2026/04/15

すばらしき瞬間




 




冒頭の絵は、

公園を散歩していて、

もふもふのわんこと

目が合った瞬間の風景だ。


おそらく女の子であろう

そのわんこは、

飼い主にリードで引かれて、

しとやかに屈みこみ、

アスファルトの地面に

お小水をしていた。


その瞬間に見せた、仕草、表情。


残念ながら、

カメラもスマホも手に持っていなくて。

左手に、ボタンを押し間違えて買った、

グレープ味の

カルピスソーダがあるのみで、

写真に収めることは

間に合わなかった。


代わりに。


その瞬間を、

こげつくほど

目に焼きつけた。


時間にしておそらく、

2秒から3秒。


瞬きもせず、

わんこの姿を見たまま、

僕は、

じっと目の奥に焼きつけていた。


記憶した映像を

何度も再生し、

何度もなぞって

イメージを抽出した。


その絵が、これだ。


瞬間。記憶。印象。

再生。回想。伝達。


おもしろかったもの(こと)を

誰かに伝えたくて。


人は、何かに記憶させて、

表に出して、伝える。


もちろん、伝えないまま、

記録として残す場合もあるが。


この営みこそが、

表現の原点なのかもしれない。



* *



先日、

かつての教え子たちと

お花見に出かけた。


歩道橋を渡りながら、

おしゃべりをしていた。


「・・・スイスは、

 チーズとかの、

 乳製品がすごくおいしかった」


そう話した矢先。


向かいから、

牛の「着ぐるみ」を着た男性が、

自転車を押しながら現れた。


白黒の、

ホルスタイン模様の、

牛の「着ぐるみ」。


既製品と思われる

牛の「着ぐるみ」は、

フードに耳と角が付いていて、

顔は「人間」そのままだ。

もちろん「鼻輪」もしていない。


チーズ。乳製品。

牛。


おちち(乳製品)の話をしていて、

嘘みたいなタイミングで

現れた「牛」は、

僕らの横を通り過ぎた。


ふり返り、

階段を見上げると、

牛のしっぽが、

ふりふりと揺れていた。


僕ら三人は、みな、

カメラやスマホを持っていた。


けれど、誰も、

手にはしなかった。


ただ、口を開けて、

牛(男性)が

自転車を押していくのを、

黙って見ていた。

じっと、黙って、

牛(男性)の姿を見送っていた。


牛(男性)の動きにつられて

ゆらゆらと揺れる尻尾は、

ゆるやかな弧を描き、

まぶしい空に向かって

伸びていた。


その牛(男性)の後後ろ姿が、

やたらと鮮やかに残っている。


なせとか、

どうしてとか、

何のためにとか、

そういう疑問など後回しにして。


僕らはただ、

牛(男性)の後ろ姿を、

眺め続けた。


そして、笑った。


この上なく

絶妙なタイミングで

現れた牛——

牛の着ぐるみを着た男性の姿に、

僕らは声をあげて笑った。



同じ日に、

ものすごく大きな荷物を

頭に載せて歩く、男性の姿も見た。


社会科の教科書で

見たことがある、

熱帯地方で働く人みたいに。


頭に大きな荷物を載せた男性は、

両手をゆったり振りながら、

すたすたと足早に歩いていく。


荷物を持たない

僕たちよりも速く。

ランウエイを闊歩する

ファッション・モデルのごとく。

背筋をぴんと伸ばした姿勢で、

手ぶらみたいな勢いで、

表通りのほうへと消えていった。



お店や人でにぎわう

アーケードでは、

人工石の地面に正座して、

唐揚げを食べている

小さな女の子がいた。


公園では、

先ほど見た、

イチゴ飴売りの

中東系の男性とたまたま同じ、

緑と紺のボーダーの

ポロシャツ服を着た男性が、

子供とサッカーをしていた。


ベンチに座って、

カレーパンを食べる目の前では、

何のコスプレかわからない

着物姿の若い女性2人が、

何語かわからない言葉で

楽しげにずっと話しながら、

撮影していた。



中華料理店で、

テーブル番号の書かれた

しゃもじを掲げると、

アフリカ系の

ショートカットの女性店員が

注文を聞きにやってきた。

その、さわやかで、まっすぐな、

やさしい眼差しが、

心に残った。



入るつもりはなかったのに。

ふと、前に食べた、

バングラデシュのお菓子を思い出し、

ふらりと入ったお店の奥に、

日本では滅多に見かけない、

イタリアで出会った

おいしいお菓子が置いてあった。

(その、滅多に見かけないはずのお菓子が、セール品として売られているのを見つけたと・・・つい先日、食べたばかりでもある。そうなると、もはや、滅多に見かけないという肩書きの信憑性が、やや薄らぐのも否めない)


迷わず手に取り、買って帰った。


おみやげに買ったと話したら、

ちょうど今日、

そのお菓子のことを

思い出していたと言われたり。


すばらしい瞬間は、

形に残らないことが多い。


形にこそ残らなくても。


すばらしき瞬間は、

花火のように鮮やかに、

心の奥で炸裂して、

夜空に残った残像みたいに、

いつまでも消えない。


ビルとビルのあいだにきらめく、

金色の夕陽。


風のない、

なめらかな川面に映った、

16世紀の街並み。


街の広場で乗った、

夜のメリーゴーランドから見た景色。


笑った顔。

口の形。

笑い声。


一瞬の表情。

瞬間の姿。

刹那の風景。


すばらしき瞬間は、

色あせるのではなく、

むしろ色濃く抽出されて、

記憶を彩る。


加工でも、美化でも、

捏造でもなく。


感性による、

自由な取捨選択。


現象の解釈にこそ、

表現の源泉があると言える。



* * *



最近、

思ったことがある。


残すことも大切だけれど。

その前に、

目の前の風景を、

目の前のすばらしき瞬間を、

まず、しっかりや味わいたいと。


その上で記録に残したい。


記憶の前に、記録があっては、

原体験ではなく、追体験になる。


はっきり、くっきり、

鮮明には見えなくても。


瞬間の空気や、色や、

匂いや、音や、形を感じたい。

何の色づけもされていない

生の景色を、

自分の心で感じたい。


笑ったり、驚いたり、

感動したり。


切り取られた非日常よりも、

生の日常がいとおしい。


名前が付けられたフィクションよりも、

まだラベルすらも付いていない現実に、

心がときめく。


目の前にほとしる、

すばらしき瞬間。


同じ瞬間は、二度とない。


明日や来年には、

もう、そこにない。


今この瞬間を、見逃さないように。

目の前の世界を見つめたい。


・・・なんてことを、思ったりして。



行動に

意味を求めていなかった

あの頃。


熱量は、今より高かった。


熱量が高ければ高いほど、

記憶の濃度と解像度度は

深く、高く、濃密になる。


記憶の感度も集中力も、

熱量の高さに比例する。


楽しむことに、意味などない。


体験がなければ、記憶もない。


意味を求めすぎるあまりに、

心と体が、いつしか、

頭に支配されていた。


野性に帰ろう。


すばらしき瞬間は、

理性が選ぶ選択など

待ってくれない。


野性になろう。


うつくしさとは、

きらめきであり、

ただしさではない。


野性に生きよう。


瞬間を生きてこそ、

命が輝く。


死んだ目で、

他人の時間を長生きするのか。

嘘のない眼差しで、

自分の命を燃やすのか。


何も考えずに書いた手記。


ここに、意味など存在しない。


瞬間の集積。


野性的な理性。


知性的な野性。


僕は、

すばらしき瞬間を、

ここに残す。


これまで集めた、

すばらしき瞬間。


瞬間の火花に

照らされる感性。


ここに、意味はない。

あるのは、すばらしき瞬間だけ。


自分が当事者であり、

主人公であるために。

正直な自分が、正直に選ぶ。


目の前の

すばらしき瞬間を、

生で感じたい。


さながら、

かわいいわんこのように。


理性という名のリードをちぎり、

意味など問わず、野性に任せて。

お皿に盛られたおいしいエサを、

お腹いっぱいに食べて、

お部屋の中で

ぬくぬくと生きていlきたいっす。







< 今日の言葉 >


「今年の休みは、ハ・・・・

 ワイハーに行こうかな」


(「ワイハー」の前に、

 「ハ」という声を

 聞いた気がしたが。

 何も言えなかった、

 90年代後半の

 甘酸っぱい思い出=♡)