2008/08/26

アイ・ラブ・観光





僕は、観光が好きだ。

そこが観光地であれば
あるほど、気分が盛り上がる。


観光地の、
ちょっと「現実ばなれ」した感じ。

日常との微妙な「ズレ」こそが、
観光地の魅力のひとつだろう。


「最近の京都は、
 もう日本的じゃない」


国内外を問わず、
そう評する人も多いようだが。

それが現実、
「京都」であることは事実だし、
僕はいまの京都も大好きだ。


平安神宮や金閣寺などの「京都」もあれば、
京都駅周辺や夜の先斗町(ぽんとちょう)などの
「京都」もある。

京都タワー地下の銭湯も、
比延山頂遊園地も「京都」だし、
裏路地の卵屋が売る出し巻き卵も「京都」だ。


なんでも保存するだけが「伝統」でもないだろうし、
昔っぽく再現するだけが「継承」でもない気がする。


大切なのは「精神」なんじゃないかと、
そんなふうに思うのだけれど。

とにかく、
僕には何の不満もない。


それぞれの観光地が考えて、
それぞれの地域が出した「こたえ」なら、
それが「らしさ」というものじゃないかと。

僕は批評家じゃないので、
その土地、その場所をのんびり歩いて、
楽しめたらそれでいい。


事実、いままで出かけた場所で
「たいくつ」だったところは、
ひとつもない気がする。


紀州、和歌山。

本州最南端といわれる場所の、
展望台でのことだ。

僕にとって、
観光のお楽しみのひとつに
「おみやげ」がある。

展望台の中の売店で、
キーホルダーなどの土産物をあれこれ見ていると、
売店のおばさんが話しかけてきた。

「もうすぐ、
 下のステージでイベントがありますから。
 よかったらどうぞ、見ていってください」


そういわれると、
気にならなくもない。

そして、
土産物ウオッチングが終わったころ、
階下からにぎやかな音楽が聞こえてきた。

民謡のようなそのメロディに誘われるようにして、
階段を下りてみる。

目の前に開けたステージでは、
着物姿の女性が、
あでやかに舞を踊っていた。


その女性と目が合い、
はたと気づいた。


着物姿で踊るその女性は、
売店のおばちゃん、その人だった。


早着替え。

自作自演。

優雅な舞。

先ほどの接客・・・。

いろいろな単語が、
頭の中で、ぐるぐる渦巻く。


僕は、階段の途中で、
思わず足を止めてしまった。

おばちゃんは、核心には触れず、
自らのステージを、
自らで勧めていた格好になる。


踊る、売店のおばちゃん。


先ほどとは
まるで別人のように見えるが、
同一人物だ。

売店の、青いベストを着ていたときよりも、
いきいきと優美に見えたのは
気のせいでもないだろう。


売店が先か、踊りが先か。


僕には、
おばちゃんが言い出して始まった
「催し物(イベント)」ように思えたが。

なんだか心をすすぎ洗いされたようで、
少し、いいものをもらった気がした。



反対に、
笑顔で大人のオモチャをすすめてくるような、
そんな陽気なおばちゃんもいる。


北陸の、とある名勝でのことだ。

朝いちばんの観光地で。

いったい誰が、
大人のオモチャを買うというのか。


ちらりのぞいたショーケースには、
昭和感たっぷりの、
いやらしいお人形さんが鎮座していた。


違った意味ではあるけれど。
僕はまんまと、
購買意欲をくすぐられていた。



熊本の、とあるラーメン店では、
話し好きの大将がいた。

うまそうな匂いに誘われ、
のれんをくぐったころには、
腹がぐうっと鳴りだした。

店内に入ると、
威勢のいい大将の声が迎えてくれた。

カウンターに座り、
さっそく、ラーメンを注文する。


「熊本は、初めてとですか?」

と大将。

「はい。わあ、
 ここにきてやっと、
 熊本の言葉が聞けました」

「分かりやすく、
 標準語ば使っちょる
 つもりですがねぇ」


そんなこんなで。

大将は、手を動かしながらも、
気さくに話しつづけ、けっして口を休めない。


世間話に始まった会話が、
自然とラーメンの話になり、
熊本ラーメンの特徴から、
大将のラーメン哲学にさしかかったころ。

大将は、僕の目をまっすぐ見ながら、
熱く熱く、語りはじめた。


「こうして産まれた麺が、
 最高の嫁となる、
 スープば探すとですよ」


大将のこだわりが、
じんじんと伝わる一語一句に。

僕は感心しきりで、
ただただうなずくばかりだったが。

正直、それどころではなくなっていった。

腹が減りすぎて、
口の中につばがあふれてきて、
返事も出ない。

まるで「おあずけ」を
食らった犬のようだった。


それが伝わった
わけでもなさそうが。

しばらくして、
大将が口を休めた。

そして、
満面の笑みで、
こう言った。


「じゃあ、いますぐ
 作りますでね」


思わず、ええっ、
前のめりで倒れそうになった。


大将は、熱を帯びた口が、
どんどん回り始める一方で、
ラーメンを作る手が、
その仕事をすっかり忘れてしまっていたらしい。
 
入店して30分強にしてようやく、
一杯の、ラーメンの調理がはじまった。


それでも。


長い時間待った、
その分だけよけいに
おいしく味わえたことは、
いうまでもない。




観光地の気さくな人びと。


一期一会じゃないけれど。

いく先々で出会う、
いろいろな人たちとの
やり取りは、いいものだ。


本やテレビでは取り上げないような、
ほんのささいなことばかりでも。

何の色づけもされていない、
「原色」の出来事だからこそ、
ずっと色濃く、手元に残る。


誰かに勧められたわけでも、
行列を追って
選んだわけでもない。

ときに「はずれ」を
引くのもまた、おもしろい。


「つまらない」場所なんて、
どこにもない。

おもしろくするのも、
つまらなくするのも。

それは、自分次第。


時間を、場所を、
おもしろくできるかどうか。


自分を「試す」ためにも、
自分を楽しませるためにも。

みなさんも、
手ぶらで「観光」
してみてはどうでしょう。



< 今日の言葉 >

いつのまにか下を向いて、
ただ過ぎ去っていく時間。
やり過ごしてるだけの日々。
みなさん、忘れていませんか。
生活の中で、
冒険を、自由を。

(OVA『FREEDOM  4』/フロリダのラジオDJ、アンナマリーの言葉)

2008/08/20

ときめく細胞




「花を見つめる乙女」(2008)




「ため息をつくと、
 しあわせが逃げるよ」


誰かに言ったり、
言われたりしたことは
ないだろうか。

科学的な根拠が
あるわけでもないだろうが。

たしかに的を射た
「いましめ」の言葉だと思う。


「しあわせ」のかたちは、
人それぞれ違うとしても。

ため息をつくと、
せっかく近よってきた「しあわせ」が
遠ざかっていってしまうのは、うなずける。


しあわせは「前向き」なのに、
ため息は「後ろ向き」だから。


そもそも
向いている方向が違うから、
すれ違って反対方向に
流れてしまいそうだ。


「死にたい」


そんなふうに「思った」だけで、
体の細胞のいくつかが、
実際に死んでしまうという話もある。

思ったり考えたり
しただけで、である。


想念や思考が体を「うごかす」だけでなく、
出来事としての「現象」まで
現実化してしまうのだから、
めったなことを口走るものではない。


「想念は具象化する」


野球好きならずとも誰もが知っている、
かの『ミスター』が言っていた言葉だ。


競技や試合の前に
イメージ・トレーニングをする。

そのイメージがどれだけ「具体的に描けるか」。

成功イメージの「絵」を「表現」すること。


いってみれば、
アスリートは芸術家だ。


少し昔の話だが。

ある体操選手は、
競技場に向かうバスの中で、
何度も競技イメージを繰り返し描き続けて、
何度もぴたりと着地する「映像」を
「再生」していたとのことだ。


そして実際、
思い描いていた「映像」と
まったく同じように、
ぴたりと着地を決めて、
金メダルを獲得。


驚くことに、
競技開始から終了のタイムまで、
ぴたりと同じだったという。



「妖精なんていないよ」


誰かがそう言うたびに、
ネバーランドでは
妖精がひとり、死んでしまう。


音楽界の大スターが
所有する「楽園」の話ではない。

ピーター・パンの故郷の
「ネバーランド」だ(念のため)。


先の「細胞」の話と
同じ理論だから、興味深い。



「妖精」といえば、
昆虫のみたいに透き通った羽根を持つ、
半裸体の、小さな少女の姿を
思い描く人も多いだろう。

この妖精の姿を
いちばん最初に世に広めたのは、
「シャーロック・ホームズ」
作者でおなじみ、
コナン・ドイルの、
その祖父(曾祖父?)だと
聞いたことがある。

なんでも、
コナン・ドイルの家系は、
妖精の見える血筋だったらしい。


妖精を信じる信じないは別として、
四六時中、妖精の姿が見えるようになったら、
きっと何かの「おしらせ」だろう。


その「おしらせ」が、
悪い知らせなのか、
それともよい知らせなのか。


それは、
お医者さんの診断、
または自分の判断で
決めればいいことだ。


「どきどきがなくなると、
 死んじゃうんだよ」


昔、『青い烏(からす)』
という小説の中で、
こんなセリフを書いた。

ここでいう「どきどき」とは、
もちろん「鼓動」のことであり、
同時に「わくわく、どきどき」と
いう意味での「どきどき」でもある。


人間、どきどきしなくなったら、
ある意味「おしまい」かもしれない。


どきどき感を失ったら、
体の機能は死んでいなくても、
精神や感覚の一部がゆっくりと麻痺して、
そのうち反応を示さなくなるんじゃないだろうか。


ちなみにこの、

「ドキドキ」

という言葉。

カタカナで書くと、
なんとなく気恥ずかしい感じがするのは
自分だけの感覚だろうか。


言葉にすると安っぽく、
陳腐(ちんぷ)になってしまうものもある。


けれど、
言葉や観念として「表現」しなければ、
具現化されないものもある。



「夢は、自分の絵が
 『アルフォート』の絵に選ばれること」


そしていつか、
世界を旅したい。


暑い夏は苦手だけれど。

1回っきりの夏だもん。

ワクワクドキドキのサマータイムを、
おもいっきりエンジョイするゾ!

リフレッシュ&
アクアフレッシュ。

おはよう(ゆりかご)から
おやすみ(墓場)まで、
こころと細胞をたいせつに。