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母と話していて、
ふと今日が
エイプリルフールだと
思い出した。
四月ばかを理由にする
わけでもないけれど。
母に、聞いてみた。
「ねえ母さん。
もし父さんが死んだら、
母さんどう思う?」
ここまでの記述
(過去のブログ)を
読んでこられた方には
お分かりだろうが。
父はすでに他界している。
お空の星か、はたまた
賽(さい)の河原の石くれにでも
変わっているだろうか。
とにかく父は、もういない。
「ねえ、母さん。
ちょっと想像して、考えてみてよ」
「うううん・・・
わからん、そんなの。
考えもつかん」
「それじゃあ、いくよ。
はい、今、
電話がかかってきました。
父さんが死にました、
っていう報せがきました。
はい、どう?
どんな気持ち?」
「ううん・・・」
「母さん、泣くと思う?」
「ちょっとは泣くかな。
顔見たら、泣くと思う」
そっか、泣くんだ。
と思った。
「じゃあ、葬式っていうか、
火葬場の斎場でもいいけど、
母さんは行く?」
「そりゃあ、行くでしょ」
以前は「行かない」と
言っていた母だが。
なぜか今回は
「行く」と答えた。
「母さん一人でも行く?」
「なんで一人なのっ?!
一人だったら、よう行かん」
「なんで? 怖いの?」
「怖いっていうか。
なんか、引っぱって
いかれそうで」
「大丈夫だよ、母さんは。
ぼくとか姉ちゃんとかが
引っぱってるから」
少し前には
「早く死にたい」と
言っていた母が、
今では生きることに
わずかながらも
執着をみせている。
そこで、質問を変えた。
「父さんのことで
思い出すことって、
何かある?」
「ううん・・・特にないけど。
まぁ、あれかな。
新婚旅行かな」
「北海道?」
「そう。
アイヌのとことか、
クマ牧場とか」
「いい思い出だね」
「なんていうか。
お父さんが、すごくきた」
「・・・・・」
息子としては、
なんとも返答に困る種類の
内容だった。
母自身も、
自分が口走ったことを
ごまかそうとする感じで、
あわてて口を開いた。
「新婚旅行だったから。
まあ、そういうので、
姉ちゃんができたんだわ」
これはもう、
ごまかしたというより、
太字でなぞっただけである。
舵が効かず、
もはや開き直った感さえあった。
話題の流れとはいえ、
方向転換できたはずが、
母はそのままアクセルを踏んだ。
なのでぼくも、
さらりと便乗した。
「へえ、そうなんだ。
姉ちゃん、北海道の子なんだ。
それって姉ちゃん、知ってるの?」
「知らんと思う。
言っとらんで」
「なんで言わないの?」
「別に、言うことでもないかなって」
ではなぜにそれを、
息子に言うのだ。
「じゃあ、ぼくは?」
などと聞くほど好奇心旺盛で、
天真爛漫なハートの持ち主ではないので。
ぼくはそれ以上、何も聞かなかった。
ということで。
話題を「父の死について」に戻した。
「連絡とかがないだけで。
父さんもう、
死んでるかもしれないよね」
ぼくは言葉を続けた。
「連絡先がわからなかったら、
そういうことだってありえるから。
・・・けど、そう思うと。
どう、母さん?
今、父さんがいなくて、
なんか困ってることってある?」
「特に、ない。
どこかで生きてるんだって
いうのがあるで、
べつに何もない」
その言葉を聞いて。
なんとなくぼくは、嬉しかった。
父が直接、
何かをしたわけではないのだが。
母の気持ちが、あきらかに
変わってきているように感じた。
そして思った。
父がもういないということを、
母に言わずに
つきつづけている「嘘」。
この嘘が、
今の母にとって、
けっして悪いものでは
ないということを。
『どこかで生きてる』
その安心感。
たしかに、わかる。
大阪のおばあちゃんが死んだ時。
最期、故郷の大分へ移ってしまい、
顔を会わすことなく
そのまま終わってしまった。
そのためか、
遠く離れているだけだという思いが、
そのまま残留しつづけていた。
どれくらいだろうか。
思い込みと錯覚に、
心はしばらく騙されたままだった。
死んだ、と認めることと、
今、ここにいないだけで、
どこかで生きていると思うことは、
同じ不在でも、まるで違う。
ずっとそばにいた人であったら。
もしかすると、
その残留感は、
場合によって酷なものに
なるかもしれない。
音沙汰なく、
ずっと離れて過ごしていた人ならば。
「もういないよ」と明かされるほうが、
かえってつらい場合が
あるように思う。
どこかで生きている、
という「思い込み」。
そう。
今もどこかで生きているのだ。
死んだ人は、
もう思い出されなくなったとき、
本当に死んでしまうのだと、
どこかで聞いた。
そういうこと、かもしれない。
母に父を思い出してもらいたい。
そうすれば、
なんだかわからないけど、
ちょっと嬉しい。
父と母が、
ともに生きていたという証。
そんなのが見たいのかもしれない。
感じたいのかもしれない。
たとえどんな形でも、
愛があったという足跡を、
息子のぼくは、
感じたいのかもしれない。
いや、むしろ、
母に感じてほしいのだろう。
言葉にはならない、
手触りすらもう
なくなってしまったものを、
忘れ去るのではなく、
ほんの少しでもいいから、
感じてほしいと。
* *
80歳の誕生祝いに、
母は、大切な人から、
花束をもらった。
母が娘のように
可愛く思っている人からの花は、
びっくりするほど長く咲き続け、
食卓のある部屋を
華やかに彩ってくれた。
やがてその花が枯れ、
最後の一輪までもがなくなったとき。
母が、ぽつりとこぼした。
「なんか、
花がなくなったら、
急に寂しくなったね」
「庭の椿でも生ければ?
今、すごくきれいに咲いてるよ」
ということで。
母は、ぼくの言葉そのままに、
庭の椿の枝を切り、
切子の花瓶にきれいに生けた。
とぼけた母ではあるけれど。
かつていちおう、
生け花をたしなんできたおかげもあり、
仕上がりはなかなか見事である。
「美松庵恵美子先生、さすがですね」
美松庵(びしょうあん)というのは、
母、恵美子の雅号(がごう)。
つまり、生け花の芸名である。
ちなみに日本舞踊の名は、
「花柳胡蝶花」。
胡蝶花と書いて「しゃが」と読む。
花の名前をもらったのも、
なんだか花と縁があるようで。
花を愛でる母の背中を、
静かに見守る息子でありましたが。
たわわに咲いた椿に気づいたのは、
息子ではなく、客人だった。
庭の椿を見た客人は、
後日、野放図に育った庭を指差して、
明るく声を弾ませた。
視線の先には、
白い雪柳が
匂やかに咲いていた。
正直、ぼくには、
そんな花が咲くことも
すっかり忘れていたし、
小さな花を
稲穂のように実らせる花が、
雪柳という名前だということも
知らなかった。
見ているはずなのに、
気づいていなかった。
ようするに、
そこにあることを
まったく意識していなかった。
海みたいできれいだと。
見る前に言われたときには、
姿形も
思い描けなかったのだけれど。
ひと目見て
その言葉の表現がよくわかった。
白い飛沫(しぶき)を立てて、
波立つ海。
満開に咲く雪柳は、
見事なまでに真っ白な
大海原だった。
ちょうど洗濯物を
取り込みに来た母に、
雪柳のことを話した。
「きれいだね。
名前も知らなかったし、
今、咲いてることも、
気づかなかった」
翌日、
花瓶に新たな花が増えた。
真っ赤な椿の背後に挿された、
幾筋かの雪柳の穂。
白い花が、
波のように弧を描いて
咲いていた。
きれいだった。
外で見るのもきれいだったけれど。
こうして人の手で摘まれた「自然」も、
わるくない。
それは、美しい風景を、
絵や写真にして切り取って
飾るような。
人間らしい、営みに感じる。
夕食どき、母に聞いた。
「庭の雪柳って、
誰が植えたの?」
「母さんが植えた」
「そうなんだ」
「椿は、父さんが植えたやつ。
公園の枝かなんかを、
取ってきたんじゃなかったかな」
父のよくない面である。
公園さん、ごめんなさい。
けれどもそれは、
今、見事に咲き誇り、
鮮やかに赤く咲き続けている。
母が言う。
「去年のことは覚えとらんけど。
こんなに咲いたの、初めてかもしれん」
部屋に置かれた、
青い切子の花瓶。
そこでは、真っ赤な椿と、
真っ白な雪柳が、
寄り添うようにして生けられている。
もちろん、
意図した仕業では
ないのだけれど。
こうして父と母の花が、
仲よくひとつの花瓶に収まる姿に、
何かしら感動のようなものを
覚えずにはいられなかった。
たとえ母が気づかなくても。
ロマンチック馬鹿な息子には、
そう思わずにはいられなかった。
植えられて40年ほど経った、
庭の花。
椿と雪柳。
赤い花と、白い花。
長い時間を経て、
偶然ひとつになった、
花の物語。
それもこれも、
庭を見たいという、
花を愛でる心を持った客人が
紡ぎあげたものだと。
そう思えて仕方がない。
花を、きれいだと思う心。
そういう気持ちが、
人をつなぐ。
すすけて古く、
忘れられかけた、
記憶をつなぐ。
見逃してしまいそうな些事に
光を当てて、
ぱっと色鮮やかな花を咲かせる。
花は、美しい。
心に咲いた花は、
いつまでも枯れることなく、
みずみずしく咲き続ける。
『窓辺に咲く一輪の花、
キュア マドベ!』
そんなわけで。
これからも、
心の窓辺に咲いた
ぼくという名の一輪の花は、
あなたを見守っていくことでしょう。
< 今日のお花言葉 >
親の話は きくのはな
人の悪くち くちなしで
頭は垂れて ふじのはな
笑顔あかるく ひまわりで
愛をはぐくむ ばらのはな
心清らか しらゆりで
世は移ろいて あしさいの
月は早く たちばなで
散り際さやか さくらばな
先は浄土の はすのはな
(『人生花づくし』紙コースターに書かれた言葉)