2023/05/06

おとなが苦手になったわけ

『舟を漕ぐ人』(2020年)





先日、ある記事を読んでいて、

涙がぼろぼろこぼれてきた。


内申点教育に悩む中学生の記事。


涙腺のゆるんだ、じじいになったのか。

それとも、その中学生の姿に

自分を投影したのか。


時流や内容は変われど、

悩み自体は変わらない。



自分は、いわゆる「不登校」ではなかったが。

中学の3年間は、毎日「地獄」だった。





小学校の、

低学年のころはよかった。


同級生が、先生のことをまちがえて、

「お母さん」と呼んでしまうような、

そんな年代までは、

ほのぼのとした空気感があった。


4年生になったとき、

担任の先生が産休になり、

代わりの先生がやってきた。


その先生がなかなかの人で、

忘れ物やよくない行為などに対して、


「ビンタ、いっぱぁ〜つ」


と、声をあげる。


体罰はよくないから、

自分で自分の頬(ほお)をたたきなさい、

と言うのだ。


女子生徒などは、

自分の頬を強く打つことができず、

何度もやり直しさせられたあげく、


「先生のをおまけしてやる」


と、思いっきり、

フルスイングの全力平手打ちを

受けることになる。


先生は女性だったが、

その平手打ちは、ものすごく痛くて、

冬場などはしばらくずっと、

ぶたれたところがじんじん熱かった。


打ちどころが悪く、耳に当たったときには、

きぃーん、と鳴ったまま、

このまま耳が聞こえなくなるんじゃないかと

思ったほどだ。


いらずらぼうずで生意気なぼくは、

ほぼ毎日のように頬をはたかれた。


「よかった。

 今日は、たたかれなくてすんだ」


そう思って感謝している自分が、

「ふつう」になるくらい、

あたりまえのように、たたかれつづけた。


忘れ物をすると、


『私は忘れ物をしました』


と書かれた大きな札を、

その日1日、首からさげてすごし、

そのまま下校しなくてはいけない。

裏に、親の「みとめ印」をもらって、

翌日、先生に提出する。


なんだそれ。


そう思ったぼくは、

帰り道、札をさげることもなく、

親に見せることもなく、

勝手に「みとめ印」をおしていた。


本当に。

いまにして思うと「笑っちゃう」くらい。

なかなかな「罰」だった。


中世の魔女狩りみたいな、

「さらし者」の精神。



「忘れ物をするから、

 こういうことになるんだ。

 忘れ物をするほうが、

 よっぽど恥ずかしいことだ」


いやいや、そうではなくて。


・・・と。


いまなら、おだやかに返せるが。

当時、小学4年の鼻たれぼうずに、

言い返せるような技量も度胸も

何ひとつなかった。


「先生、家原くんが、

 『忘れ物カード』、

 はずして帰ってました」


いつも先生からの「おまけ」をもらっている女子が、

ここぞとばかりに告げ口する。


そして「ビンタ」。

いきなり「おまけ」のほうの、

先生からの平手打ち。


もう、こうなると地獄の連鎖である。

憎しみが憎しみを生み、

告げ口が告げ口を呼び、

誰もがみんな「敵」になった。


いい子ちゃんぶるつもりはないが。

ぼくは、告げ口だけはしなかった。

それは、先生に媚びることだと思って、

絶対にしなかった。


先生の味方なんて、したくない。


そんな理由だった。

正義でも美徳でも、なんでもない。

ただの「意地」である。


ほかにも、

忘れ物などの「ポイント」がたまると、

授業後、「廊下ぞうきんがけの刑」に処せられる。


もちろん、

こんなチャーミングな

ネーミングではなかったが。

ひどく迷惑な「ポイント還元」である。


学校の、長〜い廊下を50往復。

さながら『一休さん』のように、

土下座みたいな姿勢でひたすら駆けぬける。


サッカー部できたえられた脚力で、

すいすいと、リノリウムの廊下を走りつつ。

ふと見ると、やはり女子にはきついようで、

何度も髪を耳にかけ直しながら、

はあはあと息をみだし、頬を赤らめている。


「あとなんおうふく?」


「あと35」


気をまぎらすために、

なんとなくおしゃべりしていて、

また怒られて、数がふやされる。


よけいなボーナスポイントをもらって、

がっくりうなだれながらも。

うそだけはつかずに往復した。


これもまた「意地」だった。


うそをつくのがくやしかった。

負けたみたいで、くやしかった。

だから「まじめに」やった。


そのくせ妙な技を思いつく。

ぞうきんだけをすべらせて、

廊下のはじの壁に当てるというものだ。


ぞうきんだけは、

きちんと往復しているのだから、

これは「うそ」ではない、と。

ごまかしではあっても、うそはついていないんだと、

自分に言い聞かせ、

ほかの男子や女子といっしょに、

笑いながらその「技」で、数を消化したりした。


そんな、

よくわからない自論をまともに信じて、

なんとか「罰」を乗りこえた。


おかげでいつも、

サッカー部の練習に遅れた。


4年生だけど、

ユニフォームをもらっていたぼくは、

顧問の先生に、遅れる理由を聞かれた。


事情を話すと、顧問の先生も、

ちょっと首をかしげた。



きっと、そういう「何か」が

つのったのだろう。

その先生は、途中でいなくなった。



ぼくらの教室は、少しあれた。

押さえつけていた「たが」がはずれて、

ちょっとうるさい教室になった。


後任の先生もうまくはまらず、

そのまま何となく3学期を迎え、

ぼくらは5年生になった。





5年生の担任の先生は、

やや大がらな女性だった。


1、2年生のころに、何だったか忘れたが、

接する機会があって、

ぼくはその先生に、大変気に入られていた。


そんなこともあり、

かわいがられつつ、のびのびとおおらかな

学校生活を謳歌(おうか)していた。


ぼくも、その先生のことが好きだった。



5年生最後の大掃除のとき、

廊下につづく階段で、

先生に呼び止められた。


「そうじはどうした?」


「もうおわりました」


「おわったからって、

 勝手に持ち場をはなれて、

 うろうろするんじゃない」


ぼくはびっくりした。

これまで見たこともない顔で、

聞いたことのないような口調で

きつく言う先生に、

びっくりして言葉を失った。


子ども心に思ったこと。


それは、いま、自分が

Yくんとしゃべっていたからだと。


Yくんは背が高く、大人びていて、

もう「子ども」という感じではない子だった。

実際、女子高校生と交際していて、

すでにいろいろなことを知った子だった。


以前、先生が、ぼそっと言っていた。


「あんな子といっしょにいると、

 アクエイキョウだ」


耳なれない言葉だったけれど、

しっかりと耳に残る響きだったので、

その言葉はよく覚えていた。


きっと、おもしろくないんだ。


子ども心にそう思った。


先生の言うことを聞かなかったことが。

先生があんまり好いていない子と

いっしょにいることが。

アクエイキョウになることが。

きっと、おもしろくないんだと。


そのときぼくは、

自分でも知らないうちに、

ふっと、笑った。


そこには、いびつな感情が

まじっていたかもしれない。


目の前の先生の顔が、

みるみるこわばり、

その目が、めらめらとつりあがるのを

はっきり感じた。



Yくんを持ち場に帰らせると、

ぼくだけを残して、

どういう流れかは忘れたが、

思いっきり頬をはたかれた。


大がらな先生は、

手も大きく、力も強かった。


めちゃくちゃ痛かった。


それ以上にくやしくて、

思わずきっと、にらみ返した。


「何だぁ、その顔は!」


先生は、握りかためたこぶしで、

ぼくの頬を2発なぐった。


このときのことは、ずっと忘れられない。


うらんでもないし、にくんでもない。

だた、忘れられない。

とてもかなしいことだったから。


口の中が、切れていた。

夏休みの水飲み場で飲んだ水みたいに、

うっすらと鉄の味がした。


強がりなぼくは、

学校で泣いたことはなかった。


けれど、そのときだけは、

ぼろぼろと泣いた。


先生の前をはなれ、

トイレにいたYくんに話しながら、

くやしさにあふれる涙が

おさえきれなかった。


ぼくの中で、何かがこわれた気がした。


たぶん、

おとなが苦手になった、

きっかけのひとつが、

このできごとだと思う。



翌日、顔じゅうに

絆創膏(ばんそうこう)を貼って登校した。

ぼくなりの、

くやしさの表現だったんだと思う。


こういうところが、

かわいくないんだろうなぁ。


教室のみんなが、

ぼくの顔をじろじろ見ている。

朝の会が終わって、先生に呼び出された。


やさしい顔と、やわらかな声で、

先生がぼくに語りかけた。


「そんな、大げさに。

 けがなんてしてないでしょう?」


実際、先生のこぶしには、

エメラルドの指輪がはめられていて、

口の中だけでなく、

頬も小さく切っていた。


それでも先生は、ぼくの顔の絆創膏を、

1枚1枚、はぎ取るようにはがしていった。


口もとは笑っていたけれど、

その目は、笑っていなかった。



それを期に、

となりの組の先生への思いも、

発露した。


となりの組の先生は男性で、

忘れ物をした女子のお尻や胸を触ったり、

自分の膝の上に座らせたりする人だった。


好みがあるようすで、

特定の女子ばかりを「しかって」いた。


ぼくは、そういう種類の「嫌がらせ」が、

本当にきらいだった。


暴力とならぶくらいか、

それ以上にゆるせないことだった。


プールのときなどには、

女子の胸もとを引っぱったりして、

中を思いっきりのぞきこんでいた。


一眼レフのカメラで、

女子の写真ばかり撮っているのも、

本当に気持ちが悪いと感じていた。


心の底から忌み嫌う感情が、

にじみ出てしまっていたのだろう。


気づくとその先生から、

あれこれ言われるようになった。


となりの組のはずなのに、

廊下などで顔を会わせると、

何かしらでしかられて、

手を出されるようになった。


「メノカタキ」


誰がが言ったそんな言葉も、

そのとき覚えた。



何かの出し物の練習のとき、

学年全員の前で「スキップ」をさせられた。


「おまえのスキップは、なんかおかしい」


そう言って、みんなが輪になって座る前で、

何度も何度も何往復も、

しつこいくらいにやり直しさせられた。


屈辱。


そんな言葉も、このとき知った。



そして思った。


もう、相手にしないでおこう。



まともにやりあって、

勝てる相手ではない。


相手は「おとな」だし、

「先生」だ。


絶対に「子ども」や「生徒」が

勝てないようにできている。



もう、おとなしくしていよう。


そう思った。





中学に入り、

2年生になったころ。


1人の先生に「目をつけられた」。


その男性は、

スモークがかったメガネをかけており、

それが、小学校時代の、

性的嫌がらせ先生を

思い出させたのかもしれない。


ぼくはその先生に、

1日に1回は、たたかれていた。


ズボンがおかしい、といっては平手打ち。

上着がおかしい、といっては平手打ち。

カラーはどうした、といっては平手打ち。

なんだその目は、といっては平手打ち。


もう、本当に地獄だった。


思わずにらみあいになって、また平手打ち。


意地を張って、強がって、平手打ち。


出口はどこにもなかった。



怒ると怖い父でも、

手を出されたことは一度もない。


かなしいことに、その暴力は、

けんかや八つ当たりとなって、飛び火した。




小学校で、ぎりぎりとどまっていた自分も、

中学に入って1年もすると、

知らぬまに「はみ出して」しまっていた。


詩や花を愛する文学青年にもなれず。

絵や音楽を好む芸術的青年にもなれず。

はみ出した自分は、

ちょっとやんちゃなグループの中にいた。

少なくとも、そういう「くくり」に

入れられていた。


そこにしっかり居場所をつくって、

徹底的にやんちゃをするような

「つよさ」があればよかったが。


部活に勤しみ、

ただひたすら毎日をすごすのがやっとの自分には、

正直、何が何だかわからないことの連続だった。


先生も学校も、社会の仕組みもわからない。


唄の歌詞や、本の中の言葉に励まされ。

それでも学校では、

やり場のない思いがつのるばかりで、

どうしたらいいのか本当にわからなかった。


学校はきらいじゃなかった。

友だちがいたし、好きな子もいたし。


勉強自体もきらいじゃないので、

成績はそれほど悪くはなかったが。

10段階で10か9だった評価も、

7、6、5と、ゆるやかに落ちていった。


部活が忙しく、ほとんど余暇などなかったが。


寝る前に、毎日日記を書いて、

悶々(もんもん)と考えつづけた。

しだいに1ページでは収まらなくなり、

3ページ、4ページと書き綴るようになって。


『人間とは、何のために

 生まれてくるのであろう』


なんていう気色の悪いことを、

お酒も飲まずに夜な夜な書きつらねる自分に、

胸の内を、まともに話せる相手はいなかった。


友だちにも、ここまでの話はしなかった。


「みんなもおなじだろう」


そう思っていたから。


親にも話せなかった。

きっと父は、

怒って学校へ怒鳴りこみに行くだろう。

それが怖かった。

恥ずかしいというのか。

けんかに親が顔を出すようで、

それはできなかった。


中学2年のぼくには、

黙ってやりすごす以外、

ほかに方法は見つけられなかった。





怖れていたことが起こった。


たまたま学校から

かかってきた電話に、父が出た。


相手は、担任の先生だった。


口論する父の背中に、

頼もしさと、うれしさと、感謝の気持ちがわいた。

同時に、怖れもあった。

明日学校で何を言われるのか。

それが心配だった。


関西弁の父は、いくらていねいに話しても、

どうしてもやくざっぽく聞こえてしまう。

ちょっとでも怒れば、なおのこと。


いまほど関西弁が浸透していない当時、

おまけに父はパンチパーマで、

どうしたって「堅気」の人には見えにくかった。



悪い予感は的中するもので、

翌日、職員室に呼び出された。


『14歳のぼく VS おとな8人』

(しかも職員室)


「そんなのずるい〜っ!」


と、指をさして

言えたらよかったけれど。


言えなかった。


ぼくは、先生たちをにらみすえたまま、

黙って話を聞いていた。


まともに話したって、

聞いてはくれないのだから。


早く終わらないかな、と思って、

ただただ黙って聞いていた。


けれども。


担任の先生のひと言に、

思わず顔を向けた。


「あなたの親御さんは、

 やくざか何かですか?

 それとも泥棒ですか?」


どうしてその2つがならんでいるのか、

話の流れはわからないけれど。

ぼくは思わず声をあげた。


「親のこと悪く言うな!」


声をあげただけで、

気づくと後ろからはがいじめにされて、

その場から引きはなされた。


「おお、こわい。

 親も親なら、子も子だわね」


本当にくやしかった。


14歳のぼくは、

泣きこそしなかったが、

本当に、腹の底からくやしかった。


無力な自分が、

本当に腹立たしかった。


その担任の先生は、

中学2年の新学期のあいさつで、

ぼくらにこう言っていた。


「14歳は、魔の年です」


本当にそう思った。


毎日が地獄の、魔の年だった。




中学3年になって。

学園祭のとき、

色メガネの先生に呼び出された。


公会堂の、広いロービー。

薄明かりの中で、先生は言った。


「おまえ、タバコとか

 吸ってないだろうな。

 ポケットの中身、全部出せ」


いきなりの持ち物検査。


言われるままに、

ポケットの中身をテーブルに置く。


生徒手帳、小銭、

ホコリ取りのエチケットブラシ、ガム。


「ここもだ。ここも出せ」


と、胸を強く突く。


内ポケットからは、

『禁煙パイポ(シナモン味)』。


「おまえ、タバコも吸わんのに、

 こんなもん持っとるのはおかしいだろう」


タバコくさい息でつめよる先生に、


「味が、おいしいから」


と、答える。


それは本当のことなので、

その本当が伝わったようだった。


「ほかは? 全部出せよ」


内ポケットから、

二つ折りにしたお札を出すと、

そのはずみで何かが足もとに落ちた。


それは、おたがいの中間、

ちょうどまん中あたりに、音もなく落ちた。


公会堂の、

毛足の長い絨毯(じゅうたん)の上。


避妊具の銀色の袋が、

天井からの淡い光を照り返していた。


友人からもらって、

うっかり忘れていたものだった。


そのとき、

なぜかおたがい目を見あわせて、

はっとしたような顔を浮かべた。


親といっしょに観ていたテレビで、

お色気シーンがはじまってしまったような。


照れたような、恥ずかしいような、

ばつの悪い空気が、にわかに流れた。


一瞬の、短い静寂。


なんだったんだろう。

あの感じ。


変な間だった。



「もういい、しまえ」


そう言って先生は、ぼくの顔を見た。


「おまえは、

 学校はじまって以来の問題児だ」


そのとき初めて聞いたのか、

もっと前にも聞いていたのか、

それは定かではないけれど。


ぼくには、

その言葉の意味がわからなかった。

もっとやんちゃな生徒がいそうなのに、と。

そう思った。


「おまえなんか絶対、

 市内の高校には行かせてやらんからな。

 市内の学校なんかに行ったら、

 どうせおまえなんて、

 チンピラかヤクザにでもなるのがオチだ」


おいおい、

ひどい言いようだなァ・・・。


なんて、言えるような仲でもなかったので、

黙って聞き流してはいたが。


シンナーを吸ったり、バイクに乗ったり、

金色の髪の毛をリーゼントにしたり、

そんな生徒はほかにいた。


それなのに。


なぜにぼくがそこまで言われるのか。



そのときは気づかなかったけれど。


やんちゃな友だちも、ほかのみんなも、

この色メガネの先生にだけは逆らわず、

「上手にやって」いた。


やんちゃな友人が、

先生と廊下で談笑する姿を見たとき、

そういうことか・・・・と、

ようやくにして気づいた。


太く変形したズボンも、短い上着も、

不思議と注意されないのは

「そういうこと」だったのだ。


自分がそれに気づいたのは、

卒業間近のことだった。


そして思い知った。


いくら勉強ができても、

例の「内申点」というものが、

先の進路を左右するのだと。



ぼくは本当に、

市内の学校は受験させてもらえなかった。


私立は市内も受験できたが、

公立は市外の高校しか受けさせてもらえなかった。


華々しい成績を残した部活での推薦も、

ぼくだけは「例外」だった。


「おまえのは、

 全部断ってやったからな」


と、色メガネの先生が、

わざわざぼくに教えてくれた。




学校とは、

ルールを学ぶ場所だったんだと。


あとで気づいた。


学校という芝生の上で、

みんながサッカーをしている。


1人だけ、

ボールを手に持って、

ゴールまで走っても。

馬にまたがって、

スティックでシュートを決めても。


それは、点数にならない。


反則以下の、問題外の行為だ。


そろいのユニフォームを着て、

ルールの中で、ゲームを楽しむ。

そういう規範を学ぶ場所だ。


審判に嫌われたら、

自然とジャッジも厳しくなる。


ずるをして決めた得点に抗議をしても、

判定がくつがえるどころか、

警告のカードを受ける。


相手も人間だ。

合わない相手もいる。


魚心あれば水心。

嫌えば嫌われる。



そういうことが、わからなかった。


ぼくはずっと子どもだった。



先生のことをまちがえて

「お母さん」と思ってしまうような、

そんな甘えた「子ども」だった。

「お父さん」だと勘ちがいしている

無邪気な「子ども」だった。


学校は、「家」ではない。


自分の「我」を通そうとすれば、

それはもう「問題児」だ。


自分の思ったことを言うこと。


それが正しければ正しいほど、

先生は、目くじらを立てる。


それが先生の仕事だから。



自分が「秩序」を乱していたということ。


ぼくは、それを理解できなかった。


自分を受け入れてもらうことに必死で、

受け入れることが、できなかった。



中途半端で無力なぼくは、

学校生活を、

上手に学ぶことが、できなかった。





最後に。


たしか中学1年のことだったかと思う。


その子とは、

委員がいっしょだったので、

2人で委員会に出席した。


細くて色が白く、可憐な花のような、

もの静かな女子生徒だった。


そんなわけで、前期は、

顔を会わせる機会が多かった。


無口な彼女は、ぼくが何か言っても、

特に言葉を返すわけでもなかったが。

ときどき、

笑わせることができるようになった。

どんな話をしたかは覚えていないけれど。

寡黙な彼女が笑ってくれると、

ぼくはすごくうれしかった。


彼女はいつも、ていねいな文字で、

委員会の内容をノートに書いてくれた。


ぼくは発表したり、

発言したりするだけで、

教室でも彼女が黒板に文字を書いてくれた。


2学期だったか3学期だったか。

後期になって、

彼女が学校に来なくなった。


担任と副担任の先生が、

ぼくに言った。


「家原、おまえは明るいから、

 いっしょに行って、

 学校に来るよう言ってくれ」


すごく嫌だった。


行きたくないから来ないのに。

どうして無理やり来させようとするのか。


そのデリカシーのなさに、

ぼくは本当にうんざりした。


きっぱりと断るぼくに、先生は言った。


「おまえは心配じゃないのか。

 クラスメイトが学校に

 来られなくなってるんだぞ」


断るぼくをしかりつけるようにして、

強引にその役目を押しつけると、

担任・副担任の先生とぼくの3人で、

彼女の家に訪問した。



細かいことは覚えていない。


ただ、ぼくは自分がこの役を

自分が志願して、自分の意思で、

よろこんで受けたと思われたくなかったし、

それでも彼女のことは心配ではあったけれど、

自分は学校なんてこなくてもいいと思ってるけど、

はたしてそれをどうやって伝えたらいいのか。


頭ではいろいろ思うけれど、

結局、とりとめのない話をしただけだった。


彼女の部屋で、

パジャマ姿の彼女と2人っきりで。


何かで笑ってくれた。


本当にきれいな、

花のような笑顔だった。



彼女はまた、学校に来るようになった。


そして彼女は、自ら命を絶った。



思いちがいや聞きちがいでなければ、

そういうことだ。




ぼくは、彼女がいなくなったことが、

自分のせいのような気がして、

しばらくそのことばかり考えていた。


くやしかった。


自分が行かなければ、いまでも、いつまでも、

静かな時をすごせていたかもしれない。


あのとき、しっかり断るべきだったと。


自分がそれに荷担してしまった気がして、

悔やんでも悔やみきれなかった。



彼女の部屋には、花が生けてあった。

花瓶に一輪、

たしか、赤い花だった。


うる覚えのかすかな記憶に、

パジャマ姿の彼女と、赤い花が、

いつも浮かんでくる。




卒業アルバムには、

卒業生全員が校庭に散らばった写真がある。


何百人もの生徒が、思い思いの場所で、

思い思いの姿で写っている。


そんな中、ひとり、

不自然に映る姿がある。


彼女の姿だ。


ひとりだけ1年生の姿のまま、

別の写真から

ハサミであらく切り取られた彼女の姿に、

ぼくは怒りを覚えた。




人の気持ちなんて、わかりっこない。


苦しんだことがない人間に、

苦しむ人の気持ちなんて、わかりっこない。



ぼくは、心を閉じることにした。

本当のことは、誰にも言わないことにした。


へらへら笑って、明るくすごす。

そうしようと思った。


中学生のぼくにできることは、

それくらいしかなかった。


高校に入って、

少しは変わったけれど。


中学時代は、地獄だった。



こんな話は、

ほとんど人に言っていない。


親しくしてくれた数人にだけ。


思い出す機会もほとんどなかった。




記事を読んで、急にいろいろ思い出した。


そのとき流れなかった涙が、

何十年も経って、こぼれてきた。



話したって仕方ない。


けれどもいまは思う。



言葉で救われたのだから、

言葉でお返しをしたい。




小学生、中学生、高校生にとって、

学校は「社会」のすべてに等しい。


そこで居場所を失うと、

すべてを失うのとおなじくらい、

行き場を失った気持ちになる。


けれども、それはちがう。


社会はせまい。

社会の外に「世界」がある。


世界には、信用できるおとなもいる。

尊敬できるおとなもたくさんいる。


へんてこなおとなも、いかれたおとなも、

本当にいろんなおとながいる。


おとながえらいわけでもないし、

おとなが正しいわけでもない。


えらいおとなや正しいおとなもいるし、

そうじゃないおとなもいる。




記事には、くじけてしまった自分を、

「負けてしまった」とくやむ姿があった。


「負けるが勝ち」


自分こそ、

強がりすぎて「負けた」気がする。

休まず、さぼらす、屈することなく、

ほぼ皆勤賞で登校したけど。

何かが得られたなんていう手ごたえもない。


無力感と敗北感。


ただ、負けなかったような気がしただけ。

たのしかった記憶もたくさんあるけど、

そこにいるだけで、

毎日怒られていた気がする。




もし自分が「先生」になったとき、

絶対に押しつける人にはなりたくないと、

強く思った。


だからやっぱり、

「先生」には向いていなかった。


何も教えない先生なんて、

先生じゃないもんね。



3年間なんて、あっという間。

3年よりも、

その先のほうが長い。



わずか数ミリの差かもしれないけれど。

その、数ミリの差で、

今日、いま、ここにいる。


まだまだ、わからないことばっかりで。


少しでも上手に生られるよう、

日々、奮闘中の毎日です。



大きくなった子どもは、

いつでも夢見ています。


みんながたのしい、夢の世界を。


その幻の世界を追いかけて、

日々、奮闘中の毎日です。