2026/05/15

がっかり



『色の巨人』(2009年)




長く生きていると、

うれしいこともああれば、

そうでないこともある。


期待したり、

待ち望んだり、

約束したり。


 大人になると、

がっかりのj数も増えてくる。


落胆

あきらめ

失望


がっかり。


あまりにたくさんの

がっかりが続くと、

だんだん期待をしなくなる。


心理学用語で言うところの、

『学習性無力感』というものか。


何度もがっかりするうちに、

なんとなく疲れて、無気力になり、

期待することをやめてしまう。


そのもの自体だけではなく、

すべての出来事に対して

期待しなくなり、

虚脱感を抱く。



とても、危険な状態だ。



子どもの頃は、

どうだっただろう。



大人の前では無力で、

思い通りにならないことばかりで、

今よりがっかりすることが

多かったかもしれないのに。


なぜだろう。


無力なはずの子ども時代、

大人になった今よりも、

わくわく期待することを

忘れなかった気がする。


学習性無力感。


そんな学習なら、

できればしたくないものだ。



* *



何度も何度も痛い目を見て。

ついには見切りをつけて、

何も期待しなくなる。


どうにもならないことが、

増えたのか。

どうにもならないことだと、

悟るのか。


事をはじめる前から、

結果を想像して、ため息をつく。


想像力を巧みに働かせ、

悪い展開ばかりをかき集める。


経験とは、

前に進むための

智慧ではないのか。


学習とは、

行動を助けるための

資源ではないのか。


やる前から準備ばかりして、

結局、準備で終わってしまう。


「その時」は、

いつ来るのだろうか。


無計画とか無鉄砲なのが、

勇気だとは思わない。


けれども。


大人になるほどどんどん、

頭や口ばかりを動かして、

体が動かなくなるのなら。

いつか心も

動かなくなるはずだ。


動くことを忘れた心は、

ほかの誰にでもなく、

ほかの何ものでもなく、

自分自身に、

がっかりするだろう。


がっかりするのが嫌だから。


期待するのを

やめようかと思った。

信じることを

やめようかと思った。


けれども——。


それでは、

自分自身が、がっかりする。


くじけて、くたびれて、

からっぽになりかけた。


信じるとか、信じないとか、

そういう話ではなくて。


自分がなりたい自分であること。


それが、難しい。


学習や知経験が邪魔をして、

なぜか、

自分がなりたい自分になれない。


いつの間にか

できてしまった「常識」。


自分の中で、

岩のように凝り固まった

がっかりへの防衛壁。


子どもの頃と、

大人になった今と、

いったい何が違うのだろうか。


いろいろなことがわかって、

いろいろなことが簡単になって、

いろいろなことにも強くなると。

そう思っていた。


身体も大きくなって、

子どもに比べて、

体力も力もついたはずなのに。


悲しみも涙も、

軽くはならない。


心は、知れば知るほど、

弱くなるものなのか。


つよくは

ならないものなのか。


思い出してみた。


まだ子どもだった

時の気持ちを。


何もできないくせに、

何でもできると思っていたあの頃。


何も知らないからこそ、

無敵だった。


何も持っていないからこそ、

守るべきものも、

執着するものも、

照らし合わせるものも、

少なかった。


「転ばぬ先の杖」


とはいうけれど。


枷(かせ)をはめているのは、

「知識」じゃないかと。

最近、思った。



* * *



あの頃を思い出して。


「馬鹿になろう」


そう思った。


思うのは簡単だけど、

実際にやるとなると、

そう簡単にはいかないものだ。


後ろ向きな馬鹿ではなく、

前向きな馬鹿になりたい。


後ろ向きというのは、

過去ばかりを見て、

そこに囚われていることでもある。


前向きというのは、

未来のことを心配するために

心を使うことではない。


心配事を増やすために、

どんどんどんどん

情報をかき集める。


それは、智慧ではない。


がっかりが起こる前に、

未来のがっかりを避けるための

予防線だ。


第一希望を選ばず、

選択権を他者に委ねる

責任逃れの行為だ。


誰だって、

がっかりはしたくない。


できればもう二度と、

がっかりなんてしたくない。


その気持ちがどんどん大きくなって、

臆病になった「自分」は、

期待するより、

がっかりしない道を選ぶ。


不本意な消去法をくり返すうち、

知らぬ間に心がやせ細り、

かさかさに乾いてひび割れて、

本当に何も、期待しなくなる。


そんな「自分」に気づいたとき。


期待するのをやめるのではなく、

自分のなりたい自分でいられるように。

答えを外にでなく、内に求める。


外側に求めるのではなくて。

自分の中に、期待を向けてみた。


自分の気持ちを信じること。


子どもの頃は、自分を信じた。

今よりまっすぐ、自分を信じた。

混じりっ気もなく、

一点の曇りも疑いもなく。

嘘みたいな「未来」を迷わず信じた。


あのときの、

純粋な気気持ち。


それを忘れるくらいなら、

学習も、情報も、経験も、

残らずみんな捨てててやる。


がっかりなんて、怖くない。


全部、笑ってやる。


いい「思い出」だけを手に、

全部笑える馬鹿になりたい。


がっかりしなくなることよりも。

がっかりしても、毎回、

笑って立ち上がれる

「つよさ」がほしい。


大人になると、

がっかりを避ける。


もしかすると・・・。


避けてばかりいるからこそ、

どんどん「よわく」

なったのではないか。


こたつに入った、大人の自分。

大人の自分が、こたつの中から、

偉そうに言う。


「それはお前、

 事前に準備しておかなかったから

  いけないんだ。

 だいたい、いつも言ってるだろ。

 そうなる前にちゃんと情報収集して、

 学習した知識を生かさなくちゃ。

 頭がついてる意味がないって」


同じ失敗を、

二度くり返すのは、

ただの馬鹿だ。


こたつに入ったまま、

手がとどく範囲の思考を並べて、

老いさらばえていくのは

賢さなのか。


一度も失敗をしない「賢者」より、

失敗を怖れぬ「愚者」でありたい。

成功を信じ続ける「愚者」でありたい。


打たれても気づかない、

『鈍麻(どんま)』になるのは、

ロボトミーに等しい。


打たれ強くなるのではなく、

何度でも立ち上がって、

歩き出せる「つよさ」がほしい。


かつての「自分」は、

そうだった。


音楽を聴いたり、

空を見上げたり、

歯を食いしばったり、

友だちと笑ったり、

大きな声で唄ったり。


そんなふうにして、

乗り越えてきた。


がっかりを怖れず、

避けることなく、

白紙の心でまっすぐ向き合って、

何度も何度も、

思いっきりがっかりしてきた。


そして立ち上がった。


『人生は、

 できることに集中することであり、

 できないことを悔やむことではない』


と。

アーヴィング・ホーキング

博士が言った。


『賢者とは、

 自分が無知であることを

 知ることである』


と。

ソクラテスは

言ったとされる。


『がっかりと、ザ・カリーは、

 似ているけれど、全然違う』


と。

そんな馬鹿なことを

言うのは誰か。


笑い飛ばせる余裕。


がっかりなんて、気にしない。


目の前には

きれいなお花も咲いているし、

ねずみ男みたいな

格好のおばさんが

横断歩道を渡っているし、

キャラメルコーンが

想像以上においしいし、

落花生の皮が喉に張りついて

咳き込んだ拍子に、

キャラメルコーンがベッドの上で

想像以上に派手に飛び散ったりしても。


今の「自分」は

まだまだ弱っちいいけれど、

そんなに悪くもないと、

記憶の中で息づく昔の自分が、

時間を超えて笑っている。


昔の自分が、今の自分に、

がっかりしないよう。


がっかりしても、

がっかりはさせない。


ほかの誰でもなく、自分自身に。

僕は、がっかりさせたくないのです。



< 今日の言葉 >


『おひなまつりの今日は、

 セ・パ両リーグとも、

 白球の代わりに

 桜餅で試合をしている模様です』


(どちらかというとエイプリル・フール的なニュース。『ゲームの後、試合に使った桜餅は、両チームの選手ともに、スタッフ一同、美味しくいただきました』との追伸あり。柏餅でも端午の節句でもないのは、この記述を書いたのが3月だからです)


2026/05/01

惨事か賛辞か三時のおやつか



 


〜 * 〜



17グラムのベビースター。


食べるときには、

あっという間になくなる

ベビースターだが。


カーペットの上にこぼすと、

一向になくなる気配がない。


まるで毛足の根元から

にょきにょき生えてくるかのように。

次から次へと

顔を現すベビースター。


17ググラムの半分以上——

およそ10グラムほどの

ベビースターが、

いくら掃除機で吸おうとも、

なくなる気配がまったくない。


恐るべし、ベビースター。


「惨事のおやつ」


・・・ではなく。


それは、

ある夕食どきのことだった。


晩ごはんの、

サラダのお供のベビースター。


ほうれん草、ルッコラ、

ロロロッサなどの葉物に、

ゆで卵と自家製のドレッシング。

そこに、ベビースターを混ぜ込み、

おいしいサラダのできあがり。


季節の果物や、

クリームチーズや生ハムなどが

加わることもあるが。


とにかく、

ベビースターをちらっした

葉物のサラダが、

「わが家」のお気に入りの定番だ。


そう。


事件はその、

夕食どきに起きた。


4連包装の、ベビースター。


「今日は何味にしようか」


など言いながら選んだ『チキン味』。


袋を開ける際、

横方向に開けるのが硬くて、

縦方向に袋をやぶった。


冒頭の画像のとおり——。

その軌跡は、

あとで見て驚愕するほど

大胆な道筋(ルート)だった。


袋の中央部、

一刀両断するかのごとく、

さながら祝いの「くす玉」のように、

真っ二つに裂かれていた。


それはもう、見事なまでに。


これで中身が

散乱しないわけがない。



・・・皆さんもご周知のとおり。


ベビースターの、注意事項として、

袋にこそ書かかれてはいないが、

心のうちに、はっきりくっきり、

極太の、見出しゴシック文字で、

こう明記してあるはずだ。


『カーペットの上で

 ベビースターは要注意』


『特に毛足が長い

 カーペットの上では注意すべし』


いわんや、おやつで食す場合をや。

(たとえ、くつろぎタイムの、おやつで食べる場合においても、気をつけつべきだ)


・・・と。


皆さんもおそらく、

経験されたことはあるだろう。


カーペットの上に

こぼれたベビースターが、

いかにいたずらっ子かということを。


それでもなお。


いたずら好きなベビースターを、

愛してやまない恋慕情。


かくいう自分も。


細心の注意を払って、

お上品に、丁寧に、

おちょぼ口で食べたつもりが、

知らぬ間にぽろぽろと

こぼしていた自分の粗相に、

数分後か、はたまた数日後かに

気づかされる日々の連続である。


もはやこれは、

地球人の宿命である。


重力圏内で生きる私たちにとって、

ベビースターをこぼすということは

切り離すことのできない宿命なのだ。


けれども——。


袋の大半を

豪快にぶちまけたことは、

これまでになかった。


まだ、松田食品という社名で、

アルミ包装ではなく

透明のビニールで、

オレンジ色の背景に

青い線で『ベイちゃん』が

描かれきいた時代から

今日に至るまで——。


半世紀ほどの付き合いで、

袋の中身の大半をぶちまけたのは、

初めてのことだった。


ぶちまけたのは、自分ではない。


目の前の相手が、

婚礼のお祝いの

ライス・シャワーみたいに、

ベビースターを華やかに

撒き散らしたのだ。


きらきら光る、お空の星よ。

お空に散った、赤ちゃん星よ。


それは、

美しい瞬間だった。


季節はずれの花火のように、

飛び散るベビースターの残像が、

しばらくまぶたの裏から消えなかった。


僕は笑った。


おかしくて、おもしろくて、

声をあげて笑った。


場所は、僕の部屋だった。


ひとまず軽く片づけたのち、

しっかり掃除すべく、

一人の時間、

入念にベビースター処理の

作業を始めた。


それが、冒頭の感想である。


何かのゲームみたいに。

出るわ出るわの、ベビースター。


片づいたかと思いきや、

足の裏に、ぼきりと折れる、

かすかな感触。


よし、とばかりに背を伸ばすと、

よもや、足の裏に、硬いか暗色。


ベビースターとの、かくれんぼ。

いや、鬼ごっこか。

それとも、いたちごっこか。


掃除機の排気口からは、

うっすらとチキンの香りが

漂いつづける。


ちょっと入りくんだ箇所まで

手を伸ばすと、

ほこりや髪の毛に混じって、

いつのものだかわからない、

いにしえのポテコを発掘した。


なんともだらしない、

自分の醜態に苦笑しつつ。

一瞬、年代不明のポテコを

食べようかと思って、

やめておいた。


掃除は結構しているのだが。

かつてほど真剣にはしていない。

忙しさにかまけて、

本格的な大掃除は

しばらくしていなかった。


ほんの少しだけ

奥まった箇所に手を伸ばし、

軽く水拭きをしただけだったが。


心が少し、

澄み渡ったみたいに、

すがすがしくなった。


水拭きするのが大好きな僕は、

かつて、こまめに拭き掃除をしていた。


引越しを重ね、

今の居場所が

「仮住まい」のようになって。

いつしか水拭きする回数が

格段に減った。


水拭きをしていると、

なぜだか懐かしい気持ちになった。


懐かしいものが

出てきたせいではない気がした。


具体的に何かの出来事を

懐かしんだわけではなくて。

懐かしい気持ちを、思い出した。

そんな心地だった。



〜 * * 〜



同じことをされても、

腹が立たなかったり、笑えたり。


反対に、

ひどく悲しかったり、

腹立たしく感じたり。


それは、

その人に対するバロメーターであり、

自分自身の器の問題でもある。


車の扉を開けたとき、

カードレールに勢いよく

ぶつけられたり。


イスの脚のつもりで、

ずっと足を踏まれていたり。


そのとき自分が、

笑えるのか、否か。


自分の気持ちが、相手への気持ち。


相手が正しいとか、

悪いとかじゃなくて。

許せるのか、

許せないかの物差しが、

出来事を結論づける。


自分を測る、リトマス試験紙。


相手に対する気持ちと度量。


許すとはすなわち、

好意であり、信頼である。


好きだからこそ、

心が波立つこともある。


信頼。


それは、

相手に対する信用でもあり、

自分に対する自信でもある。


僕は、笑える人でありたい。


信頼できる相手を、

温かな眼差しで包んで、

惨事を賛辞に変えていきたい。


「最高!」


笑えない惨事が来る前に。

なるべくたくさん、笑っておきたい。


こんなおもしろい瞬間は、

そうそうないのだから。

腹を抱えて、笑っていきたい。


目の前の笑顔を曇らせるほど、

深刻になるような惨事は、

そんなにない。


「それで死ぬわけじゃい」と。


人生を長く生きた先輩が

言っておられた。


そんなことでいちいち怒ったり、

落ち込んでいたりしていては、

本当の惨事は乗り越えられない。


笑えないからこそ惨事であり、

笑ってしまえば、惨事ではなくなる。


たくさん笑った貯蓄があれば。

きっと惨事も、乗り越えられる。


度量と信頼。


一朝一夕にはいかないからこそ、

一事が万事の連続なんです。


カーペットにひそんだ、

チキン味のベビスターを収穫しながら、

もっともらしいこと思った

昼下がり。


あまりにもベビースターを

追いつづけたせいで。


「やった〜」


の、『〜』までもが、

ベビースターに見え始めた、

そんなある日のお話でした。


・・・と、いうわけで。


そろそろおやつの

時間にします〜〜〜〜。



< 今日の言葉 >


「きみの膝は、

 ひざ小僧というより、

 ひざ親父だね」


(『それっていい意味?』シリーズ〜其の317)