2015/12/03

20年前のタイムカプセル









1994年。



いまから21年前の、

3月。


誕生日を迎えていないぼくは、

19歳だった。



まだ、携帯電話も普及しておらず、

DVDではなく、ビデオテープが主流だったころ。


そのころぼくは学生で、

春休みを利用して、

友人らとともに東京へ遊びに行った。


当時、高校時代の同級生が

東京に暮らしていたので、

その友人を訪ねて、遊びに行ったのだ。


19歳のぼくらは、

『青春18きっぷ』で一路、東京を目指した。



東京に暮らす彼は、高校時代、

みなが進路に悩む中、


「1年間、新聞配達をすれば、

 アメリカ横断バイクの旅が

 もれなくついてくる」


という広告を見て、


「おれ、行くわ、これ」


と、東京行きを決めたのだ。


住居も用意してくれて、

働いた分の給料のほかに別途、

アメリカ横断のバイク旅行がついてくるのだから。


彼にしてみれば、

まるで夢のような話だったにちがいない。




実際、彼の住まう住居に行ってみて。

せまくて古い、昭和のにおい漂うアパートに、

ぼくはむしろ好感を持った。


とはいえ、室内にうずたかく積まれた

衣類やその他荷物のせいで、

身動きが取りづらい。

ましてや大の男が(家主の彼を含め)4人も集まれば。

その「狭苦しさ」といったらない。


身長185、178、177、173の男たち。

高くもない天井が、ひどくぼくらを圧迫した。


東京で「遊び」を覚えた彼は、

その部屋に日替わりで女の子を招いていたというから。

まったく、たくましいものである。



風呂は、というと、

近くの(新聞)販売店に行けば入れるということで、

初日の夜、さっそく彼とぼくらは、

その「お風呂」を借りることになった。


勝手知ったる感じで販売店へと入っていく彼に従い、

殺風景な建物内へ入っていく。


田舎からやってきたぼくらは、


「これがお江戸の文化かぁ、すんげぇなぁ・・・」


などと思ったかは別として。


スポーツ施設の更衣室のような感じで、

壁にシャワーが据え付けられているだけの「お風呂」に、

まるく見開いた目をまたたいて、

おたがいの顔を一瞥(いちべつ)した。


広い空間の片隅。

仕切のようなものも、たいしてない。


そう。

殺風景な「部屋」のすみに、

唐突な感じで、

いきなり壁からシャワーが生えている。

そんな印象だった。


わが家のごとく、その「お風呂」を使ってきた彼は、

自ら手本を示すかのごとく、

湯を出し、シャワーを浴びはじめた。


夏ならまだしも。

がらんとしたその部屋は寒く、

すぐには服を脱ぐ気になれなかった。


けれども、そういう感じが嫌いではないので、

次に志願したぼくは、

あたたかなお湯で体の汚れを洗い流した。


後続する友人たちとともに、

わいわいとはしゃぎながらシャワーを浴びていると、

地面に半畳くらいの大きな板があることに気づいた。


床、というより、地面というにふさわしい、

土足で歩く、コンクリート。


大きなフタらしき板をずらしてみると、

まっくらな「穴」がぽっかりと口を開けた。


よくよくのぞき込んでみると、

はしごのような階段がつづいている。


「よし、下りてみよう」


半裸のぼくらは、

迷うことなく、その「地階」に足を向けた。


真っ暗で、何も見えなかった。


倉庫なのか、何なのか。



「もしかして、拷問部屋とかじゃないのか」


「や、やめろって」


びびりの友人が、

ひとり階下に取り残されることを怖れて、

われ先に、とはい上がろうとして、

狭い穴でひしめき合ったり。


穴の下の友人に向けて、

冷たい水のシャワーをふりまいたり。


せっかくきれいに洗ったのに、

汚れてしまった体をもう一度、洗い流したり。


まったく無駄で意味のない、

くだらない行為で時間をすごし、

いつまでもけたけたと笑っていた。



親戚のおばちゃんの家があり、

幼いころから遊びにきていた東京。


それとは似ているようで、

まったくちがう東京の風景。



10代最後のぼくらには、

どうでもいいことすら特別に見えた。






翌日。


ぼくらはいろいろな場所をぶらついたあと、

新宿、東京都庁へ行った。


友人たちの誰ひとりとして

「都庁に行きたい」という者などいなかったが。

他の誰でもなく、ぼくが行きたいと言い出したのだ。


新しい庁舎ができて、

まだ一度も見たことがなかったから。


タワーが好きなぼくには、

東京都庁も見ておきたい建物のひとつだった。


天空に伸びる、2本の塔。

きれいに整備されたアプローチを進むほどに、

その塔がどんどん近くなっていく。


庁舎の前に立つ。


梅田スカイビルに行ったときと同じくらい衝撃的で、

SF的にも感じるその造形に、

ぼくは、ばかみたいに口を開けて、

いつまでも上空を見上げていた。


同行した友人たちも、

すこしは感動しているようすで、

ぼくもいくらかほっとした。


庁舎の中に入ってみると、

エントランス部分に、

三脚で固定されたカメラとモニターがあった。



『映像タイムカプセル

 〜20年後の若者たちへのメッセージ』



そんな文言の書かれた看板に、

すぐさまぼくらは、


「おもしろそう!」


と吸い寄せられていった。




映像タイムカプセル。


そのおもしろそうな催しに、

別段、行列ができているふうでもなく。

ぼくら一行は、むしろ係の人に歓迎される形で、

参加することとなった。


はじめる前に、

係の人にいろいろ話を聞いた。


映像タイムカプセルの趣旨や、

それが今後どのように開示されるのか、

開示されるそのときを

どうやって知ることができるのか・・・等々。


係の人いわく、

今後どのような形で開示、公報するかは

まだ未定だけれど、

とにかく20年後に、

何らかの形で公表することは確かだ、

ということだった。



映像タイムカプセル参加を示すカード。

これがそのまま、

20年後の「証明書」となるらしい。












「ちょうどぼくら、今年二十歳(はたち)になるんですよ」


「二十歳のいい記念になるね」


「そんじゃあ、開けるときって、え、40歳?」


「40て、おっさんじゃん」


「40まで生きてるかなぁ」



そんなふうに、

わいわいとはしゃぎながら、

うきうきとそのたのしみなタイムカプセルを

「埋める」ことにした。



ぼくらは思い思いの言葉を、


20年後のそのときに向けて、

ひとりずつ順番に残していった。




「すっげぇたのしみだな」


友人が、目をきらきらさせながら、言った。


彼は、高校時代に、

本気で『カメハメ波』が出せると

信じ込んでいたほどのピュア・ボーイだ。



「20年後かぁ。何やってるかな、おれたち」


「おまえはずっとふらふらしてそうだな」


「おまえに言われたくないわ」


「結婚して、子どもができて、

 家建てて住んでるのかなぁ」


「めっちゃハゲてるかも」


「おまえはヤバそうだもんな」


「うるせぇっ」


「けど、たのしみだな。20年後」


「おれ、忘れそう」


「そんときまた、みんなで来ようぜ」


「そうだな、そうしよう」



それぞれが、それぞれの頭のなかで、

20年後の「自分」に思いを馳せて。

すこし口元をゆるめながら、

とぼとぼと歩いた帰り路。


なつかしいような、

それでいて鮮明に覚えている、

20年前の出来事。



東京から自宅に帰ったぼくは、

映像タイムカプセルの「参加証」を、

ブルース・リーの缶ケースに入れ、

なくさないよう、引出しの奥へと大切にしまった。






★ ★






2015年。



あれから、20年経った。



ときどき人に話して聞かせたせいもあり、

映像タイムカプセルのことは、

ずっと頭のすみにあった。



2015年。



携帯電話が普及してすでに久しく、

公衆電話やテレフォン・カードの存在が

ひっそりと薄くなった。


ビデオテープがDVDへと移行して、

さらには「データ」で記録できるようになった。



2015年、1月。

待ちきれずに、都庁へ電話してみた。



返ってきた答えは、

現在、どのような形で公表するのか検討中で、

決まり次第また連絡する、ということだった。



3月。

あれからちょうど、まる20年が経つころ。


都の担当者の方から連絡があった。



20年という歳月は思っていたより長く、

どうやらその間、いろいろなことが変わり、

所轄や担当、部署などもいろいろ変わったということだった。



そのため、当時の担当部署が組織改正のため現存しておらず、

全庁的に調査を行なったところ、

メッセージ動画が保存された映像タイムカプセルを発見した、と。


・・・ぼくは「おおっ!」と思った。


しかしながら、20年経過していることから

動画の記録媒体が劣化しデータが失われており、

複数の専門事業者の診断を経たのだけれど、

約半数のメッセージ動画が閲覧できない状態だと。


・・・ここでぼくは「えぇ〜」と思った。

そして「これってだめなパターンのやつだな」とも思った。



ということで、

ぼくのメッセージが閲覧できるかどうかを確認するため、

参加したときに登録した名前と生年月日を教えていただきたい、と。



そして数日後。


「動画を確認させていただきましたが、
 残念ながらデータが劣化しており、閲覧できない状態でした」


という結果が返ってきた。


データの復旧も試み、

複数の専門事業者に調査を依頼したのだけれど、

復旧は難しい状態だと。


「お詫びになるとは思いませんが、
 粗品をお送りさせていただければと存じます」


最後、そう結ばれているのを見て。

正直、断ろうかとも思った。


けれど、そっちのほうが失礼になるかと思い、

そのまま受けることにした。






20年間、

いまかいまかとたのしみにしていた、

映像タイムカプセル。



がっかりした。





約束の日、約束の時間、約束の場所に、

待ち人が姿を現さなかったような。


そんな、気持ちだった。





20年前の、あの日。


あの日のことを、ぼくははっきり覚えている。




ぼさぼさの金髪頭で、

自分でスプレーしたびりびりの白いガーゼシャツを着て、

黒い革パンに、黒革のダブルのライダースを羽織ったぼくは、

カメラに向かって、こう言った。



「20年後の若者たちへ。

 活字を、読みなさい」



カメラのレンズに指を差し、無表情のまま、

そんな偉そうなことを言い放った。



20年後の若者たちへ、というより。

それは、20年後の自分に向けての、

メッセージでもあった。



20年前の自分はそんなことを言っていたんだな、

という標(しるし)のようなもの。


たしかに。


いまのぼくは、

活字を読みなさい、とは言わないだろう。



そんな、20年前の自分。


はたして20年後の自分はどうなのか。

20年前の自分が想像していた自分になれたかどうか。



タイムカプセルに眠った自分と対面しながら、

そんなことを感じたくて。


20年間、

ずっと待ちわびていた「おたのしみ」だったのに。




そうですか、としか言いようがない、

まるで動かすことのできない現実を前にして。

ぼくは駄々っ子のように、


「うそつき」


と、ただただ下唇を突き出すばかりだった。




今回、映像タイムカプセルの件で、

いろいろと尽力してくださった、関係者の方々。


20年前、映像タイムカプセルというものを

企画し運営した方々。


ここにまつわるすべての人々。



誰も、悪くないような気がする。




時間。


世間にとっては、

20年という時はあまりに長すぎて、

何もかもを変えてしまうほどの速さなのだろう。



積み重なる時間に埋もれてしまった、タイムカプセル。



もう、どこを掘っても出てこない。


そう思いかけた、

タイムカプセルではあったけれど。



おかげでいろいろなことを、掘り返した。



20年前のぼくは、

はたして20年後のぼくを見てどう思うのか。


誇れる自分になっているのかどうか。


なりたい自分になっているのかどうか。


20年前に想像していた自分より、

現在の自分は、上回っているのかどうか。




20年前のタイムカプセル。



20年という時はあまりに長すぎて、

何もかもを変えてしまうほどの時間なのだろうか。



20年という時間。



変わったように見えるだけで、

もしかすると、

何ひとつ変わっていないのかも知れない。





最後に。



おたのしみだった映像タイムカプセルは埋没したけれど、


おかげでどうでもいいようなものを見つけました。



冒頭の写真は、

1994年当時の、国際学生証です。



あまり自分の写真を撮ってこなかったので、

20年前の「若かりし」自分の姿を見て、

なんだか、


「うわっ、こんな感じだったんだ」


と、苦い気分になりました。



そしてその当時、

学生証(国内)のために撮影した顔写真がこちら。













こんな写真が学生証に使われていたなんて。


いまにして思えば、

まったくおおらかな、いい時代だったんスね。





・・・・20年後の若者たちへ。



「こんなものを読んでるひまがあったら、

 もっとましなことをしなさい」





はたして。


20年前の自分が、

ほめてくれるような自分になれたかどうか。


20年後の自分が、

にこにこと見守ってくれるような、

そんな自分であるのかどうか。



「いつでも開けたてフレッシュパック!」



ぼくはぼく自身の言葉を、

地中深く埋めるのでありました。









< 今日の漢字 >