拾い物やもらい物が多い。
買った物でも、
原価を下回るような値段で
買ったものばかりだ。
別に買い物上手を
自慢しようというわけではない。
欲しいと思ったものが、
たまたまそういう物だっただけだ。
パソコン仕事や“お勉強”をする机。
これは、
母が幼少のころ
使っていた勉強机だ。
若気の至りで
青色に塗ってしまったものの、
古びていても頑丈で、
少しもガタはきていない。
引出しも多く、
それでいて簡素な造りが
気に入っている。
その隣の白い机は、
青い机に合わせる形で作った。
同じく木製で、
組み上げるのに
ネジやクギは使っていない。
統一感を出すため、
青い机の引出しのひとつを
白色に塗ったのだが。
統一感など、どこ吹く風、
といったバラバラ感である。
それがきっかけで
「バラバラでいいや」と
思うようになった。
机の前には、
300円で買った
まっ黄色な回転イスを置いた。
そして机の横には、
会社の更衣室などで使われる
スチール製のロッカーがある。
中に棚を作って、
本棚にしたのだ。
色合いがさみしかったので、
扉をオレンジ色に塗った。
黄色と赤のスピーカー、
オレンジと黄色のカーテン。
それに吸い寄せられるようにして
プレゼントされた、
赤地に白の水玉のカーペット。
(電気を消すと、水玉模様が光るんです)
その中に、
粗大ゴミ置場で拾った、
古い、昭和な木製の棚が混在している。
波ガラスの両開きの扉を開くと、
これまた昭和のマンガ、
『恐怖新聞』や『魔太郎がくる!!』などが
びっしり並んでいる。
そんな隙間を埋めるようにして、
観光地の土産物や置物が
ごろごろと転がるダメ空間。
カーテンごしの光を反射して、
大仏像やシルクハットをかぶった
黄金のゾウ像がぴかぴか輝く。
およそ偏差値の低そうな、
センスのかけらもない部屋だと
つくづく思う。
まったくもって
「おしゃれ」とはほど遠い。
それでも、
こういう空間がひどく落ち着く。
「部屋」とは、
その人の内面を露出した、
もうひとつの精神空間だと思う。
ということは、
僕の「精神空間」は
とんでもなくごちゃごちゃして
散らかっている、ということだ。
大きな掃除のたびに、
することがある。
それは、ゴムでできた
ゴキブリのおもちゃを、
あてもなくポイッと放り投げることだ。
そうすることで、
ちょうど忘れたころに
そいつを発見して、
毎回新鮮な「びっくり」を味わえる。
これがまた、
妙にリアルな感じで
びよよーんと出てくるのだ。
「わっ、出たっ!」
何度見つけても
色あせない驚き。
個包装なみのフレッシュ感で、
思わずのけぞる。
そのあとに続く苦々しい笑い。
もの悲しい、乾いた笑い。
自分の仕掛けた罠にはまる、
自虐的な笑いでもある。
こんなことを、
気づけばかれこれ
10年以上続けている。
話が横道にそれたが。
ほかにも祖母の家から
もらってきた棚や、
事務用品の中古品など、
高価な家具はほとんどない。
けれど、
どれも気に入っていて、
売ったり手放したりできないものばかりだ。
祖父の使っていた
古いイスがある。
じいちゃんの手づくりの、
木製の丸イスだ。
もう何十年も前につくった物で、
じいちゃんが絵を描くとき
ずっと使っていた。
最近、このイスを
椿油で磨いてみた。
古びて変色した木肌が、
みるみる油を吸い込んでいく。
見た目に「よみがえってくる」
のが分かるほど、
若々しく色つやを取り戻す
木肌を見て、
木の持つ「強さ」の
ようなものを感じた。
もしかしたら、
鉄よりも強いんじゃないか。
そう思ってしまうほど、
じいちゃんの丸イスは、
積み重ねた歳月が
いっきに輝きはじめた。
ゆるやかで、
控えめな「強さ」。
変わらない「強さ」ではなく、
ゆったりと時を刻み続ける
しなやかな「強さ」。
さながら『道(ダオ)』のごとき
ひらめきが、僕の感覚を刺激した。
死してなお訴える、
じいちゃんの丸イス。
じいちゃん死すとも
時は死なず。
アンティークや古着などで、
最初から古びた「風合い」を
求めることも一理ある。
けれども、
根底にあるのは
「本物」の持つ“仕事のよさ”では
ないだろうか。
堅牢な作りだからこそ、
歳月の変化が楽しめる。
本物だからこそ、
時代を経ても消えずに残っている。
古着やアンティークの本来のよさは、
わざわざそれらしく
“加工”して“作られた”ものには
宿りようがない。
それならば“いいもの”を買って、
自分で風味をつけていくほうが
自然かもしれない。
物の価値は、一律じゃない。
物の価値とは、
人と物との「つきあい方」で
決まってくるんじゃないだろうか。
遠回りこそ近道。
「味」や「年季」に
王道はないのだろう。
とはいえ。
遠回りばかりしていて
ちっとも前に進まない人がいるのも事実。
遠回りだと
思い込んでいたことが全部、
ただの「寄り道」や「道草」だったり。
道草ばかり食べて満腹になって、
昼寝をしているすきに亀に抜かれて。
「大丈夫。僕は、
ドジでのろまな亀ですから」
なんて言って安心してたら、
ゴールがどっちだか分からなくなって。
そんな人を、
僕はよーく知っている。
・・・誰よりもよーく、ね。
鏡に映る、遠回りの亀。
よい子のみんなは、
こんなふうにならないよう、
くれぐれも気をつけてね!
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ごきげんようのライオンちゃんは、後ろから見ると、でっかいピーマンに見える。
(何ごとも、知らなかったり見えなかったりするほうがしあわせだということのたとえ)