2013/04/01

うそがほんとに








加藤、という男がいた。




小学校時代の彼は、

別にやんちゃなわけでもなく、
かといって真面目くさったタイプでもなく。

どちらかというと、目立つタイプの子ではなく、

クラスの係決めのときにも、
自分から何か手をあげて立候補するというより、
残った係の中から決めるような感じだった。


彼は3人兄妹の末っ子で、
5歳年上の兄と、3歳上の姉がいた。

やせて髪を短く刈り上げた彼は、

前から数えても後ろから数えても、
ちょうど真ん中くらいの身長だった。


とびばこや鉄棒は苦手だけれど、
ドッジボールはけっこう後半まで残る。

後半くらいまでは残るのだけれど、

彼は、受けるのがうまいのではなく、
よけるのがうまいタイプだったので、
最後まで勝ち残ることはできなかった。


好きな科目は、理科。

ミヤマカミキリ、アサギマダラなど。
昆虫の名前をよく知っていた。


給食の時間には、

苦手な牛乳には手をつけず、
ぜんぶ食べ終わってから最後、
一気に飲み干していた。

そのせいでしばらく、

同じ班の女子から
牛乳好きだと思われていた。


小学2年の、
ある日のこと。


2時間目の、社会科の授業で、

世界の地理を学んでいたときのことだ。

その日は、

南アジアの国々についての授業だった。


黒板には、色分けされた大きな地図が貼られている。


先生が、ネパールの地図を指し棒で指し示しながら、

こう言った。


「ネパールの首都は、カトマンズ」



それを聞いて。


思わずふり向いて、小さな声で言った。



「カトマンズ、だって」



視線の先には、加藤がいた。



「カトマンズ!」



別の男子が、はしゃいでくり返した。


遅れて意味が分かったように、

クラスのみんながどっと笑った。

カトマンズ、カトマンズ、と。

教室のあちこちからそんな声が
バラバラとつづいた。

加藤は、居心地わるそうに、

顔を少し伏せて、上目に先生をうかがっていた。

先生は、少し笑いながら、

ざわついたみんなを手で制するようにして言った。


「こらこら、静かに」



先生の声に、

ふり向いていた生徒も向き直った。


「ネパールの首都は、カトマンズ。

 おかげでみんな、覚えられたよな?」


その言葉に、教室のみんなの視線が

何となく加藤に向けられて、
どことなく加藤に感謝するような笑みすら浮かべられた。


当の本人、加藤はといえば。


気まずそうに視線を泳がせながら、

かゆくもないこめかみを少しかいたり、
口もとを小さくとがらせたりして
ぎこちなく笑っていた。


ふだん、あまり目立つことのない彼が

注目を集めたその日。

3時間目の休憩時間や、給食の時間に、

クラスのみんなは用もないのに加藤を呼んだ。

新しくできた「あだ名」の「カトマンズ」という呼び名で。


最初は困惑気味の加藤だったが。

掃除の時間になったころには、


「カトマンズ、ホウキもってきて」



と言われて、

何の躊躇(ちゅうちょ)もなく
ホウキを手に小走りで戻ってきていた。


彼は、そのままみんなに「カトマンズ」と呼ばれるようになり、

彼も、そう呼ばれることがごく自然なことになり、
カトマンズといえば、ネパールの首都というより、
カトマンズ(加藤)のことだという認識が
みんなの中に定着していった。


やがて3年生になり、

クラス替えがあった。


クラスが替わっても、

彼は「カトマンズ」だった。

その理由を聞く者がいれば、

知っている者が答え。

聞かなくても誰のことを言っているのかは

まあ分かるので、自然と新しい仲間も
彼を「カトマンズ」と呼ぶようになっていった。




中学校に上がると、

彼のことを「カトマンズ」と呼ぶ仲間は
ごく一部になった。

ほかの小学校から上がってきた仲間が

その由来を聞いたりもしたけれど。

カトマンズ本人も、それ以外の者も、

ずいぶん簡単な説明しかしなくなった。




高校生になって。


彼は、進学校に入学した。


彼はもう、
誰からも「カトマンズ」と呼ばれなくなっていた。


地理の授業で「カトマンズ」が登場しても。


ふり返って指を差されるようなことは、なかった。



ときどき会話の中で、



「カトマンズ」



というフレーズが聞こえたとしても。


けっして自分のことを

呼んでいるわけではないと分かっていた。

分かっていても、

とっさにふり返ってしまったことが、
何度かある。

とはいえ、

日常の会話の中でしょっちゅう出てくる単語でもないので、
かつての「あだ名」を意識するようなことは、
ほとんどなかった。




高校を卒業して。

猛勉強の末、
彼は、第2志望の大学に合格した。

第1志望の大学には受からなかったけれど。

正直、第2志望の大学に受かっただけでも上等だと。
ほかの誰でもなく、当の本人が強く思っていた。



たのしい時間、忙しい時間。


大学では、何となく月日が流れて、

いつのまにか卒業の年になった。


まわりが進路を決めていく中。

彼も、何となく決まった会社に就職することになった。




OA器機の営業。

大手メーカーの、代理店。

営業職とはいえ、

飛び込み営業や新規開拓など、
売り込み業務はいっさいない。

決まった顧客を回って、

不具合の点検や消耗品の補充などをする。
いうなれば「ご用聞き」の仕事だった。


隔週休2日制。

初任給は「中の上」くらい。


通勤に便利な副都心にあり、

最寄りの駅から歩いて4、5分の場所にある。


まわりからは、

彼の職をうらやむ声も多かった。



入社して半年。


先輩同行の日々が終わり、

ひとりで仕事をこなせるようになった。

けんめいに仕事を覚えていったら、

いつのまにか「慣れて」いった。



月日は流れ。




3年の月日が経ったころ。


彼に「後輩」ができた。



後輩が入って、

2週間ほどすぎたある日。

かつて自分がしてもらったように、

後輩のための歓迎会を開いた。


歓迎会の夜。



まったく酒が飲めなかった彼も、

毎週毎夜のように催される「飲み会」のおかげで、
酒に「酔える」ようになっていた。


新入社員歓迎会、宴たけなわ。


気づくと酔った後輩を肩にかついで、

タクシーを呼び止めていた。

生ぬるい夜風が吹く中、

したたかに酔っぱらった後輩が、
彼に言った。


「先輩の夢とかって、何なんですか?」



えっ、と聞き返す間もなく、

焦点の合わないまなざしを向けたまま、
さら後輩が詰め寄った。


「この仕事、ってわけじゃ、ないッスよね?」



後輩は別に責めているふうでも、

なじっているふうでもなく、
ただただ純粋に質問しているふうだった。

後輩の、まっすぐな問いかけに。

彼は、返す言葉が
すぐには見当たらなかった。

答えを探すわけでもなく。


星のない夜空を見上げて、

後輩の言葉を反芻(はんすう)しているうちに、
タクシーがすうっと停まって、扉を開けた。


後輩の姿がタクシーに飲み込まれる。


タクシーのテールランプの赤い光を、

見るともなしに眺めつづけた格好のまま、
しばらく彼は、その場に立ちつくした。



家に帰った彼は、
ふと、鏡に映った自分の姿を見た。


小学校のころの自分が、

いまの自分の姿を想像できただろうか。

「いま」、

自分がこんなふうになっているなんて、
想像すらしていなかった。

むしろ、将来自分が

どんなふうになっているかなんて、
想像すらしてこなかった。







小学校1、2年のころ、

同じクラスだった加藤。

同窓会にも、成人式にもこなかった彼と

久しぶりに会ったのは、暑い夏の路上だった。


見たとき彼は、
電話ボックスの扉を半分開いて、
体を半分、外に出した状態で、
何やら大声でわめいていた。

一瞬、何語か分からないような

わめき声に聞こえて、ひるんだのだけれど。

次に見たとき彼はもう、
白い歯を見せて笑っていた。


2度目の「再会」は、そのわずか数分あと、
駅前の喫煙場所だった。

彼との距離は、灰皿をはさんで数十センチ。


その姿は、タバコを吹かす群衆のなかでも目立っていて、

1本吸うあいだに、何度か横目に彼の挙動を盗み見たほどだ。


短い時間内に、2度も「再会」したのに。



真っ黒に日焼けした彼を見て、

すぐに「彼」とは気づかなかった。


タバコをもみ消し、去っていく彼が、

ポケットから手帳のようなものを落した。

それを拾って、彼の背を追い、声をかけた。


彼に手帳を手渡すとき、表紙に黒いペンで、
でかでかと名前が書きなぐってあるのが目に入った。


その名前を見て、まさか、と思いつつも、

はっとして彼の顔を注視する。


「もしかして・・・・加藤?」



「・・・え、そうだけど?」



実際、声を聞くまで、

日本人かどうかもあやしかった。




近くの喫茶店に入って。

彼の話を聞いた。





「ありがとう」


沈黙をやぶる彼の、

いきなりの第一声に、面食らった。

というのも、

手帳を拾ったお礼にしては、重々しく、
何だか仰々しい感じの声だったからだ。



彼の話は、こうだ。





仕事に悩み、転職を重ねて。


自分が何をしたいのか、

何になりたいかを見失って。

彼はふと、なつかしいアルバムに目を向けた。



小学校のころの卒業アルバム。


食品類に混ざって、

実家から送られてきたものだった。

最後のページに、

みんなで書いた「よせがき」があった。


『カトマンズへ 中学行っても元気でね』

『カトマンズ また遊ぼう』



それを見て、急に思い立った。




カトマンズ。



カトマンズへ、行ってみよう。




会社を辞めた彼は、

カトマンズ行きを決めた。


ロイヤル・ネパール航空の直行便。

飛行機で8時間強。

初めての「海外旅行」だった。



首都、カトマンズ。


ほこりっぽくて、車もバイクも、

人もリキシャも自転車も。
いろんなものがめまぐるしく動き回る。

やまないクラクションと、

香辛料のにおい。

右も左も分からない異国の地。

言葉も文化も分からない。

気持ちばかりが先行して、

何も決めずにやってきたネパール。


道を聞いたつもりが、

荷物をぜんぶ、すられていた。


どうしよう。


遠い異国の地で、彼は途方に暮れた。


親にも内緒で出てきた「海外旅行」。


泣きそうだった。



が、さいわい、

パスポートと、その中にしまいこんでおいた
クレジットカードと、1万円札と、
ほんの少しのルピーは無事だった。


とりあえず、

近くの屋台で腹ごしらえをして。

腹が満たされたら、

少し気持ちが落ち着いた。


「いきなりだまされたせいで、

 何だかもう、どうでもよくなった」


と。


彼は、あてもなくふらふら歩いて、

適当な宿を見つけてそこに泊まった。


翌日、現地で使えるお金を工面して。

あてなくふらふらすごす日々をづつけるうち、
不思議なことに、
何となく「生活」できるようになっていった。


帰ろうと思えばいつでも帰れる。


そう思うと、気持ちの余裕も出てきた。



カトマンズ、バクタプル、パタン。


寺院、バザール、山麓(さんろく)の風景。


日の出と朝市、僧たちの読経、ダルバート。


彼は、カトマンズの街が好きになってきた。






「日本の喫茶店は、冬みたいに涼しいな」


彼は、アイスコーヒーを注文したことを後悔しながらも、

そのまま一気に飲み干した。


「実は俺、結婚することになったんだ」



相手は、カトマンズの街で知り合った、

ネパール人女性だという。


「だから、本当に感謝してるんだよ」



彼が、うれしそうに目を細めて、こうつづけた。



「あのとき俺に『カトマンズ』って言ってくれなかったら。

 俺は、マニシャとも出会えなかったから」


マニシャ、というのは

結婚する相手女性の名前だ。


彼は、マニシャを日本に呼んで、

いっしょに暮らすのだという。

ネパールでの結婚生活は、

いろいろと厳しい面も多いので。

当分は日本で暮らしながら、

日本とネパールを行ったり来たりの生活をするという。


「結婚式、よかったらきてよ。式は11月だからさ」



11月は、ネパールで「結婚してもいい月」らしい。

日本で挙げる、内々の式だけれど。
いちおう、「結婚してもいい月」に挙式するそうだ。


「俺にも、見つかったんだ、夢が」



彼が、うれしそうに笑った。

その顔は、小学校のころの「カトマンズ」そのものだった。


「2人で、店をはじめるんだ。

 ネパール料理と、エベレストビールがたのしめる店を」


エベレストビールとは、ネパール産のビールで、
くせのある独特の味わいがたまらないらしい。


「あ、ごめん。そろそろ行くわ」



伝票を持って立ち上がる彼の手から、

さっとそれを抜き取った。

抜き取られた伝票からこちらに目を向け、

彼が、不思議そうな顔つきを浮かべた。


「前祝いだよ」



その言葉に、ゆっくりほおをゆるめて、

彼が満面の笑顔を見せる。

白い歯が、まぶしかった。



「ありがとう」



「ありがとうって、ネパールの言葉でなんていうの?」



「ダンニャバード。けど、Thank you のほうが使うかな」



「そうなんだ。じゃあ、おめでとう、は?」



「バハイ、かな」



「ふうん。バハイ、ね」



「そんじゃあ、ありがとう。また」


彼が、両手を合わせて、深く頭を下げた。



「それって、ネパール流?」



「いや、何流でもないよ」



じゃあここで、と、彼が店を出て行く。



「カトマンズ!」



その声に、彼がさっとふり返った。



「おめでとう、カトマンズ」



彼が、少し遅れて、にっと笑った。



「聞いといて日本語?」



ふふっと笑ってから、彼が言った。



「ありがとう」






カトマンズ、と呼ばれた男が、

カトマンズへ行き、
カトマンズで暮らす女性と結婚する。


自分のつけた「あだ名」が、

その人の人生を大きく動かしてしまった。



そんな話は、作り話だけれど。


どこかで似たような話があるのかも。




カトマンズと呼ばれた男。



4月1日の、くだらないお話です。




< 今日の言葉 >



『芸術家はこの内にのみ、

 即ち自分のそれまでの重要な経験や印象にのみ、
 独自の道を拓く基礎を見つけ出すことができる』

(フンデルト・ヴァッサー氏の言葉)