2024/12/01

価値観と想像力

 







昔の人は、トイレのあと、

わらでお尻を拭いていた。


砂でこすって、

その手を水で洗ったり。

葉っぱや新聞紙できれいにしたり。


トイレの横にわら縄が、

綱渡りのように張ってあり、

そこにまたがってお尻を拭いた、

という話を、昔、本で読んだ。


わかるかな、と思いつつ、

それを相手に話してみた。


話し相手というのは、母のことである。


「知っとるよ、それ」


「え、知ってるんだ」


「見たことはないけど、

 聞いたことはある」


言ってみるものだ。

そこで、トイレ談義に花が咲いた。


韓国の旅館(リョグァン)のトイレは、

和式だったけど、

お尻側が扉に向いているのではなく、

顔側がこちら(扉側)に向いていた。

つまり、うっかり開けたら、

お尻ではなく、

顔と顔とが鉢合わせになるのだ。


「なんでだろうね」


母が、首をかしげる。


文化のちがい。


それで思い出したのが、

たしかフランスだったか、

知らない人に裸を見られたとき、

胸などではなく、

顔を両手で隠すのだと。


「顔を隠して、

 自分が誰だかわからなかったら、

 裸を見られても

 恥ずかしくないんだって」


顔を隠す文化と、裸体を隠す文化。


もっと言えば。


紙でお尻を拭く人と、

水流でお尻を洗って育った人とでは、

価値観や感覚にちがいが出てくるはずだ。


「昔の人は、立ってしとったもんね。

 男も女も、立ったままで」


そんな光景を見たことがあると、

母が言った。


現代では逆に、

男性でも座って用をたす人が

増えている。


『言葉が思考をつくり、

 思考が行動をつくり、

 行動が習慣をつくり・・・』


ではないが。

行動がちがえば、思考もちがい、

使う語彙(ボキャブラリー)も、

伝わる言葉もちがう。


言葉、思考、行動、習慣。

その循環(ループ)がまた、

その人の価値観を育み、

踏み固めていく。


母とぼく。

ぼくと母。


家族だけど、やっぱり違う。

遺伝子、環境、家庭、家族。

同じだった家を巣立ち、

ちがう「釜の飯」を食べ、

まったくちがう環境で、

まるでちがうものを見てきた。


好みや志向、習慣も変わり、

価値観も変わった。


世代、年代、性別、志向。

もともとちがった部分もある。

それでも、母と話すうち、

母も「おなじ人間」で、

年はとっても、

共感できる部分や発見が

たくさんあって、

おもしろいと思った。



母に、

タイで体験(洒落じゃなく)した

トイレの話を伝えた。


タイのトイレには、

日本のコンビニなどで見かける

清掃用のホースのような、

ノズル付きの洗浄器具が、

便器のかたわらに設置してある。

そのホースでお尻を洗浄し、

備えつけの紙(ロールペーパー)は、

あくまで水気を吹き取るもので、

汚れたお尻を拭くものではない。

使用した紙は、

便器に流すのではなく、

個室内のすみに置かれた

くすかごに捨てる。


なので、まちがっても

いきなりお尻を拭いた紙を

捨ててはいけないし、

便器に紙を流してもいけない。


スーパーマーケットのトイレでは、

英語の注意書が貼られていたが。

おそらくタイでは「常識」のはずだ。


食事をする机の上には、

日本でよく目にするような形状の、

ロールペーパーが置かれていた。

通常「トイレットペーパー」と

呼ばれるそれが、

食卓に置かれているのだ。


タイの人に聞いたわけではないが。

タイ映画などを見ていて、

代用ではなく、それがタイの

「ティッシュペーパー」なのだと知った。


(ちなみに「芯」は付いておらず、

「外周」からではなく、

「内側」から紙を引き出して使う)


そう。


価値観というものは、

こんなものだ。


誤解した見解。

文化のちがい。

考え方の相違。


紙か水か。顔か裸体か。


こんなことでむきになって、

争うことこそ、価値がない。


上記のタイ体験(洒落ではなくて)を

母に伝えるのに、

回り道をしたり、たとえ話をしたり、

語彙を嚙みくだいたりして、

ずいぶん手間がかかった。


そう。

これも価値観のちがい。


価値観や文化がちがえば、

理解するのに時間がかかったり、

間違って理解してしまったり、

まったく理解できなかったりもする。


知識や情報として頭で理解できても、

感覚的に、体感としては

理解できないこともある。


酒に酔ったことがない人に、

酩酊感を伝えるのは難しい。

煙草を吸ったことのない人に、

喫煙の意味を伝えることは

かなり難題だ。


体験、体感、経験。

実体験での「見識」は、

机上の知識の物差しでは

とうてい測りきれない。


そこで必要になるもの。


それが、想像力。


読んで字のごとく、

想像をする力のことだが。

これが貧しいと、

自分以外の世界が、

理解できない。


想像力。


ファンタジーや空想ばかりが

想像ではない。


人を思いやる気持ち。


想像力は、

思いやりの源泉である。


母と話す日々の中、

今までには考えなかったようなことを

考えるようになった。


友人などに話すのとは当然ちがい、

子供に話すのともまたちがう。

年寄りだから、ということでもない。


「母」と話すには、

「母」に伝え、伝わることが必要なのだ。


「母」とは、誰かの母ではなく、

目の前にいる、自分の母親。

一般名詞てはなく、固有名詞。

ほかの誰でもなく、

愛称「エミリィ」である、

わが「お母さん」に伝わる

言葉、温度で話す必要がある、

ということだ。


この発見は、

まるで稲妻のように全身を貫き、

せまく曇っていた視界を

洗い流すほどの勢いがあった。


洗い流されて初めて、

自分の視野がせまく

曇っていたことに気づいたほどだ。


目が開いた、というか。

おかげで日々、新鮮な驚きがある。


母と向き合う時間の中で、

これまで感じたことがないほど、

学びと収穫、衝撃的な発見が

連日、怒涛のように、

あるいは川のせせらぎのように、

尽きることなく続いている。


これは、

ぼくだけの個人的な体験なのか。

ほかの人たちも、

もし同じような状況で

誰かと向き合ったら、

ぼくが感じるような驚きと発見を

感じるのか。


母という、家族であるはずの人を、

気づけば他人のように、

いやむしろ、家族だからこその、

「家族的な距離感」で接してきた結果

できあがった微妙な関係性。


今ぼくは、

母を「一人の人間」として見ている。

一人の歴史ある人間として、

接している。


家族であっても。

親ではあっても。

「別の個性」である。


これまで、

家族だからこその甘え」があった。

家族だから許される、

わかってもらえている、

というおごりがあった。


ぼくはこれまで、

母から「もらってばかり」だった。


してもらう、買ってもらう、

作ってもらう、ゆずってもらう。

わかってもらって、どいてもらって、

聞いてもらってきた。


母はどうだ?


父がおらず、みなが出て行き、

一人ぼっちだった母は、

誰に「もらって」きたのか。


母の日や誕生日、

その他いろいろな節目に、

母にはいつも「あげて」きた。


けれども。


それは、

明らかに物質的で、

刹那的で一方的で、

そこに「想像」の力は

働いていなかった。


料理好きな母は、

誰かに手料理を

食べてもらうことを喜んだ。


母の手料理を食べることを

ひとつの「親孝行」だと思い、

数年前から続けてきた。


点ではなく、面で接すること。


面で接してみて、わかったこと。


想像すること。


想像していた以上に、

自分の想像力が足りていなかったこと。


先回の記述の

続きのようになってしまったが。


元気になった母は、

生き生きと今日のことを語り、

昔話を語り、

何度も同じ話をしたり、

まったく新しい話を聞かせてくれたり、

何より毎日、笑顔でいっぱいだ。



「母さんが子供のとき、

 好きな科目って何だった?」


「お母さんはねぇ、

 数学とか、英語が好きだった」


「それって、その科目の先生が

 好きだったからでしょ?」


これまでの話からの推測だったが。

事実、そのようだった。


「じゃあ、アルファベット、

 全部言える?」


「言えるに決まっとるでしょ。

 A、B、C、D、E、F、G、

 H、I、J、K、L、M、N。

 O、P、Q、R、S、T、U、

 V、W、シックス・・・あれ、

 ちょっと待ってよ。

 A、B、C、D、E、F、G、でしょ。

 H、I、J、K、L、M、N。.

 O、P、Q、R、S、T、U、

 V、W、シックス、エイト・・・あれ、

 ちょっと待ってよ、

 A、B、C、D、E、F、G・・・・」


ぼくは、腹を抱えて笑っていた。



* *



価値観のちがう母に、

自分の思っている、

または感じている観念を伝えるのは、

なかなか根気が必要な場面がある。


「来年は、へび年だね」


「そうだね」


「へびは、長寿とか、命の象徴で、

 縁起のいいものだって

 言われてきたらしいね」


「なんでそんなこと言うのかねぇ」


「脱皮するでしょ、へびって。

 脱皮ってわかる?」


「わかる。

 財布に入れたりするやつでしょ」


「そう、それ。

 それを見た昔の人は、

 へびが死なずに

 生まれ変わってるって

 思ったらしいよ」


「猿も、縁起がいい動物だよね」


「猿が桃を持ってる置き物とか、

 あるもんね」


「桃もいいの、縁起?

 お尻みたいな形しとるけど」


「なんか、昔の古墳の中から、

 桃の種がいっぱい

 出てきたらしいよ。

 種だけを集めて、

 偉い人のお墓に埋めたんだって。

 生命の源とかで、桃の種が、

 崇められてたみたい。

 母さん、古墳ってわかるよね?」


「わかる、こういうのでしょ」


母が、手を動かし、謎の動作をする。

よく見ると、空に「古墳」を

描いているようだ。


「そうそう、そういうの」


・・・なんていう、

他愛のない会話が、

年齢も文化もちがう価値観を

突きくずし、

均(なら)していってくれる。


旅行好きな、

母の友人の話になって。


「ほら、なんていうの、

 なんやらっていう、あれ」


「ボーイスカウト?」


「そうそう。

 で、ああいうとこに泊まるの、

 ほら、なんやらっていう」


「民宿?」


「そうそう」


われながら、

正解率が高い時には、

小おどりしてしまう。


「ほら、なんだっけ。

 なんとかっていう、あれ。

 ほら、あるでしょ、あの、

 あそこにあるやつ」


わかっていても、

ときどき母の回答に任せてみたり。


野宿の話になって、

母が言った。


「クマとか出てきたら、怖いがね」


「クマも、本当は怖いんだよ」


「そんでも、

 クマに襲われた話とか、

 よく聞くがね」


「出会っちゃったから、襲うんだよ。

 本当は怖くて、

 出会いたくないんだよ、人間と。

 クマよけの鈴ってあるでしょ。

 あれで『ここにいるよ!』って

 知らせて、

 クマのほうに逃げてもらうんだよ」


「たしかにクマって、

 ぬいぐるみにもなっとるくらいだし。

 犬みたいでかわいいもんね。

 ぬいぐるみのほとんどが、

 クマじゃない?」


母の、少々めちゃくちゃな見解も、

素朴だからこそ斬新で、

なるほど、と思わされたり。


「たしかに、

 クマのキャラクターって、多いね」


とか言いつつも。

あらためて文字にして読み直すと。


『ぬいぐるみのほとんどが、

 クマじゃない?』


やっぱりむちゃくちゃで、

じわじわと笑いがこみ上げる。



* * *



言っても母は「昔の人」だ。


価値観も「最新」ではなく、

現代の文化や情報、

外国の風習や文化に

明るいわけではない。


そういう自分も、

決して「最新」ではないが。


いわゆる「偏見」に対する考え方は、

母より開けている部分も多少ある。


一般的な、ひと昔前の、

ごく平凡な「価値観」。


そのほとんどが、

教育と情報が下敷きで、

実体験や経験に基づいたものではない。


偏見。

ステレオタイプ。


それはほとんど、

「大衆文化」に等しい。


「あっちの人は、みんな裸で、

 服とか着てないんでしょ?」


「いやいや、そんなことはなくて。

 もちろん、そういう種族もいるけれど。

 そういう人は、多分だけど、

 観光客の前に

 出てきたりはしないと思う。

 そういうのは、たいてい、バイトだよ。

 腕時計もしてて、携帯も持ってて、

 終わったら車乗って帰るよ」


「車! そうなの?」


「映画村の

 お侍さんみたいなもんじゃない?

 ちょんまげの人なんていないでしょ」


「そうだねぇ。そういうことか」


まるで、

いい加減な「大人」が、

大きな「子供」と

話しているようで。

話せば話すほと、勉強になる。


話すたびに、

凝り固まった価値観が、

ぽろぽろと突き崩されるのがわかる。



母が買い物へ行ったとき。

たい焼きの焼ける甘い香りに誘われて、

ついカートから離れてしまった。


たい焼きを買って、ふと気かつくと、

買ったばかりの買い物袋がない。

カートをどこに置いたのか。

まったく記憶がない。


「警備の人に聞いたりして、

 30分くらい、くりくりくりくり

 探し回っとったもんで。

 帰りが遅なってまったかね」


「けど、見つかってよかったね」


「ほんと。もういっぺん

 買い直さないかんかと思ったけど。

 よかたぁって思った」


「財布とか入れてなくてよかったね」


「そうなんだわ。

 とぉろいねえ、母さん。

 自分でも嫌になっちゃうわ」


「何にせよ、無事でよかったね」


「本当、よかったわぁ。

 うろうろ探し回って、疲れちゃった。

 お母さん、方向音痴だでいかんわ。

 駐車場でも、

 自分の車をどこに車停めたか

 わからんようになるもんで。

 たいてい2、30分くらいは、

 ぐりぐり探し回って、

 係の人に聞くんだわ。

 ほんとばかだねぇ。ばか、ばか。

 今度から気ぃつけないかん」


「って言って、またやりそうだね」


「そうかもしれん」


二人で声を上げて笑った。



先日、歯医者の待合室で、

名前を呼ばれたおじいさんが、

ソファから立ち上がろうとして、

なかなか腰が持ち上がらず、

立ち上がりかけてまた座る光景を見た。


立ち上りかけて座った母が、


「いかんわぁ。

 ずっと座っとったせいで

 立てんかった。もう年だわ」


と言うのを聞いて、

歯医者での光景を思い出した。


母に話すと、声を上げて笑った。


「笑っちゃいかんのだけど。

 笑っちゃうね、そんなの見たら」


たしかに。

笑っちゃいかんのだけど、

そんなのを見たら、笑っちゃう。


ゆっくりと立ち上がるおじいさんに、

歯医者の人は、

笑いながら近づいて、

手を差し伸べた。


「ごめんね、

 長い時間待たせちゃって。

 体が固まっちゃったね」


それを聞いた母が、


「気の利いたこと言うねぇ」


と、感心した。



価値観。


同じ風景、同じ場面でも、

人によって、感じ方はちがう。


現場にいても、いなくても。


想像すること。


笑っていいこともあるし、

笑っちゃいけないこともある。


けれどもなるべく「笑って」いたい。


普遍なもの。不易なもの。


母から教わる、平和的な心。

人を疑わない母の、のんきな視線。

年長者から学ぶことは多い。



今日、母が何かをやらかして、

二人ですごく笑った。


それが何だったか、

少しも思い出せないけれど。


すごく笑ったことだけは、

しっかり覚えているし、

その風景はくっきり焼きついている。


母の笑顔。


エプロンを着た母が、

フライパン片手に笑っている。


自分では見えていないけれど。


笑う母の顔と、

そっくり鏡写しのぼくが

いたはずだ。



想像すること。


ずっと一人だった、母の心。


想像して、気づけてよかった。


法則でもメソッドでも模範回答でもなく。

これは、ぼくの導き出した「こたえ」だ。


正解ではない。

ぼくだけの「こたえ」。


同じばかでも、ぼくは、

不幸の種をばら撒くばかにはならない。


価値観と想像力。


知識や情報が、時にそれを阻害する。


万能薬は、どこにもない。


目の前の景色をじっくり見て、

じっと観察すること。


こたえに向かって歩く過程。


こたえは心の中にある。


全部、そこにそろっている。


使い方を知らないだけ。

使わずにしまい込んでいるだけ。

気づかないうちに、

忘れてしまっただけ。

使い方を、

どこにしまい込んだかを、

忘れているだけ。



おしゃれなのが、センスではない。


センスとは、

いちばんいいものを選ぶ力。



センス。感性。感覚。


忘れてませんか、使い方を。


眠らせてませんか、

本当の自分の感性を。


「あんたはあんたのままでいい」


母がよく、言ってくれた言葉。



忘れかけていたことを、

母が思い出させてくれた。


忘れていた感覚を、

母がゆさぶり起こしてくれた。


想像とは、ゆるすこと。


「いいよ」という、肯定的な感覚。


理解しようという気持ちが、

価値観の垣根を越えて、

おたがいの感性を新たにしてくれる。



ぼくが欲しかったもの。


想像力。


想像する力。



まだ手に入れたわけじゃなくて、

ようやくそれがわかっただけ。



わかる人には、わかる話。

わからない人には、わからない話。


価値観、感性、想像すること。


目の前に、

こんなうつくしい景色が

広がっているのに。

それに気づけないのは、

さみしいことだから。


ぼくは、目を開けて、

うつくしい景色を見ようと思う。



朝起きて、

全粒粉のパンがなくなっていた。

どうやら母が食べたらしい。


「あんたが買ったやつだった?

 ごぉめん、まちがえて食べちゃった」


「おいしかった?」


「おいしかったぁ。

 あんなの、初めて食べた」


母が、おいしかったのなら、

それでいい。


怒っても、笑っても。

地球は丸くて、

今日もまわりつづける。


だったらぼくは、

笑っていたい。


父なら怒るだろう場面でも、

ぼくは、笑うほうを選ぶ。


『人はパンのみに

 生くるにあらず』


『パンがなければ、

 お菓子を食べればいい』


昔の人は、いいことを言いますね。


朝からスナック菓子を

食べてもいいじゃないか。


お菓子を食べても、

スナックみたいにカリカリと、

かたいことは、言いっこなしです。



< 今日の言葉 >


『かかしは、自分の頭の中に

 すばらしい考えがわいてくると、

 仲間たちにいいました。

 けれども、自分だけにしか

 わかりようがないので、

 すばらしい考えが何なのか、

 ひとことも説明しませんでした』


(『オズの魔法使い』L・F・バウム作 より)



2024/11/01

母さんの笑顔



 



父が言った。


「母さん、もうあかんで。

 ぼけてきとる」


姉が言った。


「もう母さんも歳だし。

 危ないから、

 車はやめさせたほうがいい」


母の友人から、封筒を渡された。

なかの手紙には、こう書かれていた。


「なんだか最近心配です。

 一度、お医者さんに

 みてもらったほうがいいと思います」


正直ぼくは、腹が立った。

みんなで母を、

老人あつかいしている。


実際、老人なのだが。

ぼくは、母のことをよく知っている。

買いかぶりや思い違いもあるかもしれない。

けれども、家族のなかで、

いちばん長く接しているのは自分だった。

だからこそ、「ちがう」と思える

確信があった。


母は、ぼけてはいない。

もちろん、物忘れやうっかりは

それなりにあると思うが。

ぼけてしまったわけではないと。


母は、ぼけているのではない。

昔から「とぼけて」いるのだ。


長年、母を見てきて思うこと。

母は、ぼくが幼少のころから

うっかり者で、

いつもとぼけた人だった。


老齢による変化や衰えはあっても、

ぼくは、母の「老い」を、

個性の延長だと捉えていた。



* *



車検のタイミングで、

母に相談してみた。

車を乗るのをやめにして、

免許証を返納してはどうかと。


歩く機会は多少増えるが、

車がなくては不便な場所に

暮らしているわけでもない。

もし何かあったら、と、

姉の言葉を借りて、

やんわり説得してみた。


3カ月くらいかけて、

ゆっくり伝え続けた。


母は、免許証を返納した。


「ありがとね、母さん」


これまでの

「おつかれさま会」と称して、

二人で食事に出かけた。


昔、母から教えてもらったその店は、

ぼくのお気に入りの店でもある。


「まぁ、ごちそうしてくれるの?

 うれしいわぁ」


母と二人、天津飯を食べた。


「おいしいねぇ。ここの天津飯は」


母が目を細め、顔をほころばせる。


「今日までおつかれさまでした」


ぼくは母に頭を下げた。


母が免許証を取得したのは、

もうずいぶん昔の、60年近く前、

母が19歳のときだ。

免許を取ってすぐ乗らなくなった、

いわゆる「ペーパードライバー」

というやつで、

免許証を持っているだけの

期間が長かった。




母が40代になったころ、

自転車から車に乗り替えた。

教習場や、

広々とした公園の駐車場などで

練習を重ね、

ついに自分の車を買った。

真っ赤なマーチだった。

以降、母は、

モデルチェンジしながらも変わらず

日産マーチに乗り続けた。


母は、何でも長く使うたちなので、

新車だった車を、傷めば修理して、

動かなくなるまで乗った。

2台のマーチを乗りつぶし、

最後、3台目にあたるマーチを

手放した。


姉の家族が乗りたいということで、

ただでもよかったのだが、

母にいくらか渡したかったので、

姉に「寸志」をお願いした。


もらったお金で、

買い物用のカートを買った。

反射素材や名札もつけて、

母に贈った。

といっても、ぼくは、

選んで買いに行っただけだが。

軽くて使い勝手もよくて、

なるべくスタイリッリュな

ものを選んだ。




最初のうち、母は、

買い物に出かけても

カートを持って行かなかった。

玄関に置かれたまま、

動かされた形跡もないカートを見て、

ぼくは寂しく思った。


母に聞いてみた。


「カート、使わないの?」


つい忘れる、

というようなことを

言っていた母は、

しばらくしてようやく

カートを手に

買い物へ行くようになった。


けれども、

ちょいちょい手ぶらで出かけ、

重い荷物を両手に提げて、

ひいひい、ふうふう、

よろめきながら帰ってきた。


「どうしてカート、使わないの?」


ちょっと残念そうに

問いただすぼくに、

言い訳するみたいに母が答えた。


「線路の段差がね、

 引っかかってうまく走らんのだわ」


また別の日には、


「溝のふたの、

 デコデコしたところに

 タイヤが引っかかって。

 うまく引っぱれんのだわ」


といった塩梅に、

毎度ちがうようで

似たようなことを言って、

なかなかカートが定着しなかった。


何度も母と話しているうち、

その「真相」というのか、

「真意」が、ふと、

垣間見えた気がした。


「ほかのお年寄りのみんなも、

 コロコロやっとる人が、

 たくさんおるね」


あくまでぼくの推測だったが。

母のなかでは、

「カート=お年寄り」

という図式が

根付いているのではと。


たしかに。


ある日突然、

「車は危ないから

 乗らないほうがいい」

と、取り上げられ、

これまで馴染み、慣れ親しんできた

お店や景色などから切り離され、

とぼとぼと歩かせられるのだから。

その喪失感たるや、

大きいはずだ。


母の心情を想像してみたとき、

ぼくは急に、かわいそうに思えた。

言葉は不適切かもしれないが。

不憫で、かわいそうで、

きっとつらい気持ちだろうと想像した。




母は、怒ったり、

怒鳴ったりしない。

嫌なことに対しては、

じっと黙って耐えるか、

ぶつぶつ言うか、

そのままやらないでおくといった

態度をとる。


平和的なその姿勢が、

ときに誤解や怒りを招く。

そんな母を、

父はよく怒っていた。


「母さんは右から左で、

 人の話を何も聞けへん」


姉も言っていた。


「母さんは頑固で、

 自分のやり方以外、

 聞き入れようとしない」


ぼくもそう思っていた。


けれどもぼくは、

どちらかというと母似だった。

ゆえに、わかる部分もある。


周りの声が、いろいろ言う。

母がぼけている、と。


本当にそうなのか?


その言葉を聞いて感じた怒りは、

事実を受け入れたくないという

抵抗感からなのか?


それとも、

無理解に対する不満の怒りなのか?


ぼくは、母をじっくり見ようと思った。

点ではなく、連続した時間のなかで、

母のことを観察してみた。


そして思った。


たとえそれが

「ぼけ」であろうとなかろうと。

ぼくは、母さんの個性を

受け入れたいと。


否定ではなく肯定。


ぼくにとって、

母は、母一人しかいない。


母のことをよく知る一人として、

ぼくは母を肯定したい。


いまの母を、

現在の母の姿を、

どんな形であろうと受け入れたい。

そう思った。



* * *






話は少しさかのぼって。


家を出たぼくは、

週1回は実家に帰って、

母の手料理を食べていた。


ぼくなりに考えた、

母の元気の種だと思っての

ことだったが。

料理好きな母は、

何よりそれを喜んでくれていた。


それは、何もできないぼくの、

ちょっとした親孝行の

真似ごとだった。


母は、料理だけでなく、

家事が好きだった。

食べ終わった食器を運んで、

皿洗いをしようものなら、


「いいっていいって。

 母さんの仕事がなくなるから。

 あんたはじっと座っとって」


と、笑顔で制する。


ほかに誰かお客さん来るの?

と聞きたくなるような

豪勢な量と品目が、

宴のごとく勢いで、

所狭しとテーブルに並んでいく。


うれしそうに料理を運ぶ母の姿を、

何年も見てきた。

週1回の「会食」が、

母にとっては「イベント」だった。


そう。

まさしく「イベント」で、

「日常」ではなかったのだ。


イベントでは気づかない日常が、

目の前に立つ母の姿に隠れるようにして、

じりじりと侵食していた。


週1回の、

ありがたい母の手料理を

ただ純粋に堪能するぼくには、

その「影」が、まったく見えなかった。


週1回の、

宴のような晩餐では、

ゆるやかな変化が

まるで見えていなかった。


目の前の母は、元気で快活で、

歳は取ったが、

相変わらず笑顔で、

かつての母のままに見えた。


それから数年後。

史上初の、コロナ期。


県境をまたいでの移動は慎むべきだと、

そんな空気が周囲を取り巻いていた。

個人的にはあまり気にしなかったが。

なかなかそうも言っていられず、

周囲の声に同調せざるをえなかった。


父も姉も、

母と同じ市内に住んでいた。

(といっても、

 父の居場所は「おそらく」であり、

 定かではなかったが)

ぼくだけが県外にいた。

母は、一人だった。

父は家を出ていて、

姉には姉の家庭がある。


電話口で、母は何も言わなかった。

いつもと同じように、

短い会話を交わすだけだった。


あるとき、母の言葉遣いに、

違和感を感じるようになった。


話し言葉が、どこかよそよそしく、

他人行儀な敬語になった。


電話だからか、とも思ったけれど。

言葉だけでなく、話す内容や、

声の質まで遠くに感じた。


そのときすぐ、

はっきり気づいたわけではなかったが。

心のどこかで「まずい」と、

危険信号が灯ったことは、

うっすら覚えている。


母のご飯を食べなければ。

そう思った。





週1回までとはいかなかったが、

ぼくはまた実家に通った。

うがい手洗いマスクをして、

寄り道などもしなかったせいか。

コロナにはかからず、

うつすことも、

うつされることもなかった。

罹患の心配よりも、世間の声が怖かった。


久しぶりに会った母は、

ほんの数カ月で、

まるで数年間も

会わなかったみたいに、

すっかり変わり果てていた。


煮干しのようにやせ細り、

目は輝きを失い、

背中が丸くなっていた。






かつて、母の弟と祖父(母の父)が、

立て続けに亡くなったときも

そうだった。

母は急に「おばあちゃん」になり、

どっぷりと老けこんだ。


そうだった。

あのときもぼくは、家に戻った。


家に戻って暮らすうち、

小さく枯れた母の姿が、

生気を取り戻したみたいに、

みるみる元気になった記憶がある。


そのあと、

また家を出てからも、

ときどき服の修繕や

ボタン付けなどを頼みに帰った。

自分でもできるのだが、

あえて母に「お願い」した。


母に「宿題」を運ぶことで、

ぶつぶつ言いながらも、

母はきらきらと目を輝かせた。


一人で過ごす時間が

ほとんどになった母は、

いつの間にか「ずぼら」になった。

菓子パンや、冷凍うどんや、

出来合いのお惣菜などをはじめ、

缶詰やレトルト食品など、

これまで家で見かけなかった食品が、

あちこちに置かれるようになった。


面倒くさがりでなかった母が、

面倒くさがりになっている。


母もぼくも、

「面倒くさい」という

概念があまりないほうだが。


はっきりと母の口から、

「面倒だで」

という言葉が出るのを

何度も聞くようになった。


食材よりも、

加工食品ばかりが目につく台所を見て。

ぼくは少し悲しく思った。


そんな話を人にすると、

もう歳だからだの、

理想を追いすぎるだのという

言葉が返ってきた。


「いつまでも若いわけじゃないから。

 若いころの姿を求めちゃ

 いけないと思う」


そうじゃない。


ぼくが言いたいのは、

楽をすると衰える、ということだった。

歳は歳としても、

歳を言い訳にしてほしくない。

さぼればさぼるほど、

結果、自分がつらくなるばかりだと。


「馴れ」とは、恐ろしい魔物だ。


かつて見えていたものを、

見えなくしたりする。

できていたことを、

できなくしたりもする。


無理せず、

楽しめる範囲で続けること。

楽をするのと、

楽しむことは、ちがうのだ。





ぼくが母の歳になったとき。

自分がそれをできるかどうかは

わからないが。

いま、母に言えるのは、

ぼくしかいない。


ぼくの母は、母だけしかいない。


だから、

みんなが「あきらめて」も、

ぼくだけはずっと

母の「子ども」でいたい。


母を「お年寄りあつかい」

するのではなく、

ずっと「母親」として、

慕い、信頼し、甘え、注意する。


「区役所に相談したほうがいい」


「痴呆に効く薬があるから、

 早く飲ませたほうがいい」


「一人でいるより、

 施設に行ったほうが本人もしあわせ」


ぼくは、そう思わなかった。

だから母に聞いてみた。


「もし、母さんがぼけてきたら、

 薬とか、飲みたい?」


「飲みたくない」


母が首を横にふる。


「施設とか、入りたいと思う?」


「いや。家のほうがいい」


母が顔を曇らせる。


人が何と言おうと、

決めるのは本人だ。


車の運転は、

人に迷惑をかける場合もあるので、

母の一存だけでは

決められないことである。

とは言いつつも、

心のなかでは、

母をかわいそうに思った気持ちが

またよみがえる。


「あやのおばさんは、

 90歳になっても、

 バイクに乗っとったもんね。

 家族みんなが言っても、

 ずっと乗り続けて。

 最後はみんなが、

 ヘルメットを隠したからね」


何気ない会話の流れで、

親戚の話を持ち出す母の言葉に、

言えない気持ちが見え隠れしていた。


だから、聞こうと思った。

母の気持ちを、聞けるうちに。


そして思った。


他人の言葉は、しょせん他人事だと。

大切なのは、本人の気持ち。

それをいちばんに考えられる、

家族の器(うつわ)。


人の心配は、

愛やおせっかいのほかには、

自分自身に迷惑がかかるのを

恐れる気持ちからくる。

それは、

不安が築く予防線だ。





これまでぼくは、

母に本当に世話になってきた。

感謝という言葉では足りないくらい、

かけがえのない愛情をもらってきた。


母以外の人につなぐことも大事だが。

息子は、ぼくしかいない。


ぼくは母を見捨てない。

最後まで見守りたい。


当たり前のことなのだけれど。

ぼくは、そう心に思った。



* * * *






父が入院してからの母は、

どこかおどおどとして、

ちょっとしたことでも

びくびくするようになった。


渦中にいた当初は、

原因はもちろんのこと、

そんな母の変化とも

うまく向き合えなかった。


余命を宣告された父は、

何かにあせっているようだった。


家庭の修復なのか、

母との復縁なのか、仲直りなのか。

この先に対する不安や責任感や、

心配もあっただろう。


状況を理解しない母は、

これまで以上に父をいらいらさせた。

届かない思いに、

最後はいつも、我慢できずに、

父が感情を爆発させて、

バタン、と扉が閉められる音が響いた。


あせる父のおかげで、

母はよけいに萎縮して、

父がいっそう「苦手」になった。


あろとき母が、ぼくに言った。


「いきなり父さんが来ると怖いから、

 玄関の鍵を、新しくしたい」


父とは、もう何年も

同じ状況のはずなのに。

そんな母の訴えは、

初めてのことだった。


母の懇願を受けて、

新しい鍵を玄関につけた。


「ありがとう。

 これで安心して寝られる」


そのころ気づいた。


母の様子がおかしくなるのは、

父が家に来たときだった。

父と顔を会わせたあとの母は、

必ずと言っていいほど、

消沈していた。

それは、父が怒鳴るからだ。


歳を重ねた父は、丸くなるどころが、

よけいに怒りっぽくなっていた。


ぼくは、怒りっぽい人が苦手だ。

母もそれは同じだった。

何年も何十年も怒鳴り散らされ、

ついには「顔を見るのも怖い」

という状態になってしまった。


かつてのぼくには、

頭でしか理解できなかった心境だが。

いまのぼくには、

その気持ちがよくわかった。


暴力の怖さは、

暴力を受けたことのある人にしか

わからない。


言葉や声も、立派な暴力になる。


特に家庭内での暴力は、

外からでは見えにくい。

些細なものと思える積み重ねが、

その人を蝕んでいく。


父の姿を、父ではない人に見て。

母と似たような状況を

味わったからこそ、

見えた景色だった。






あるときのこと。


ガスコンロをつけっぱなしにして、

トイレに行き、

ほかのことに気が向いてしまい、

火にかけたやかんのことなど

すっかり忘れてしまった母を、

ぼくは注意した。


同じことを何度かくり返す母に、

ぼくは、きつい口調で叱りつけた。


「すみません、もうしません、

 ごめんなさい」


床にひれ伏し、謝り続ける母の姿に、

ぼくは驚き、呆然と立ち尽くした。


いったい何が起こっているのか。


不安、困惑、戸惑い。

話が通じず、

意思の疎通ができないことに、

いら立ちや悲しみの感情が募り、

さらなる悪循環を生んだ。


母の周囲の空気は、

どんよりと灰色に淀み、

生きる覇気が感じられなかった。


「もう、お母さんなんて

 おらんほうがいいね。

 何やってもだめだし、

 死んだほうがましだね」


これまで聞いたことのないような、

卑屈で、重たく、不吉ことを

口走るようになった。


明るい言葉で励まし、

笑顔が戻ったと思った矢先に、

またすぐどんよりと沈んでしまう。

週に一度は「死にたい」と

言うようになり、


「母さん、もうだめかもしれん」


と、深刻な顔でぼくを呼び止め、


「母さんね、がんになった。

 腸にがんができたって。

 お医者さんも、

 そんなようなことを言ってたから」


母が、まっすぐに言った。


実際、医者に行って

診断してもらって、

結果を聞いているのだが。

母が、がんなどという話は、

一度も聞いていない。


「大丈夫だよ、母さん。

 母さんはがんじゃない。

 お医者さんも、そう言ってるよ」


何度説明しても、

うなずくばかりで、

ちっとも聞き入れてはくれなかった。

母はぼくを呼び止めて、

何度も同じことをくり返した。


母はがんでも何でもない。

がんなのは、父だ。


母が何度目か、

がんを訴えた日の夜、

携帯の操作がわからないと言われ、

母の携帯をさわっていた。

ふと見ると、

父との通話履歴があることに気づいた。

朝8時ごろの通話だった。


母が「おかしく」なるのは、

父と会ったときだけではなかった。

電話でも調子が狂うのだと、

携帯を見てその事実が浮かび上がった。





ぼくは考えた。

どうしたらいいのかと。


ノートに向かって文字を書き、

図にしたりしながら、現状を見た。


そして思った。


もし自分が、母の立場だったら。

きっと、不安で悲しいだろう。


これまで自分が、

当たり前にやってきたことが

できなくなり、

あれもするな、これもするなと

言われ続けたら。

いったいどんな気持ちだろうかと。


老いていく自分に気づかされ、

突きつけられ、

ただでさえ不安で、

どうしたらいいのか戸惑う

日々のなかで、

たくさん生きてきた自分が、

歳下の息子や娘にあれこれ言われ、

家族みんなに否定され非難され、

あれもこれも奪われてしまったら。

こんなに悲しいことはない。


これまでぼくは、

母に否定されたことはない。


世間の人が批判しようとも、

母だけはいつも味方だった。


挫折し、行き詰まり、

迷子になりかけたとき、

母は笑顔でこう言ってくれた。


「人と比べちゃいかんよ。

 あんたはあんたの道を

 行けばいいんだから」


どうにもならない気持ちになって、

食事も喉を通らなかったとき。

母は毎日、食事を作り続けた。

いつ食べるともわからない

ぼくのために、

毎日食事を作ってくれた。


「ごめんね、毎日毎日。

 今日までずっとありがとね」


ようやく食事が

できるようになったぼくに、

母は顔じゅうの笑顔を咲かせた。


「謝ることなんて何もないよ。

 家族だもん、当たり前だがね。

 あんたが元気になって、

 ご飯食べてくれるだけで、

 母さん嬉しい」


母の迷いのない愛情に、

どれだけ自分は救われただろうか。


ぼくは思った。


たとえみんなが否定しても、

ぼくだけは否定しない。


母がぼくにしてくれたように、

ぼくは母を「肯定」する。


それはすなわち、

受け入れるということ。


できないことも、わからないことも、

忘れることも、くり返すことも。

全部が大事な時間だと。


残された砂時計の砂は、

落ちた砂よりあきらかに少ない。

かけがえのない母との時間を楽しもう。


笑顔がいちばん。


ぼくは、

母の笑顔をいちばんに

考えようと思った。


自分から見て、まちがって見えても。

母にとってそれが「いいもの」ならば、

それが「正解」なのだから。


じっと見守る「つよさ」こそが、

母への「やさしさ」なのだと

ぼくは思った。


最後まで見捨てない、見放さない。

母の失敗を楽しむ「よゆう」。

笑顔で笑って見守ること。


深刻にならず、のんきに笑って。

禁止と否定で

取り上げるのではななく、

何でもやらせてくれた。

ずっと笑顔で、そばにいてくれた。


これはみんな、これまで母が

自分にしてきてくれたことだ。


母に怒られたことは、一度もない。

不機嫌やいら立ちで、

声を荒げられたこともない。

やる前に止められたこともない。

いつでも一緒に笑って、

真剣に話を聞いてくれた。


そしていつでも助けてくれた。


親孝行もできないぼくは、

今日まで母を

心配させてばかりだったが。


いま、ぼくにできることは、

母を笑顔にすることだ。


一つでも多く

母の笑顔が見られるようにと。

ぼくは、心に願った。



* * * * *






何度目かの入院で、

父は家に来なくなった。

来ることが困難になり、

そのまま来ない日が続いた。


ぼくは毎日、母と夕食を食べている。


母の昔話を聞いて、

感動したり、笑ったり、

宝物のような時間を過ごしている。


相変わらず、おっちょこちょいで、

忘れたり落としたりもするけれど。

懸命に働く母の姿を、愛おしく思う。













あるのを何度も忘れて

買いすぎたヨーグルトも、

もりもり食べれば体にいい。


怒るようなことではないし、

正すようなことでもない。

ヨーグルトを買いすぎたって、

別に死ぬようなことでもない。


「ほら見て、母さん。

 冷蔵庫のなか、

 ヨーグルト屋さんみたい」


そう言って笑うと、母も笑う。


危ないことは、

やわらかな声で、しっかり怒る。

けれども、すぐに笑顔に戻る。


母の昔話をたくさん聞いた。

同じくだりを何度も聞いて、

その都度、耳を傾けるうち、

断片どうしがつながって、

話の全貌が見えてきたりして。


これまで聞いたことがなかった

母の昔話を聞いて、

純粋に母のことを尊敬したり。


日を追ううちに、

あきらかに母は、笑顔が増えた。

昔話だけじゃなくて、

今日や昨日の話もするようになった。


本当に、いい顔で笑っている。

こんな顔で笑う母を見るのは、

子どものとき以来かもしれない。


家を出てからというもの、

母と接する時間は、

点でしかなかった。

点で話せる話は、

ちょっとした確認や、

心配からくる小言に終始してしまう。


注意するときに、

名前で呼んではいけない。

名前で呼んで注意すると、

名前=自分のことが

好きでなくなると。

昔、何かの本で読んだ。


それなのに。


あらためて思い直すと、

「母さん」と呼ぶ声には、

注意や忠告につながる色に

包まれていた気がする。

あとに続く言葉は、

不満や否定が少なくなかった。





一緒に晩ご飯を食べ、

食後にたくさん話すようになって。

母はもう、

死にたい、とは言わなくなった。


「あんたのその、笑った顔が、

 母さんはすごく嬉しい」


「最近、すごく元気になった。

 あんたとご飯食べながら、

 こんなふうに話せるなんて。

 本当に楽しいわぁ」


母は何年も、

毎日を一人で過ごしてきた。

そんな人は、

めずらしくもないのだが。

父が出て行き、

ぼくも姉も出て行き、

一人残された母が、

これまで、

どんな気持ちだったのかと、

ふと思う。


いろいろな道を通ってここまで来た。


そしていま、

母とこうして向き合えたことは、

これまで見てきた景色のおかげだと、

つくづく思う。


いまの自分だからこそ、

気づけたこと。

できたこと、選べたこと、

受け入れられたこと。


「ありがとう」


本当に、そのひと言に尽きる。


もし自分が

選択肢をまちがえていたら。


お金ばかりがあって、時間がなかったら。

裕福でも、心に余裕がなかったら。


母のことを「他人事」に

していたかもしれない。




母の昔話は、母にしかできない。

母からしか聞けない話を、

母から聞いた。


「防空壕に入ったら

 息が止まっちゃってね。

 おじいさん(母の父)が

 逆さまにして

 ふり回してくれたもんで、

 また息しはじめて、

 死なずにすんだんだわ」


もう何度も聞いた、母の危機。

たしかにそこで死んでいたら、

姉もぼくも、

この世にはいなかったのだ。

となると、

三人の甥っ子たちも、

世に存在しなかったことになる。


「そのとき初めて

 女方(女役)ができて、

 嬉しかったわぁ」


長年続けてきた日本舞踊の話も、

これまで聞いてこなかったような

細かな話がたくさん聞けた。


どれもが興味深い話ばかりだけれど、

母の昔話は、いずれまた、

どこかの折に。











母が「ぼけて」いるのかいないのか。

それは、わからない。


けれども、目の前の母は、

かつてないほどの笑顔で、

かつての母より健やかで若々しく、

毎日、元気に過ごしている。


母の古いアルバムを見たり、

ぼくの買った本を貸したり、

一緒に日本舞踊の動画を観たりもした。


先日、コンビニで

『パルム」を買ってきた。

アイス好きの母は、

食べるなり目を丸くして声をあげた。


「おぉいしいねぇ、これ。

 こんなおいしいアイス、

 初めて食べた」


「ぼくもこのアイス、好きなんだよ。

 今度また買ってきてあげる」


数日後。

買ってきた『パルム』を

冷凍室にしまおうと屈みこむと、

『パルム』のファミリーパックの箱が

目に入った。


ぼくは一人、声なく笑った。


ぼけ、という仕組みも

はたらきもわからないけれど。


やるべきことをうっかり忘れたり、

ヨーグルトやキャベツを

いくつも買ってきてしまったとしても。

おいしいアイス、『パルム』の名前は、

1回で記憶できるのだ。


いまは使えない言葉だが。

「勝手つんぼ」

という言葉がある。


落語などにも出てくるが、

都合の悪いことは聞こえず、

悪口なんかには素早く反応する、

老人特有の「能力」のことだ。


母の『パルム』に、

ふと、そんなことを思った。


いくらこちらが

熱を持って伝えても、

本人に興味がないことは、

何度言っても記憶されない。


使わないものはどんどん忘れ去られ、

必要のないものは記憶されない。


価値基準は自分の直感で、

判断基準は自己の本能。


「老い」とは、

そんな側面があるのではと。


省エネルギーというのか、

節約というのか。

少ない体力を効率よく使う、

取捨選択の術かもしれない。


「老い」とは、

不安と怖れの連続である。


できないことを不安に思い、

失敗を恐れ、

それまで以上に固くなり、

同じ行動(ルーティーン)の輪から

出ようとしなくなる。






母が言う。


「忘れるっていうのは、

 いいことだよねぇ」



ある日、母と一緒に、

郵便局へ行ったとき。


「ああ・・・暗証番号忘れた」


と、3回まちがえて

「続行不能」になった。


よくこんなことで、

今日までやってこられたなと。

呆れるよりも心底感心した。


二人で笑いながら、

窓口に行った。


母はいつものんきで、

母似のぼくは、

本来、のんきだった。

が、いつの間にか、

父に急かされ、

せっかちになりかけた。

そしていろいろなものに染まった。


母と過ごすうち、

かつての自分の姿を取り戻せた。


何も知らない、ばかな自分。

母も同じだった。


「わからんかったら、

 人に聞けばいい」


道に迷い、人に尋ねる。

携帯を持たないぼくも、同じだった。






ショッピング・モールの駐車場で、

自分の車がどこか

わからなくなったとき。

母はいつも、

係員の人に尋ねて見つけていた。

車を探すのに、

30分かかるのもざらだった。

せっかちな父には絶対許せない、

母の「ぬけた」一面だ。


「3回番号をまちがえて、

 お金が出せなく

 なっちゃったんですけど。

 どうしたらいいですか?」


区役所や銀行など、

「ややこしいしきたり」が多い場所では、

手続きするのはいつも

窓口の人頼みだった。


郵便局も同じ。

みんな、親切な人ばかりで、

聞けばやさしく丁寧に教えてくれる。


「ここの人は、

 みんないい人ばっかりだね」


懲りない二人は、

よかったね、と笑いながら、

一件落着。


超がつくほど前向きなのは、

母ゆずりなのかとあらためて思う。


いいことだけを覚えていて、

悪いことはすぐに忘れる。


忘れるって、いいこと。

・・・なのでしょうか、ね。






先のことを不安に思い、

いまこの時間を

心配事に使うくらいなら、

明日のことなんて考えないほうがいい。


明日のことは、わからない。

来年のことなんて、

まるで見えてもこない。


事実、去年のいまごろ、

いま、この風景を

思い描けたことなんて、

一度もない。


ただ、自分の心に従って、

毎日を思いっきり

過ごしてきただけだ。


毎年ちがう。

毎日ちがう。


昨日のことは、昨日で終わり。

また同じ失敗を

くり返すんじゃないか、

なんて心配していたら、きりがない。


母は、素直に謝れる人だし、

感謝の心を忘れない人だ。

ありがとうとごめんねが

きちんと言える大人だ。

だから、信頼できる。


母のする行為は、

拙くても悪意はない。

どれもが愛にあふれていて、

利己や欲で欺くことなど微塵もない。

まちがっていても、

まちがいではない。

母が選んだ「答え」なのだ。


母と向き合うことは、

自分を知ることだ。


父から学んだこと。

母から学ぶこと。


力は、人を萎縮させる。

暴力、怒声、いら立ち、悪感情。

それは、人の心を破壊する。


「もう死にたい。

 生きとっても意味がない」


何度も母がもらす言葉に、

胸が苦しくなった。


否定され続けた人は、

自分が無価値に感じ始める。

自分なんて、

生きてちゃいけないのかな、と。


罵詈雑言、怒声、非難。

激しく閉められるドアの音。

孤独よりもつらい、否定。

初めは抵抗するものの、

やがてその気力を失い、

無力で従順な存在になる。


父が絶対の悪とは思わない。

ただ、父は強すぎた。

人の話を聞かなすぎた。

母は、言えなさすぎた。

そして何も聞こえなくなった。


ぼくは、父のことも

母のことも好きだ。

ただ、父のようにはなりたくないし、

母のようにもなりたくない。

いいものも、悪いものも、

それぞれ二人から学ぶことがある。










これまで自分が

不幸だと思ったことはない。

ありがたいことに、

どちらかというと、

すごくしあわせだ。


世間の「ものさし」を

あてられたとき、

「うちの家族」は「いびつ」で、

「不幸な」形にゆがめられる。


母と過ごしながら、いろいろ思った。

今日までのことを、いろいろ思った。


楽しかったこと。

嬉しかったこと。

悲しかったこと。

つらかったこと。

悔しかったこと。

ありがたいこと。

申し訳なく思うこと。

うまくいったこと。

うまくいかなかったこと。


今年で私は50周年。


ということは、

母と過ごした時間が

50年ということだ。


ありがとう。


ほかに言葉が見つからない。


父には手紙で伝えたけれども。

母には直接、ありがとうが言える。


ありがとう。


何度でも言う。

何回でも、何百回でも。

言えるかぎり何度でも、

たくさん言っておきたい。


笑顔が戻った母さんに。


ありがとう。


これで、ひと安心だ。

そしてこれからもよろしくね。


母さんの生きる意味はたくさんある。


結婚した甥っ子に

子供が生まれたとき、

その子を抱いてあげてほしい。


気がすむまで

日本舞踊を続けてほしい。


あと5,000個くらい、

母さんの作ったハンバーグが食べたい。


世間ではどうなのか、ということより。

いまできることを、やろうと思う。


いまのぼくにできるのは、

母さんの笑顔をたくさん咲かせることだ。

これまでじっと耐えてきた分だけ、

これからは思いっきり

のびのびと笑ってほしい。


父はもう、家には来ない。


天国で母さんの笑顔を見ているはずだ。


もしかすると、地獄かもしれないけど。

母さんが怖がることは、もうなくなった。


母にはそれを伝えていない。

いまの母には、伝えないほうがいい。

そう思っての「うそ」だ。


母は、父の葬式にも、

遺骨を拾うことにも興味がないと。

それを聞いたうえで、

姉と二人で葬儀をすませた。



母のなかでは、

ずっと父が生きている。


入院している父は、

家に来られないのだと。

このままぼくは、

母をだまし続けるつもりだ。



今日まで母さんが生きてこられたのは、

父さんのおかげです。

そしてこの先、

母さんが生きていけるのも、

父さんのおかげです。


離れていても、

ずっと面倒をみてくれてありがとう。


ぼくは、

父さんができなかったことを、

やっていきます。


母さんの笑顔を、一つでも多く、

父さんに届けられるよう。

目の前のことを大切にしながら

生きていきます。






父さん、母さん、ありがとう。


何もできないぼくは、

何もできないまま、

とうとう50歳になります。


ちょっとつらい時期もあったけれど、

50年の人生、どこを切ってもぼく色で、

すごくしあわせでした。


ありがとう。


父さん、母さん、そして姉ちゃん。


ばらばらでいびつな家族だけど、

ぼくはみんなが大好きです。

自慢の家族で、宝物です。


戸惑いのなかでまた

大切なことを忘れてしまわないよう、

四十九日を迎える今日、

ここにしっかり記しておきます。


出会ってくれてありがとう。

産んでくれてありがとう。


ずいぶん遠回りしたけど、

わかったことがある。


笑顔にまさるものはない。


すぐ目の前にいる人の笑顔が

いちばん大事。


それには自分が

心から笑っていられること。


単純なことを

愚直に実践することのむずかしさ。


人は、変えられない。

自分が変わるしかない。

自分が変わることで、世界が変わる。


短気は損気。

父さんはずっと変わらなかった。

母さんはいま、少しずつだけど、

変わりつつある。


理屈や力ではなく、笑顔の効力で。


強く吹きすさぶ北風には、

心を溶かすぬくもりはない。

あたたかな笑顔にこそ、

厚着した心をほどく安心感がある。


母はいま、毎日笑顔だ。

少女のように、

目をきらきらさせて、

昔話をくり返す。


「いっつもおばあさん(母の母)が

 産みたての卵を持って行ってねぇ」


母の話は尽きない。

笑顔も尽きることなく

毎日、華やかに咲き続けている。


ありがとう、父さん。


いなくなったいま、

よけいに父の大きさを感じる。


ぼくの背中を押すのは、

父さんだ。


「母さんのこと、頼んます。

 どうぞよろしくお願いします」


電話ごし、

父と交わした最後の言葉は、

しっかりぼくの心に染みこんだ。


これからも、

母さんのことを大切にしていきます。


今日までずっとありがとう。


これからもずっと、

母さんはぼくの母さんで、

父さんはぼくの父さんです。


ありがとう


—— あなたたちの息子より



父と母(撮影:息子)



<今日の言葉>


おとうさん

おかあさんを

たいせつにしよう。



2024/10/01

背中が見えない

『戦士の背中』(2016)




「どうしてあんなふうに

 するんだろう」


「こうやったほうが、

 ずっといいのに」


かつてこんなことを、よく思った。

今でも少しは思う。

けれどもそれは、

疑問というより、好奇心だ。


そうやらないのには、

理由があるから。

それぞれの、事情があるから。


「あの人ばかだなぁ」


と、思ったとき。


自分の背中には、

おなじ言葉が貼られている。


自分がばかだと気づくこと。

ばかな自分に気づくこと。


いろいろな景色や風景を見て、

たくさんの場面で感じ、

さまざま見方、感じ方と

対面してきたつもりでいたけれど。


なかなか、

自分の背中は見えにくい。


わかったつもりでいても、

すべてがわかることはない。



* *



シマウマが、キリンを見て思う。


「どうしてわざわざ、

 あんなに首を長く伸ばしてまで、

 高いところの草を食べるんだろう」


水牛が、魚を見て思う。


「息もできない水の中で、

 さぞ苦しかろうに」


鳥が、地上の動物たちを、

大空から見下ろす。


「地面をはって

 かけまわるなんて、

 なんて大変なことだろう」


こうして考えてみると、

自分の愚行がはっきりわかる。


鳥の目、魚の目、人間の目。


広い世界を見てきたようで、

見ている世界は一元的だ。


価値観のせまさと、

偏ったものの考え方は

知識や知見の量ではない。


「どうしてあんなふうに

 するんだろう」


これが「自己中心的」な、

ものの見方だと気づくのに、

ずいぶん時間がかかった。


ただ単に気づいただけで、

まだまだそれ以上のことはない。


「おまえがばかだ」


「おまえこそおかしい」


自分の愚かさに

気づかせてくれた背中を

ありがたく思う。


人の「あら」を指摘するより、

自分のまちがいを正したほうが

すがすがしい。


自分以外に変化を求めるのは、

快適さを手に入れるため、

自分以外のものに

荷物を押しつけることかもしれない。


それなら、

自分が変化したほうが、

はるかに「得」だ。


空を飛ぼうと、

水の中を泳ごうと、

その人がしあわせなら、

それが一番しあわせなこと。


これまで、

共感することや

交換することが

相互理解だと思っていた。


価値観を交換して、

おたがい切磋琢磨したり、

よき刺激を与えあうことが

いい関係だと思っていた。


はい、いいえ、と。

素直に言うことが、

正直さだと思っていた。


肯定こそが、最大の理解。


ちがうかっらこそ、

おもしろい。


肯定的だと思っていた自分も、

否定されてみて初めて

わかったことがある。


強烈な自己肯定は、

他者の否定と表裏一体だ。


肯定は肯定を生むが、

否定の上に、肯定は育たない。

いくら種をまいても、

否定の土に、肯定は実らない。


自己肯定のための他者否定。


悪意でも怠慢でもなく、

それは、恐れだ。

変化に対する恐れや不安が、

否定という鎧(よろい)をまとい、

ときにはそれが武器と化す。


成長や変化を好まない人もいる。

そういうことが重荷だったり、

面倒くさいと思う人もいる。


「どうしてやらないんだろう」


「なんでそんなことを

 するんだろう」


そう思い悩んでいた自分は、

まるで自分の背中が

見えていなかった。


知らぬ間に否定していた自分は、

知らぬ間に否定を拾い集めていた。


「大きなお世話だ」


「よけいなおせっかいだ」


「ほっといてくれ」


本当にそのとおりだ。


疑問のベクトルは、

外ではなく、自分に向けて、

自分の糧にする。


大きな岩に向かって、

どいてくれ、と言っても

動きはしない。


水は流れる。

今ここにあった水は、

もう目の前にない。

水を眺める自分がいるだけ。


そこに何を見るのか。

過ぎ去った幻なのか、

今この瞬間の現実か。

水に映る自分の姿か、

それとも、水の清らかさか。


どうしてやらないんだろう。

どうして嘘をつくんだろう。


子どもじみた疑問で

頭をかかえず、

想像力の鏡に背中を映す。


動かない岩を動かそうとするより、

よけたり、のぼったり、

別の道を探したほうがいい。


目的は、

岩を動かすことではなく、

岩をこえることなのだから。


変化を恐れて

じっとするのもつまらないが、

あまりにちがった環境に染まるのも、

枝葉を腐らせてしまうことがある。


渇いた土地で暮らすサボテンが、

潤沢な環境では

息絶えてしまうように。


何がよくて、

何がよくないのか。


人を知る前に、

まず己を知ること。


自分が何者で、

どこへ向かっているのかを。


魚なのか、鳥なのか、

それとも人間なのか、

サボテンなのか。


誰かの背中を追いかけても、

自分の道は見えてこない。


前を見て歩いていれば、

いつか自分の背中が、

見えてくる。


背中は語る。

声なく正直にすべてを語る。


何年も何年も

同じようなことばかり考えながら。


なるほど、

そういうことかと、

最近思った。


こんなおしゃべりばかり

しているようは、

まだまだ背中は、

何も語ってくれない。


結局のところ、

「ま、いいか」

と笑うのであります。



< 今日の言葉 >


Gion Shoja no, ka nay know O toe.
Sho gyo muu joe know, he bicky early.
Sara so ju know hanna no e low.
Joe sha he su e know, coto wally O ala wath.
O go rail mo know more, he sush call as.
Tada, her runo you may no go toe she.
Ta K key mono mo, tu e knee wa hall of bee nu.
He toe any, ka they no ma A no chilly knee on aji.


 上の文章を『Google翻訳(英語)』

  貼り付けて、音声を再生してみてね!


(『サラはハンナの低いところを知っている)



2024/09/01

パンドラの箱の中身


『進めっ!』(2016)

 



深い知り合いでもなく、

一期一会で聞いた話。


言ってみれば、

自分とは何の関係もない話だが。


ときどきふと、思い出す。


自分なら、

どうしただろうか。

自分はその中の、

誰になるのかと。



* *



A子は、夫であるB男と、

旅行に出かけた。

国内の離島で、

レンタカーを借り、

車を走らせていたところ、

あやまって事故を

起こしてしまった。


相手の車は、

同じく旅行者で、

同じように夫婦だった。


運転手のB男とともに、

相手夫婦も重傷を負った。

A子も重傷だったが、

ただ一人、歩ける状態だった。


肋骨と腕を折り、

血を流して朦朧としながらも、

一人動いて、

何とか救急車を手配した。

意識を失い、

次に目を開けたのは、

担架の上だった。



A子夫妻は、

緊急搬送された病院に入院した。

相手夫婦も同じ病院だった。

離島ということもあり、

病院も限られていて、

それほど大きくもない病院の、

同じ病棟だった。


事故後のことは、

ベッドから動けないままのB男が

進めていった。

保険業者があいだに入り、

事後の手配や処理業務などを

進める中で、

A子がB男に尋ねた。


「事故の相手に、

 謝りに行ったほうがいいよね」


A子の言葉に、B男が答える。


「いや。

 今はまだ、やめておこう。

 とりあえず保険屋に

 任せたほうがいい」


せまい院内では、

嫌が応にも相手方の気配を感じた。

すれ違ったとき、

冷たく、尖ったような

視線に感じたのは、

「事故加害者」という

負い目のせいか、

それとも謝意を伝えられない

心苦しさからなのか。


その後、

A子は何度もB男に

詰め寄ってみたが。


「保険屋に任せてある」


その一点張りで、

謝る気配も、

顔を見せようというそぶりも

感じられなかった。


一人、動けるA子は、

B男や病院などの指示で

あれこれと奔走した。

痛いのをこらえ、苦しいのをおして、

懸命に動いた。


相手夫婦とすれ違うたび、

A子はいたたまれなかった。

B男の意向もあり、

言葉も交わさず、

ただ会釈を返すだけしか

できないのも、

板挟みのようで苦しかった。


A子は何度となく、

B男に尋ねた。

自分だけでも

顔を出しに行っていいかと。


B男はそれを許さなかった。

謝る、謝らないは、

今後の先行きにも

関係してくるので、

勝手なことはしないでくれと。


退院までの数週間。

A子は、けがの痛みと、

居場所を失ったような

息苦しさに、

ただ耐えるしかなった。



退院後。

「法的に」いちおう、

事故の問題は解決したが、

相手夫婦は、

一度も顔を見せないA子夫妻に、

「許せない」と憤った。


「加害者の責任として

 謝罪するべきだ」


A子はふと思った。

自分も事故の「被害者」だと。


けがをさせられ、

事故後の手続きなどを

押しつけられ、

あいだに挟まって罵られて。


自分にも、

感謝やねぎらいはおろか、

謝罪の言葉も、

心配するそぶりもない。


A子はB男と話し合い、

思いを伝えるも、

謝ろうとはしなかった。


相手夫婦にも、

A子にも、

何も言葉はなかった。


A子とB男は、

落ち着くまで

距離を置くことになった。


A子は県外の実家に戻り、

B男はこれまでの住居に

とどまった。


B男が仕事を再開する中、

A子は一人、

事故の相手夫妻の元を訪れた。


B男は、

止まっていた仕事を

動かすことに忙しく、

賛成も反対もしなかった。


菓子折りを手に、

新幹線に乗った。

頭を下げるA子に

相手夫婦は言った。


「当事者はどうした。

 なぜこない」


一人で来ても意味がないと、

相手夫婦に追い返され、

頭を下げるだけ下げて帰宅した。


A子はB男に事情を話した。

それでも「責任」を

果たそうとしないB男の態度に、

A子は離婚を決意した。


A子は、2回、離婚を経験している。

B男は、自分より15ほど歳上で、

50代前半だった。


初め、離婚を渋っていた

B男だったが。

あるとき、態度が一変した。


「わかった」


二人の意見は、まとまった。


裁判所へ出向くため、

A子は新幹線に乗った。

離婚調停の裁判を進める中、

久しぶりにA子は、

B男の家を訪れた。


B男の部屋で、A子は見た。


机に置かれた携帯電話に、

20代と思しき女性との、

親密なやり取りを示す痕跡を。


裁判は続いていた。


この話を聞いたのは、

明日、最後の法廷だという、

前日のことだった。



* * *



もし自分なら・・・。

自分だったら・・・。


そんな愚問はどうあれ、

思うことがある。


遅かれ早かれ、

結果は同じだったんじゃ

ないだろうかと。


きっかけを

探していただけだったんじゃ、

ないだろうかと。


あれ、おかしいな、

と思いながらも、

気づかないふりをしていたのでは

ないだろうかと。


自信が持てなくて、

「そう」だと言えなかった、

「そう」だと認められなかった、

自分がいたのではと。


当人の気持ちや事情は、

本人にしかわからない。


そうだと思えることを、

そうだと言えなくなる瞬間は、

誰にでもある。


環境、状況、周囲の声。


気弱さのせいで、

わかっているのに、

間違った「答え」を

出してしまうことは、

誰にだってある。


そう見たかったら

そう見ればいいし、

そう思いたかったら

そう思えばいい。


自己犠牲をしても、

誰も褒めてはくれない。


思いを伝えたり、

話し合いができなければ、

温めるか、捨てるかだ。


頑張って人を欺けたとしても、

自分自身の心にだけは、

嘘をつけない。


嘘を長くついた分だけ、

心はどんどん空っぽになる。


他人にも、自分にも、

嘘は嘘でしかないのだから、

「本当」からは、

少しずつ、ゆるやかに、

確実に離れていく。


「答え」を見たかった。

自分の目ではっきり確かめたかった。


開けてはいけないはずの箱。


知ってはいけない「答え」を

自らの手で開けた。

自分の心が、

本当の「答え」を

迎えに行ったんじゃないかと。


この話を聞いて、

そんなふうに思った。



パンドラの箱には、

厄災や病気、疑い、

嫉みなどが入っていて、

開けた瞬間に

世界ヘ散らばって、

それまでなかった悩みを、

人間は知ることとなった。


箱の中に、

ただひとつだけ残ったもの。


それは『希望』。


もしこの『希望』までもが

飛び出していたら、

やる前からすべて

結果や結末が分かってしまい、

何ごとにも期待しなくなって、

やる前にすべて

あきらめてしまうことになった。


「答え」は「結末」。


見なければ自分で変えられる。


それが、

いいことなのか、

わるいことなのか。


「答え」は自分で決めればいい。


人間には『希望』が

残っているのだから、ね。



< 今日の言葉 >


"I now know they two world. 

One we can major with line world,

and the other we can feel intuition."

by Helen Keller


(『世界は2つあることを知った。物差しで測ることができる世界と、直感で感じることができる世界だ』ヘレン・ケラー)


※ヘレン・ケラーは、生後19カ月で視力を失いました。

2024/08/01

ラジオ体操とドッジボール

『動物人間』(2008年)


 *


夏休みになると、

町内でラジオ体操が催された。


毎朝6時半ごろだったか。

大学のグランドの脇、

ふだんゲートボールなどに

使われている、

小ぶりな広場が会場だった。


角に穴の空いた

スタンプカードは、

思い思いの紐が通され、

首から提げられる。


そのまま体操をすると、

うつむき、

大きく胸を広げる動きなどで

腕が引っかかり、

「プン!」

と角の穴が裂け、

紐から外れてくるくると

飛んでいってしまったりする。


毎日毎日、

健康のためというよりは、

『出席』のスタンプを

押してもらうために

参加していたラジオ体操。


夏休み最後の日には、

参加した日数に応じて、

皆勤賞やその他諸々の

「景品」がもらえた。


そう。

完全に「物」に釣られていた。


町内会長の手腕に左右されたが。

かつて教育関係の仕事に

就いていた会長さんは、

交友関係や顔も広かったようで、

ラジオ体操の「景品」が

充実していた。


電話の形をした貯金箱。

色鮮やかな鉛筆や消しゴム。

おもしろい形の透明な定規。

かわいい絵柄のメモ帳や

ノートなど。

きちんと毎日体操すると、

紙袋いっぱいの景品が

もらえた記憶がある。


どれもが企業の名前が銘打たれた、

いわゆる「ノベルティ」

ばかりだったが。

逆に言えば、

お金で手に入らない物でもあった。



朝6時。

父、または母に揺り起こされる。


きっちりしいで厳しい父に代わり、

甘甘でのんきな母は、

目をこすりながらぐずる

ぼくに変わって、

ぼくのスタンプカードを持って

ラジオ体操の会場へ向かう。


自分の代わりに、

ぼくのカードにスタンプを

もらうのだ。


母は、継続することが得意な人で、

ラジオ体操などの行事を

苦にも思わず、

むしろ楽しんでやる人だ。


いくら母似のぼくも、

朝起きるのだけは

どうも苦手だった。


頑張って早起きするのだが。

どうしたってカードの押印が

歯抜けになった。


姉は、きちんと毎日行っていた。

目が覚めてひとりだと

気づいたぼくは、

あわてて身支度をして、

ラジオ体操の会場へひた走る。


「ご、ろく、しち、はち」


締めくくりの深呼吸で

滑り込んだ日が、

小学生の数年のあいだに、

何度となくなった。


飼っていた犬の『レオ』を

傍につないで

体操したこともあった。


寝癖で半目のまま、

その場で跳躍したこともあるし、

途中で雨が降って

中止になった日もあった。


それでも、

スタンプのために、

ひたすらラジオ体操をした。


砂の地面と、

木の棒杭に巻かれた太い針金の柵。

ポータブルスピーカー、

プレハブの事務所。

ひんやりした朝のアスファルトと

蟬しぐれ。


そんな景色が

ぼくのラジオ体操の風景だ。



* *



引っ越して間もないころのぼくは、

学区内にほとんど

「友だち」がいなかった。


通っていた幼稚園も、

学区からは少し遠い

幼稚園だったこともあってか、

見知った顔はまるでない。


・・・自分の記憶ちがいでなければ。


たしかそれは、

大学のグランドで、

ソフトボール大会か何かの

町内行事が終わったあとのことだ。


夏休みの日曜日。

引っ越してきたばかりと

いうこともあり、

顔出しも兼ねて、

父に連れられ町内行事に参加した。


大会が終わり、

道具や機材を

大人たちが片づけだすと、

広々としたグランドの片隅で、

ドッジボールが始まった。


年齢層は、

小学校低学年から高学年くらいで、

幼稚園児はいなかったように思う。


幼稚園児のぼくは、

グランドで始まったドッジボールを、

何となくぼんやりと眺めていた。


すると突然、

ひとりの大人が紛れ込んだ。


誰もが戸惑うなか、

ぼくにはすぐわかった。


それは、父だった。


恥かしさと

申し訳なさいっぱいで、

それでも目が離せずに、

ぼくは「他人のふり」をして

黙って見ていた。


いきなりの

闖入者(ちんにゅうしゃ)に、

お互いの顔を見合わせていたみんなも、

次第に打ち解けるふうにして、

ドッジボールを楽しみだした。


父は、

運動全般が得意な人だった。

おもしろい投げ方や、

曲芸みたいな受け方を披露したり、

圧倒的な技を見せたので、

たちまちみんなの「人気者」になった。


それでもぼくは、

恥ずかしかった。


どうして「子ども」に混じって、

本気になって

ドッジボールをしているのかと。


どうかぼくに

声をかけませんように。


心のなかで念じる思いとは裏腹に、

父は「おーい」とばかりに

手を振った。

芝生の斜面に座る

ぼくに向かって、

大きな体で大きく手を振った。


たくさんの視線が

ぼくに向かって注がれる。


穴があったら

逃げ込みたいほどの衝動に、

ぼくはおろおろと

視線を泳がせた。


「としあきー!」


父はぼくの名を呼んだ。


もう、逃げられなかった。


おずおずと重い腰を上げ、

未練がましく尻の砂を払ったあと、

観念したように

とぼとぼと足を進めた。

父と、

たくさんの「子どもたち」が

待つその場所へ。


「うちの子や」


父がぼくの肩に手をまわす。


思いほか、

きらきらとした目が

ぼくに注がれた。


「仲ようしたってな」


みんながぼくを見ていた。

ぼくもみんなを見ていた。


「そしたら、また」


父はぼくを連れて、

グランドをあとにした。


空には赤い太陽が

浮かんでいた。


家に向かう道すがら、

ぼくは父に聞いてみた。

どうしてドッジボールなんかに

混じったのかと。


父はこんなような

ことを言った。


「おもろいおっさんの子が、

 お前やったら。

 新しいとこでも、

 いじめられへんやろかと

 思ぉてな」


父の分厚い手が、

ぼくの肩を包んだ。



* * *



あれから何十年も経って。


ふと急に、

そんなことを思い出した。


新しく引っ越した街で、

ぼくがいじめられずにすんだのは、

父のおかげだったのかもしれないし、

そうじゃないかもしれない。


そのときは恥かしくて、

本当にやめてほしいなと

思ったのだけれども。


父の思いに気づけたことは、

本当によかったなと思う。


ありがとう、父さん。


世間が夏休みになった

この季節に。


ふと思い出した

ラジオ体操の記憶と、

ドッジボールの思い出。


お父さんもお母さんも、

子どもも大人もみんな。

甘くて苦くて酸っぱくて、

絵にも描けない思い出を、

心の絵日記に

綴ってくださいね♡


ずるしてもらった景品は、

あんまり嬉しくない。


『物資的な満足感は、

 精神的な達成感よりも、

 はるかに小さい』


形骸よりも中身。


そんなことも学んだ、

夏休みでした。



< 今日の言葉 >


ヘルシーモンクの

『ランダム・ソーツ・グラス』。

By ヨシダヘルシー


Healthy monk's 

"Random thoughts grass".

By Yoshida Healthy


(兼好法師の『徒然草』吉田兼好 著、の誤訳)








2024/07/01

昔話のようなお話


『男と女』(2007年)


 *



みなさんは、

まるで昔話みたいだな、と

思うような場面に

遭遇したことはありますか。


大きなつづらを選ぶ、

欲ばりじいさん。

金の斧をもらう、正直な木こり。

うそばかりついて、

信じてもらえなくなる羊飼いの少年。


何かの教訓か警句なのか、

ときどきそんな場面に出会う。


今回はそんな現代の昔話を

3つほどお送りいたします。



* *



むかしむかし、

というほどでもない、

少し昔の話。


とある街の商店街に、

一軒の店があった。


金物屋というのか、雑貨屋というのか。

昔でいうところの、

小間物屋やよろず屋といった

風情だろうか。


店内には、

所狭しと商品が並べられ、

積まれ、重ねられ、

まるで倉庫のような様相である。


薄暗い店内、

うっすらとほこりのたかった

商品たちは、

博物館を思わせるような物も多く、

見ているだけで楽しくなる。


なつかしいキャラクター物の水筒や、

アルマイトの弁当箱、

ポリカーボネイトの筆箱やら。

自分でも使ったことのない時代の

素材や形状の物たちが

無造作に置かれている。


針金で編んだねずみ捕り器や、

炎をあおる「ふいご」、

殺虫剤を撒布する噴霧器など。

童話の世界や小説の中でしか

見たことのないような形の

物もあった。


そんな店内の様子が

たまらなく好きで、

その街を訪れた際には、

ふらりと立ち寄る店でもあった。


そして、そのとき必要なものを、

一つ、二つばかり買っていく。

入場料代わりというわけでもないが。

品物を物色して、黒く汚れた手で、

いくつかの商品を抱え、

店の奥へと向かうのだ。


レジ、というには古めかしい、

お勘定どころにおじさんがいる。

おじいさんといってもいい年齢の、

白髪のご主人だった。


大きなそろばんと、

手動式のレシスター。

まるで戦国武将よろしく腕を組み、

丸椅子の上で、

テレビを観ながら座っている。


「おじさん、これいくら?」


「それか。そうだな、

 古いし、汚れてるから、

 300円でどうだ?」


「これは?」


「それは、奥にもいっぱいあるから、

 ひとつ100円でいいよ」


そんな具合に。

どんぶり勘定スタイルも変わらない、

古き良き雰囲気の店であった。


最初に訪れてから、

もう何年くらい経ったときか。

聞くともなしに、おじさんが語った。


「この前、テレビが来て、

 この店が出たんだよ」


おじさんはうれしそうに

そのときの様子を話してくれた。


「△△ちゃんに握手してもらった」


などと

元グラビアアイドルの名前と、

お笑いのベテランの方の名前を

口にしながら、

サイン色紙を指差した。


自慢げに語るおじさんの話に、

合いの手を入れながら、

しばらく耳を傾けていた。


数カ月後。


コロッケの話をしていて、

その街の商店街のコロッケを、

どうしても食べたくなった。


さっそく車を走らせる。

それは、間違いなくおいしかった。


商店街の肉屋で買った、

揚げたてのコロッケを食べたあと、

街をぶらつき、

いつものようにその店へ向かった。


おじさんは、怒っていた。


怒りに打ち震えながら、

燃えるような目で、

おじさんが話し始めた。


ソフトビニール人形。

通称「ソフビ」。

おじさんの店には、

特撮物のヒーローの人形があった。


『ミラーマン』という、

鏡に向かって変身する正義の使者で、

1970年代初頭に

放映されていた番組の

ヒーローだった。


古物好きで、

昔のヒーロー好きでもあったぼくは、

聞かずともその姿を見ただけで

すぐにそれとわかった。


足の裏には、

おもちゃメーカーの刻印と、

『ミラーマン』という名が

刻まれている。


おじさんは、こんな古い、

時代遅れのおもちゃを

店先に並べていても

しょうがないと思い、

新品のまま、

店の奥の箱にずっとしまっていた。


けれど、おじさんは、

テレビの収録のとき、

流れでその箱を持ち出して、

カメラの前にお披露目したそうだ。


番組が放映されたすぐあと。

店に、一人の男がやってきた。


男はミラマーマンの人形を

1体だけ残して、

残りの10体を買っていった。


値段は1体500円。


男は何も言わず、

5000円支払った。


店を出る間際、

男がおじさんに言った。


「これは、

 1体5万円くらいで売れる。

 だから、1体だけ残していく」


それを聞いて

いきり立ったおじさんに、

男が言ったそうだ。


「知らないほうが悪い。

 むしろ教えたんだから、

 情報料がほしいくらいだ。

 その1体を売れば、

 5万になるんだから」


おじさんは、

自分が50万円損したような

気持ちになったのだろう。


教えなければ、よかったのか。


それとも、最初から全部、

教えてあげることがいいことなのか。


よき行ないとは、いかに。


あなたは、どう思いますか?

あなたなら、どうしますか?


インターネットがない時代。


だからこそ、わからなかった。

だからこそ、知られていなかった。



数年後、

近くに立ち寄る機会があった。


店の外観は相変わらずで、

初めて見たときと

ずっと変わらないようにすら見えた。


なつかしいような気持ちで、

店に入った。


なんだか違う感じがした。


『かってにさわらないこと』


商品の並ぶ店内のあちこちに、

小さな札が立っていた。


こんな注意書、あったかなと。

妙な雰囲気に、

伸ばしかけた手を静かに下ろした。


小さな橋箱を指して、

おじさんに値段を聞いてみた。


「それは古いものだから、

 5000円」


驚いたぼくは、

橋箱に視線を戻した。


そこにもやはり、

『かってにさわらないこと』

という札が立てかけられていた。


黄土色の厚紙に、

黒いマジックで書かれた文字を見て、

何も言えず、

ぼくは店をあとにした。


あの「出来事」のせいだとは

言い切れないが。

きっとあのことが少なからず

影響しているだろう。


変わってしまったものは、

何なのか。


おじさんなのか、時代なのか。


ぼくにはよく、わからない。



* * *



むかしむかし、

というほどでもない、

少し昔の話。


県内を自転車で走り回っていたとき。

私鉄の駅からほど近い場所で、

一軒の自転車店が目に入った。


古めかしい感じの店構えに、

心ときめかせ、

自転車を停めて中に入った。


店には、

おばちゃんがいた。

おばあさんといってもいいくらいの、

腰の曲がった女性だった。


店内には、

自転車好きにはたまらない、

特に旧車好きには垂涎ものの、

古き良き時代の部品が

あちこちに並んでいた。


リボルバー式拳銃の

チャンバーみたいな形状の、

溝の入った、

70年代のシートポスト。

(サドルを支えるための棒です)


ぴかぴか光る、

銀色の金属でできたディレイラー。

(ギアを変速するための部品です)


中世の騎士を思わせる形状の、

アルミ製のブレーキレバー。


サカエ、スギノ、シマノ、

サンツアー。

主に国産の物ばかりだったが、

欧州の物も少し見られた。


天井からは、

自転車のフレームが2つ、

ぶら下がっていた。


身長177センチのぼくは、

530サイズの自転車に乗っている。

適正かどうかは別として、

フレームの形状の、

見た目のバランスが

いちばんいいように感じるからだ。


店には、

490と580のフレームがあった。

ブリヂストンとチネリ。

カーボンではなく、

クロモリ(クロームモリブデン)製の、

重厚なフレームだ。


どちらもすばらしい物だったが。

小さすぎるものと、大きすぎるもの。

自分にはどちらも

合わないサイズだった。

しかも・・・。


「いちじゅう、

 ひゃくせんまん・・・」


なかなかのお値段である。


思わずぼくは、

店のおばちゃんに聞いた。


「完成車は、ないんですか?」


「いろいろたくさん

 あったんだけどね」


おばちゃんの話は、こうだった。



この自転車店は、

おばちゃんのご主人が

立ち上げたもので、

長年ご主人が切り盛りしていた。


数年前、

ご主人が体をこわし、入院した。

その間、店は閉めていた。


あるとき、

一人の男がやってきた。

近所の寿司屋の大将だった。


彼は、子供のころ、

よく自転車屋を利用していた

客だった。

店の主人が入院した話を聞いて、

自転車店にやってきたのだった。


彼は、おばちゃんに言った。

自分が手伝うから、

お店をまた開けようと。


彼は、

足繁く病院のご主人を見舞って、

店のことを

いろいろ任されるようになった。

昔気質の頑固なご主人は、

店のことを、彼に一任した。


そしてご主人は亡くなった。


おばちゃんはそのまま

店を閉めようと思ったのだが。

気づけば老舗となっていた

おばちゃんの自転車店は、

近所の幼稚園に、

小さな自転車や一輪車を卸していて、

自転車通学の多いこの地区の、

小学生から高校生までの「足」を

提供していた。


半世紀の歴史があり、

すぐ駅裏に位置する自転車店は、

老若男女、地域のみんなから

頼りにされていた。


「ぼんやり遊んでても仕方ないし。

 まだ動けるから、

 こうやって自転車直したりしてる」


おばちゃんは、

一輪車のパンクを直しながら、

やさしく笑った。


「お父さんの仕事を

 手伝ってたおかげで手が覚えてる。

 こうしてときどき

 修理を頼まれたりして、

 おしゃべりなんかをして。

 何の不自由もなく生活できるのも、

 みんなお父さんのおかげ」

 

部品代と、

数百円の修理の手間賃をもらって、

おしゃべりする生活。

そんな毎日がしあわせだと。

おばちゃんは、

うれしそうに笑った。


店にあった古い商品や、

いろいろな荷物や自転車などは、

寿司屋の大将が片づけてくれた。


「古い物ばっかりたくさんで、

 ごちゃごちゃしてて、

 どうにもならんかったからね」


完成車は、何台かあったらしい。

寿司屋の大将の手元に、

3台ほど残っているそうだが。

あとはみんな「処分」したらしい。

おばちゃんは、ご主人の言葉どおり、

寿司屋の大将に一任しているので、

詳しいことは

何もわからないとのことだった。


「本当に助かって、

 すごく感謝してる」


おばちゃんは、

迷いのない顔でうなずいた。


年代物のシートポストには、

小さな値札が付いていた。


8000円。


それが高いのか妥当なのかは、

ぼくにはわからなかった。


「今でもときどき

 見にきてくれてる」


そう。


誰も困っていない。

むしろみんなが喜んでいる。


そこに、わるいものは、

ない気がした。


けれども。


たくましいな、と。

そう思わずにはいられなかった。


2010年代。

インターネットに続き、

スマートフォンの普及の進んだ時代。


それでも、

おばあちゃんの手に届くほどの

代物ではなかった。


知ることと、

知らないでいること。

どちらがしあわせなのか。


あなたは、どう思いますか?



* * * *



むかしむかし、

というほどでもない、

少し昔の話。


白い雪の舞い散る、

大晦日の夜。

積もるほどではないが、

寒い夜だった。


県外で車を走らせていて、

晩ごはん難民に

なりかけていたので、

目についた

ラーメン・チェーン店に入った。


駐車場はいっぱいで、

店の中も混雑していた。


食べ終わって出てみると、

車の横に、

若い男性が駆け寄って来た。


「この車の人ですか?」


聞かれてうなずき返すと、

彼が話し始めた。

震えているのは、

寒さのせいではなさそうだった。


彼は今日、

レンターカー・ショップから

車を借りて、

彼女と2人で遊びに出かけた。

そしてこのラーメン店に入った。


運転していたのは彼女だった。


彼女の運転する車は、

ぼくの車の右前方にぶつかった。


といっても。

少し傷がついた程度の、

軽い「衝突」だった。


もともと傷ついていた箇所でもあり、

正確にはよく判らないが。

おそらく大きな傷ではなさそうだ。


もちろんそんなことは、

彼らにわからなかった。


車に傷がついている。


どうしようと思った。


しかも、

自分の車でも家族の車でもなく、

レンターカーだ。


大学の冬休みを利用しての、

初めてのドライブが、

レンタカーでのドライブだった。


初めてのドライブで

起こした「事故」。


どうしていいか、わからなかった。


彼女は、

レンタカーの運転席で、

真っ白な顔で震えていた。


駐車場に立つ彼の顔も、

同じく真っ白だった。


彼女は何度も

吐きそうになっていて、

とてもじゃないが、

車から降りてこられないと。


ぼくの車を見て、彼は思った。

古い車だし、

ものすごく高価なのかも知れない。


震えながら、

車の主が来るのを、持っていた。


まるで昔話みたいだなと、

ぼくは思った。


正直な彼らの行動に、

ぼくは少し、

心を打たれてしまった。


寒い中じっと、

逃げ出さずに待っていた彼。

車の中で、震える彼女。


1年の最後の日。

大晦日に起きた、

初めてづくしの、初めての出来事。


車の傷は、たいしたことない。

そこにいる誰もが無傷だった。


ぼくは、

彼の名前と、

携帯電話の番号を聞いた。


「それじゃあ、よいお年を」


そのままぼくは、彼らと別れた。



数日後。


見慣れぬ番号から

連絡があった。


彼だった。


すっかり忘れていたことだったが。

忘れてしまったわけでもなかった。


彼が言った。


「このあと、

 レンタカーのお店から

 連絡があると思います。

 それまで、ぼくのほうにも、

 ぼくのほうからも、

 連絡しないでくださいと

 いうことです」


言われるままに、待った。


何かあるのかと思って、

そのまま待ってみた。


あれからもう、

何年経つのだろうか。


平成が終わって、令和に変わった。


言われるままに、

待ってはみたものの。


お店からも、彼からも、

連絡は来ない。



別に何も求めていなくて。

たいして気にも

していなかったのに。


約束を破られたことが、

ひどく悲しかった。


彼ではなく、

何も知らない彼を説き伏せた

お店の「大人」が、

ひどくけがらわしく思えて。


現場の搬入や搬出などで、

大きな車が必要なとき、

よくお世話になっていたお店だったが。

あんまり利用したくなくなったな、と。

そのときすごく、そう思った。



* * * * *



正直者は、

鉄でも銀でもなく、

金の斧がもらえる。


けれどもそれは、

お話の中だけのことなのか。


それとも、

金の斧という、

光るばかりで

まるで使い物にならない道具が

もらえるということなのか。



むかしむかし、

というほどでもない、

少し昔のお話。


今になってもわからない、

少し昔の昔話。


みなさんには、わかりますか?


昔話の、本当に意味を。

昔の話の、本当のこたえを。


ぼくはまだ、わからないままです。


わからないから、選ぶしかない。


自分が思う、そのこたえを。

正しいと思う、そのこたえを。



むかしむかし、

というほどでもない、

少し昔のお話。


読んだ人に

笑ってもらえたら。


このお話は、

めでたしめでたしです。



< 今日の言葉 >


” Stay hungry, Stay foolish."

「貪欲であれ、愚直であれ」


(『The Whole Earth Catalog』という出版物の最終号の裏表紙に書かれた言葉で、2005年、スタンフォード大学卒業式の演説の中で、スティーブ・ジョブズが3回くり返した言葉 )


それを間違えて、


” Stay Hungary, Stay foolish."


と思い込み、

ハンガリーに留まって、

馬鹿であり続けた男が、

いるとかいないとか。