2008/05/23

忘我


「ぼくはだれ」(2008)



映画を観たり、本を読んだり、
旅行に出かけたり。

または音楽を聴いたり、
料理や絵画に夢中になったり。

どうして人は、
わざわざそんなことに時間を割くのだろう。


それはある意味
「無駄」なことでありながらも、
決してなくしてしまうことのできない「無駄」。

この「無駄」な時間があるからこそ、
24時間×7日×52週
という単位で刻まれる時間を
有益に過ごせるのかもしれない。


映画や読書には、
知識や疑似体験が得られるという魅力もある。

旅行で知らない街に出かけたり、
おいしい料理を作って味わったりすれば
充足感もある。

けれども、
そういった「結果」以前に、
何かに夢中になっている
過程そのものに魅力がある。


そう、
人は「何かに夢中になりたいのだ」と。
そんなふうに思う。


ふと、時間を忘れる瞬間。
雑多な現実を忘れて没頭する瞬間。

意識的にも無意識的にも、
こういう「忘我」の時間を
求めているのではないかと、最近思った。


例えば。

昔のアルバムを見つけて、
思わず見入ってしまい、
気づくと窓の外が薄暗くなっていたり。

入浴ついでに風呂掃除をするうち、
思いのほか時間が経っていて、
すっかり湯がぬるくなっていたり。

人それぞれ種類の違いはあっても、
何かしら「時間を忘れる瞬間」はあるはず。

マンガでも、靴磨きでも、買い物でも、
時計を見て「もうこんな時間か」と
内心つぶやいた経験って、ありますよね?


夢中になって“入り込む”時間。

これは、もしかすると
“無の境地”に近いのかもしれない。


時間や空間という軸を離れ、
現実も、自分の存在もすべて忘れて・・・と、
ここまで大げさに言う必要はないだろうが。
その瞬間はとても「心地いい」。

おそらく、
ドーパミンやエンドルフィンなどの
脳内麻薬がこんこんと
あふれ出ているに違いない。
それが脳を活性化させ、
ひいては心や体に活力を
与えてくれているのではないだろうか。

これは、専門的な知識も
医学的な裏付けも何もない、
あくまで独壇場の仮説でしかない。

そんな研究結果も、
学会では言い古された定説かもしれないけれど。

先日、小さな木の塊を彫っていて、
夢中になって彫り続け、
実際そんなことを感じたのだ。

せっかく朝型
(とはいっても朝9時半ごろ起きる程度)
の生活に切り替わってきたのに。

ほんの少し彫るつもりが、
気づくと僕のハートは
その一塊のナラの木にがっちり捕らえられ、
完成像見たさについつい彫り続けてしまい・・・。

そして時計を見て驚いた。

朝の6時30分。

たしかに窓の外は明るかった。
けれど、あまりの時間の「速さ」に驚き、
一瞬、何がなんだか分からなかった。

数秒間、
呆然と口を開けて時計を眺めた僕は、
また違った意味で「忘我」した。


「何やってんだ、おれ・・・」


・・・とにかく。
すべてを忘れて夢中になれることは、
いいことだ。


こんなことを、
左脳的に考えているような僕は
まだまだだろうが。

夢中になれる時間と、
夢中になれる「自分」があるのは、
きっといいことだろう。

行き詰まったら、
一見「無駄」と思えることに
熱中するのもいいはずだ。

忙しいとか、時間がないとか、
そんな大人びたことを言う前に。

たまには時間を忘れて、
買ったばかりの『ゴマ塩』を
選り分けてみてはどうだろう。

塩が何粒でゴマが何粒かを
それぞれ数えて、
白黒はっきりさせてみる。

これを「無駄」に終わらせなかった人は、
無人島でも立派に楽しく
暮らしていけるはずだ。