どうして人は絵を描いたり、
見たり飾ったりするのだろう。
絵画とは、神話の時代、
ひとりの乙女が恋人と別れる際に、
せめてその姿を留めようと
恋人の影の輪郭を
写し取ったことから始まった、と。
(『ブターデスの娘の話』)
日本では、古く縄文時代の早期、
今から1万6000年以上前のものと
思われる『線刻小岩偶』という
石に刻まれた「絵画」が発掘されている。
中には、腰みのをつけ、
乳房を出した女性と子どもの姿など、
人物らしき像が描かれた石などもある。
絵は、言葉の代わりなのか。
それとも、肖像画に見られるように、
写真の代わりなのか。
事実、写真技術の発展とともに、
肖像画の流れは衰退していった。
言葉も写真も映像もあるのに・・・
人はどうして絵を描くのだろう?
先日、
西村一成(にしむらいっせい)くんの
個展に行ってきた。
彼の初となる個展で
「池田満寿夫記念大賞展」受賞作品をはじめ、
色とりどりの作品が所狭しと並んでいた。
何でも会期中、描き上がるたびに、
一成くん自身が運んできては
飾っていくのだそうだ。
一成くんはずっと
音楽の道を歩んできた人で、
本格的に絵を描き始めたのは
8年ほど前のこと。
医師から統合失調症という診断を受け、
外出や対人関係を築くことが
困難になったこともあり、
絵を描き始めた。
今では80号(145.5×112.1㎝)ほどの
サイズの作品を、1日に1枚は
描き上げるそうだ。
その作品はどれも力強く、
迷いのないストロークで
楽しげに描かれている。
ときに重く苦しい絵もあるが、
それでも決して
不快な絵ではないと僕は思った。
彼の抱える苦しみやつらさは、
本人以外、誰にも分からない。
傍で見る人には
想像で語ることしかできないが。
彼の絵は、苦しみや楽しみがそのまま、
赤裸々に描かれている。
まどろっこしい“評論”はさておき、
とにかくとてもいい絵だ。
「絵を描いてる時は楽しい」
という彼自身の言葉が、
そのまま線や色になって
キャンバスに塗り込められているように感じる。
そう、彼は心から
“お絵描き”を楽しんでいるのだ。
一成くん自身、
個展や公募に興味が
あったわけではないそうだが。
周囲の人たちの勧めや協力で
作品を外に出してみて、
色々な人の感想を聞けることが
とても嬉しいそうだ。
一成くんにとって、絵は、
表現以上の役目を果たす、
大切な「架け橋」のような
ものなのかもしれない。
「いい絵だね」
「もっとたくさん観てみたい」
そんな声や公募での受賞。
それは「描いていいよ」という
後押しの声だと思う。
反対意見でも、
無視されるよりは
あったほうがましだったりする。
ずっと“お絵描き”をしていたい。
後援者(ファン)の声は、
お絵描きという行為を
“社会的に”認めてくれる、
大きな力だ。
お絵描きという、
言ってみれば「無駄」以外の
何ものでもない行為を認める声の束。
僕も、ひとりでも多くの人に
「描いてもいいよ」と言われたい。
ダメだって言う人がいてもいいから、
いいと言ってくれる人にはまっすぐ届くよう。
ずっと楽しく“お絵描き”をしていきたい。
どうして人は絵を描いたり、
見たり飾ったりするのだろう。
答えはあるようで、ない。
言葉にならないからこそ
「絵」があるのかもしれない。
音楽も絵も、正解はない。
人の数だけ形がある。
「いいよ」と言われること。
それは、その人自身が
認められるのと同じことだ。
みんな違っていいと思う。
違うからおもしろい。
好きか嫌いかは、
見る人が決めればいい。
いいも悪いも、
世の中が決めるのではなく、
見る人ひとりひとりが決めるものだから。
< 本日の格言 >
Good enough!( いいんだよ )
by Ken Shimura