ。





さよならポニーテール

『来るべき世界』



世の中には、

いいものをつくる人がたくさんいて。

見たこともないような、

感じたこともないような世界へと

連れて行ってくれる。


見たことも聞いたこともない世界なのに、

なぜかそれが、しっくりとくる。

じわりと心に染み込んで、

音と音葉が、

血肉に変わる。


そんな

すばらしい世界への「切符」。

かけがえのない日々の

記録と記憶。


音楽は、タイムマシンだ。


このアルバムを聴くと、

心も体も、

あのころの時間へ

瞬間移動する。


「来るべき世界」を目の前に、

奮闘していた、あのころへ。





ザ・ヘア

『ヴィーナスの丘』



ジェケットの絵は、

宇野亜喜良氏によるもの。

幼稚園のころ、

古びた本屋さんで立ち読みをした記憶。

大人が読む本を手に取り、

漢字ばかりで読めなかったが。

カラフルで不思議な挿絵だけは、

目の中に色濃く焼きついた。


中古レコード店で出会った

このアルバム。


今ほどインターネットが

充実していない時代、

街のレコード店が

出会いと発掘の場所だった。


1996年のアルバムとは思えないほど、

サイケデリックな夜の匂いが漂う

アルバムだ。





モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)

『魔笛』(Mozart: Die Zauberflöte)



クラシックに詳しいわけではないので、

何も語れないのだけれど。

モーツァルトの楽曲は、

結構好きなものが多い。


この『魔笛』は、

イタリア語ではなく、

ドイツ語で書かれたオペラ。


パパゲーノとパパヘーナが

出会う場面がすごく好きだ。





ベートーベン(Ludwig Van Beethoven)

『第九』(Symphony #9)



CDのサイズ規格が、

『第九』をもとに決められたのは

有名な話だけれど。


そんなこともあって、

最初に手にしたクラシックのアルバムが、

この『第九」だった。


完璧なまでの組曲。

完璧なまでのアルバム。


第二楽章の冒頭も

たまらなくいいが。

第四楽章の、「歓喜の歌」。

最後の、残り9分35秒あたりからが、

感動と涙と鳥肌の連続。


爆音で聴く『第九』は、

何ものにも代えがたい。





Tony Joe white

『black and white』



いい声。いい音。いいメロディ。

家事や料理をしながら、

踊りたくなるアルバム。


かっこいい。


そのひと言に尽きる。





The Secret Sisters

『Put Your Needle Down』



なんとなく、

アルコールの香りがするアルバム。


今はもう、

お酒を飲まなくなったけれど。

酒場のカウンター、

ウイスキーが似合う。


かと思えば、

目の前に、

ハイウエイを走り続けた、

アメリアの広々とした景色が浮かぶ。


夜な夜な一人、

お酒を飲んでいたときを思い出す、

夜のアルバム。




Nik Bärtsch's Mobile

『ARE』



GENELECのスピーカー、

ウーファーを買って。

部屋を揺らすくらいの

重低音の音楽を求めて、

このアルバムに漂着した。


BOSEのM3で聴いていたら、

あまりの低音に、

スピーカーが

じりじりと「動いていた。


Nik Bärtsch(ニック・ベルチュ)氏の

アルバムの中で、

いちばん最初に買ったアルバム。





Mirah

『Advisory Committee』




アメリカ、

ワシントン州の州都、

オリンピア。

そこで開催された音楽祭で、

Mirah(ミラー)のライブを観た。


古びた映画館の舞台に立ったMirahは、

伸びやかな澄んだ声で

唄っていた。


公演の後、

すぐにMirahのアルバムを買った。


このアルバムは、

その次のアルバム。


地元のライブハウスで、

久々に「再会」したMirahは、

坊主頭だった。


アルバム・ジャケットに写る

黒い模様は、

刈り込んだMirahの髪の毛だ。


すぐそばに座ったMirahは、

ステージで見るより小さくて、

子どもみたいな女の子だった。





Mean Machine

『Cteam』



「プロ」が集まってつくった、

ガールズバンド。

10代みたいな純度でありながらも、

完成度はしっかり「大人」の水準で。

きらきらとした結晶が

たくさん散りばめtられた

うつくしいアルバム。


秀逸。


何度も聴いて、

何度も励まされてきた。


『本当は 描けない絵は

ないんだよ』


(『ペーパームーン』より)


頭に描けなくなったら、

おしまいだと。

そう教えてくれた。


歌詞だけでなく、

アルバムに詰まった熱量が、

言葉以上にそれを教えてくれた。





Gil Scott-Heron

『It's Your World』


曲で言えば、

初期の作品も好きだけれど。

アルバムとしての流れ、

曲構成、勢いなど、

このアルバムがいちばん好きだ。


ジャケットのデザインはさておき。

Gil Scott-Heron氏の声は

本当にかっこいい。


誰かに勧めるでもなく、

誰かと分かち合うでもなく。

家で、車で、たくさん聴いた。


「好き」とは、

本来、そういうものかもしれない。





Felix Kubin

『Zemsta Plutona』



不穏で、不快で、不気味で。

魅力的で、心地いい、メカニカルな音。

まるで自分が

器械か人造人間にでも

なったみたいに。

鼓動が、呼吸が、血液が、

器械音に染まる。


音を聴けば、

Felix Kubin氏だと

すぐにわかる。

唯一無二の絶対音楽。


曲としては、

『Bruder Luzifer (1982-2010)」

にも、

いい作品が

たくさん詰まっている。


アルバムとして

1枚選ぶとしたら、

現時点ではこのアルバムになる。





Doreen Shaffer

『Adorable』



10代のころ聴いていたレコードに、

Doreen Shafferの

『Golden Love』が入っていた。


とてもいい曲だったので、

Doreen Shafferの

アルバムを買った。


アルバムのタイトル通り、

「愛らしい」楽曲が

たくさん入った1枚。


軽やかな管楽器の音色と、

重低音がたまらない。

不思議とと元気が湧いてくる。





Ketil Bjørnstad

『Sunrise』



画家、

エドヴァルト・ムンクの

生涯を描いた組曲。


うつくしい歌声に、

心をすすぎ清められる。


誕生、成長、希望、

投獄や苦悩、混乱、絶望感など、

言葉を超えて伝わる情景がある。


ちなみに

Ketil Bjørnstadは、

日本語表記では、

「ケティル・ビヨルンスタ」

となります。





Elina Duni Quartet

『Matanë Malit』



展覧会の会場で、

期間中、終日流していたアルバム。


滞在制作の後、

会期が終了するまで、

会場に寝泊まりしての会だったので、

まさにこのアルバムが

テーマ曲のように染み込んでいる。


エアコンのない、

鉄筋コンクリート造りの建物で。

汗を流して食べた

冷たいお蕎麦や、

ペンキにまみれた手で食べた

スナック菓子など。


「食べた記憶ばっかりじゃないの」


母や甥っ子が来てくれた記憶。

眠れない夜、屋上で星を見た記憶。

いろいろな記憶が詰まった、

思い出のアルバム。




最後に。




REBECCA

『TIME』



初めて買った

「CD」のアルバム。


レコードやソノシート、

カセット・テープなどで、

それまでも音楽は聴いてきたが。


このアルバムから、

音楽が「友だち」に

なったのかもしれない。





まだまだ並べたいアルバムは、

何枚もあるのだけれど。


今回はこれにて

ご無礼します。



昨今では、

アルバム単位で

音楽を聴くことは、

減りつつあるのかもしれないが。


アルバムの持つ魅力、

物語や世界観、

流れや温度などを味わう時間も

悪くはないと思う。


記録媒体が、

デジタルだろうと関係ない。


コーヒーや紅茶を入れて。

「ながら」ではなく、

音楽とじっくり向き合う時間。


それこそが

「ゆたかなひととき」

かもしれない。



音楽に救われた記憶。


音楽に、少しでも恩返しできたら。

音楽の力を、少しでも伝えられたら。


誰かと分かち合う音楽もあれば、

一人、ひっそり聴く音楽もある。


いいとか、好きは、

必ずしも人と同じではない。


ここに並んだ音楽も、

僕の好きなものばかりだ。


「好き」の、ほんの一部を、

並べてみた。


新たな自分を発見したり、

見失った自分を取り戻したり。


自分の本棚やクローゼット、

音楽が並んだ「棚」を掘り返し、

じっくり見直してみると、

自分が好きなものがわかり、

自分がどんな形なのかが

わかってくると。


学生時代、先生に聞いた。



皆さんもどうか、

並べてみてください。


自分だけの、

自分の好きな、

音楽を。


心から好きだと感じる、

自分だけの、

自分の形を。




< 今日の言葉 >


あふれた涙で

咲かせた赤い花

いろいろあったわ

いろいろあったわよね

覚えているわ この花が


(『ヒステリア』ヤプーズ)








2026/06/15

Maybe Tomorrow きっと明日は




 *



だけど明日は

きっといいこと

あると信じてたいの

Maybe tomorrow



REBECCAの

『Maybe Tomorrow』。


中学生の時、

擦り切れるくらいによく聴いた曲だ。

銀色の盤面は、

もしかすると本当に

数ミクロン薄く

なっているかもしれない。



以前、

『おとなが苦手になったわけ』

でも書いたが。


中学時代の僕は、

ほぼ毎日と言っていいほど、

先生に「怒られて」いた。


それこそ

目の敵か何かのように。

生意気だった僕は、

学年主任であるその教師に、

ほぼ毎日、殴られていた。


時代、とはいえ。

地獄の毎日だった。


部活で忙しく、

ほとんど家にいる時間も

なかったのだが。


ぽっかりとできた

「自由な時間」

(部活は年間5日くらいしか休みがなく、

 終日休みだったことは、ほとんどない)

に、自室で音楽を聴きながら、

絵を描いたり、本を読んだりしていた。



REBエECCAとの出会い。

それは、中学1年の時だった。



高校生になる姉が、

進学祝いに、

ステレオ・コンポを

買ってもらうことになった。


当時は、

さながら要塞のごとく重厚な、

分厚い箱が何段も積み重ねられた

「コンポ」が、

音楽を聴くための音響機器として、

まだまだ主軸だった。


音響メーカーだけでなく、

家電メーカーからも

さまざまな機種が

リリースされており、

当時は激戦の分野でもあった。


姉が選んだのは、

SONYの『LIBERTY』。

たしか

『D.D.(Digital Drive)LIBERTY』

だったように思う。


テレビでも盛んに

宣伝されていた『LIBERTY』は、

CMにREBECCAが登場した。


父と姉とともに、

アメ横へ行った。


「これがいいんじゃない?」


僕が姉に提言した。


何をかく隠そう、

それが『LIBERTY』だった。


ひそかに僕は、

もし買うのなら

『LIBERTY』がいいなと、

心のうちで思っていた。


姉も異論はないようで、

いろいろ見て回ったあと、

『LIBERTY』に決定した。


「まかられへんか?」


大阪人の父は、

店員さんにあれこれと

値切りやサービースの「交渉」に出た。


大幅に値下げしてもらった上に、

別売りであるレコード・プレーヤーを

「おまけ」につけてもらった。


「姉ちゃんだけずるい」


と。

子どもみたいに駄々をこねた

中学1年生の僕は、

父に小言を言われながらも、

「おまけ」をもらった。


『LIBERTY』のCMソングである、

『NE YVOUS BUT GLAMOROUS』が

収録された、販売促進用の、

非売品のシングルCD。


円板型の

プラスチック・ケースに入った、

キーホルダー状の物だった。


たしかに嬉しかった。


だけど、思った。


これって「おまけ」じゃない?


「僕も何か買ってほしい」


駄々っ子と化した僕は、

父からの小言を

ぶつぶつ小浴びながらも、

1枚のCDを買ってもらった。


それが、

REBECCAのアルバム

 『TIME』だった。


当時は、

レコードからCDへの移行期であり、

カセットテープでの音源販売から

CDでのリリースへと移り変わる

過渡期でもあった。


生まれて初めて買ったCD。

それが、REBECCAだった。


それまで、

『仮面ライダーBGM集』や、

『特撮ヒーローサウンド・グラフィティ』、

映画のサウンド・トラックなどの

カセットテープを聴いてきた僕が、

初めて買った「歌手」の音源だ。


音楽に疎かった

(というか、ずれていた)僕は、

REBECCA以外のミュージシャンを

ほぼ知らなかったこともあり、

数あるREBECCAのアルバムの中から

『 TIME』を選んだ。


『 TIME』を選んだ理由は、

ジャケットがいいと思ったからだ。

包装紙みたいな色の背景に、

手で破ったような形の紙があり、

ちょっと変わった書体で

書かれた文字が気に入って、

『TIME』のアルバムを

手に取ったのだ。



そこから、

REBECCAが大好きになり、

全部のアルバムを買って、

繰り返し繰り返し、何度も聴いた。


『RASPBERRY DREAM』を聴くと、

中学1年生の頃、

好きだった女の子から

初めてチョコレートをもらったことを

思い出す。


「義理チョコだからね」


と言いながら

手渡されたされた袋の重み。


『RASPBERRY DREAM 』と

結びついたのは、

たぶん、そのころよく、

『REMIX REBECCA』を聴いていて、

『RASPBERRY DREAM 』を

聴きながら、

チョコレートを食べたからだろう。


『76th Star』や

『ガールズブラボー」を聴くと、

藤原カムイ氏の漫画

『チョコレートパニック」を

思い出す。


読んでいる時に、

『REBECCA IV ~Maybe tomorrow~』を

繰り返し聴いていたからだと思う。


タイトルどおり、

『Maybe tomorrow』は、

このアルバにに入っていた。


とにかく、

REBECCAばかり聴いていた。


中学時代の僕を支えてくれた

大きなひとつが、

REBECCAの音楽だった。



* *




僕が中学3年になったくらいか。

姉が言った。


「あんたのラジカセと、

 交換してほしい」


姉は、

部屋の一角を占拠するほど大きな

コンポの存在が、

気になりはじめたようだ。


僕のCDラジカセは、

Victor(ビクター)のラジカセで、

コンポに肉薄するほどの音質と

重低音でありながらも、

コンポに比べ、

小さくてコンパクトな設計だった。


まさに当時は、

コンポに対抗すべく、

重低音をうたうCDラジカセが

各社から続々発売されていた。


電器店で何度も試聴して、

何種類ものラジカセの中から選んだ

納得の音質、納得の仕様、

納得のデザインの1台である。


ちなみに、

そのラジカセを買う際には、

やはり父が連れて行ってくれて、

「まかられへんか?」

と値切った上に、

お店の試聴用のCD、

マイケル・ジャクソンの『BAD』を

「おまけ」につけてもらった。


恐るべし、父の「交渉」術。

もはや輩(やから)めいた

物乞いである。


ありがたさより

恥ずかしさに赤面しつつ、

ケースのない、

むき出しの『BAD』を手に、

レジに向かった記憶は

今でも色褪せない。

(ケースはレジでいただいた)


はたしてそれが「BAD」なことか・・・

その判断はまた別の機会に譲るとして。


Anyway。


そんなお気に入りのラジカセに、

僕は『鉄雄』と名づけていた。


中学時代の僕は、

『AKIRA』が大好きだった。


以前にも書いたが。

ここでいう『AKIRA』とは、

男前パフォーマーのことでも、

大事なところを隠したお盆を

回転させるパフォーマーのことでもなく。

漫画『 AKIRA』のことである。


(参考: 過去の記述 )


中でも、

主人公の「金田」とぶつかり合う

「鉄雄」が好きで、

CDラジカセのスピーカー部分に、

蛍光オレンジの塗料で

でかでかと

『鉄』『雄』の文字を書いた。


左右のスピーカーを覆った、

黒いパンチング・メタルの表面に

書かれた文字は、

映画『AKIRA』の一場面、

路上に書かれた

『大覚アキラ様』の字体を意識して、

筆跡生々しい力強い筆致で

思い切って書いたものだ。


・・・・話がだいぶ

脇道に逸れたようだが。


コンポとラジカセの交換を

持ちかける姉は、

喜びに小躍りする僕に向かって、

静かな口調でこう言った。


「その字、

 消してくれたら交換する」


名残惜しいが、仕方ない。


「さよなら、鉄雄・・・」


心の中でつぶやきながら、

『鉄雄』の文字を、

つや消し黒の塗料でつぶしていく。


「今日までありがとう」


とんとん、と、

肩をたたくように、

かつての『鉄雄』と

さよならの挨拶をした僕は、

念願のステレオ・コンポを

手に入れたのでありました。


・・・・めでたしめでたし。



おかげで

レコードが聴けるようになり、

それから30年以上の歳月を

ともに過ごした。


引き出し式のトレイが

うまく開閉しなくなり、

入れたCDが

なかなか読み込まれなくなり。

6段重ねのコンポから、

5段になっても。

外部入力で、

別のCDプレーヤーをつないで

再生していた。


スピーカーを、

2つから4つに増設した。


無骨で、重厚な、

黒いコンポ。


いつもそばにいてくれた。

いつも音楽を聴かせてくれた。

おかげでいつも、

音楽がそばにあった。



悔しさに、歯噛みしていた10代。

現実の苦さを、思い知った20代。

行き詰まり行き場を失った30代。


いくつになっても。

何年、何十年経っても。

ちっともうまくならない。


いいことも、楽しいことも、

それ以上にたくさんある。

けれどもときどき、

どうしようもなく打ちひしがれる。


40代を通り過ぎても、

それは変わらない。


『Maybe Tomorrow』


明日は、きっと——。


逃げ出したくても、

出口が見つからなかった

中学時代。


『Maybe Tomorrow』


きっと明日は——。


そう信じて、涙をこらえた。


『Maybe Tomorrow』


明日はきっといいことが、

あるはずだと。


明日を夢見た、あの頃の気持ち。


シャワーを浴びながら、

あの頃の気持ちを、思い出した。



『Maybe Tomorrow』


今の自分は、

あの頃と少し違う。


「明日」ではなく、「今日」。


明日に期待を

しなくなったのではなく。

今日の、今、この瞬間を、

まっすぐ見つめることを

僕は選んだ。


殴られるようなことは

なくなったけれど。

殴られたような

気持ちにはなる。


けれど今は、

『Maybe Tomorrow』

ではない。


今、この瞬間。


今でも、

REBECCAの曲をよく聴く。


現に今、

REBECCAの曲を聴きながら、

これを書いている。


『Maybe Tomorrow』


そう願っていた

あの頃の気持ちを、

思い出しながら。


無知で無力なのは、

変わりないけれど。


今の僕は、

『Maybe Tomorrow』を

口ずさみながら、

昨日でも、明日でもなく、

今日の景色を見ています。


あの時、

負けなくてよかったと。

あきらめなくて、よかったと。


明るい光が差し込む昼下がり。

出かける前のシャワーを浴びながら、

『Maybe Tomorrow』を唄って

そんことを、ふと思った。




< 今日の言葉 >


『こわしてしまうのは

 一瞬でできるから

 大切に生きてと 彼女は泣いた』


(『MOON』REBECCA)


2026/06/01

だんごではない三兄弟の顔

 




かつて、

『だんご三兄弟』

という唄が

ちまたを席巻していた。


おだんごを売る店の

約90%以上が

『だんご三兄弟』を

流していたように思う。

(当社調べ)


僕には、甥っ子がいる。


もう「子」と呼ぶには

そぐわないほど立派に育った、

甥っ子三兄弟たちだ。


三者三様。


似ているようで、似ていない。

顔も姿形も好みも違い、

考えかたも、性格も、気質も違う。


誰が、とか、

何番目か、とか

という話は差し控えるが。


甥っ子たちが、

「大人の階段」をのぼる姿を、

少し話たい。


キャラメルや

チョコレートみたいに

甘かった10代から、

20代あたりのほろ苦い景色へ。


かつての自分も

そうだったのだろうか。


甥っ子たちの姿を見ていて、

懐かしさよりも、頼もしさを感じた。



* *



高校を卒業した甥っ子は、

大学へ進学して、アルバイトを始めた。


大学生になった甥っ子は、

自宅で作業している僕の部屋に、

ちょくちょく遊びに来てくれた。


当時はまだ、

僕も煙草を吸っていたので、

二人、ベラッbでで一服したり、

音楽を爆音で聴いたり、

小学生みたいに

くだらない話をして笑ったり。


およそ

叔父の威厳のかけらもない、

どっちが甥っ子かも

わからないような

時間を過ごした。


ある時、思った。


おそらく甥っ子は、

学校へ行っていない。


本人に直接、

聞いたわけではないが。

たぶん、大学には行かず、

ここに来ている。

そんな気がした。


僕は、なるべく

くだらない話をしていた。

意識しなくても、

それは同じだっただろうが。

大学の話は、しなかった。


当時の甥っ子の顔は、

かつてのかわいらしさが影をひそめ、

どこか鋭利な刃物を思わせる、

鋭い顔つきだった。


内なる心の表出、というのか。


成長による変化ではなく、

環境や、精神状態による

「一時的な変化」だった。



甥っ子は、アルバイト先で

「きたない世界」を見た。


自分の成果をあげるため、

ありもしない「故障」をでっち上げ、

出張料金やら交換費用や技術料など、

何もわからず何も疑わない女性を相手に、

まとまった額を徴収したという話を、

さも誇らしげに、

声高らかに自慢する先輩の姿に、

甥っ子は「吐きそうになった」と

話してくれた。


その時の顔を、

僕はよく覚えている。


怒りと悲しみと、

悔しさや失意を

ごちゃ混ぜにしたような。

まさしく、

汚いものを吐き捨てるような、

苦く鋭い表情だった。


意見めいたことは、

特に、何も言わなかったが。


「あんまり長くいるような

 場所じゃなさそうだね」


と言ったことは覚えている。


しばらくして、

甥っ子はアルバイトを辞めた。


彼の顔は、

かわいらしくて爽やかな

かつての顔つきに戻っていた。


「いい勉強になったね」


「大人の階段、のぼったね」


などと言いながら。


学校では教わらない種類の学びを、

彼自身が、

全身で感じ取ったことを

頼もしく思った。


あらゆる手を使って、

お金を稼ぎまくる先輩が

大手を振って活躍する環境。


そこに留まり、憧れ、

染まるのではなく、

「おかしい」と感じて

抜け出した甥っ子の感性に、

頼もしさと大きな安堵を覚えた。


世の中に、

星の数ほど無数にある選択肢。


言葉じゃ説明できないものだから。

自分で感じるほかはない。


甥っ子が、

わる〜い顔にならなくて

本当によかった。


笑う甥っ子の顔は、

今でも少年のように、

まっすぐでまぶしい。



* * *



彼女ができたと喜ぶ甥っ子が、

心おどる、ときめいた話を、

たくさんしてくれた。


「左ハンドルのミッションだし。

 自分以外に誰も、

 ハンドル握らせたこと

 なかったんだけど」


「それでそれで」


帰る僕を見送りに来たはずが、

そのまま1時間以上、立ち話しした。


うれしかった。


これまで、

それほど饒舌ではなかった甥っ子が、

楽しげに話す姿が、

たまらなくうれしかった。


「それはねぇ、

 だいぶ好きなんだよ」


「そうなのかなぁ」


お尻をくすぐられるような心地で、

甘くてふわふわした甥っ子の話を、

全身で味わった。


その後も、何回か顔を会わせて、

恋路というのか、経過というのか、

甥っ子と彼女の近況を聞いた。


「夜中にカラオケ行って・・・」


「それでそれで」


甥っ子の話を聞きながら、

にやけたバブルヘッド人形みたいに、

うんうんうなずいていた。


甥っ子の、

こんなうれしそうな顔は、

見たことがない。

こんなにおしゃべりな

甥っ子の姿も、

これまでには見たことがなかった。


本当にうれしかった。


親馬鹿ではないので、

叔父馬鹿なのか、

それともただの馬鹿のか。


とにかく、

わがことのように、うれしかった。



しばらく月日が経過して。



甥っ子の顔に、変化があった。


どこかつまらなそうな、

やや尖った顔だった。


何か、あったのか。


そう思ったけれど、

僕は何も聞かなかった。


甥っ子の車に乗せてもらい、

近所をドライブした。


助手席で風を感じながら、

背後に流れる景色と、

サングラスをかけた

甥っ子の横顔を見た。


口もとに

髭を伸ばした甥っ子は、

映画の一場面みたいに

かっこよかった。


家の前で、車を停めて。

停車した車内に座ったまま、

二人、話しはじめた。


車の話、音楽の話、

他愛のない話で盛り上がった。


気づくと、

明るかった空が黄色く染まり、

すぐそばの街灯が

白々と灯っていた。


「そういえば。

 どう、最近。

 彼女とは」


おもむろに切り出す僕の言葉に、

一瞬、ちらりと顔を向けた甥っ子は、

止まったままの風景に目を向けて、

抑揚のない声でぽつりと言った。


「別れたよ」


「ふうん、そっか」


甥っ子が

そう言ったわけでもないが。

僕には、話したそうに見えた。

聞いてほしそうなふうに見えた。


僕の勝手な思い込みで、

僕は彼に聞いてみた。


「どうして?」


彼は話してくれた。


悔しさを少しにじませながらも、

おだやかな口調で。

腹立たしくもある内容を、

淡々と静かに語った。


詳しい内容は、さておき。


彼女の言葉を信じて待っていたのに、

約束が果たされる気配がまるでない。


それを確かめさせられるような場面を、

何度か目の当たりにするうち、

決定的とも思える出来事と

遭遇した。


『別れる気、

 ないんじゃない?』


その瞬間。


彼は、気持ちが冷めたと

話してくれた。


「そっか」


彼も、大人の階段をのぼっていた。


大好きな人に、

だまされたれたような気持ち。

信じていた人に、

裏切られたたような気持ち。


彼の痛みや苦しみはわからないが。

想像にはかたくない。


「・・・けど。

 彼女の口から、

 そう聞いわけじゃないんだよね」


「まあ、そうだね」


「自分の気持ちが、

 冷めちゃったっていうことだよね」


「うん、そうだね」


「気持ちが冷めちゃったんなら、

 どうしようもないよね。

 ・・・けど、

 自分で決めつけないっていう、

 選択肢もあると思うよ。

 もしかしてまだ、

 本当は好きだっていう

 気持ちがあるなら。

 待つわけでもなく、

 切り捨てるわけでもなく、

 ただ、距離を置く。

 無理に今すぐ、

 結論を出す必要は

 ないかもしれない。

 あとはタイミンの問題だから。

 絶対にない、

 っていうふうには、

 決めなくていいかもしれない」


おせっかいな僕は、

そんなようなことを、

甥っ子に言った。


「これ、彼女が描いたなんだよ」


うれしそうに

絵の画像を見せてくれた、

甥っ子の顔を思い出す。


悔しかったから。

腹立たしかったから。

そして少し、悲しかったから。


僕は彼を

「敗者」にしたくなかった。


彼は敗者ではなく、挑戦者なのだ。


負けたわけでも、

破れたわけでもなく、

彼は、立ち止まったのだ。


慰めも、憐れみも必要ない。


僕は、

苦みを帯びた甥っ子の顔が、

やけに大人っぽくて、

かっこよく感じた。


開きつつあった心が、

閉じかけてしまっても。

ひとつの大きな山を、

乗り越えようとしている。


そのあと、

久しぶりに会った甥っ子の顔は、

おだやかで明るい輝きを放っていた。


こうして苦みを味わいながら、

彼らも、階段をのぼっていく。


大人の階段をのぼったとしても。

どうか「大人」にはならないでくれと。

子どもじみた心で願う。


永遠の子どもであれと。

永遠の挑戦者であれと。


馬鹿な叔父は、そっと願った。



* * * *



小学生の頃から

追い続けた「夢」を、

甥っ子は現実として叶えた。


接骨院で働き、実務を学び、

国家資格を取得した。


三兄弟の中で誰よりも早く、

「目標」へ向かう一本の線路を敷いて、

迷うことなく、

ひたすら突き進んできた。


疑いも迷いもなかったはずが。

夢が現実になったことで、

現実的な現実がどんどん見えてきた。


夢は、現実となるまで、

甘美な微笑みをたたえている。


彼が甘かったわけでは、決してない。

甘い顔をして見せた現実が、

時として予想以上に苦いのだ。


処遇、待遇、お金、将来・・・。


迷わず突き進んできた彼が、

立ち止まり、迷いはじめた。


それは、悪いことではない。


自分の意思や意見を持つこと。

決められた道を、

ただ盲目的に進むのではなく。

そのとき聞こえる自分の声に、

耳を傾けられること。


誰かの言葉ではなく、

自分がそう思うのなら、

それが「こたえ」だ。


善悪でも、正誤でもなく。

世論も世間も関係なく。


本人が「?」と思ったのなら、

間違いなく「?」である。


それが、その人の「こたえ」なのだ。


まず、立ち止まること。


そして冷静に景色を見る。


偉いな、と思った。


甥っ子くらい年年齢の時、

僕は、

おかしいと思ったらすぐ、

行動に出た。


あとさきなんて考えず。

感覚と直感だけで即決してきた。


こんな叔父さんを見ているせいか。


いや。


しっかり者の姉夫婦の、

家庭環境の賜物だろう。


これまで迷わず歩いてきた甥っ子が、

初めて「壁」にぶち当たった。


まだ学生みたいに感じていたのに。


事情を話す

甥っ子の口ぶりは、

自分以上にしっかりしていた。


「まあ、いろいろあって、

 転職しようって思うんだよね」


「別の業種?」


「いや、同じ職種で」


「そうだよね。

 せっかく資格、

 取ったんだもんね。

 活かしたほうがいいようね」


「ひとまず、

 今月いっぱいまでで、

 区切りがつくから」


「じゃあ、しばらく遊べるね」


「いや、無職になると、

 支払いとか、いろいろ怖いから。

 もしかすると、

 このまま少し続けるか、

 職安とか行くかもしれない」


「職安は、

 自己都合で辞めた場合だと、

 三か月間は失業手当が

 支給されないよ。

 出頭日みたいなのがあって、

 次の仕事が決まるまでのあいだは、

 バイトとかできないよ」


「そうなの?」


「職安って、

 失業手当をもらいに行く

  場所っていうより、

 次の仕事を積極的に

 見つけるための施設だからね」


甥っ子は、

次に行くかもしれない職場を、

見学してきたと言った。

面接はしていないが、

お互いにiい感触を

得たとのことだった。


「それなら、

 もう受かったみたいなものだね」


「・・・いや。

 まだ、パパとかに話してないから」


「偉いね。

 話してから決めるんだ」


「資格取るための学費とか、

 出してもらったから」


「偉いなー。

 けど、喜んでくれるでしょ。

 パパだって転職の経験者だから」


まだあどけなさの残った顔の甥っ子が、

まるで大人みたいな話をしている。


「叔父さんみたいにならないように。

 しっかり考えて決めてね」


そんなふうに、

笑う叔父であった。



* * * * *



兄弟であっても、

三者三様。

三人ともが、みんな違う。


兄弟でもこんなに違うのだから。

他人であれば、なおのこと。


串に刺さったサだんごでもなく、

たれのかかっただんごでもない。


子どもだった三兄弟が、

大人の階段をのぼっている。


よごれや苦みや痛みを味わい、

少年の顔から、

深みのある

精悍な顔に変わっていく。


きっと自分もそうだった。


目つきの悪かった時期もある。

世間を斜めに見ていた頃もある。


生意気な顔。

強がりな顔。

大人ぶった顔。


いろいろな顔の全部が、

今の自分の顔の下地に、

幾重にも塗り込められている。


はたして今の自分の顔は、

どんな顔なのだろう。


昨日の顔と、今日の顔も違う。

明日の自分はどんな顔か。


尖ったり、丸まったり、

硬くなったり、やわらかだっだり。


ゆらめきながらも、

表裏なく、

自然な顔でいられるように。


仮面をかぶって生きるよりも、

素顔のままの、

正直な顔の自分でいたい。


だんごでも、

三共だでもない僕は、

一人、微笑みながら、

そう思うのであります。




< 今日の言葉 >


『他人を思いやる、

 温かい心を植えつけよう』


(映画『のび太と鉄人兵団』より

 人間に絶望した博士が、

 ロボットのアムとイムに、

 再び手をくわえるときの言葉)


2026/05/15

がっかり



『色の巨人』(2009年)




長く生きていると、

うれしいこともああれば、

そうでないこともある。


期待したり、

待ち望んだり、

約束したり。


 大人になると、

がっかりのj数も増えてくる。


落胆

あきらめ

失望


がっかり。


あまりにたくさんの

がっかりが続くと、

だんだん期待をしなくなる。


心理学用語で言うところの、

『学習性無力感』というものか。


何度もがっかりするうちに、

なんとなく疲れて、無気力になり、

期待することをやめてしまう。


そのもの自体だけではなく、

すべての出来事に対して

期待しなくなり、

虚脱感を抱く。



とても、危険な状態だ。



子どもの頃は、

どうだっただろう。



大人の前では無力で、

思い通りにならないことばかりで、

今よりがっかりすることが

多かったかもしれないのに。


なぜだろう。


無力なはずの子ども時代、

大人になった今よりも、

わくわく期待することを

忘れなかった気がする。


学習性無力感。


そんな学習なら、

できればしたくないものだ。



* *



何度も何度も痛い目を見て。

ついには見切りをつけて、

何も期待しなくなる。


どうにもならないことが、

増えたのか。

どうにもならないことだと、

悟るのか。


事をはじめる前から、

結果を想像して、ため息をつく。


想像力を巧みに働かせ、

悪い展開ばかりをかき集める。


経験とは、

前に進むための

智慧ではないのか。


学習とは、

行動を助けるための

資源ではないのか。


やる前から準備ばかりして、

結局、準備で終わってしまう。


「その時」は、

いつ来るのだろうか。


無計画とか無鉄砲なのが、

勇気だとは思わない。


けれども。


大人になるほどどんどん、

頭や口ばかりを動かして、

体が動かなくなるのなら。

いつか心も

動かなくなるはずだ。


動くことを忘れた心は、

ほかの誰にでもなく、

ほかの何ものでもなく、

自分自身に、

がっかりするだろう。


がっかりするのが嫌だから。


期待するのを

やめようかと思った。

信じることを

やめようかと思った。


けれども——。


それでは、

自分自身が、がっかりする。


くじけて、くたびれて、

からっぽになりかけた。


信じるとか、信じないとか、

そういう話ではなくて。


自分がなりたい自分であること。


それが、難しい。


学習や知経験が邪魔をして、

なぜか、

自分がなりたい自分になれない。


いつの間にか

できてしまった「常識」。


自分の中で、

岩のように凝り固まった

がっかりへの防衛壁。


子どもの頃と、

大人になった今と、

いったい何が違うのだろうか。


いろいろなことがわかって、

いろいろなことが簡単になって、

いろいろなことにも強くなると。

そう思っていた。


身体も大きくなって、

子どもに比べて、

体力も力もついたはずなのに。


悲しみも涙も、

軽くはならない。


心は、知れば知るほど、

弱くなるものなのか。


つよくは

ならないものなのか。


思い出してみた。


まだ子どもだった

時の気持ちを。


何もできないくせに、

何でもできると思っていたあの頃。


何も知らないからこそ、

無敵だった。


何も持っていないからこそ、

守るべきものも、

執着するものも、

照らし合わせるものも、

少なかった。


「転ばぬ先の杖」


とはいうけれど。


枷(かせ)をはめているのは、

「知識」じゃないかと。

最近、思った。



* * *



あの頃を思い出して。


「馬鹿になろう」


そう思った。


思うのは簡単だけど、

実際にやるとなると、

そう簡単にはいかないものだ。


後ろ向きな馬鹿ではなく、

前向きな馬鹿になりたい。


後ろ向きというのは、

過去ばかりを見て、

そこに囚われていることでもある。


前向きというのは、

未来のことを心配するために

心を使うことではない。


心配事を増やすために、

どんどんどんどん

情報をかき集める。


それは、智慧ではない。


がっかりが起こる前に、

未来のがっかりを避けるための

予防線だ。


第一希望を選ばず、

選択権を他者に委ねる

責任逃れの行為だ。


誰だって、

がっかりはしたくない。


できればもう二度と、

がっかりなんてしたくない。


その気持ちがどんどん大きくなって、

臆病になった「自分」は、

期待するより、

がっかりしない道を選ぶ。


不本意な消去法をくり返すうち、

知らぬ間に心がやせ細り、

かさかさに乾いてひび割れて、

本当に何も、期待しなくなる。


そんな「自分」に気づいたとき。


期待するのをやめるのではなく、

自分のなりたい自分でいられるように。

答えを外にでなく、内に求める。


外側に求めるのではなくて。

自分の中に、期待を向けてみた。


自分の気持ちを信じること。


子どもの頃は、自分を信じた。

今よりまっすぐ、自分を信じた。

混じりっ気もなく、

一点の曇りも疑いもなく。

嘘みたいな「未来」を迷わず信じた。


あのときの、

純粋な気気持ち。


それを忘れるくらいなら、

学習も、情報も、経験も、

残らずみんな捨てててやる。


がっかりなんて、怖くない。


全部、笑ってやる。


いい「思い出」だけを手に、

全部笑える馬鹿になりたい。


がっかりしなくなることよりも。

がっかりしても、毎回、

笑って立ち上がれる

「つよさ」がほしい。


大人になると、

がっかりを避ける。


もしかすると・・・。


避けてばかりいるからこそ、

どんどん「よわく」

なったのではないか。


こたつに入った、大人の自分。

大人の自分が、こたつの中から、

偉そうに言う。


「それはお前、

 事前に準備しておかなかったから

  いけないんだ。

 だいたい、いつも言ってるだろ。

 そうなる前にちゃんと情報収集して、

 学習した知識を生かさなくちゃ。

 頭がついてる意味がないって」


同じ失敗を、

二度くり返すのは、

ただの馬鹿だ。


こたつに入ったまま、

手がとどく範囲の思考を並べて、

老いさらばえていくのは

賢さなのか。


一度も失敗をしない「賢者」より、

失敗を怖れぬ「愚者」でありたい。

成功を信じ続ける「愚者」でありたい。


打たれても気づかない、

『鈍麻(どんま)』になるのは、

ロボトミーに等しい。


打たれ強くなるのではなく、

何度でも立ち上がって、

歩き出せる「つよさ」がほしい。


かつての「自分」は、

そうだった。


音楽を聴いたり、

空を見上げたり、

歯を食いしばったり、

友だちと笑ったり、

大きな声で唄ったり。


そんなふうにして、

乗り越えてきた。


がっかりを怖れず、

避けることなく、

白紙の心でまっすぐ向き合って、

何度も何度も、

思いっきりがっかりしてきた。


そして立ち上がった。


『人生は、

 できることに集中することであり、

 できないことを悔やむことではない』


と。

アーヴィング・ホーキング

博士が言った。


『賢者とは、

 自分が無知であることを

 知ることである』


と。

ソクラテスは

言ったとされる。


『がっかりと、ザ・カリーは、

 似ているけれど、全然違う』


と。

そんな馬鹿なことを

言うのは誰か。


笑い飛ばせる余裕。


がっかりなんて、気にしない。


目の前には

きれいなお花も咲いているし、

ねずみ男みたいな

格好のおばさんが

横断歩道を渡っているし、

キャラメルコーンが

想像以上においしいし、

落花生の皮が喉に張りついて

咳き込んだ拍子に、

キャラメルコーンがベッドの上で

想像以上に派手に飛び散ったりしても。


今の「自分」は

まだまだ弱っちいいけれど、

そんなに悪くもないと、

記憶の中で息づく昔の自分が、

時間を超えて笑っている。


昔の自分が、今の自分に、

がっかりしないよう。


がっかりしても、

がっかりはさせない。


ほかの誰でもなく、自分自身に。

僕は、がっかりさせたくないのです。



< 今日の言葉 >


『おひなまつりの今日は、

 セ・パ両リーグとも、

 白球の代わりに

 桜餅で試合をしている模様です』


(どちらかというとエイプリル・フール的なニュース。『ゲームの後、試合に使った桜餅は、両チームの選手ともに、スタッフ一同、美味しくいただきました』との追伸あり。柏餅でも端午の節句でもないのは、この記述を書いたのが3月だからです)


2026/05/01

惨事か賛辞か三時のおやつか



 


〜 * 〜



17グラムのベビースター。


食べるときには、

あっという間になくなる

ベビースターだが。


カーペットの上にこぼすと、

一向になくなる気配がない。


まるで毛足の根元から

にょきにょき生えてくるかのように。

次から次へと

顔を現すベビースター。


17ググラムの半分以上——

およそ10グラムほどの

ベビースターが、

いくら掃除機で吸おうとも、

なくなる気配がまったくない。


恐るべし、ベビースター。


「惨事のおやつ」


・・・ではなく。


それは、

ある夕食どきのことだった。


晩ごはんの、

サラダのお供のベビースター。


ほうれん草、ルッコラ、

ロロロッサなどの葉物に、

ゆで卵と自家製のドレッシング。

そこに、ベビースターを混ぜ込み、

おいしいサラダのできあがり。


季節の果物や、

クリームチーズや生ハムなどが

加わることもあるが。


とにかく、

ベビースターをちらっした

葉物のサラダが、

「わが家」のお気に入りの定番だ。


そう。


事件はその、

夕食どきに起きた。


4連包装の、ベビースター。


「今日は何味にしようか」


など言いながら選んだ『チキン味』。


袋を開ける際、

横方向に開けるのが硬くて、

縦方向に袋をやぶった。


冒頭の画像のとおり——。

その軌跡は、

あとで見て驚愕するほど

大胆な道筋(ルート)だった。


袋の中央部、

一刀両断するかのごとく、

さながら祝いの「くす玉」のように、

真っ二つに裂かれていた。


それはもう、見事なまでに。


これで中身が

散乱しないわけがない。



・・・皆さんもご周知のとおり。


ベビースターの、注意事項として、

袋にこそ書かかれてはいないが、

心のうちに、はっきりくっきり、

極太の、見出しゴシック文字で、

こう明記してあるはずだ。


『カーペットの上で

 ベビースターは要注意』


『特に毛足が長い

 カーペットの上では注意すべし』


いわんや、おやつで食す場合をや。

(たとえ、くつろぎタイムの、おやつで食べる場合においても、気をつけつべきだ)


・・・と。


皆さんもおそらく、

経験されたことはあるだろう。


カーペットの上に

こぼれたベビースターが、

いかにいたずらっ子かということを。


それでもなお。


いたずら好きなベビースターを、

愛してやまない恋慕情。


かくいう自分も。


細心の注意を払って、

お上品に、丁寧に、

おちょぼ口で食べたつもりが、

知らぬ間にぽろぽろと

こぼしていた自分の粗相に、

数分後か、はたまた数日後かに

気づかされる日々の連続である。


もはやこれは、

地球人の宿命である。


重力圏内で生きる私たちにとって、

ベビースターをこぼすということは

切り離すことのできない宿命なのだ。


けれども——。


袋の大半を

豪快にぶちまけたことは、

これまでになかった。


まだ、松田食品という社名で、

アルミ包装ではなく

透明のビニールで、

オレンジ色の背景に

青い線で『ベイちゃん』が

描かれきいた時代から

今日に至るまで——。


半世紀ほどの付き合いで、

袋の中身の大半をぶちまけたのは、

初めてのことだった。


ぶちまけたのは、自分ではない。


目の前の相手が、

婚礼のお祝いの

ライス・シャワーみたいに、

ベビースターを華やかに

撒き散らしたのだ。


きらきら光る、お空の星よ。

お空に散った、赤ちゃん星よ。


それは、

美しい瞬間だった。


季節はずれの花火のように、

飛び散るベビースターの残像が、

しばらくまぶたの裏から消えなかった。


僕は笑った。


おかしくて、おもしろくて、

声をあげて笑った。


場所は、僕の部屋だった。


ひとまず軽く片づけたのち、

しっかり掃除すべく、

一人の時間、

入念にベビースター処理の

作業を始めた。


それが、冒頭の感想である。


何かのゲームみたいに。

出るわ出るわの、ベビースター。


片づいたかと思いきや、

足の裏に、ぼきりと折れる、

かすかな感触。


よし、とばかりに背を伸ばすと、

よもや、足の裏に、硬いか暗色。


ベビースターとの、かくれんぼ。

いや、鬼ごっこか。

それとも、いたちごっこか。


掃除機の排気口からは、

うっすらとチキンの香りが

漂いつづける。


ちょっと入りくんだ箇所まで

手を伸ばすと、

ほこりや髪の毛に混じって、

いつのものだかわからない、

いにしえのポテコを発掘した。


なんともだらしない、

自分の醜態に苦笑しつつ。

一瞬、年代不明のポテコを

食べようかと思って、

やめておいた。


掃除は結構しているのだが。

かつてほど真剣にはしていない。

忙しさにかまけて、

本格的な大掃除は

しばらくしていなかった。


ほんの少しだけ

奥まった箇所に手を伸ばし、

軽く水拭きをしただけだったが。


心が少し、

澄み渡ったみたいに、

すがすがしくなった。


水拭きするのが大好きな僕は、

かつて、こまめに拭き掃除をしていた。


引越しを重ね、

今の居場所が

「仮住まい」のようになって。

いつしか水拭きする回数が

格段に減った。


水拭きをしていると、

なぜだか懐かしい気持ちになった。


懐かしいものが

出てきたせいではない気がした。


具体的に何かの出来事を

懐かしんだわけではなくて。

懐かしい気持ちを、思い出した。

そんな心地だった。



〜 * * 〜



同じことをされても、

腹が立たなかったり、笑えたり。


反対に、

ひどく悲しかったり、

腹立たしく感じたり。


それは、

その人に対するバロメーターであり、

自分自身の器の問題でもある。


車の扉を開けたとき、

カードレールに勢いよく

ぶつけられたり。


イスの脚のつもりで、

ずっと足を踏まれていたり。


そのとき自分が、

笑えるのか、否か。


自分の気持ちが、相手への気持ち。


相手が正しいとか、

悪いとかじゃなくて。

許せるのか、

許せないかの物差しが、

出来事を結論づける。


自分を測る、リトマス試験紙。


相手に対する気持ちと度量。


許すとはすなわち、

好意であり、信頼である。


好きだからこそ、

心が波立つこともある。


信頼。


それは、

相手に対する信用でもあり、

自分に対する自信でもある。


僕は、笑える人でありたい。


信頼できる相手を、

温かな眼差しで包んで、

惨事を賛辞に変えていきたい。


「最高!」


笑えない惨事が来る前に。

なるべくたくさん、笑っておきたい。


こんなおもしろい瞬間は、

そうそうないのだから。

腹を抱えて、笑っていきたい。


目の前の笑顔を曇らせるほど、

深刻になるような惨事は、

そんなにない。


「それで死ぬわけじゃい」と。


人生を長く生きた先輩が

言っておられた。


そんなことでいちいち怒ったり、

落ち込んでいたりしていては、

本当の惨事は乗り越えられない。


笑えないからこそ惨事であり、

笑ってしまえば、惨事ではなくなる。


たくさん笑った貯蓄があれば。

きっと惨事も、乗り越えられる。


度量と信頼。


一朝一夕にはいかないからこそ、

一事が万事の連続なんです。


カーペットにひそんだ、

チキン味のベビスターを収穫しながら、

もっともらしいこと思った

昼下がり。


あまりにもベビースターを

追いつづけたせいで。


「やった〜」


の、『〜』までもが、

ベビースターに見え始めた、

そんなある日のお話でした。


・・・と、いうわけで。


そろそろおやつの

時間にします〜〜〜〜。



< 今日の言葉 >


「きみの膝は、

 ひざ小僧というより、

 ひざ親父だね」


(『それっていい意味?』シリーズ〜其の317)


2026/04/15

すばらしき瞬間




 




冒頭の絵は、

公園を散歩していて、

もふもふのわんこと

目が合った瞬間の風景だ。


おそらく女の子であろう

そのわんこは、

飼い主にリードで引かれて、

しとやかに屈みこみ、

アスファルトの地面に

お小水をしていた。


その瞬間に見せた、仕草、表情。


残念ながら、

カメラもスマホも手に持っていなくて。

左手に、ボタンを押し間違えて買った、

グレープ味の

カルピスソーダがあるのみで、

写真に収めることは

間に合わなかった。


代わりに。


その瞬間を、

こげつくほど

目に焼きつけた。


時間にしておそらく、

2秒から3秒。


瞬きもせず、

わんこの姿を見たまま、

僕は、

じっと目の奥に焼きつけていた。


記憶した映像を

何度も再生し、

何度もなぞって

イメージを抽出した。


その絵が、これだ。


瞬間。記憶。印象。

再生。回想。伝達。


おもしろかったもの(こと)を

誰かに伝えたくて。


人は、何かに記憶させて、

表に出して、伝える。


もちろん、伝えないまま、

記録として残す場合もあるが。


この営みこそが、

表現の原点なのかもしれない。



* *



先日、

かつての教え子たちと

お花見に出かけた。


歩道橋を渡りながら、

おしゃべりをしていた。


「・・・スイスは、

 チーズとかの、

 乳製品がすごくおいしかった」


そう話した矢先。


向かいから、

牛の「着ぐるみ」を着た男性が、

自転車を押しながら現れた。


白黒の、

ホルスタイン模様の、

牛の「着ぐるみ」。


既製品と思われる

牛の「着ぐるみ」は、

フードに耳と角が付いていて、

顔は「人間」そのままだ。

もちろん「鼻輪」もしていない。


チーズ。乳製品。

牛。


おちち(乳製品)の話をしていて、

嘘みたいなタイミングで

現れた「牛」は、

僕らの横を通り過ぎた。


ふり返り、

階段を見上げると、

牛のしっぽが、

ふりふりと揺れていた。


僕ら三人は、みな、

カメラやスマホを持っていた。


けれど、誰も、

手にはしなかった。


ただ、口を開けて、

牛(男性)が

自転車を押していくのを、

黙って見ていた。

じっと、黙って、

牛(男性)の姿を見送っていた。


牛(男性)の動きにつられて

ゆらゆらと揺れる尻尾は、

ゆるやかな弧を描き、

まぶしい空に向かって

伸びていた。


その牛(男性)の後後ろ姿が、

やたらと鮮やかに残っている。


なせとか、

どうしてとか、

何のためにとか、

そういう疑問など後回しにして。


僕らはただ、

牛(男性)の後ろ姿を、

眺め続けた。


そして、笑った。


この上なく

絶妙なタイミングで

現れた牛——

牛の着ぐるみを着た男性の姿に、

僕らは声をあげて笑った。



同じ日に、

ものすごく大きな荷物を

頭に載せて歩く、男性の姿も見た。


社会科の教科書で

見たことがある、

熱帯地方で働く人みたいに。


頭に大きな荷物を載せた男性は、

両手をゆったり振りながら、

すたすたと足早に歩いていく。


荷物を持たない

僕たちよりも速く。

ランウエイを闊歩する

ファッション・モデルのごとく。

背筋をぴんと伸ばした姿勢で、

手ぶらみたいな勢いで、

表通りのほうへと消えていった。



お店や人でにぎわう

アーケードでは、

人工石の地面に正座して、

唐揚げを食べている

小さな女の子がいた。


公園では、

先ほど見た、

イチゴ飴売りの

中東系の男性とたまたま同じ、

緑と紺のボーダーの

ポロシャツ服を着た男性が、

子供とサッカーをしていた。


ベンチに座って、

カレーパンを食べる目の前では、

何のコスプレかわからない

着物姿の若い女性2人が、

何語かわからない言葉で

楽しげにずっと話しながら、

撮影していた。



中華料理店で、

テーブル番号の書かれた

しゃもじを掲げると、

アフリカ系の

ショートカットの女性店員が

注文を聞きにやってきた。

その、さわやかで、まっすぐな、

やさしい眼差しが、

心に残った。



入るつもりはなかったのに。

ふと、前に食べた、

バングラデシュのお菓子を思い出し、

ふらりと入ったお店の奥に、

日本では滅多に見かけない、

イタリアで出会った

おいしいお菓子が置いてあった。

(その、滅多に見かけないはずのお菓子が、セール品として売られているのを見つけたと・・・つい先日、食べたばかりでもある。そうなると、もはや、滅多に見かけないという肩書きの信憑性が、やや薄らぐのも否めない)


迷わず手に取り、買って帰った。


おみやげに買ったと話したら、

ちょうど今日、

そのお菓子のことを

思い出していたと言われたり。


すばらしい瞬間は、

形に残らないことが多い。


形にこそ残らなくても。


すばらしき瞬間は、

花火のように鮮やかに、

心の奥で炸裂して、

夜空に残った残像みたいに、

いつまでも消えない。


ビルとビルのあいだにきらめく、

金色の夕陽。


風のない、

なめらかな川面に映った、

16世紀の街並み。


街の広場で乗った、

夜のメリーゴーランドから見た景色。


笑った顔。

口の形。

笑い声。


一瞬の表情。

瞬間の姿。

刹那の風景。


すばらしき瞬間は、

色あせるのではなく、

むしろ色濃く抽出されて、

記憶を彩る。


加工でも、美化でも、

捏造でもなく。


感性による、

自由な取捨選択。


現象の解釈にこそ、

表現の源泉があると言える。



* * *



最近、

思ったことがある。


残すことも大切だけれど。

その前に、

目の前の風景を、

目の前のすばらしき瞬間を、

まず、しっかりや味わいたいと。


その上で記録に残したい。


記憶の前に、記録があっては、

原体験ではなく、追体験になる。


はっきり、くっきり、

鮮明には見えなくても。


瞬間の空気や、色や、

匂いや、音や、形を感じたい。

何の色づけもされていない

生の景色を、

自分の心で感じたい。


笑ったり、驚いたり、

感動したり。


切り取られた非日常よりも、

生の日常がいとおしい。


名前が付けられたフィクションよりも、

まだラベルすらも付いていない現実に、

心がときめく。


目の前にほとしる、

すばらしき瞬間。


同じ瞬間は、二度とない。


明日や来年には、

もう、そこにない。


今この瞬間を、見逃さないように。

目の前の世界を見つめたい。


・・・なんてことを、思ったりして。



行動に

意味を求めていなかった

あの頃。


熱量は、今より高かった。


熱量が高ければ高いほど、

記憶の濃度と解像度度は

深く、高く、濃密になる。


記憶の感度も集中力も、

熱量の高さに比例する。


楽しむことに、意味などない。


体験がなければ、記憶もない。


意味を求めすぎるあまりに、

心と体が、いつしか、

頭に支配されていた。


野性に帰ろう。


すばらしき瞬間は、

理性が選ぶ選択など

待ってくれない。


野性になろう。


うつくしさとは、

きらめきであり、

ただしさではない。


野性に生きよう。


瞬間を生きてこそ、

命が輝く。


死んだ目で、

他人の時間を長生きするのか。

嘘のない眼差しで、

自分の命を燃やすのか。


何も考えずに書いた手記。


ここに、意味など存在しない。


瞬間の集積。


野性的な理性。


知性的な野性。


僕は、

すばらしき瞬間を、

ここに残す。


これまで集めた、

すばらしき瞬間。


瞬間の火花に

照らされる感性。


ここに、意味はない。

あるのは、すばらしき瞬間だけ。


自分が当事者であり、

主人公であるために。

正直な自分が、正直に選ぶ。


目の前の

すばらしき瞬間を、

生で感じたい。


さながら、

かわいいわんこのように。


理性という名のリードをちぎり、

意味など問わず、野性に任せて。

お皿に盛られたおいしいエサを、

お腹いっぱいに食べて、

お部屋の中で

ぬくぬくと生きていlきたいっす。







< 今日の言葉 >


「今年の休みは、ハ・・・・

 ワイハーに行こうかな」


(「ワイハー」の前に、

 「ハ」という声を

 聞いた気がしたが。

 何も言えなかった、

 90年代後半の

 甘酸っぱい思い出=♡)


2026/04/09

チャオ! バベーネ






チャオ!

わたし、バベーネ。


みんなはわたしのこと

「バベちゃん」ってよぶの。

好きなものは、

とりのささみと

チーズかまぼこ(からくないやつ)


趣味は、さんぽとおひるね。


さいきん、

カフェめぐりにも夢中かな。


よかったら、

おともだちになってね!


チャオ!バベーネ






よろしくね






2026/04/01

見えない合図


『台風の日』(2014年)



 *



何かをしようとするとき。


いきなり不具合が起きたり、

すんなりといくはずのものが滞ったり。

不快なことや、ややこしいことが

やたらと頻発したり、とか。


困難や試練とはまた違う、

明らかに不自然とも思える「障害」——

「ノイズ」と言ってもいいだろうか。

たび重なる「障害」が

行く手を阻むことがある。


そのときは気づかないのだけれど。

ふり返って考えてみると、

それは、何か「合図」のような

ものだったのかもしれない。



* *



例えば。


そこに向かおうとすると、

なぜか急に車の調子がおかしくなる。


僕は、古い車に乗っていた。

電子備品の少ない、機械式の車だ。

製造されて50年近く経過した車は、

乗り始めて20年ほどの

付き合いだった。


仕事や遊びに出かけて。

故障するのは、

自宅に戻ったときだったり、

翌日の、何でもないときだったりした。


もちろん、出先などで

故障することもあったが。

時間の余裕もあり、

何とかなることが

多かったように思う。


天候や体調、

スケジュールなどを無視して、

無理矢理、強行しようとしたとき。

何かを訴えるみたいに、

エンジンがかからなくなったりした。


「行くな」と言っている。


そんなふうに聞こえた。



ある日のこと。


他県の山あいで、

車が故障した。


真夜中だった。


まだ、

スマートフォンは登場しておらず、

友人が持っていたのは、

いわゆる「ガラケー」だった。


携帯を持たない僕は、

電話だけでなく、

何の情報も持っていなかった。


真っ暗な道を歩いた。

何となく、

これから向かう東へと、

とぼとぼ歩いた。


白々とした明かりが見えてきた。


まるで嘘みたいに。


日本自動車連盟(JAF)の支社が、

そこにあった。


真夜中に、

徒歩で訪問する僕らを見て、

隊員のみなさんは

驚きを隠せない様子だった。


事情を話し、現場に向かった。


交換用の部品がなかったため、

応急処置で、

何とかエンジンがかかるように

手当てを施してくれた。


いつまた止まるかは

わからない状態だが。

ひとまずは安定して

エンジンは回り続けていた。


涙を流さんばかりの勢いで、

感謝したのは言うまでもない。


「どこへ行く

 つもりだったるの?」


救助隊員の男性が

僕たちに尋ねる。


「富士山を、見ようと思って」


「で、これから

 どうするの?」


友人と二人、

顔を見合わせていると、

男性が静かに言葉を継いだ。


「ぼくなら帰るね。

 今日のところは無理せず、

 戻ったほうがいいと思うよ」


思惑を見透かさされた僕は、


「そうですよね・・・」


と、苦笑いして、

隊員の車を見送った。


車は、東へ向かった。

西ではなく、東へ向かった。


友人は、助手席で眠っていた。

真っ暗な峠を、茶畑のあいだを、

どんどん走って街に出た。


排気音が、不規則になった。


エンジンが、静かに息をひそめる。


そして車は動かなくなった。


国民的服飾店の駐車場を借り、

車を停めて、朝を待った。


「電車の音がする」


最寄りの駅まで歩き、

電車に乗って、市街地に出た。

8トンの積載車を借りて、

地元の整備工場まで車を運んで、

借りた積載車を

レンタカー屋さんへ返却し、

電車でまた地元に帰った。


自宅に着いたのは、夜中だった。


今でも友人と語り継ぐ、

「いい思い出」ではあるけれど。


「行くな」


という合図は、

そこらじゅうに

あふれていたのだと思う。


実際、隊員男性にも

そう言われたわけだし。


「行くな」という合図。


目的地へ行けなかったことで、

「そこ」に行かずに

済んだのかもしれない。


現実に「もし」は存在しない。

答え合わせなど不可能だけれど、

結局のところ、

無茶で無邪気な楽しい思い出だけが、

手元に残っている。



* * *



長い付き合いだったからか。

古い車は、よく「合図」を知らせた。


どれもみな、

あとから「そう見立てた」だけの

ことかもしれない。


それでも。


少しばかり不自然なほど、

くりかえし起こる合図の数々は、

無視しようにも

素通りできないものもあった。


その人が乗ると、

かなりの確率で不具合が起こる——。

そんな現象も、

「合図」のうちのひとつだった。


その人は、

よく物を壊す人だった。

故意ではないが、

不注意からくるものも多く、

それ以外にも、

いきなり電子レンジが

小爆発を起こしたり、

電球が音を立ててショートしたり、

怪奇現象とも思えるほどの「故障」を、

何度か目の当たりにしてきた。


人と人も、人と物も。

おそらく、相性があるのだろう。


物質どうしが起こす、

化学反応のように。


自分とその人との

相性もあっただろうし、

その人と物との

相性もあったと思う。


とにかくその人は、

よく物を壊した。

昔からそうだったと、

本人からも聞いた。


あわてて落ち着かなくなったり、

いらいらと不機嫌になったとき。

何かが、壊れた。


サイコ・キネシスの持ち主みたいに。

思念で物を破壊しているふうに

見えたこともあった。


きっとその人との

相性がよくなかったのだろう。

僕は、その人といるとき、

よく頭が痛くなった。


これも、合図のひとつだろう。



また別の話。

なぜかその人と話すとき、

声が出にくいことがある。


そういう相手が、数人いた。


どうしてかはわからない。

が、確かに苦手な相手だった。


体が示す、愚直な合図も、

見えない合図のひとつだろう。



* * * *



嘘みたいに

騒音がひどい場所があった。


すぐ近くに

スーパーマーケットがあった。

とても便利だが、難点があった。

夜中に何度も、トラックが来るのだ。


肉、野菜、魚など、

仕入先の業者が違うせいか、

深夜の時間帯から早朝にかけて、

おだやかとは言いがたい音が

真っ暗な住宅地に響いた。


23時、1時。3時、5時・・・

朝7時台には、

従業員の元気な挨拶と

楽しげな会話が、

にぎやかに聞こえる。


背後の家には、小型犬がいた。


深夜以外は、ずっと吠えていた。

きゃんきゃんきゃんと、

休むことなく何時間も

吠え続けていた。


疲れないのかと思うくらいに。

毎日ずっと、やむことなく、

きゃんきゃん激しく吠え続けていた。


飼い主がときどき叱ると、

ほんのわずかのあいだ、

大人しくなる。

それも束の間、

また元のように吠えたてる。


耳が、

静寂を忘れるくらいに。

小型犬の吠えたてる声が、

BGMのように

景色の中に溶け込んでいた。


いつか慣れるのだろう、

と思ったが。

慣れるどころか、

ますます気になるようになった。


うるさいと思うのは、

自分だけなのか? 

と、疑問に思った。

自分は神経質なのか?

と、首をかしげた。


夜、まったく寝られなかった。


夜だけでなく、

昼間も休眠できなかった。


向かいの家が、工事を始めた。

ものすごい音で、

朝から夜まで、工事をしていた。

屋内の改装のためか、

昼夜、天候を問わず、

朝や夜間にも作業を続けた。


ここにはいられない。


そう思った。


思えばここへ向かうとき、

いろいろな「合図」があった。


けれども僕は、

それを無視した。


そこへ行く必要があったからだ。


まるで、

映画『シャイニング』

そのものだった。


合図を無視して、

ざわつく心に蓋をして、

聞こえないふりをして

無理矢理進んだ。


その結果。


合図が聞こえないほどの

騒音(ノイズ)に包まれた、

苦難の生活が待っていた。


合図に従うのは、

「わがまま」ではないのだと。

今ならはっきりそう言えるのだが。


当時の僕は、孤立していた。


世界中がパンデミックで、

地元に帰れず、

話せる相手がいなかった。


地元ではないその場所で、

自分のことを深く知らない人に

話してみたところ、

事の重大さが伝わらなかったり、

我慢や辛抱が足りないのだと

諭されたりして。

自分が感じた「合図」も

単なる「わがまま」や

「気難しさ」として塗り替えられる。


多数決は、あてにならない。


そこに暮らす人には、

感じられないものもある。


合わないのは、僕のほうだ。


歓迎されなかった、

招かれざる「客」。


よそ者の僕には、

頭上をかすめるほどの

ジェット機の音が、怖かった。


「行くのはやめろ」

「引き返せ」

「来るべきではない」


たくさんの合図を無視した僕は、

これからはもう、

合図を軽んじないように

しようと思った。



* * * **



『当たるも八卦、当たらぬ八卦』


などという言葉がああるように。


「合図」でも

何でもなかったものも、

あとから見れば、

どんなふうにだって解釈できる。


「合図」なんて、ない。

全部、こじつけの思い込みにすぎない。


そう思うなら、

それもひとつの見解だ。


自分の選択を正当化するため、

原因論として

仕立て上げているだけかもしれない。


ただ言えるのは。


うまくいくときには、

ことごとく物事がすんなりと運ぶ——。

そんな場合が、あったりする。


間違えて解約してしまったおかげで、

通信機器が使えなくなり、

いろいろ思案しながら

別の方法で「復帰」を進めたら、

間違えて解約してしまったはずのサービスが、

後日、終了することとなった、とか。


裏目かと思われた結果が、

裏ではなく、表に転じていく。


予約を取るとき、

月曜日はここしか

空いていないと言われ、

無理に時間をつくるのではなく、

少し先になることを承知して、

言われた日時に予約を入れたら。

それ以前にはなかった準備が整い、

万全の状態予約日を迎えられたり。


すんなり、というのは、

時間的な早さだけではなくて。

円滑に、滞りなく、

快適に進んでいくことも含む。


そんなとき、

見えない合図がそっときらめく。


「こっちでいいよ」

「間違ってないよ」

「さあ、おいで」


そんな声が、

聞こえる気がする。


どうでしょう。


そんな経験、みなさまにも

ございますでしょうか?


無理や意地を通そうとすると、

必ずどこかに歪みができる。


押し通すのではなく、

受け入れる。


すると、道が開けてくる。


進むべき道が、見えてくる。


同じに見える世界でも、

高さの異なる領域が

幾層にも重なっていいて。

違う高さの場所へと紛れ込むと、

おかしな歪みや軋轢(あつれき)が

生じるのではないか・・・。

そんなことを、思うでもなく、

感じてみたり。


地図や道しるべのように、

合図を探し、盲信して、

頼っていくつもりはないけれど。


見えない合図が、

本当に見えなくなるのは、

少し危ない。


本当はそうじゃないのに。

心をねじ伏せ、耳をふさぎ、

そうだと思い込ませるように言い聞かせ、

自分を騙してばかりいると、

いつか「合図」は見えなくなる。


合図は、

ただの「障害物」や「問題」として

解決されていく。


心に耳を傾ければ、

合図は聞こえる。


他の人には聞こえない、

自分だけの声が。


従うのかどうかは別にして。

声に耳を傾けていくことは、

大切なことだ。


間違った方向に、

頑張らないこと。


それを体感するために浴びた、

たくさんのノイズ。


今ではちゃんと聞こえている。


僕を呼んでいる、その声が。


この話が、全部嘘だとしても。


嘘から出る誠もあるわけで。



4月1日。


エイプリル・フールの嘘にしては

華やかさのかけらもない、

地味で退屈なお話だけれど。


嘘だと思う人には嘘でしかなく、

本当だと思える人には本当のお話。



人生の羅針盤として、

あなたのお役に立たんことを。


エイプリル・フール。


人を騙すことができたとしても、

自分を騙すことは、難しい。




< 今日の言葉 >


ホップ・ステーキ・肉じゃが

やっぱそうだしょもっちリカコ

そんなの関係ナイスクラップ

ギガントカワユス真剣10代チョベリバだっちゅーの♡


(1000000回唱えると、世界中の嘘つきたちがみんなチョコバナナになっちゃうっていう不思議な魔法の呪文だよ♡)