2023/10/03

(帰) 家原美術館だより#2

 








”Some dreams are

 made for children

 but most grow old with us.”


(夢は子どものために生まれるけど、

 たいていはぼくたちと一緒に

 年老いてしまうもの)


(『Burning Light』Joe Strummer)



展覧会の期間中、

自分はいつも「テーマ曲」を

もうけている。


会期中の朝、身支度の際、

テーマ曲を聴くことで、

気持ちが高まる。


今回は、中山ラビの

『あてのない1日』を聴きながら

身支度をしていた。

(→ 音源はこちら)


もうひとつのテーマ曲、

ジョー・ストラマーの

『Burning Light』。

(→ 音源はこちら)


これは、家に帰って、

夜、1日をふり返ったり、

明日の準備をしながら聴いた曲だ。



**


9月6日。

搬入日その1。

まずは作品以外の

展示品を運びこんだ。


9月7日。

搬入日その2。

作品48点を運びこむ。


空冷ビートル(タイプ1)に比べて、

セダンであるクラウンは、

たくさんの荷物が積みこめた。


5人乗りクラウンのトランクは、

ゴルフバッグ5個を

積みこめるだけの容量がある。


さすがおじさんたちの車。

すてきなコンセプトじゃ

ないですか。
































搬入日の2日とも、

雨は降っても、

濡れることはなかった。


家原利明の花言葉は、

晴男(はるお)と書いて、

「はれおとこ」と読む。


日ごろの行いが、

きっとよいのでしょうね=♡


















9月8日、設営の日。

この日は朝7時に起きて、

電車で現場へ行った。


10時から18時。

休憩するひまもなく、

8時間かけて、

なんとか展示を完了した。


イスや机、照明の準備、

プロジェクターの設置、

おみやげコーナー(物販)の設営は、

職員の方々がしてくれた。


もし完全に一人だったら、

真っ暗になっても

終わらなかったことだろう。


お手伝いしていただき、

本当にありがとうございました。


閉館時間は17時。


「すみませんでした。

 1時間すぎちゃって」


と、帰り支度をすませて、

玄関先に来てみて、

そこで初めて、はっとした。


家原美術館の看板。


お客さんがいなくなる時間まで待って、

それからかけようと思って、

すみに置いていたのだが。


おみやげコーナー(物販)の

かげにかくれて、

すっかり意識の中から消えていた。


あやうく肝心なものを、

すっかり忘れるところだった。


そこからまた20分ほど使って、

無事、看板の設置が終了した。


「あぶないところでした。

 今度こそ本当に、失礼します」


ほっと胸をなでおろし、

橦木館をあとにする。


ただ一つ。


準備したはずの

「お名前書いて帳」が、

どこへ消えたのか、

2冊とも見つからなかった。



消えた「お名前書いて帳」



家にも車の中にも見当たらず、

ひとまず同型の、

赤いままのスケッチブックで

代用することにした。



***



9月9日土曜日、初日。


台風がどうとかという話だったが。

いい具合に晴れて、

第1日目の会場を

明るく照らしてくれた。



朝から家族で来てくれた知人。

久々に会えた男児、女児と、

熱い抱擁(ハグ)。


初日は、会場も自分も、

まだまだ「慣れて」いない。


そんなとき、

見知った顔に来てもらえると、

いい暖機運転(アイドリング)になる。


会場も、絵も、

そうやって「温められて」、

場が育つ。


何年経っても

その「しくみ」はわからないが、

不思議なもので、

初日と最終日では、

会場の空気がまるで違う。


会期日の深浅、どちらがいい、

ということはないが。


おなじ展示、おなじ空間でも、

毎日少しずつ、違って感じる。


光や天候、

時間帯でもそれは違う。


だから、自然光の入る

「建物」での展示はおもしろい。


ギャラリーや美術館にはない、

見えかたの変化が、毎日楽しめる。



初日が終わり、

来館してくれた友人二人と、

食事に行った。


二人は高校からの友人で、

親友の「けんじ」ともう一人である。


「何食いに行く?」


という問いかけに、

ぼくは即答した。


「焼き鳥がいい」


スマートフォンで探す友人たちに、


「適当に歩いて見つけよう」


とうながし、

ふらふらと歩いていく。


視力2.0の友人が、

鳥という文字の書かれた看板を発見。


「そこにしよう」


と入ったお店は、

焼き鳥ではなく、

鳥専門の焼肉屋さんだった。


それがまたすごくおいしくて、

冷たいビールがよく進んだ。


三人でいるとき、

けんじは、まったくもって

聞き役だった。


押し黙った彼は、

オブジェかと思うくらいに、

牡蠣(かき)のように口を

閉ざしたままだ。


話の最中、

けんじが店内のテレビに

視線をあずけたりしたとき。

すかさずぼくは、声をあげる。


「なんだ、おまえ。

 友だちが真剣に

 話してるっていうのに、

 退屈か?

 テレビのほうが大事か?

 テレビが観たいのか?

 そんなんだったら、

 今すぐ家に帰れ!」


と「ののしる」。


するとけんじは、

声なく笑いながら、

よくわからない言い訳を口にする。


高校のころからずっと変わらない、

平和で心休まる風景である。


もう一人の友人は、

どちらかというと「やんちゃ」で、

けっして「まじめ」とは言えない

男である。


そんな彼も、歳を重ね、

いろいろなことを経験し、

いまでは少しばかり

「まじめ」になった。


病院ぎらいのぼくに、


「健康診断行けよ」


などと言う彼の姿を、

高校時代には

まるで想像しえなかった。


現在、彼の母は、

認知症が進んで、

施設に入っているそうだ。


やんちゃぼうずの彼が、

酒が回ったせいか、

ぽろりと口にした言葉が、

印象に残った。


「いまさ、施設に行って、

 おかあの面倒見とるんだけど。

 車イス押したりしながら、

 いろいろ話しかけたりすると、

 おかあが言うんだわ。

 『悪いね、ありがとね』とか。

 けどさ、

 自分のやっとることとか

 話しとることとかが、

 どこまで染みこんどるのかは、

 全然わからん。

 次の日には全部、

 忘れとるのかもしれん」


話し終えた彼の目は、

どこか遠い色をしていた。


偉ぶったぼくは、

彼に言った。


「おかあにいつも、

 うるせえなぁ、とか

 言っとったおまえが、

 そんなふうに、

 おかあとの時間を

 過ごしてることが感動するわ。

 なんかさあ、その時間って、

 めちゃくちゃ尊くって、

 すごく贅沢な

 時間なんじゃないかなって思う」


つい最近、病院で母に

車イスを押してもらったことを

思い出す。


言葉を切ったぼくは、

さらにつづけた。


「おかんに迷惑かけた分、

 その分だけ、

 お返しする時間でもあるのかもな」


最後、

自分に言い聞かせるようにして

言った、次の瞬間。


「おい、おまえ。

 人がいい話しとんのに。

 眠いなら帰れ!」


大あくびをするけんじに一喝。


三人の笑い声が、

しんみりした空気を一掃する。


10年20年30年。

高校生だったぼくらは、

ビールを飲んで、

語らっている。


展覧会初日。


当たり前のように

観に来てくれる彼らに感謝する。


2009年の、初めての展示。


14年前、彼ら二人は、

数少ない貴重な「お客さん」だった。


お客さんは家族と友人と、

ほんのひと握りの生徒だけ。


「100人のお客さん

(ファン)をつくる」


2023年。


それがかなったのかどうか。

会期中に、

しっかり感じたいと思った。



****



展覧会の会場にいると、

おもしろいことがたくさん起こる。


ミネラルウオーターの、青い容器。

たしか、スペインだったかの水で、

現在の中身は

「ミネラないウオーター(水道水)」だ。


会場に来てくれたお客さんの二人が、

口を開く。


「そのボトル、僕も持ってます。

 今朝もちょうど持ってきて、

 車に置いてありますよ」


「え! 私も持ってる!」


なんと、三人ともが、

その青いボトルを持っているのだった。


気の合う、というのか、

心の通じ合う仲というのか。


興奮に色めき立ちはするが、

驚くようなことではない。


こういうことは、よくある。


「シンクロニシティ」


展覧会では特に、

それがよく起こる。



ほかにもこんな「偶然」があった。


案内はがきを送ったとき、

『あて所に尋ね当たりません』

と、返ってきてしまい、

電子メールにて、住所を確認。


住所が変わっていたようで、

新しい住所を教えてもらった。


そのとき、

「昭和区」という、

ただそれだけのことで、


『ちなみにぼくは、昭和区の、

 「あさもと産婦人科」で産まれたよ』


と、たわむれに書いてみた。


すると、まさかの返事が返ってきた。


『え!!

 ぼくが生まれたのも

「あさもとクリニック」です。

 奇遇すぎます!』

(名称は、ぼくの時代とは変わっているけど、おなじ病院)


『それじゃあ、もう、

 兄弟みたいなもんだね』


「そうですね』


と、いうことで。


彼との距離が、

ぐっと縮まった。


彼とともに来場した友人は、

常滑市で塾を開いているとのことで、

会場に置かれた

『赤い記憶』の記録を見ながら、

いろいろと話をすると、

いろいろな点がつながって、

心の温度がものすごくあがった。


産婦人科兄弟の彼は、

近々、東京へ引っ越すそうだ。


物理的距離は離れても、

産婦人科兄弟の彼の活躍を

心から期待したい。



偶然といえば、

ブログを読んでくれたお客さんが、

自分も「気胸」経験者だと

話してくれたり。


また別のお客さんが、

今年入院していたというので、


「何で入院されてたんですか?」


と尋ねると、


「気胸って、わかります?」


と言われて。


「え! ぼくも今年、

 気胸で入院してました。

 どっちの肺ですか?」


「私は右です」


「ぼくは左です。

 それじゃあ、二人でひとつですね」


などと、

わけのわからない理屈だけれど、

それでも急に距離が縮まって、

話も心も

はずんだりしたのでした。



ほかにも、

生徒ばかりが集まる日があったり。


中学の同級生が来た日に、

中学時代のバレーボール部の

監督の娘さん親子が来てくれたり。


余談だけれど、

監督の娘さんの息子さん

(ややこしいですね)は、

「地図」を描くのが大好きで、

ひまさえあれば「地図」を

描いている。


その「地図」というのは、

地名も地形もすべて架空のもので、

自分で考えた、想像の地図なのだ。


小学3年生の彼は、

むずかしい漢字も何のその、

見たことも

聞いたこともない地名を羅列して、

おもしろい地図を描いている。


今回も新作の地図を見せてくれた。

色のついた地図は、ハザードマップだという。











監督の娘さんであるお母さんは、

うれしいことに、

ぼくの絵のスマートフォンケースを

使ってくれていた。


スマートフォンを、というか、

携帯電話を持っていないぼくは、

ほしくてもそれが買えなかったので、

現物を見て(われながら)

すごくいいな!と思った。


ほかの絵柄のケースは

実物を見て知っていたのだが、

『見ぃつけたっ!』のケースは、

初めて見た。






やっぱり、現物はいい。

画面上で見たときのほうがいいことも

ごくたま〜にあったりするが。

この「現物」は、

すごくいいものだった。


監督の娘さんも

気に入ってくれているようで、

すごくうれしく思った。



*****



いつも会場の写真を

撮りつづけてくれているお客さん。


その男性とは、

記念すべき第1回の家原美術館、

ここ、橦木館で初めて出会った。


話すうちに、

かつて自分が勤めていた

広告代理店の上司、営業職の男性と、

おなじ会社で

働いていたことがあるという事実が

判明した。


そのお客さんは、

写真を撮る仕事をしており、

技術だけでなく、

細やかな目線で写真を撮ってくれるので、

ぼくにとっては、

本当にありがたい存在である。


これまでの家原美術館の

「会場記録」なら、

氏にお願いすれば、

このうえない回顧録になること

まちがいなしだ。


今回も撮影機材を用意して、

しっかり「記録」を撮っていただいた。


そんなすてきなお客さんから、

さらにうれしい声をいただいた。


「つづけてくださいね、家原さん。

 あなたは、替えが利かない

 人なんですから」


その言葉に、

思わず涙が出そうになった。


つづけていいんだ、

いや、つづけていこう、と、

つよく思った。




家原マニア、というのか。


これまでの

「はがきコレクション」を持ってきて

見せてくれたお客さんもいる。













正確に言うと、

彼はかつての「教え子」である。


非常勤の「先生」の仕事を

していた時代の教え子の一人。

何も教えていない先生の、

名ばかりの「教え子」だ。


それでも彼は、ぼくのことを、

いつまでも「先生」と呼んでくれている。


彼は、はがきだけでなく、

2012年の家原美術館の記録を、

きれいにファイリングしたものまで、

見せてくれた。



歴代の生徒が会場に来てくれて、

ちょっとした同窓会のような

場所になる。


今回、10何年ぶりかに

「再会」した生徒もいて、

わざわざ埼玉から来てくれたと聞いて、

さらにびっくり仰天したりした。


東京から来てくれた生徒もいたし、

三重県、岐阜県、市内市外、

たくさんの生徒が来てくれた。


『焦ったり、悩んだり、疲れたり、

 そんなときは、大体決まって、

 母からのLINE、

「また先生からハガキ来たよ」と』


引っ越したりすることがあるので、

実家のほうへ送ってください、と

いう彼には、いつも、横須賀の住所に

案内はがきを送っている。


『ただぼくが貰えるのは、

 そんなメッセージと、

 だいたい指が少し入りこんだ

 写真だけで、

 ハガキはもらえません』


今回、たまたま2枚、

はがきを送った。

1枚は彼宛に、

もう1枚は「お母様」宛に。


展覧会が始まったある日、

職員の方から、

1枚のはがきを渡された。


「宛て所に尋ねあたりません」と、

戻ってきてしまった

はがきかと思って見てみると、

横須賀の、

お母様からの「お返事」だった。


『この度は、

 私にも個別にお葉書をいただき、

 ありがとうございます』


いい感じの絵はがきの裏に

書き記されたお母様の手紙に、

心がおどってうれしく思った。


みんな、とてもいい人だ。


こんな「遊び」につきあってくれて、

ぼくは本当にすごくうれしい。



******



ある日、

中学の同級生が、

ふらりと一人でやってきた。


仕事の打合せの帰りに

寄ってくれたのだという。


中学の同級生軍団とは、

ちょうど10年前、

地元で展覧会をして、

卒業以来、久々に再会した。


そのとき、


「こんなことで仕事になるの?」


と、

なかば理解できないような顔を

見せた彼女だったが。


あれから10年。


長年勤めた教員の仕事に、

終止符を打とうと決意を固めた彼女は、

これから新たな一歩を

踏み出そうとしている。


その門出を前にした彼女は、

まじめな顔で、まっすぐ言った。


「あのときはわからなかったけど。

 お金にならないことを10年以上も

 仕事にしてつづけてることって、

 すごいことだと思う」


自分はただ、

目の前のことを、思ったことを、

全力でやってきただけだけど。


そんなふうに言ってもらえると、

すごくうれしく感じた。



10年経って。


家原美術館にも、

たくさんの人が

来てくれるようになった。


愛媛、岡山、大阪、京都、

奈良、滋賀、三重、岐阜、

静岡、神奈川、東京、

埼玉、千葉・・・


2010年。

初めてギャラリーで、

展覧会を開催した。


そのときは、

布で小物を作る女性との

二人展だった。


右も左もわからぬ若造が、

何もわからぬまま、

ただただ懸命に挑んだ展覧会。


初めてのギャラリーは、

千葉のギャラリーだった。


そのときお世話になった人が、

本当にあたたかい人で、

初めての「刷り込み」というのか、

ぼくの「ものさし」は

そのときそこでつくられた。


ギャラリーの人は、

損得勘定なしでうごきながらも、

しっかり収益を上げる、

腕利きの女性だった。


ぼくのホームページを見ながら、

あれとこれとそれを

持ってきてください、と、

展示する作品を選別した。


初心者のぼくは、その声に従い、

千葉に作品を持って行った。


ギャラリーの女性は、

お客さんに説明しながら、

それらの作品を

愛情を持って販売してくれた。


ギャラリーの女性自身も、

複数枚、購入してくれただけでなく、

滞在中のお昼ごはんや、

夜ごはんなども用意してくれた。


ギャラリーには、

お手伝いをしている女性がいた。

いつもおだやかで、

やさしい笑みをたたえていた人だ。


その女性は、

お客さんだけでなく、ぼくらにも

温かいお茶を入れてくれたり、

お菓子やおまんじゅうを

出してくれたり、

話し相手になってくれたり、

本当にやさしく

迎え入れてくれていた。


そして1枚の絵を、

買ってくれた。



『無邪気な犬』(2010)




千葉での日々は、

ほんの数日間でも、

宝物のような日々だった。


ぼくは、この恩をずっと忘れない。

忘れられない。


あれから14年。

いろいろな人に出会った。


千葉での日々が、

当たり前だと思ったことはないが。

思った以上に、思っていた以上に、

恵まれていたのだな、と、

思うことが増えた。


自分もそんな人になりたい。


あのとき、

ぼくがしてもらったことは、

言葉にならないほどの

よろこびとうれしさに包まれた、

かけがえのないものだ。


だから、ぼくもそうしたい。


うつくしいものを、

いいものをあつかうのだから、

うつくしく、いい心でいたい。


初めてのギャラリーが、

すばらしい場所で

本当によかった。


直接、こんな話を

伝えたわけでもないけれど。


「三つ子のたましい百まで」


ぼくは、ずっと忘れない。



9月23日、

最終週の土曜日。


自分がどこにいるのか、

一瞬わからなくなった。


朝、会場の和室の中に、

千葉の、

ギャラリーでお世話になった

女性がいた。


お手伝いをしていたその女性は、

旦那さんとともに、

朝早くに名古屋まで

やってきたのだという。


びっくりうれしいこの出来事に、

興奮と感謝とよろこびとが

ごっちゃになって、

状況も忘れて、

とにかくひたすら

しゃべりまくっていた。


絵のことなんかそっちのけで、

くだらないような、

どうでもいいようなことで、

三人ともが笑っていた。


つい昨日も会っていたような、

そんな感じ。


時間も場所も超越して、

一気に心が溶け合う感覚。


右も左も上下もわからず、

海のものとも山のものとも

わからぬ自分に、

あたたかく親切にしてくれた人。


千葉での日々を思い出すと、

うれしくて涙が出そうになる。


千葉ではなく、

名古屋で会えたこのよろこび。


14年。


もちろんその間にも、

何度か顔は会わせていたのだが。


展覧会という場所で、

こうして顔を会わせられたことは、

自分にとって、

大きなご褒美のように感じた。


つづけていたから、ここで会えた。

開催したから、ここで会えた。


今回、

そう思える「再会」が、

たくさんあった。


再会だけでなく、

初めてのお客さんとの

「出会い」も、

たくさんあった。





いかがでしたでしょうか。


今回の

(帰) 家原美術館だより#2は、

このあたりで閉幕です。


次回、#3で

お会いしましょう。



それではマタニティ!



会場のかくしQRコード画像・その1
(2009年)




#1  ・  #3



< 今日の言葉 >


ワ ト タ ホ コ チ

ム ラ サ キ


<貨物列車の車両に記載された文字の意味>


《種別》

ワ:屋根つき(ワゴン)

ト:屋根なし(トラック)

タ:タンク

ホ:ホッパー(セメント、飼料)

コ:コンテナ

チ:長物(木材=チィンバー timber)


《最大積載量》

ム:14〜16トン

ラ:17〜19トン

サ:20〜24トン

キ:25トン以上

(記号なしは14トン以下)