姉の子供たちで、
男の子ばかりが3人だ。
甥っ子どもが、
「おにいちゃん、おにいちゃん」
と3人で寄ってたかってくると、
とてもにぎやかで、えらく騒がしい。
(「おじ」ではあっても誰も
「おじさん」とは呼ばない。
別に自らそう呼ばせているわけではないことを、
ここで断っておこう)
いちばん上が何かを始めると、
2番目が真似をして、
さらにいちばん下が真似をしたがる。
まだ自分にはできないことでも、
とにかくやってみたくて仕方なく、
格好だけでも真似ようと必死で頑張る。
そんなやりとりが微笑ましい。
三者三様、性格も違って面白い。
先回の『大掃除ノススメ』とも
つながるのだけれど。
引き続き大掃除をしていて、
おもちゃ類だけでなく、
もう着なくなった服なども整理した。
そこで、ぞうきんや繊維類の
リサイクルに回してしまうには忍びない、
まだ着れるけれどもう着ない、
という衣類や靴を
誰か欲しい人にあげようと思った。
まず、友人に似合いそうな服を選び出し、
後日友人に見繕ってもらい、
気に入ったものを持ち帰ってもらった。
次に友人は着そうにないが、
誰かに着てもらいたい、
という服の中からいくつか選び出し、
姉に見てもらった。
極端に廉価な服を
買っていたわけでもないので、
10年以上着倒したものでも
それほど傷んではいない。
友人をはじめ、
姉にも何着か持って行ってもらって。
タンスのこやし同然だった服たちの
第二、第三の「人生」が始まるかと思うと、
なんだか少し嬉しくなった。
翌日、姉からメールが届いた。
そこには、
服をもらったことへのお礼に添えて、
こんなエピソードが綴られていた。
『昨日は服やおもちゃ、ありがとう。
服もだぶだぶなのに
喜んで学校に着て行ってるよ』
これは、いちばん上の甥っ子の話だ。
姉のメールによると、
彼には「兄貴がいないから」
僕のやることが「憧れらしい」とのこと。
『だぶだぶなのに
喜んで学校に着て行ってるよ』
歳のせいで、
心の琴線がゆるくなっているのか。
正直、胸がじいんとなった。
甥っ子のまっすぐさに
胸が詰まった。
甥っ子は、
すぐに着たくて我慢ができず、
『だぶだぶなのに』学校へ着て行っている。
みっともないとか格好悪いとか
そういう自意識よりも先に、
とにかく「着て行きたい」という
気持ちに突き動かされて、
その衝動を素直に体現した。
ここには、
短絡的とか幼稚とか、
そういう言葉は当てはまらない。
純粋でまっすぐな衝動。
これこそが「表現」の
源泉なんじゃないだろうかと、そう思った。
そしてもうひとつ。
自分がいちばん上で、兄貴がいないから。
だから憧れている、と。
知らなかった。
まだ、“おじさんっぽく見えないから”、
だから「おにいちゃん」と呼ばれて
いるだけだと思っていたけれど。
その呼び方の向こう側には、
本来の意味での「おにいちゃん」という
思いが詰まっているのかもしれない。
今まで、
気づかなかったばかりか、
そんなふうには考えもしなかった。
いちばん上の甥っ子は、
いつもいつも自分が「兄貴」なので、
自分にも「兄貴」が欲しかったのだ。
甥っ子が、
だぶだぶのミリタリーグリーンの
フィールドシャツを着て、
校庭をかけ回っている姿が目に浮かぶ。
ネームタグを縫い付けられた、
実物の米軍シャツ。
実際に戦火をくぐり抜けたかもしれない
フィールドシャツが、
何年も経った今、
とても平和な感じで走り回っている。
憧れの兄貴として。
甥っ子の夢を壊さないよう、
よき存在であり続けたい。
これからは一緒にレゴで遊んだときに、
夢中になりすぎて無口になったり、
「その翼の黄色、こっちの赤と交換してよ。
赤の方がぜったいいいって」
とか言ったりしない。
新しいミニカーを見て、
それどこで買った? いくらだった?
とか本気で聞かない。
レゴも3回に1回はゆずるし、
ミニカーも、甥っ子をうらやましがらせるくらい
かっこいいのを買ってきて悔しがらせてやりたい。
そう。
かっこいいアニキとは、
そんなもんだ。