*
常滑での二人展。
おかげさまで、
大盛況のうちに幕を閉じました。
毎回おなじことを
言っているようですが。
このたびも本当に、
ご来場いただいた方々のおかげで、
にぎやか&さわやかに
幕を閉じたのであります。
GWの貴重な時間を費やしていただき、
はるばるご来場されたお客様へ。
この場を借りてお礼申し上げます。
みなさま、
ほんとうにありがとう♡
正確な数字は聞いておりませんが。
ギャラリーの方から、
すごくたくさんのお客様が来られた、と、
称賛の声をいただきました。
お久しぶりの方、
初めましての方、
毎度どうもの方、
あら、また来たのの方。
いろいろな方、
ひとりひとりが集まっての
会であります。
今回、新作の絵をたくさん飾って、
みなさまに選んでいただきたい、
と思って挑んだ会でありますが。
最終日を終えて、
23枚のうち19枚の絵が
お客様の元へと
旅立って行く結果となりました。
絵本『おおきなかお』も、
新・旧作の手ぬぐいも。
たくさん手に取って
いただけました。
今回の目論み、
「たくさんの人の手に渡ること」。
それが実現できたことを、
大変うれしく思っておられます。
そんな、今回の二人展。
忘れないよう記録するとともに、
会をふり返ってみましょう。
* *
2020年の年末。
なつかしい人からメールが来た。
「ぺくにょんす です」
白 年守(ぺくにょんす)さん。
2009年、
常滑での滞在制作のときに知り合った
陶芸家の女性だ。
メールの内容は、
「4月末から11日間、
常滑駅前のギャラリーで
展覧会をやるんだけど、
1人じゃ会場をうめられないから、
家原くん、もしよかったら
いっしょにやってくれませんか?」
と、いうものだった。
自分はそのとき、
諸々の制作物があり、
それが終わる春先ごろから、
秋開催予定の大きな展覧会に向けて、
こつこつ準備を進めていこうかと
いうところだった。
けれども。
なんだかおもしろそうなので、
年明け、ついつい常滑の会場まで
おじゃましてしまった。
会場を見て、話を聞いて、
やってみたいと思ったので。
だから、
やらせていただくことにした。
これがすなわち、
今回の二人展開催の
経緯であります。
そんなわけで。
2月末から3月、
4月上旬までのあいだ、
ほかの用事をはさみながらも、
19×19㎝のパネルに向かって、
1日1枚、絵を描いていった。
会期までに、
21枚の絵を描いて、
会場には、旧作と合わせて
29枚の絵を
持っていくことにした。
* * *
4月29日、
搬入日。
天候は雨。
予報ではSMAP、
光GENJI・・・いや、
嵐のおそれ、ということらしかった。
遠足や旅行の前日など。
わくわくしちゃって眠れない。
または、夜中にぱちっと目が覚めちゃう。
この日もそうだった。
何の予兆もなく、
ばね仕掛けみたいに
ぱちっと目が覚めた。
デジタル時計の赤い文字は、
『AM5:45』
を示していた。
それからは布団のなかで、
まんじりともせず、
目を閉じ、
頭のなかでは、
会場の映像を思い浮かべて、
設営の手順を
シミュレーション(予行演習)していた。
展覧会の設営や、
新たに描こうとしている絵など、
頭のなかで何度となく
予行演習を繰り返したおかげで、
本番すんなり、
いい仕上がりになることが多々ある。
これは、部活の試合前でも、
大きなプレゼンの前でもおなじで、
この予行演習のおかげで
ぴたっとうまく運ぶことが多い。
朝6時すぎ。
うずうずがこらえきれず、
布団をはねのけ、ついに起きあがった。
新聞を読みながら、
ゆったり朝の支度をする。
雨(ARASHI)のおそれもあるので、
早めに行くにこしたことはない。
ということで。
家を8時台に出て、
法定速度でゆったり走行しながら、
開館時間の9時には到着。
ちなみに、
搬入日を含めて、
会期中は、ご実家からの出動でありました。
いろいろ鑑(かんが)みて、
そのほうがよいと
思ったからであります。
昼ごろに来ますとの
宣言をくつがえし、
いきなり登場の家原利明。
職員の方に挨拶、事情を話し、
談笑につづいて早速準備。
さいわい、雨はほとんど降っておらず、
傘も、雨天対策のビニールも
まるで無用なほどだった。
荷物を運びこんで、
設営開始。
時刻は9時20分ごろだった。
小パネルの絵は、
左から、描いた順番に並べることにした。
ぺくちゃんも登場して、
設営開始。
手が空いたので、
ぺくちゃんの陶器の
設置を手伝う。
照明の調整も終わって、
すべて終了したのは
14時半ごろ。
忙しそうに帰って行く
ぺくちゃんと別れ、
特に急用もないぼくは、
近くのミニストップで、
オレンジジュースと、
『ぼうじゃが・のり塩味』と
『忍者ふわ丸・うま塩味』を買って、
そこらに座って食べようかと思い、
はたと気づいた。
念のため持ってきた傘を、
使うことなく、
そのままギャラリーに
忘れてきたのだ。
先ほどお別れの挨拶をしたのに。
再び戻って、
てへへ、と頭をかきながら、
傘立ての傘を手にして
会場から後ずさる。
駅前モールに流れるラジオからは、
山口百恵さんの『ひと夏の経験』が
聞こえてきた。
今日は「昭和の日」なので、
昭和歌謡を特集しているとのことだった。
よごれてもいい
泣いてもいい
愛は尊いわ
誰でも一度だけ経験するのよ
誘惑の甘い罠
う〜ん、
思わせぶりな昭和の歌詞。
朝刊には、
作曲家・菊地俊輔氏の
訃報が載っていた。
ぼくは、小学生のころ、
仮面ライダーのBGMが好きだった。
いいな、と思う曲にはいつも、
「曲:菊地俊輔」
の文字が躍っていた。
おかげでぼくは、
氏の名前を、
本郷 猛や一文字隼人とならんで、
しっかり記憶した。
なかでも『孤高の魂』が好きで、
いま聴いても心がうずく。
ギラギラした音に、
脂っこい、60年代の香りを感じていた。
小学生のころは、
ファミコンのゲームでボスなどと戦うとき、
仮面ライダーBGM集のカセットテープを
大きなデッキで流して、
闘志を高揚させていたものだ。
テルミンみたいなキュルキュルした音。
アジトや洞窟の、怪しげな雰囲気。
これも好きだったなァ。
産業道路を走りながら、
去りゆきし昭和の日々を思い返す。
早起きしたので、
お腹がぺこぺこだった。
オレンジジュースと、
まず『忍者ふわ丸・うま塩味』、
次に『ぼうじゃが・のり塩味』。
食べる順番、
まちがえなくてよかった。
帰宅後、現代っ子のぼくは、
レコードやカセットテープではなく、
CDをMacのiTunesに読み込んだ
山口百恵さんの楽曲、
『赤い衝撃』や『絶体絶命』、
さらには仮面ライダーのBGMなどを聴きながら、
目を閉じひとり、腕組みして。
なつかしき昭和を偲(しの)んだ、
令和3年「昭和の日」でありました。
(CD音源のiTunesて。
どこが現代っ子やねん!
の声、ありがとうございます。
私、家原利明、いまだ銀盤愛好者であります)
横道に逸れまくりの
記述でありますが。
これが搬入日の
記録でございます。
* * * *
4月30日、展覧会初日。
会期中、毎日、
会場には11時に出勤すると、
事前に公言してあった。
朝、10時57分着の電車。
会場入りすると、
すでに2枚の絵が売れていた。
題名のキャプションに、
売約を示す「赤丸シール」。
初日の朝一ということもあり、
お客さんが気を使ってくださって、
後日引き取りの形に
してくれたとのこと。
即売の形式での今回。
絵がなくなっても、
どんな絵があったかわかるよう、
原画の下に、印刷した絵を貼っておいた。
絵がなくなると、
壁に貼られた印刷の絵が
現われる。
これまで、
後日引き渡し形式ばかりで、
即売形式が初めてだったので、
今回、初めての試みだ。
初日を終えて、
8枚の絵が売れていった。
それはありがたいことで、
すごくうれしいことだ。
絵を売ること。
自分が描いた絵が
売れていくということ。
それはどんな気持ちなのかと、
聞かれたことがある。
自分が産んだ子どもを、
というほど大げさではなくて。
自分が作った料理を、
というほど即時的でもなく。
自分が育てたお野菜を、
というほど牧歌的でもなくて。
しいて言うなら、
自分が育てた仔犬や仔猫を、
誰かにゆだねるような、
そんな気持ち。
いい人にもらわれていくといいな。
かわいがってもらえますように。
そんな気持ち。
初めから、
いつかは人の手に
渡っていくことがわかっていて。
それでも大事に
「育てて」いるような。
そんな感覚。
わが子を嫁がせる、とか、
そういう感じでもなくて。
何となくしっくりくるのは、
やっぱり仔犬、仔猫っていう感じ。
さみしいけれど、うれしい感じ。
最初のころは、
手ばなすのが嫌で。
注文で描くほうが
自分に合ってると思って、
そうしていた。
画家は、絵を描いて、
それを売って生業(なりわい)とするもの。
だから、絵は売っていくべきものだと
少しずつ思うようになって。
そこから少しずつ、
「絵が売れる」ようになってきた気がする。
(「絵が売れる」というのは、
自分が「売れる=手ばなせる」
という意味でもあり、
買ってもらえるようになった、
という意味でもある)
よろこんでもらえて、
行き場が見つかって。
この人なら
大切にしてくれるだろうと
思ったとき。
すごく、うれしい。
大切に育てた「仔犬(仔猫)」を
「いい」と認めてもらって、
ほしいと思ってもらえること。
それは、すごくうれしい。
だからこそ、
一生懸命、大事に「育てて」。
手ばなすのが惜しいくらいの絵を、
自分でも欲しいくらいのいい絵を、
描いていきたい。
つい最近、
そんな質問をされたおかげで、
あらためて考えることができた。
自分が描いた絵を、
売るということを。
自分が描いた絵が、
売れていくときの気持ちを。
そのせいなのか、
ぼくは『ドナドナ』を
最後まで歌えない。
2009年。
常滑でのグループ展示が、
世間に発表する初めての機会だった自分。
あのころは、
見せるだけで、見てもらうだけで、
充分うれしかった。
それを仕事にしようと
決めたのだから。
見てもらうだけで
満足していてはいけない。
あれからモウ、
干支(えと)が1周して、
12年経った。
12年経っての、
最初の地、常滑での展覧会。
絵を描くのは簡単だけど、
描きつづけるのは、
簡単なことではない。
そんなことを教わったのも、
12年前の、常滑の、
陶芸家のおじさんの姿からだった。
* * * * *
5月1日(2日目)。
初日と合わせて、
12枚の絵が売れていった。
「絵なんて、初めて買う」
「初めて額屋さんへ額装に行く」
「ギャラリーに来たのも初めて」
いろいろな初めてに
立ち会えたこと。
いろいろな初めてに
関われたこと。
みんなのよろこぶ顔。
うれしそうに、ほころぶ顔。
絵を買うって、うれしいんだな。
花を飾った花瓶と、
淹(い)れたてのお茶。
お気に入りのお菓子と、
気の利いた音楽。
少し開けた窓から注ぐ風に、
薄いカーテンがたゆたう。
壁には、額装された、
1枚の絵。
その前に座って、
おしゃべりしたり、
静かにすごしたり。
日常を、
少していねいに過ごす、
お手伝い。
絵のある生活。
絵は、生活にゆとりを、
心に余裕をもたらすもの。
本物の、生(なま)の絵。
ぼくは、
生活を彩る絵を描きたい。
絵を飾ることが、
初めてのお客さんにも、
すでにご存知のお客さんにも。
何を求めて描いた絵なのか、
それが伝わったのかもしれない。
そうだとしたら、それは、
すごくうれしいことだ。
だから今回、
たくさんの絵が
旅立って行ったことは、
言葉じゃ言い表わせられないくらい、
本当にうれしいことなのです。
2009年から12年。
展覧会、2日目が終わって。
原画がぽつぽつなくなり、
やや寂しくなった壁を見て。
12年という時間。
とにかくいっぱいやった。
本当にあれこれあったけど、
今日まで何とかやってこれて、
よかったな、と。
ひとり感慨深く、
うなずくのでありました。
2日目の午後、
高校の同級生2人が来てくれた。
終業後、彼らと
常滑の食堂『ときわ』へ行った。
小寒いから、と、
店のマダムがストーブを点けていた。
イスの上に正座していたマダムは、
イタタタ、と、
足を伸ばしてさすりさすり、
ゆっくり立ち上がって
厨房へ向かった。
大将が、冷たいお水を
運んでくれる。
今回、ぼくは「ときわ煮」を食べた。
友人たちは、
ときわ煮、ポークチャップ、
それぞれを注文した。
その日の昼下がり、
会場に、元教え子が来てくれていた。
彼は「先生、これ、おみやげです」と、
小さな袋包みをくれた。
開けると中から、額縁が出てきた。
額に納まっているのは、
彼の描いた絵の複製(印刷)で、
過日、彼の展覧会で、
「これいいね。これがいちばんいい」
と、絶賛したものだった。
すっかり腹も満たされて。
『ときわ』から、
同級生たちとともに、
駅まで歩いた。
彼らは、
2009年に滞在制作しているとき、
何度か常滑に足を運んでくれていた。
もちろん会期中にも、
見に来てくれた。
初めての展示だった。
だから当然、お客さんも、
知り合いしかいない。
彼らと、ほかの友人たち、
そして親、数人の生徒たち。
そのほかは、
グループ展に来られた、
「知らない人たち」ばかりだった。
初めての展覧会で。
やり切った作品を、
たくさんの人に見てもらえた。
そこで得た言葉、反響。
収穫は大きかった。
そのとき知り合った、
「お客さん」もいる。
「わ、なつかしいっ!」
「だいぶ変わったなぁ」
「こんなのなかったよな」
「あのとき描いた赤い線、
どうなった?」
「紫外線で、嘘みたいに消えて。
真っ白でおしゃれな部屋になってるよ」
「ええっ! そんなことあるんだな」
などと話しながら、
夜風に吹かれて散歩しつつ、
駅までふらふら歩いていった。
友人の1人が突然、
トイレ行ってくるわ、と言うので、
公衆便所の前で立ち話をしていると。
犬を連れた人物のシルエットが、
おもむろに、
「家原さん」
と、声を発した。
その声に、聞き覚えがあった。
「△△くん?」
「そうです、お久しぶりです」
偶然にも、知る人とすれ違った。
彼こそ、2009年、
常滑でのグループ展参加に
ぼくを誘ってくれた人物である。
あのとき、
彼が声をかけてくれていなければ、
「いま」は、もっとちがう形だった
かもしれない。
「よくわかったねぇ」
「声と、シルエットで、
すぐわかりましたよ」
トイレから戻った友人が、
きょとんとしている。
絶妙なタイミングで、
友人が尿意を催さなければ、
彼との遭遇(再会)はなかったかもしれない。
(そして後日、彼は会場に見に来てくれた)
電車の中で、
昼下がりに来場した
元教え子からの贈り物、
額に入った小さな絵を
友人たちに見せた。
「これ、モデル、おれらしいよ。
彼のお母さんから、そうやって聞いた」
ブロンドヘアの女性像。
ぼくとは似ても似つかぬ、美しい女性。
しいて言うなら、その髪型。
色こそ違えど、
ウエーブのかかった、
セミロングの髪型は、
たしかにぼくに似ていなくもない。
描いた本人は、恥ずかしくて
とうてい言えない様子だった。
彼の展覧会の帰り道、
たまたまお母さんの働く美容室に顔を出して、
その「秘密」を聞いた。
「・・・本当、笑えるよね」
彼のことをうれしそうに、
誇らしげに話す自分が、夜の、
特急電車のガラス窓に映っている。
自分も含めて、
彼も、ほかのみんなも。
何者でもなかった者が、
少しずつ、何者かになろうとしている。
何者かに、なりかけている。
ゆるやかに、曖昧に、
不確かでも確実に。
何者でもない者たちが、
何者かになろうとしてる。
ひとり、分岐の駅で降りたぼくは、
走り去る電車と友人たちを見送り、
向かい側のホームの電車で
家路へと向かった。
お酒も飲んでいないのに。
その日は少し、
ほろ酔いしたみたいな
気分だった。
* * * * * *
朝、7時半に起きて、
10時ちょうどの電車に乗って、
乗り換えたりしながら、
同57分、常滑駅に到着。
終業後、
何もなければ帰宅して、
夜7時すぎには晩ごはんを食べる。
久しぶりの、
母の手料理三昧。
母も、連日の手料理は
久しぶりのことだった。
会期中、
ご実家に滞在していたおかげで。
えらくわんぱくな晩ごはんが、
毎日つづいた。
ある日の夕食。
たっぷりの野菜サラダと
コーンポタージュスープ、
揚げたてのフライドポテト、
メインは、直径8㎝くらいはある、
分厚く巨大なハンバーグが ×2個。
皿のすみには、
スパゲッティがくるりと
添えられている。
麻婆豆腐と餃子の日。
松茸ごはんとお吸い物、
刺身の盛り合わせの日。
エビフライやカツなど、揚げ物の日。
カレーライスの日。
ポークチャップの日。
ビーフストロガノフの日。
横には、ポテトサラダや
かぼちゃの煮物、
ひじきやきんぴらごぼうなどが
日替わりで並んだ。
今日は宴(うたげ)?
ほかに誰か来るの?
もしくは、
わしゃ食べ盛りの高校生かっ、
と言いたくなるほど
豪勢な量の夕食。
とは言いながらも。
会期中は朝ごはんのみで、
夕食までまでは何も食べない、
というのが常なので。
育ち盛りの中高生なみの晩ごはんも、
するするお腹に入っていった。
毎日がごちそうの連続で、
毎日はらぺこのぼくには、
本当にありがたかった。
ある日、
アボカドが散らされたサラダを手に、
母がきょろきょろしながら言った。
「あれ、ビシエドって
持ってきたっけ?」
母は『ピエトロ』(ドレッシング)のことを
言っているつもりらしい。
野球に詳しくないぼくでも、
それが、中日ドラゴンズの
外国人選手だということは
すぐにわかった。
ちなみに母は、
「アボカド」のことをずっと
「アボカボ」と呼びつづけている。
というわけでその日は、
アボカボサラダに
ビシエドをかけて
おいしくいただきました。
5月3日(4日目)。
中学校の同級生が来てくれた。
「はい、これ。おみやげ」
シャラシャラと手渡されたものは、
「幸福の鈴」と書かれた手持ちの鈴だった。
「おお!」
ぼくは驚きとよろこびを、
思わず声にした。
それは、同級生の娘さんが、
お参りにときに買ったという鈴で、
2016年の展覧会のとき、
まだ幼かった娘さんが
手にしていたものだ。
そのときぼくは、
ちょうだい、と、娘さんにせがんだ。
別の展覧会でも、
思い出すたびせがんだ。
あれから5年。
娘さんはすっかり大きくなった。
ぼくはいまだ、大きくなっておらず。
5年ごしにもらった
「幸福の鈴」に興奮して。
帰宅後、音楽に合わせて、
シャ乱、シャ乱と鳴らすのでありました。
覚えてくれていて、ありがとう。
あの日の風景とともに、
ずっと大切にします。
その日の午後、
2番目の甥っ子が、
友人とともに、来場してくれた。
2年前の『家原美術館2019』にも、
2人は、そろってきてくれた。
終業後、車で来ていた2人に、
家まで送ってもらった。
甥っ子は、
実家とおなじ区内に住んでいて、
友人に家まで送ってもらうということで、
まことに恥ずかしながら、
私めも便乗させていただいた。
「今日は借り物の車なので」
と、恐縮する二十歳の彼は、
ふだん、70年代のライフに乗っていて、
大正時代や昭和文化が好きだという。
好きなだけでなく、
知識や造詣(ぞうけい)も深く、
本当に二十歳? と、聞きたくなるほど、
「古くさい」男の子だった。
どうやら彼のお父さんが、
そういった趣味の持ち主で、
旧車や古着や音楽など、
彼の価値観を形づくるには
最高の環境だったのだろう。
いい意味で「いまどきの若者」らしくない、
非常にたのしみな男の子である。
デビッド・ボウイや
ブランキー(・ジェット・シティ)が好きで、
70年代のKawasakiにまたがり、
ギブソンをかき鳴らす甥っ子が、
どうりで気の合うわけである。
古くさい若者の車からは、
やはり、古くさい音楽が、
脂っこく流れている。
「オマエ、とか、ベイベーとか。
最近の歌じゃあ、もう言わないよね」
「ウォンチューとかも、言わないですよね」
「しかも、カタカナではね」
昭和の音楽が、
助手席の窓から臨む、
海辺の風景に心地よくはまる。
会場での会話の流れで、
彼がささっと選曲し、
カウボーイ・ビバップの楽曲を流した。
(『Mushroom Hunting』菅野よう子)
カウボーイ・ビバップ。
あれは観とかないと、と、
甥っ子相手に、
ぼくら2対1となって
熱く推す。
なんだろう、この、
宝ものみたいな時間は。
高校とか専門学校の、
放課後みたいな時間だ。
そんなこんなで、
きらめきの旅路は終了。
実家前に到着した。
「ありがとうね、本当」
すっかり年下のお客様に
どっぷり甘える格好になった、
まったくかたじけない
いっぱし気取りの叔父でありました。
その後も、
連日会場はお客様でにぎわい、
いろいろな人にたのしんでもらえた。
インドネシアからの研修生、
3人娘たち。
「テレマカスィ(ありがとう)」の返事は、
「サマサマ〜(どういたしまして)」
というのだと教えてくれた。
彼女たちは唄うように、
たのしげに、語尾を上げて「サマサマァ〜」と言う。
だからぼくも、おなじように言うと、
うれしそうにうなずいていた。
3人娘は、ぼくがいつも用意している
『お名前書いて帳』に、感想を書いてくれた。
「Keren !!」
「Keren」というのは、
英語でいうところの「cool」のような意味らしく、
「カレェン」の「レェ」は、
巻き舌で発音する。
言葉こそあまり通じなかったが。
なんだかとてもたのしい時間だった。
にぎやかでまぶしいお客さんたちは、
たのしげな空気をふりまいて、
うれしそうに手をふり、
会場をあとにした。
言葉が通じなくても、
通じるときより、
伝わることが、多かったりする。
本当、不思議ですよね。
* * * * * * *
5月7日(8日目)。
目が覚めたとき、
デジタル時計に並んだ数字は、
『AM10:24』だった。
どうりでしっかり眠ったわけだ。
うっかり目覚まし時計をかけ忘れ、
したたかに寝坊しちゃいました。
通常、7時半起床の9時45分出。
10時ちょうどの電車に乗って、
11時ごろ現場に到着。
時刻は10時30分。
とうてい間に合うはずもない。
PCメールに記された電話番号。
いちばん上に書かれた
番号にダイヤル。
「お疲れさまです、家原です。
あの、すみません。
寝坊して、今起きました」
電話口から返ってきたのは、
聞き覚えのある声だったが。
声の主は、戸惑いながら
言葉を継いだ。
「あの、こちら、観光協会の窓口ですけど。
家原さんですね。わかります。
では、こちらからセラ(ギャラリー)に
連絡しておきますね」
かけまちがいだったのだけれど、
偶然知ってる方が電話に出て、
ちょうど話が通じてしまった。
「12時半には行きますので」
電話を切り、
ひと息ついたあと。
コーヒーを淹れて、
トーストをかじり、
シャワーを浴びて
身支度をする。
通常よりもかなり端折って、
11時15分に家を出た。
いつもの「支度時間」は
いったい何なんだ、というくらいに。
1時間に満たない時間で、
ズビズバッと家を出た。
11時30分の電車に乗って、
宣言どおり、
12時30分には会場に着いた。
ギャラリーの方に、
てへへと頭をかきながら、
かいた頭をぺこりと下げる。
「11時ごろ、お客様が来られましたよ。
お母様とお友だちのご一行様が」
こういうときにかぎって、
こういうときにだからこそ。
ちょうど、なのである。
わが母エミリーと、そのお友だちーズ。
13時ごろ、再来したご一行様に、
すみません、と頭を下げて、
またしてもてへへと頭をかいた。
いい歳をした四十路の、
五十路前の大きな子どもが、
母親とお友だちーズが来場した
その日に限って、
お寝坊をするなんて。
いい歳をした息子は、
母親に怒られるでもなく、
てへ(ぺろ)と笑って
ただただ頭を下げるばかりでありました。
この日の駅からの帰り道、
東の空に、大きな虹を見た。
会期中、2度目の虹だった。
1度目は、帰りの電車の窓から、
空いっぱいに架かった虹を見た。
雨上がりの夕刻。
歩いて渡れてしまいそうなくらい、
本当に大きくて、きれいな、
くっきりとした虹だった。
たくさんの人がいるのに、
ぼく以外、誰も虹を見ていない。
みんな手元の世界に没頭して、
誰ひとり外の世界に
目を向けてはいなかった。
「みんな、見て!
ほら、すごくきれいな虹だよ!」
車内のみんなに
大声で伝えようかと、
よっぽど思った。
反対側の窓には、
オレンジジュースと牛乳を混ぜたような
不思議な色の景色が
静かに広がっていた。
オレンジに染まった、
モノクロの世界。
それは、
世界の終わりのようでもあり、
世界の始まりのようでもあった。
写真に撮りたかったけれど。
その風景は、
息を呑(の)むほどうつくしくて、
あまりのうつくしさに、
目をそらすことができなかった。
やがてオレンジが灰色に呑み込まれて、
見慣れた風景に落ち着くと、
ようやくまた背後を
ふり返ることができた。
東の空には、
先ほどよりはやや淡くなったものの、
大きな虹が、かかっていた。
けれども誰ひとりとして、
その虹を見上げる人は、いなかった。
たまたまぼくが見た限りでは、
ひとりもそこに、いなかった。
しばらくすると、
虹は、見えなくなった。
虹がかかっていたことを知っていれば、
かろうじて見えるくらいに薄く淡く、
かすかに溶けた、透明の虹。
やがてその虹も、
跡形なく消えてなくなり、
本当に何も見えなくなった。
2度目の虹は、
駅からの帰り道、
見えなくなる前に、
写真を撮ってみた。
大きな空に架かった虹は、
日没ともに、
空に溶けて消えてなくなった。
その翌日。
5月8日(9日目)の帰り道。
車道を勢いよく、
こちらに向かって走ってくる
自転車乗りが目に映った。
ここらへんでは見ないような
しゃれたスタイルの男性。
ヨーロッパみたいな感じだな、
と、思ったのもつかの間。
「家原さん!」
あろうことか、
自転車にまたがったその人が、
ぼくの名前を呼んだ。
くるりと回って
歩道に入った自転車の主は、
先日、会場にも来てくれた、
お客さんでもある元教え子だった。
偶然の遭遇に笑いあう。
国道沿いの歩道、
あと1、2分でもずれていたら、
すれ違うことはなかっただろう。
ちょうど伝えたいこともあって、
まさかの立ち話で、伝言完了。
おかげでメールする手間も省けた。
生徒のお父さんが
言っていたという言葉を思い出す。
「携帯電話を持つと、
人生に偶然性がなくなる」
いまになっても、
その言葉はしみじみと、
重みを増していくようだ。
ぼくは、
はみ出すことのない確実性より、
予想以上の偶然が好きだ。
犬も歩けば棒に当たる。
アイスも、当たり付きなら、
いつかは当たる。
当たって砕けて腰砕け。
偶然をたのしめなくなったら、
そのときぼくは潔(いさぎよ)く、
ちょんまげを、落とそうと思う。
* * * * * * * *
5月8日(9日目)。
ちょっと時間が空いたので、
駅前のお店をちらりとのぞく。
すると。
やっぱり、
見つけちゃいました。
1182、いいパンツ。
ナイスなおパンツ。
これはナイスクラップで、
軽くチャオパニック。
即行即決。
迷わず購入。
『Special Request(特別な要求)』
という商標のパンツを、
スペシャル・プライス(特別な価格)で
手に入れることができました。
5月10日、最終日。
GWも終わって、
すっかり平日。
こんなときに来るのは、
自分の知り合いくらいだろう、
と思っていたら。
案の定、
やっぱりそうだった。
いい具合に時間差で来てくれたおかげで、
お客様みなと、それぞれ話ができた。
すべりこみで来てくださった、
お客さんもいた。
そんな中。
いちばん上の、
甥っ子が来てくれた。
さらには、
学校で先生の仕事をしていたとき、
仲のよかった生徒も来てくれた。
(こんな回りくどい説明なのも、
直接、授業を受け持っていたわけではなく、
学校に入りたてで右も左もわからぬぼくが、
ちょいちょい遊びに行っていた教室の生徒、
という関係だから、教え子とは呼べないのである)
彼女は現在、
ブライダル撮影を中心とした、
プロのカメラマンだ。
撮影したい、ということで、
最終日、2度目の来場をしてくれた。
甥っ子は現在、
欧州車の販売をしている。
生徒の彼女は、
最近ソビエト製の車( UAZ)を買って、
納車待ちの状態だという。
車という接点で、
話が盛り上がった2人を、
テニスのラリーのように眺める構図。
何だかそれが、
不思議と心地よい。
車やバイクなど、
どちらかといえば
「男の子っぽい」話題に花が咲き。
うれしいことに、
プロのカメラマンである彼女に、
甥っ子との記念すべき写真を撮影してもらった。
そう。
彼女もかつては、学生だった。
甥っ子もまた、大学生だった。
まだ何者でもなく、
何をすべきか、それすらわからず、
毎日を消化するだけの毎日の連続。
そんな姿を見ていただけに、
行くべき場所に行き着いた
甥っ子の現在が、
自分のこと以上に晴れがましく思える。
「好きこそものの上手なれ」
甥っ子は、
好きなものを仕事にしている。
そんな彼を、
ぼくは尊敬している。
写真を撮ってくれた彼女も、
家族のために働く友人も、
夢を追ってひた走る彼、彼女も。
みんな、まぶしい。
目を開けて正視できないくらいに。
だからぼくもがんばろう。
そう思うのであります。
最終日、
最後まで残ったお客さん。
それは甥っ子だった。
彼は会場をぐるぐる歩き回り、
「ママへのプレゼント」を
懸命に選んでいた。
「遅くなったけど、
母の日のプレゼントに」
それを聞いて、はっとした。
昨日は、母の日だった。
展覧会のことでいっぱいで、
母の日のことを
すっかり忘れていた。
甥っ子は、ぺくちゃんの、
青い、小さな一輪挿しを買っていった。
最終日が終わって。
家に帰って、
晩ごはんを食べながら、
母に言った。
「ごめんね、母の日。
何にもできなくて」
すると母は、
心底、気にしていない感じで、
声を弾ませた。
「いいよいいよ。
あんたが毎日、ごはん食べてくれて。
何年ぶりか、それがすっごくたのしかった。
それが何より、いちばんの贈り物だったわぁ」
その、母のうれしそうな声が、
何より多くを語っていた。
5月11日、搬出日。
片づけを終えると、
たくさんのお客さんを迎えた会場が、
また、がらんとした空間に戻った。
作業を終え、
ギャラリーの方と、
しばし歓談。
あっという間の11日間。
けれども体感では、
1カ月くらいに感じる。
今回もいろいろなことがあって、
いろいろ感じて、いろいろ学べた。
たくさんの人に観ていただき、
たくさんの人とたくさん
お話しさせていただいた。
今回もまた、
すごくたのしかった。
総括というのか、
そういったものの代わりに。
お客さんからの言葉を
ここに引用したい。
「やってみないと分からないことばかり。
やってみて分かることばかり、ですね。
絵を買うなんて。
お金持ちや成功者することでしょ、
大袈裟ですけど、なんとなく、
そんなふうに思っていました。
そんなことは無いですね。
こんなに嬉しいことなのに、
知らなかった」
今回、ご来場いただいたみなさま、
ならびに、興味を持っていただいた
テレビの前のちびっ子諸君。
このたびは本当に
ありがとうございました。
本当に本当の最後。
エンドロール代わりに、
今回飾った作品を
並べた順番でお送りいたします。
それでは、また!
《街へ行こう》 |
|
《サンダル》 |
《花瓶に花を》 |
《ギター弾き》 |
《鳥》 |
《虎のような》 |
《陽のあたる家》 |
《砂漠の散歩者》 |
《宿題をする大人》 |
《カマキリ》 |
《やどかり》 |
《モスラ》 |
《黄昏カウガール》 |
《かわいいコアラ》 |
《お城みたいな》 |
《静かにして》 |
《温室の怪人》 |
《鉢植えの花》 |
《かしずく姫》 |
《海の底で待つ》 |
《アルフォートな旅》 |
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< 今日の言葉 >
『マッジョーレ・フレッタ・ミノーレ・アット』
(Maggiore Fretta Minore Atto.「急がば回れ」の意
:マーク・トゥエイン著『ハックルベリー・フィンの冒険(下)』より)
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★ 『家原利明靴下』もよろしくお願いいたします。
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