2023/09/14

決定版・これが小林模型店だ





お待たせしました。

待望の第3弾、

今回は、「小林模型店」です。


小学生のころ、

足しげくかよったこの場所。


おもに、

プラモデル・エアガンなどを

あつかうお店です。


たしか、

自分が中学にあがるくらいのとき、

小林模型店は、

となりの学区に移転しました。

(その後、閉業


そんな小林模型店の、

記憶の記録。


今回も、

曖昧な記憶をたどって、

もやもやもこもこと

記録していきたいと思います。



* *



小林模型店に、

初めて行ったのは、

たしか小学1年生。


自分の「足」で

行動できるようになって、

学区内のその店へ行くようになった。


同級生から聞いたのか、

それとも自分で見つけたのか。

きっかけは忘れたが、

旧東海道ぞいにあるそのお店は、

ぼくらにとって、

駄菓子屋に次ぐ「楽園」だった。


店内にプラモデルが

いっぱい詰まったその場所は、

「理想郷」と呼んでもいいくらいだ。



風邪で学校を休んだとき、

午後にはすっかり調子がよくなり、

寝ているのも退屈になったので、

ふらりと小林模型店へ行った。


そのとき、

すでに学校が終わった時間に

なっていたらしく、

プラモデルを買った帰りに、

安藤くんに見つかった。


「あ、ずる休み!」


と、ののしられ、


「ちがうもん、

 もうなおったんだもん」


と言い返した、小学1年の思い出。


それほどまでに慕った

小林模型店である。



店の外観、

外側には、ショーケースがある。


向かって右手の棚には、

ガンダムの

モビルスーツのプラモデル。

きれいに着彩された、

完成品のプラモデルだ。


中央には、おなじくガンダムの、

モビルアーマー(乗物)の

プラモデルをはじめ、

半分「メカ」になった

シャー専用ザクや、

戦闘場面を再現した

ジオラマなどが飾られていた。


もちろん、すべて着彩ずみ。


ショーケースに

飾られるほどなのだから、

その完成度たるや

文句のつけようのない

出来栄えだった。


それはもう、あこがれであり、

崇拝にも似た心持ちで、

ショーケースの中の

プラモデルを見つめていた。


飾られたプラモデルの前には、

作品名とともに、

作者(つくった人)の名前が

記されている。


小学1年生のぼくには

ものすごくまぶしい存在で、

うらやましさとともに、

とうてい届きそうもない、

はるか高き雲のような

対象でもあった。


歳を重ねると、

今度はそれを

「手本」とするようになり。

やがては「ライバル」として

見るようになり、

ついには批判的に見るようになり。


最終的には、


「あそこにかざられるより、

 自分の家にかざっておくほうが

 いいにきまってる」


などと、

負け惜しみめいたことを

つぶやくまでになった。


プラモデル屋さんの店先の、

あの感じ。


よくできてるな、と思う。


まず、ほしいと思わせて、

さらにはあこがれを抱かせて、

いつかはきっと、と

上昇意欲をあおらせる。


その手に

まんまとはまったぼくは、

本当にたくさんの

プラモデルを買った。


向かって左手の

ショーケースにある、

エアガンなどにも手を出した。


やや構造的な趣向のつよい、

ラジコンカーにはあまり

興味を示さなかったが。


とにかく、

小林模型店には、

本当に「お世話に」なった。



* * *



<店内見取図>


中に入ると、

ものすごくたくさんの

プラモデルが、

整然とならべられている。


量もさることながら、

その種類の多さにも驚かされる。


おそらく、

かつては書店だったと

思われる店内に、

きっちりときれいに

プラモデルがならんださまは、

見ているだけでも圧巻だった。







ごちゃごちゃとならんだ店内でも、

探したり、発掘したりする

「楽しみ」はあったが。


やはり、

ほしいものがすぐ見つかり、

すぐ手に取れるお店というのは、

快適である。


それがそのまま

購買につながるのだから。

優秀なお店と言ってもいい。


小林模型店は、

店主のおばさんの性格や

気質をしっかり反映した店内で、

整然と、きれいに、

たくさんの商品が詰めこまれていた。



<図1>:店内右側



<図1>

右手側の棚には、

戦車や車などのプラモデルが

ならんでいる。


トラック野郎的な「デコトラ」、

戦車や戦闘機、軍艦など、

兵士をはじめ、

レンガや土のうや武器などの、

細かなプラモデルも

こちらにならぶ。


レーシングカーやスポーツカー、

バスや旧車やバイクなど、

各種乗物のプラモデルも

ここにあった。


そしてその左手、

店内中央部にそびえる棚には、

当時の青少年の

垂涎(すいぜん)の的、

ガンダムのプラモデル——

通称「ガンプラ」が、

ぎっしり詰まっていた。


「144分の1サイズモデル」は、

いちばん手ごろな価格で、

当時は300円だった。


色は単色で、

関節などの可動部分も少なく、

完成像が立像みたいで味気ない。


けれどもぼくは、

その「あまい」造形が好きだった。


どこか昔のソフビ(※)を

彷彿(ほうふつ)とさせる、

単色でゆるいそのスタイルが、

なぜかぼくにはど真ん中だった。

(※ソフトビニール人形)


「60分の1」になると、

価格は600〜800円とかになり、

買うのにちょっとばかり

気合いが必要だった。


組み立て前のパーツも、

単色ではなく、

2〜3色くらいの部品に分かれ、

色を塗らなくても、

そこそこいい感じに見える

ものだった。


可動部分もふえて、

先の「144分の1」が

「お人形さん」だとすると、

「60分の1」は、

超合金ロボに近い

ギミック(動き)になる。


ディテール(細部)も

よくつくりこまれており、

圧倒的な完成度ではあるが。


なぜかぼくは、

144分の1が好きだった。


ジオラマを作ったり、

写真撮影をしたりするとき、

60分の1では、やや大きすぎる。


改造をするのも手ごろだし、

何かと144分の1は、

小学生の自分にぴたっときていた。


とはいえ、

60分の1や48分の1などの

サイズのものも、

ひととおり手を出し、

次々と作ったことは

事実なのだけれど。


ガンダムには、

モビルスーツ(人型)のものと、

モビルアーマー(乗物)とが

登場するのだが。


ガンプラにもその2種類があった。


モビルアーマーについてくる、

おまけみたいに小さな、

モビルスーツの「人形」ほしさに、

あまり思い入れのないような

モビルアーマーのプラモデルにも

触手を伸ばした・・・


そんな経験、キミにもあるよね?


レゴやソフビなんかでも、

そういう「おまけ」みたいなものが

逆に「本命」になって、

大きなものを買わされてしまう。


その小さな「おまけ」のおかげで、

メインのはずのものが、

「大きなおまけ」になったりして。


ガンプラでもちょくちょく、

そんなことを味わった。


おそらくこういう「子」は、

少なくなかったはずだ。


作り手の思うつぼ。

思えばとてもいいお客でした。



中央の棚の奥、

ちらりとのぞいているのは、

プラモデルを着彩するための

「カラー(塗料)」の棚だ。






水性カラーは、

その名のとおり、

乾く前なら水で洗って落とせる。


向かいの棚には、

油性のカラーがあった。

ふたの形が特徴的で、

外ぶたの下にまた、

やわらかな中ぶたがある。


こちらは油性なので、

筆を洗ったり、

色を薄めたりするには、

「うすめ液」が必要になる。


水性が1瓶100円、

油性は120円だった気がする。


一度、

調色してあまった油性カラーを、

水性カラーの空きびんに入れて、

とっておいたことがある。


何日後かに見たとき、

その、水性カラーの外ぶたが、

火であぶったみたいに

どろりと溶けて、沈みこんでいた。


「うわあっ! なにこれ!」


おばけ的な

怪奇現象にでも感じたぼくは、

一人おそれおののき、

わなわなとおびえた。


そして悟った。


油性カラーのびんにある、

半透明の、中ぶたの役目を。


「なるほど・・・。

 油性のカラーの揮発成分が、

 石油系の樹脂を

 溶かしてしまうのだな」


などと、

アカデミックに思ったかどうかは

不明だが。


とにかく、その特性だけは、

身をもって覚えた。



油性カラーの棚の左、

そこには、ジオラマ作りに必要な、

「パウダー(粉)」などがあった。


「パウダー(粉)」とは、

芝生や土、砂利などの地面を

再現するとき、

ぱらぱらと敷きつめる

「粉」のことだ。


緑や茶色、赤茶、黄土色、

灰色や褐色。

粒子の細かさも、

数値で記載されており、

ジオラマのスケールによって

選ぶことができる。


ジオラマ上級者になると、

手前のほうに粗めの粉をまき、

奥に行くほど細かい粉をまく、

という手練(だ)れもいるらしい。


木や芝やガードレール、

電柱や人物などの模型もあった。


それは本来、

鉄道模型のものであり、

さまざまな模型の

ジオラマに使われて、

発展していった感じである。


ビルや建物などを

自作するための、

プラ板やプラ棒なんかも

売っていた。


色を塗るための筆は、

それこそ画材屋さんのように、

ほっそいほっそい面相筆から、

幅の広い平筆まで、

いろいろな太さ・形状の

筆があった。


塗料を混ぜるための小皿や、

ヤスリやペンチ、

マスキングテープや下地材、

スプレーやカラーマーカーなども

そろっていた。


本当に。

感心してしまうほど、

かゆいところに手の届く

豊富な品ぞろえだった。


新しいもの、

わからないものを買って試し、

そのつど、驚きと発見と、

よろこびを得た。


小林模型店の

おばさんの知恵なのか。

それとも、

商品をおろす業者さんの

手腕なのか。


限られたせまい空間の中、

きれいに、うまく、

見やすく探しやすく、

手に取りやすいように

ならべられていた。


「模型作りでほしいもの、

 必要なものは全部そろう」


そんな頼もしさがありありと漂う、

まさしく模型の「専門店」だった。


専門店って、やっぱりいい。


上を目指せば天井知らず。

初めのうち、

何に使うのかわからなかったものも、

経験を重ね、お店へ通ううちに、

それが何たるか

わかるようになる。


知る者の、優越感。


そこには、目に見えない、

格や級、ランクのようなものが、

たしかに存在していた。



その反対側、

右手の引出し棚には、

理科の実験や工作に使うような

器具や部品が詰まっていた。


豆電球、ソケット、

電池ボックス、スイッチ各種、

プーリー(滑車)や歯車、

モーター、プロペラなど、

いろいろな部品があった。






見ているだけでも楽しくなるし、

何を作ろうかとわくわくする。


意味なく

「トグルスイッチ」と呼ばれる

スイッチを購入し、

何かに使えないかと

家じゅうをうろうろと

歩き回ったり。


目覚まし時計を解体して、

イヤホン式に

改良(改悪?)してみたり。


扉を開けると、

いくつものプーリー(滑車)が

回転しながら糸を引っぱって、

「だれかきた」

と書かれた札が持ち上がる・・・

という、無意味な発明(?)を

部屋に仕組んでみたり。


小林模型店では、

創意工夫の図画工作でも

大変お世話になった。


小学1年から3年生ごろまで。

ぼくがもらった

お年玉のほとんどが、

小林模型店に注ぎこまれたと言っても

過言ではない。


4年生になって、

サッカー部に入っていなかっら、

さらにその資産を

つぎこんでいたであろう。



* * * *




<図2>:店内左側



<図2>

お店の外から見て、

左手にあたる場所。


そこは、どちらかというと、

やや年長者向きの商品がならぶ。


エアガンやモデルガン。

完成品のものあれば、

自分で組み立てるものもある。


『対象年齢18歳以上』


などと、

記されたものもあったが。


昭和のご時世、

「親の承認」さえあれば、

買ってもよし、という具合だった。


エアガンの価格は、

3.000〜5,000円、

高価なものでは8,000円台、

ぼくの記憶では、

いちばん高くて

1万5000円というものがあった。


それは、小学生には

手にあまるほどの大きさの、

M16型のライフルだった。


いつかほしいな、とも思ってはいたが。

ついぞ手が届かないまま、

終わってしまった。


壁の、アクリルケースには、

拳銃やライフルなどが

標本のように飾られていた。


赤い布を背景にしたそれらは、

真っ黒い体に光を反射して、

静かにじっと飾られていた。


ながめるだけの

博物館とちがうのは、

お金を出せば、

買えてしまうということ。


ここでもやはり。


うまーく、

欲求をくすぐる陳列だった。


すぐ買えそうなものから、

あこがれの品まで。

左から右へ、

どんどん格が上がっていく。


完成品にくらべて、

自分で組み立てるものだと、

おなじ型の拳銃でも、

値段が手ごろだったりする。


小学3年生になったぼくは、

「ワルサーP38」のエアガンに

手を伸ばした。


自分で作る、

エアガンキットのほうだ。



『対象年齢15歳以上』


その半分ちょっとの年齢のぼくは、

「親からの承認」があることを示し、

2.980円のその商品を買った。


どきどき緊張しながら、

わくわく期待しながら、

それを買った。


対象年齢15歳以上。


その壁は、数字以上に

はるか高いものだった。


いちばん最後の工程で、

太いバネが、

いくらやってもうまくはまらず、

それを収めようとすると、

いままで組み上げた箇所がまた

バラバラになったり、

バネがびよーんと

どこかに飛んでいったり。


おなじ場所を走りつづける

ハツカネズミのように。


いくらやっても、

なかなか完成へは

たどり着けなかった。


くりか返すうちに、

なんだかようすが

おかしくなりはじめた気がするのだが、

それを気のせいだと打ち消して、

暮れ沈む太陽を横目に、

汗をふきふきワルサーと格闘。


「できた!」


ようやく組み上がった

ワルサーP38を手に、

引き金を引いてみる。


『ふにゅっ』


弾の装填のために、

スライド部分を引き下げた銃身が、

たよりない速度でゆっくりと戻る。


もう一度。


『ふにゅっ』


額(ひたい)に嫌な汗が

じっとりとにじむ。


何度やっても『ふにゅっ』。


細かく記された組立説明書を

穴があくほど見直す。


わからない。


何度やり直しても『ふにゅっ』。



ぼくの大事な1日と、

2,980円が、

ただの「ぬけがら」と化した。



『飾りじゃないのよ涙は

 ハ ハーン』

(『飾りじゃないのよ涙は』中森明菜)



飾りじゃなかったはずの

ワルサーP38が、

丸1日かけて、

ただの飾り物になってしまった。



あのときのくやしさ、

無力感と言ったら。


形容しがたいかなしみと

くやしさに歯がみした家原少年は、

対象年齢というものを

現実的な警句として、

痛いほど理解したのでありました。



話は店内に戻って。


こちら側にならんだプラモデルは、

お城や建物をはじめ、

やや構造が複雑なプラモデルもあった。


ゼンマイやモーターなどを使った

プラモデルもあって、

うっかり手を伸ばしたぼくは、

ワルサーP38のときとおなじ

穴に落ちた。



ゼンマイを巻いて走らせると、

車体を上下にゆらしながら、

おもしろい動きで走るバギー。


工程をまちがえて、

それでも力ずくで押しこんでいくうち、

大切な部品をボキッと

真っ二つに折ってしまい、

声なく顔面蒼白になった。


タイヤの部分と車軸をつなぐ、

後輪の部品——。

それは、

「おもしろい動き」をする

「要(かなめ)」の部品だった。


進退きわまり、

じっと考えたあげく、

瞬間接着剤での接着を試みるも、

結合面積の小ささのわりに、

そこにかかる負荷の大きさゆえに、

すぐまたポキリと折れてしまう。


「・・・・・・」


自分で折ったはずの部品を、

じいっと何分ものあいだ、

うらみがましく見つめつづける。


当時、

ガンプラでもそうだったのだが。

説明書についた

「申込書」といっしょに、

破損したり、なくしてしまった部品を

「注文」すると、

数週間後に、その部品が送られてくる、

という手厚いサービスがあった。


あわてんぼうだったぼくは、

当時、そのサービスを

幾度となく活用した。


それはもう、手なれたもので、

必要な部品の番号と

その個数を書いた「申込書」とともに、

部品に応じた代金+送料分の切手を

封筒内に同封する。


ポストに投函して数週間後。


晴れて破損した部品が

手もとに届く・・・・


のだが。


あわてんぼうで、

待ちきれない「子ども」にとって、

数週間は、数年にも等しい。


到着したそのころには、

もう、ほかのものに興味が移っており、

届いた部品を見ても、


「はて・・・なんぞや、これは?」


といった塩梅(あんばい)。


そうでなくても、

部品の到着が待ちきれず、

そのあいだによけいな

「チャレンジ」をして、

本当にもう、

どうにも取り返しがつかない状態に

おちいっていることが

ほとんどだった。


『あわてる乞食(こじき)は

 もらいが少ない』


小学生のぼくは、

小林模型店から、

がまんと忍耐、そして、

説明書をきちんと読むことを教わった。


熱意も大事だけれど、

準備も大事。


プラモデルは、彫刻ではない。


完成像という「こたえ」

きっちりあって、

そこに向かって、

合算するようにして

工程を積み重ねていく。


粘土細工や彫刻が

好きだったぼくにとって、

「こたえ」の決まった

プラモデルやジクソーパズルは、

ときに、修行や

試練のようでもあった。


がまんと忍耐。


完成しないまま、

こわれてしまったプラモデルを見て。

本当にそうだと、何度も思った。




さて。


そんな「年長者向け」の

プラモデルの中にも、

むずかしいだけではなく、

やや「渋い」種類のものがあった。


お城や建物も、その部類に入る。


そんな中、

なぜかぼくは『渡し場』

という商品名のプラモデルに

手を伸ばした。


作る工程自体は簡単で、

あっというまに、

何の問題も難もなく完成した。






渡し場』は、

川を渡るための船乗場を再現した、

半分ジオラマのような

プラモデルだった。


完成したプラモデルの土台に、

付属の薄いスポンジを敷きつめて、

水を引いて、種をまく。

もちろん種も付属品で、

「完成図」を見ると、

ひょろひょろと芽が伸びて、

青々とした草が生い茂るのだ。


これはたまらん。


ふだん『学研』の付録に

慣れ親しんでいた家原少年は、

種をまき、水をやり、

草が生い茂るそのときを

待ちこがれた。


アブラゼミの鳴き声が、

ヒグラシの声に変わった。


けれども、ぼくの渡し場の草は、

いっこうに伸びる気配がない。


伸びるどころか、

発芽するようすもまるでない。


鼻を近づけ、においをかぐと、

なんだかちょっと、くさかった。


小林模型店のおばさんに、

そのことを報告しに行った。


おばさんの口からこぼれた答えは、

ぼくにとっては、

意外なものだった。


「種が、古かったんじゃないの?」


それ以上、

何も語らないおばさんの口に、

つたない言葉で言い募った。


たぶん、

何とかしてほしいというようなことを

言ったにちがいない。


「作っちゃったんでしょ?

 それだったら、もう、

 どうしようもできない」


いつも涼しげで、

もの静かな感じのおばさんの顔を、

そのときばかりはうらめしく思った。


けれど、

おばさんの言うとおりだった。


ぐうの音も出なくなったぼくは、

そのまましょんぼりと肩を落とし、

とぼとぼと家に帰った。


芽の出なかった「渡し場」を見ながら、

頭の中で、

ぼうぼうと草が

生い茂った姿を想像する。


たりないものは、

想像力でおぎなう。


まぶたの裏に浮かんだ

渡し場の景色——。


背の高い草が豊かに生い茂り、

その草の壁を縫うようにして、

小舟がゆらゆらと進んでいく。


魯(ろ)をこぐ音が、

割れた水面がもとに戻るように、

なめらかに消えて、またつづく。


『家原のだんな、

 今日はいい天気でさアねェ』


古くて芽の出なかった種の代わりに、

想像力の種からは、

豊かな芽や草や花が、

立派に芽吹いたのでありました。





再び店内へ。


左側、中央の棚には、

『ロボダッチ』のプラモデルが

積まれていた。


当時を生きた少年少女諸君なら、

説明は不要であろう。


「ロボット」と「トモダチ」を

かけ合わせたネーミングの、

『ロボダッチ』。


世界の民族を模したロボットや、

昔の偉人や鳥や動物など、

さまざまなキャラクターの「人形」が、

小さなプラモデルになって

箱に入っている。


そのキャラクターを

ならばせたりできる、

建物や島などのプラモデルもあった。






詳しい説明は、

インター・ネット様に委ねるとして。


『ロボダッチ』のプラモデルは、

チープな感じの、

お菓子のおまけみたいに簡単な構造で、

色合いも赤と黄色とか、

青と赤、茶色と赤など

2色での構成がほとんどだった。


そんな感じが、

なんともかわいらしく、

キャラクターセットなどは

値段も手ごろであり、

思わす集めたくなっちゃう要素が

満載だった。



「南極大陸」シリーズとか。

「アフリカ大陸」シリーズとか。


まだ海外旅行へ

行ったことがなかったぼくには、

見ているだけでわくわく、

世界旅行をしている気持ちになった。


主人公らしい「ロボダッチ」と、

その敵役であるらしい「ロボゼット」。

ぼくは、そのふたつには、

あまり興味がそそられず、

そのほかの、

こまごまとしたキャラクターに

魅了された。


きっと、いま見ても飽きないだろう。


当時の「創造物」の、

なんとも言えないほのぼの感が、

平和ですごく楽しかった。


あこがれは「宝島」。

つづいて「軍艦島」。


「宝島」はたしか、

1万円くらいしたと思う。


値段もそうだか、

何よりその大きさに、

ほしくてもなかなか手が出なかった。


それを買ってしまったら、

部屋にはもう、

ほかのおもちゃは置けなくなる。


そんな巨大なサイズだということは、

小林模型店や

ほかのおもちゃ屋さんでもらった

『ロボダッチ通信』を見て知った。


ほかの「おともだち」が、

うれしそうに、ほこらしげに、

「宝島」といっしょに写った写真。


それを見て、

ほしい、というより、

ちょっとだけ「引いて」しまった

記憶がある。


こんなのを買って、家に置いたら。

誰かに怒られそうな、そんな気がした。


無意識的なブレーキが、

ぼくの心に抑制をかけた、

めずらしい例である。



カレンダーの裏紙に、

仮面ライダーの怪人を、

1話から100話まで

びっしり描いたこと。


『ロボダッチ』の世界には、

そんな「ぎっちり」とした

にぎやかさがあり、

ずっとながめていたくなる。


こんなことを言うと

身もふたもないが。


『ロッボダッチ』は、

作るより見るのが楽しいものだった。


飾ったり遊んだりするより、

見るのが楽しいものだった。


そんなこともあり、

たくさんのキャラクターが

びっしりと描きこまれた、

大きなポスターみたいなものを、

学習机の卓上に敷いた

透明マットの下にはさみこんで。


毎日、ながめているだけで、

それだけで充分、満足だった。


とはいえ、

いろいろ買ってはみたし、

たくさん遊んだりもしていた。


いま、思い返して、

いろいろ「踏みとどまった」理由を

分析してみたら、

なるほど、

そういうことだったのか、と。

自分で納得した次第である。



* * * * *






小林模型店のおばさんは、

お店の中が示すように、

いつも清潔で、

こぎれいな感じの人だった。


プラモデルを買うと、

素早く、正確な手つきで、

箱をびしっと包んでくれる。


やや青みがかった紫の、

「タミヤ模型」の包装紙で。






おばさんの手さばきは、

百貨店の人に

まさるとも劣らない。


商品をまとめてみて、

ちょっと変わった形になったとき、

本当にごくまれに、

おばさんの手が、

一瞬迷ったように止まるときが

何度かあったが。


そんなときにも、おばさんは、

表情をいっさい変えることなく、

淡々と、商品を包みこんでいく。


ぼくは、仕事をする人の、

迷いのない手さばきを見るのが好きだ。

子どものころから、ずっとそうだ。


当時、旧東海道ぞいには、

小林模型店のような「専門店」が

たくさんならんでいた。


とうふ屋さんのおばあちゃんの、

ふるえながらも、熟達した手つき。


靴屋「不二屋」さんのおじさんが、

傘を直してくれる、その手さばき。


八百屋マーケット「ふうたん」の、

ナンバープレートみたいな札のついた

帽子をかぶったおじさん。

そのおじさんの、野菜をあつかう、

やさしくも素早い、的確な手つき。


線路を渡ったクレープ屋さん、

「アンドレ」のおじさん。

薄いクレープを、

1日に何枚も何枚も

焼きつづけている、

リズミカルで軽やかな手つき。


駅前のたこ焼き屋さん「愛ちゃん」。

名前とは裏腹に、

いつも無表情で、仏頂面のお兄さん。

けれどもその味は絶品で、

100円で4個のところを、

何も言わず、

1個おまけしてくれたりする。

お礼を言っても顔は向けず、

機械みたいに素早い手さばきで、

くるくるとたこ焼きを

回転させつづけている。



そんな専門店の中で、

「有松チキンコーナー」という

お店があった。


おそらく

鶏肉が売りのお肉屋さんで、

揚げ物が豊富にならんだお店だった。






小学生のぼくには、

お肉屋さんというより、

揚げ物屋さんという分類だった。


学校帰りの「買い食い」は

禁止されていたけれど。


名札の台座の布に、

かくしポケットを

作ってもらっていたぼくは、

そこに毎日、

100円硬貨を1枚だけ忍ばせていた。



サッカー部が終わると、

帰りの時間は5時をすぎる。


ぼくの家は、

学区のいちばん端っこだったので、

通学路をまじめに歩いて帰ると、

15分は軽くかかる。


家までの15分。

部活を終えたぼくには、

帰るだけのエネルギーが、

もうなかった。


そんなとき、

学校の正門を右手に曲がり、

少し坂をくだると、

明かりの灯るお店が1軒あった。


それが、

有松チキンコーナーだ。


ぼくはよく、

1コ上のキャプテンといっしょに、

有松チキンコーナーへ寄り道した。


当時、そのお店では、

100円あったらいろいろ選べるほど、

安い揚げ物を用意してくれていた。


それはもう、駄菓子屋感覚で。


きっとぼくらみたいな

「子ども」のことを、

よくわかっていたにちがいない。


コロッケが30円(20円かも)、

うずら串が40円。

ぼくのいちばんのお気に入りが、

10円のハムカツだった。


10円!


うまい棒とおなじく、10円。



10円のハムカツは、

風が吹いたら

飛んで行ってしまいそうなほど、

薄切りのハムのフライだったけれど。


その薄さがまた

なんともたまらなくおいしくて、

かえって贅沢な感じすらあった。


極端なぼくは、

ときどきハムカツを10枚買った。


揚げたてのハムカツが、

白い、紙の袋に入れられる。

油がしみて、

そこだけ透明な質感になる。


本当なら毎日でも、

ハムカツ10枚を

食べたかったのだけれど。


ハムカツばかりたくさん買うと、

お店の人が、ちょっとだけ

「ちっ」というような

顔をしているような気がして、

(たぶん気のせい)

ウズラ串やコロッケなどを

はさみながら、

毎回、2、3枚はハムカツを食べた。


おかげでほかの品目を、

あまり覚えていない。






大人になって。


揚げ物があるお肉屋さんへ行くと、

コロッケの次には、

必ずと言っていいほど、

ハムカツを選ぶ。


ない店も多いが、

あれば必ずハムカツを食べる。


どのお店もおいしいし、

どこも甲乙つけがたい。


けれども、

あの、10円の、

有松チキンコーナーみたいに

薄っぺらなハムカツは、

どこにもない。


初めてほかのお店で

ハムカツを食べたとき。


その「厚さ」にびっくりした。


「なんだ、このぶあつさは⁈

 まるでステーキではないか!」



有松チキンコーナーの、

薄いハムカツ。


厚さ1.5ミリのハムの、

極薄ハムカツ。


またいつか、

どこかで出会えることを夢見て。


今日もお肉屋さんの店先で、

指先と唇をてかてかにしながら、

ハムカツをほおばるのでありました。




・・・以上。


小林模型店の記録、

プラス、専門店の数々、

アンド、10円ハムカツ、

有松チキンコーナーの記憶でした。




みなさんの「模型店」は、

なになに模型店でしたか?


どんなプラモデルに魅了されて、

どんなプラモデルに

ふりまわされましたか?


そして。


どんなお店の、

どんな手さばきに見とれましたか?


あなたにとっての10円ハムカツは、

いったい何でしたか?



消えゆくもの、残るもの。


残すのは、人の思いと記憶のつよさ。


すてきな記憶のバトンを、

リレーしていきたいですネ。




< 今日の言葉 >


ワンピースの森をくぐり

コートの谷を飛びこえて

片手にコーラ片手にタバコ

髙島屋の外に出ると

熱いメタンガスの 海が押しよせ

ああ 風邪をこじらせた


人からうしろ指さされ

仕事から追い出され

いつまでも売れ残りになってはと

人並みのやり方で愛らしく

チャンスさえあれば しゃしゃりでる

そんな自分には

どうしてもがまんできなかった


ふらふら うろつきはぐれ

パン屋の前にさしかかると

スポーツシャツの若者が

スポーツカーから首を出して

ドライブに誘った 二人の仲間と

サングラスが よく似合ってた


琵琶湖のロックコンサート

比叡山のビアガーデン

涼しい所で汗流そうと

日焼けした手で私を たぐりよせ

一気に町をはなれ ハイウェイ

買物かごを 置きっぱなしで


疲れるまで踊りまわり

眠りこけるまで飲み続け

いつしか山に城がたち

湖水に浮かんだ ヨットは進み

赤いリンゴも 腐り

時はまたたく過ぎてゆく


サイレンが鳴りつづけ

ベッドからころげ落ちると

水たまりに しわだらけの顔が

髙島屋で別れた 母の面影

暗い空を 見上げて こと絶え

山火事は血のように赤かった


転がるように坂をおり

焼けこげの帽子をぬぐと

ガラスが飛び去っていく

真新しい塔婆の間をぬって


やがて 静かな 温もりに包まれ

享年19身元不明行倒れ


制服のエレベーターガールが

くりこむ善男善女に 最敬礼

まばたきもせず大量殺りく

スカートにまつわる その風は

最新型エアコンから 流される

あの文明のため息


(『夢のドライブ』中山ラビ)