#37





あのとき、声をかけていれば、
今とは何かちがっただろうか。


窓際の、奥から2番目の席。

決まってこの時間は、
窓の外に停まるおしぼり配送の車が、
太陽光を反射して、
店内に水のゆらめきのような
模様を投げかける。

A男はこの模様を見ながら
朝のコーヒーを飲むのが、
至福のひとときだった。

まるで水族館の、
魚になったような気持ちだ。



あの、雨の日の夜。

地下鉄の出口にたたずむ
彼女の背中。



あのとき、声をかけていれば、
今とは何かちがっただろうか。



飽きるほどに繰り返された自問自答。

たとえ答えがあったとしても、
すでに何の意味もないのだけれど。

しゃぶり慣れた飴玉のように、
この自問をひたすら口の中で
転がしつづけてきた。


答えを失った自問は、
ただのガラス玉だった。


甘みもなければ、溶けもしない。

いつまでもそこに在りつづけるだけの、
無機質で透明な塊(かたまり)だ。


まるで今の自分じゃないか。


記号のようにならぶ新聞の文字すら、
A男を嘲笑(あざわら)って
いるかのような顔つきだった。


それでも思う。


あのとき、声をかけていれば、
今とは何かちがっただろうか。



ラジオ体操でかいた汗を
おしぼりで拭う。

終わりかけの夏は、
秋の到来を拒むかのように、
そこかしこにしつこく居座りつづける。


A男がコーヒーを飲み終えると、
パステルカラーの壁掛け時計が、
グリーグの『朝』を奏ではじめた。

ゆっくりと席を立ったA男は、
形だけの朝刊を書棚に戻し、
会計を済ませる。


「ごちそうさまです」


午(ひる)にはまだまだ
たっぷり猶予(ゆうよ)のある陽光が、
足もとに青々とした影を切り取る。


「おじいさーん、
 忘れ物ですよー!」


にぎやかな声にふり返ると、
今しがた出たばかりの喫茶店の入口から、
店の女性が大きく手をふりながら
小走りで駆け寄ってきた。


「おじいさーん!」


店の女性は、
A男の背中を追いこすと、
腰の曲がった老人に杖(つえ)を渡した。


何度も頭を下げて礼を言う老人に、
手をふり、笑いながら店へと帰っていく女性。

A男の横を通り過ぎるとき、
はっとして立ち止まった彼女は、
少し恥ずかしそう肩をすくめたあと、
A男に声をかけた。


「いつもありがとうございます」


「あ、こちらこそ、どうも・・・」


気の利いた返答が出てこないでいる
A男を置き去りにして、
言葉はつづいた。


「うちのコーヒー、
 変わらずおいしいですか?」


「あ、ええ。おいしいです」


「最近、豆を変えたんで、
 みんなの評判はどうかなって。
 よかったです、喜んでもらえてて」


店員の女性が、まぶしそうに笑う。


「さっきのおじいさん、
 ラジオ体操で骨折して以来、
 足腰が弱ったらしいんですよ」


「そうなんですか」


「おじいさんも、
 気をつけてくださいね」


ぺこりと頭を下げる女性に、
A男が会釈を返す。


「お気づかい、どうも」

と。

A男が頭を上げたときにはもう、
店員女性の姿は、そこになかった。




おじいさん、か。


孫もいないのに、初めてそう呼ばれたな。




もう何十年も皆勤賞のラジオ体操だったが。
骨折するのは怖ろしいので、もうやめにしようかと。

そんなことを考えながら道を渡ると、
自分が今、何をやめようとしていたのか思い出せず、
喉の奥に飴玉がつっかえたような違和感で、
胸がごろごろと重たく感じた。


飴玉・・・。



あのとき、声をかけていれば、
今とは何かちがっただろうか。



ショーウインドウのガラスに映った自分の姿に、
A男はしばらく、それが誰なのか分わからず、
首をかしげていた。


しわだらけで白髪の、
やせて小さな老人。


そこには、
ひとりのおじいさんが
映っているだけだった。


おじいさん。


おじいさんになった、自分の姿。



A男は声をあげて絶叫した。




「夢か・・・」



A男はそこで目を覚ました。


夢だったのか。


寝汗でぐっしょり濡れた体に、
A男は安堵ともため息とも分からぬ息を、
重々しく吐いた。



ん?

ここはどこだ?




(ライフ:−7ポイント