2026/11/01

割れた卵





*



余命宣告をされた父は、

いったいどんな気持ちで、

その3ヶ月を過ごし、

余命をこえて

最後の1年を

どんな思いで過ごしののだろう。


余命半年と言われて、

5年間もの長きにわたり、

がんと闘った知人は、

どんな気持ちで

毎日の時間を過ごしたのだろう。


 

* *



ちっとも話を聞かなくなった母に、

いささか不満を抱いていたのだけれど。


残された時間は少ない。

ぷりぷりと不機嫌になっていても、

後悔するのは目に見えている。

悔やむのはいつだって

残された側だ。


なるべく笑顔で

笑ってあげたい。


・・・ある日のこと。

食卓に、たくさんの卵があった。


殻を割られた生卵が4つ。

2つずつ、器に入れられ、

調理台の上に置かれていた。


「よかったら卵焼いて」


どうしたのかと、

尋ねる間もなく、

母が言った。


「買い物の帰りに、

 転んじゃって。

 卵、半分割っちゃった」


僕は、母をふり返った。


「大丈夫だった?

 けがとかしてない?」


約束を破ってばかりの母に

辟易としていたはずが、

思わず自然と出た言葉だった。


「うん、大丈夫。

 お尻、打ったけど、

 けがはなかった。

 思いっきり転んで、

 せっかく買った卵が

 ぐちゃぐちゃになっちゃった」


「卵はまた買えばいいけど、

 けがしたら大変だよ」


「としくんがおってくれて

 よかった」


母が泣き出した。


母の背中をさすった。

肩甲骨が浮き出た、

骨だらけの薄い背中だった。


「やさしいねぇ、本当」


転んだ母は、

見知らぬ若い女性二人組に助けられ、

車で家まで送ってもらったそうだ。


住所を聞かれ、答えると、

カーナビに入れて

送ってくれたと。


本当にやさしいのは、

その人たちだ。


母はいつも、甘えてばかりだ。


以前も、道に迷っていて、

若い女性が、

「私もそっちに行くので」

と言って、

携帯のナビを見ながら、

目的地まで一緒に

歩いてもらったことがある。


「たぶん、そっちに用事は

 なかったと思う。

 嘘ついて

 送ってくれたんだと思う」


やさしい「嘘」だった。


その女性も、二人組の女性も、

名前を聞いても名乗らずに去った。

やさしい笑顔で、

母を見送り、去っていった。


騙す人もたくさんいるけど。

親切な人もたくさんいる。


母が、

助けてもらえる人で

よかった。


大していいことなど

してきてはいないが。

お年寄りを見たとき、

亡き父や母のつもりで

お手伝いする。


きっとその「お返し」

かもしれない。


ありがとう。

ありがとうございます。


顔も名前も知らない親切な人。


助けてくれて、

ありがとうございました。



たくさんの卵を、オムレツにした。

ふわふわのプレーンオムレツを

さっと焼いて、お皿に乗せると、

焼きたてのオムレツを母に渡した。


「いいのに。

 あんた食べな」


「大丈夫。

 もうひとつ作るから。

 食べて」


席に着くと、母が言った。


「おぉいしいわぁ、この卵。

 なんでこんなにやらかいの。

 お母さんが焼くと、

 カチカチになるのに」


言葉どおり、

おいしそうにオムレツを頬張る。


「おぉいしいわぁ、この卵」


語彙の少ない

ペッパーくんみたいに、

母は、同じ言葉をくり返す。


「買い物行く時、

 カート持って行ったほうがいいよ」


「ちょっとの買い物だから

 いいかと思ったけど。

 いかんね、

 コロコロで行かないと」


これも、もう、

何十回とくり返した

やりとりである。


「おぉいしいわぁ、この卵。

 こんなおいしい卵食べられて、

 うれしいわぁ」


何度言っても、

母は「忘れる」。

同じことをくり返す。


そのたび誰かに

迷惑をかけているのなら、

申し訳ない限りだが。


こうして無事、

家に帰ってこられているのだから。

親切なみなさんに

感謝します。


言うことを聞かず、

何度も同じことをくり返す母は、

せっかく買ってきたおいしい焼き鳥を、

小石みたいにカチカチになるまで温めて、

ボディ・スポンジみたいに

固く乾いてカサカサになったコロッケを

お皿に盛る。


「温めなくていいよ」


何度言っても、何回伝えても、

おいしかった「ご馳走」が、

カチカチでカサカサの物と化す。


「母さんは、

 煮物とか上手だから。

 焼き物はしなくていいよ」


言葉は通じても、

話は通じない。


真っ黒でカチカチの

何かの死骸みたいな炒め物に、

かつて料理上手だった母の面影は

感じられない。


けれども。


母は、料理がしたいのだ。


残された時間は少ない。


僕は、母の「生きがい」に、

もう少しだけ付き合おうと思う。


何でもないような、些細な、

小さな出来事が積み重なって、

やがてそれが特別なものになる。


不機嫌になって、

すねてたって、

仕方ない。


できれば笑顔で笑っていたい。


残された時間は少ないのだから。


きれいな景色を、

たくさんの笑顔を、

ひとつでも多く焼きつけたい。



* * *



スーパーへ買い物に行ったとき、

商品のならんだ棚と向き合い、

しゃがみこんでいる男の子がいた。


幼稚園の制服らしき

紺色の吊り半ズボンに

白シャツの男の子は、

さながら

パチンコ台と対峙する

ギャンブラーのごとき真剣な面持ちで、

商品を吟味していた。


曲がる場所を

間違えたかと思ったが。

そこはお菓子コーナーではなく、

ふりかけコーナーだった。


片手に『のりたま』を持ったまま、

考えあぐね、凍結し、

必死で悩むその姿に、

声鳴くふっと笑って通り過ぎる。


しばらくして、

その男の子と再会した。

今度はまぎれもなく、

お菓子コーナーだった。


母親と合流した男の子は、

今日のおやつを選んでいた。


あれこれと候補をあげて、

真剣に選ぶ男の子に、

母親が声をかける。


「それだとすぐに

 食べ終わっちゃうんじゃない?」


二人で一緒になって

お菓子選びをする母子の姿に、

過去の自分の残像を見た。


まるで今、目の前で、

何十年も昔の情景が

再上映されたかのように。


鮮明な記憶とともに、

なつかしい記憶が

まざまざとよみがえって匂い立ち、

現実の景色と重なった。


記憶は、幻だ。


今はもうそこにない桃源郷。

なつかしい記憶は、

二度と帰らぬ

甘い幻想にでしかない。


今現在の母とのあいだには、

決してもう二度と訪れない

遠い幻だ。


けれども、確かにあった。

存在しなかったわけではない。


もう二度と

再来しないものだとしても、

消えることも、なくなることもない、

今現在の景色につながる

ゆるぎない過去の真実だ。


2年前の僕は、

久々に「再会」した母に、

かつての母の姿を重ねた。


過去の、若々しく、

楽しかった日々を思い描き、

無意識的にそれを求めた。


人は、老いる。

不変ではない。

毎日見ていなかった分だけ、

ずっと一緒にいなかった分だけ、

記憶の中に住む「母」と

目の前の「母」とが乖離していた。


自分の甘い幻想や

理想を母に押しつけて、

美化された「かつての母」と

暗に比べていたのかもしれない。


「過去」との決別——。

「現在」を、受け入れること。


父と、緑地公園の芝生で

遊んだ記憶のように。


むき出しの膝小僧に

擦り傷をつくって泣いていた

記憶と同じように。


戻ることも、

手に触れることもできないけれど、

確かに「ここ」にある。


なくなったわけじゃない。


むしろ、輝きを増して、

曲がり角や分かれ道で

行き先を照らし、

ここまで導いてくれた

「過去の記憶」は、

数え切れないほど

たくさんある。


今の景色に気を取られすぎて、

少し見えづらくなっているだけだ。


過去を再演することはできない。


だからこそ、

今しかない今と向き合い、

真剣に吟味しながら、

ありのままを味わいたい。



時間は止まってくれない。

待ってもくれない。

減っていくだけで、

増えはしない。


時間はいつでも、

前にしか進まないのだから。


同じ過去を

くり返すのはやめて、

今をゆたかに彩りたい。




* * * *




命宣告をされた父は、

いったいどんな気持ちで、

その3ヶ月を過ごし、

余命をこえて

最後の1年を

どんな思いで過ごしののだろう。


余命半年と言われて、

5年間もの長きにわたり、

がんと闘った知人は、

どんな気持ちで

時間を過ごしたのだろう。


時間の砂、一粒一粒。

目には見えないけれど、

大切にはできる。


大切に、思うこと。


いらっしゃいませ〜」


と、迎えてくれる母の笑顔も。

やや固くなったハンバーグも。


なくなってからでは、

もう遅い。


割れた卵は

オムレツになって、

食卓に笑顔を咲かせた。


この、何でもない1日を、

そっと重ねて明日がくる。


大したことはできないけど。

なるべくなら、笑っていたい。


割れたことを嘆いていても、

卵は元に戻らない。


生きている時間が

もったいないから。


なるべくなら、笑っていたい。




< 今日の言葉 >


『長雨により、

 5期ぶりの悪化となります」


(ラジオのニュースで、下線部を耳で聞くだけだと、気持ちの悪い虫が出てきたのかと思った)