2026/03/15

徒然なる豚汁



『色々なカップが描かれた服を着る人』(2009年)



 *



たくさん作った豚汁を、

母にもおすそ分けした。


湯気を立てる椀を口もとに運んで、

母が豚汁を味わった。


「おいしいねぇ。

 あんたは本当に

 料理が上手だねぇ」


お世辞ではなく、

実感を込めて母が言った。


大変ありがたい

お褒めの言葉をいただきつつ。

われながらおいしいなと、

2日目の豚汁を静かにすする。


「あんた、

 料理屋さんになろうとは

 思わないの?」


聞かれて、はたと考えた。


しばしの沈黙のあと、

僕の口からこぼれた答えは

こうだった。


「作るのは好きだけど。

 知らない人の口に

 合わせて作るのは、

 好きじゃないかも」


言った本人が、自分で、

なるほど、と思った。


僕は、作るのが好きだ。

けれども、目の前にいない

知らない人に向けて、

何かを作ることは

得意ではないかもしれない。


オーダーで絵を描くのは好きだった。

自由気ままに絵を描くのも好きだった。

手紙を書くのもすごく好きだ。


会って、話して、その人を知って。

希望や好みなどを何となく汲み取った上で、

作っていくことは意外と

「得意」なほうだと思う。


こうしたらたきっと

よろこぶだろう、などと、

知りもしない仮想の「相手」を想定して、

その「好み」に合わせて作ることは

上手でない気がする。


1対1は得意だけれど。

たくさんになると、

誰のどこに何を合わせたらいいのか、

それがわからない。


以前にもちらっと書いたと思うが。


僕には、

大衆(マス)をつかむ能力が

欠けているのだろう。


物を作る上で、

致命的な「流行音痴」である。


母の問いに、

あらためて気づかされた。


自分の承認欲求の乏しさは、

結局のところ、

究極の自己満足から来ているのだ。


その人の好みを理解した上で、

自分が「おいしい」と思える豚汁を

作ること。

そして、食べてもらう相手が

「おいしい」と言ってくれれば、

それ以上、求めるものはない。


認めて欲しいのではない。


結果を出したい。


「おいしい」という結果を出したい。


ただ、それだけなのだと。


そこに喜びを感じて、

幸福感が得られるのだと。


母の問いから発展して、

自問自答するうち、

自分の姿が少しばかり

見えた気がした。



物を作る時。


相手が存在しない場合は、

心の中の観客である、

「もう一人の自分」に審判を委ねる。


これはおそらく、

誰もが行なう方法だろう。


その「もう一人の自分」が、

どれだけ世間と通じ合って、

世間のことを理解しているのか。


デザイナーと、変人の違い。

クリエイターと、狂人の差。


僕には、それがわからない。


もっと、勉強しなければ。

そう思った。



* *



心が折れそうになる中で。

自分の作品を読んでくれた人から、

称賛の言葉をもらった。


「あんまりたくさん、

 本を読んできたわけじゃないけど。

 世の中にある物語として、

 その中でも、

 いちばんっていうくらい

 おもしろかったし、感動した。

 思いっきり号泣しまくった」


嬉しかった。


その言葉にどれほど救われ、

勇気をもらったか、

筆舌しがたい。



そう。


0じゃなければ、見込みはある。


たくさんの人には届かなくても、

同じ波長、同じ趣向の人には、

深く刺さる。


研ぎ澄まして、磨いて、

細かく何重にも編み込んで。

一枚の「絵」に仕上げているのだけれど。


題材選びなども、もちろんあるが。

その温度、角度、表現の仕方の、

調整具合が難しい。


自分の描きたい、世界がある。


大いなる自己満足を続けるべきか。

それとも、リサーチを重ね、

傾向や対策を踏まえて工夫するべきか。



星の数は、数え切れない。


だからこそ、

同じになる必要はないのだと。


迷いながらも、

結局、最後はそこへ行き着く。


眉間にしわを寄せて、

むずかしい気持ちでつくるのではなく。

た他のしい気持ちで、

わくわくしながら、つくっていきたい。



かつて「学校」で仕事していた時の、

何も教えてはいない「教え子」から、

こんな言葉をもらった。


私は難しい文とか分からないし、

 文が長いと読みたくなくなるのですが、

 先生の書く文には楽しさだったり

 優しさを感じるから

 いつまでも読んでいれるくらい

 昔から大好きです!」


ありがたさに、

涙涙の大感謝祭で、

お礼の言葉も見つからない。



僕は、

ロングセラーのものが好きだ。


だからきっと、

自分が作るものも、

そういう傾向になっていると思う。


炭酸みたいな刺激はなくて。

丁寧に淹れた、お茶とか紅茶みたいな、

口に運ぶほど香りや味わいが広がる、

奥行きのあるものができたらいいなと。


飽きることなく、

何度も何度も手にしたくなるような。


引っ越しても、大掃除をしても、

それだけはずっと何年も何十年も

そばに置いておきたくなるような。


自分の子どもや、友だちへ、

贈ってあげたくなるような。


そんな豚汁を、作りたいんです。


ただ、

越えられない壁あるのも現実。


壁の向こうの景色が見たい。

そのためにはもっと、

知らなければならない。


世界には、いろいろな人がいる。

いろいろな選択肢がある。


おいしい豚汁を、

いつでも手軽に、

お湯を注ぐだけで食べられる、

快適で便利な世界でもある。


それも、ひとつのの選択肢だ。


僕は、粉末にして、

カップに入れて、

たくさんの人に食べてもらうような

術を持っていない。


だからまず、

目の前の人に、

おいしいと言ってもらえるような

豚汁を作る。


こだわり抜いて厳選した

材料だけに頼るのではなく。


ごく普通の素材でも、

気持ちを込めて、

手間と時間を惜しまずに、

丁寧に刻んで、じっくり煮込んで、

それぞれの持ち味を最高に引き出したい。


時間や手間を

かければいいというわけでもなく。


完成の瞬間を、見極めること。


作った時に、

最高だと感じる豚汁ではなくて。

食べた時に、おいしいと思える豚汁を、

作ることができたら。


この前、食べたばっかりなのに、

また食べたい、と。

何度も食べたくなるような、

豚汁を作りたい。


やがてそれが、定番になって。


「この季節といえば、豚汁だよね」


と言われるようになるのも、

嬉しいことだ。


「世間」ではなく、

各「家庭」で。

風物詩のような存在になりたい。


僕は、おいしい豚汁を作る。


見たことのない

「誰か」のためにではなく。


目の前にいる、その人に、

おいしい豚汁を、作るために。


僕は、今日もネギを切っています。

だいたい長さは4センチくらい。

人参は、乱切りがいいと思っています。


かくし味には、

三温糖を入れます。


ここで言ってしまった以上、

これはもう、かくし味でも

何でもなくなりました。

ただの「味」です。


評判になりたいわけではなくて。

ただやたらとたくさんの人に、

食べてもらいたいのでもなくて。


一人一人の「おいしい」が、

大切なんです。


豚汁は、

味噌の代わりにカレールゥを入れれば、

カレーになると。

そんなことを言う人もいますが。


それは、豚肉がなければ、

ただの「汁」だというのと

同じかもしれません。



結局のところ、

自分の味覚を信じて、

ことことと温め続けることが、

僕には合っているように思います。


ですので。


どうか、待っていてください。


おいしい豚汁が届く、その時を。


それが、

真夏の暑い日だったら

ごめんなさい。


『夏は冷やしてクール豚汁!』


なんて。


おしゃれな戦略で、

浮世を乗り切ろうかと思います。



豚汁に始まり、豚汁に終わる。


はたして、今回のお話は、

おいしかったでしょうか。


おかわりしてもらえる

くらいであれば、

すごく嬉しいです。


どうぞお時間のある方は、

この記述に、

何回「豚汁」がお目見えしたのか、

数えてみてください。


忙しい僕には、

そんな気力がないので、

このへんで失礼いたします。


トンジール!


(これは、

 20回の中にはは入りません)


ご清聴、

ありがとんございました。



< 今日の言葉 >


    ス
    ス
    の
    心
    が
    け


(かと思ったら、

 『一』と『人」が近すぎて、

 『一人一人』が『スス』に見えた、

 交通安全標語ののぼり旗の文言)


2026/03/01

観察すること


『いつ?』(2013年)


 *



ノート型の

古いMac(Macintosh)の

FireWireからHDMI端子で

液晶テレビにつないで、

ノートパソコンの小さな画面を、

大きなモニタに投影する。


王道でも主流でもなく、

少数派の選択かもしれない。


ゆえに、

トラブル・シューティング

(問題解決)の方法は、

いくらネット上を探し回ってみても

見つからない。

誰かに聞こうにも、

そんな「奇行」を

実践する知人もいない。


観察。


僕は、見るのが好きだ。

見る(look)だけでなく、

観る(watch)のも好きだ。


観察(observation)。


(以前も書いたが)

僕は、

理科の授業が好きだった。


アサガオとかヘチマとか、

塩の結晶とかミジンコとか。

薄切りにされ、

プレパラートの上で

赤く着色された茎の道管を観たり。


共通点とか相違点を、

探して見つけるのが好きだった。


知らない土地や外国に行って、

トイレやゴミ箱、

自動販売機なんかの違いを

見るのも好きだ。



その時はまだ、何になるのか

よくわからない「断片」を、

たくさん見て、観察して、

集めていくのが好きだった。


喫茶店や公園に座って、

景色や鳩や人の姿を、

じっと見るのが好きだったりもする。



* *



Macにつながる、液晶テレビ。


液晶テレビは、

父からもらったものだ。


テレビを観ない僕は、

もらった状態のまま、数年間、

箱に入れっぱなしだった。

誰かにあげようか、

それとも売りに行こうかと思っていて。

ふと、使い道を思いついた。


パソコンの

ディスプレイとして使うこと。


できるかどうか調べてみると、

できるということがわかった。

よし、とばかりに、僕は、

パソコンショップへ走った。


詳しそうな男性店員を見つけて、

相談してみる。

早口で説明してくれる

男性店員に耳を傾け、

導かれながら、

該当するケーブルを買った。


家に帰って接続してみると、

画面は真っ暗なままだった。


やり方がおかしいのだと思い、

何度も試し、

何度も首をかしげていた。


もう一度、

パソコンショップに走った。

先ほどの男性店員を発見。

事情を説明すると、

男性は何度かまばたきをしたあと、


「ちょっと調べてみましょう」


と、店の奥に消えた。


ほどなくして戻ってきた男性店員は、

獲物でも捕まえたような身ぶり口ぶりで、

声を張り上げながら戻ってきた。


「わかりました!

 これ、これです!

 これが問題でした。

 めったにないことですが、

 この端子が欠陥品でした。

 新しいものと交換いたします。

 大変申し訳ありませんでした。

 これならバッチリ映ると思います」


深々と頭を下げ、

笑顔を浮かべる男性店員にお礼を言い、

さっそく家に戻って接続する。


映った!


よかった。


・・といった「慣れ染め」の

テレビとパソコンをつないでくれる

ケーブルは、

かれこれ何年使っているのか。

少なくとも、5年以上は経っている。



人に話すような

ことでもないが。


パソコンの画面だけが映し出されて、

テレビのほうが真っ暗、ということがある。


そんな時は、

一度、パソコンをスリープさせるか、

再起動させてパソコン画面が表示されてから、

テレビモニタの電源を入れる。

すると、

消えていた画面がきちんと映る。


おそらく、順番の問題で、

パソコンからの受信情報がないうちに、

テレビモニタを立ち上げててしまうと、

送られた信号を受像せず、

画面に何も映し出されない状態に

なってしまうのだろう。


無関係な人には、

えらくどうでもいい話だが。


こうなった時には、

こうすればいい、と。

そんな「答え」は、

どこにも書いていない。


人に聞こうとも、聞ける相手はいない。

繁盛していたパソコンショップも、

知らぬ間に新天地へと引っ越しており、

別の店舗に変わった店内には、

当然、あの親切な男性店員はいない。


長く付き合う、ということ。


観察。


こうすると、どうなるのか。

こんな時は、どうすればいいのか。


対応。対処。解決。解消。


世の中にはたくさんの「情報」が

あふれている。

たくさんの情報は、

時に「知恵」となって、助けてkれる。


けれども。


万人向けではない、

個人的な「答え」は、

そこにない。


いくら探し回ってみても、

そこにはない。


主流。王道。汎用。多数派。


たくさんあるのに、

必要な「答え」が見つからない。


時流。時代。流行。マジョリティ。


別にひねくれ者を

気取るつもりもないが。


大切なものをを大切にしていると、

ときどき、時流の外にはみ出してしまう。

時代の流れに落ちこぼれ、

気づくと「少数派」として置き去りにされる。


壊れていないのに。

まだ使えるのに。

気に入っているのに。


時代の流れに、

手放さなければならない局面が来て、

不本意に別れた数々の物たち。


執着とはまた違った理由で迎えた、

大切にしてきた物たちとの数々の別れは、

今も僕の胸の内で、

宝石みたいにきらめいている。


執着と、愛着。


物を大切にするって、

いけないことなの?


今ではもう、

時代遅れなことなの?



* * *



いくらどこを探しても、

「答え」はいつも見つからない。


「答え」は、

自分で探すしかない。


それは、

今も昔も変わらない。


試行錯誤と観察。


「探す」のではなく、

「向き合う」こと。


行き詰まり、

立ち往生した時。


目の前の現実と向き合い、

とにかく、

観察するしかなかった。


実験と言ってもいいくらい。

思いつく限り、いろいろ試してみた。


長く付き合うということは、

観察と、試行錯誤の連続だ。


例えば・・・。


古い車に乗っていて。

こういう時は、

クラッチを2回、深く踏み込んでから、

キーを回して

エンジンを始動させる、とか。


がたついた扉を開けるのに、

ドアノブを支点としながら、

ちょっと内側に引く感じで

扉を押し開ける、とか。


洗濯機が脱水の工程に入る時、

たくさん入れた洗濯物が

安定して回るまで、

洗濯機をそっと押さえておく、とか。


「アナログ」な時代には、

そんな「癖」が、数多くあった。


デジタルな時代になっても、

扱う人間がアナログ思考なせいか、

そんな「癖」は、いまだ存在する。


不機嫌になったパソコンも、

まるでジンクスみたいな話だけれど、

軽く撫でてから再起動すると、

具合がよくなる、とか・・・。


物理的な面だけではなく、

気持ちの上でも、

毎回、いたわるようにして

大事に使ってていると、

その「癖」がわかってきて、

使うのに多少の

「こつ」が必要だとしても、

何年もずっと壊れず、

使い続けられたりする。


ほかの誰の役にも立たない、

自分だけの、

そのものにしか効果のない、

智慧(ちえ)の集積。


智慧とはまさしく、

「こつ」と言ってもいいだろう。


そんな、

個人的で私的で、

固有の「こつ」は、

汎用的ではなくとも、応用力はある。


長く付き合うという姿勢。

観察するという視点。

行動と結果を分析する力。

じっくり向き合う根気。

制御するのではなく、理解すること。


じっと静かに見つめる眼差し。


仏師が木塊を前にして、

じっと材料と向き合うように。


対話と観察。


そこから得られるのは、

「答え」だけではない。


既存の「答え」を

当てはめるのではなく。


自分で「答え」を

紡ぎ出すという気質が、

体質となって、ゆるやかに育つ。



* * * *



長く付き合いたいから。

仲よくなりたいから。


だから、観察をする。


観察とは、

対象を変えることではない。

その対象が持つ性質や気質、

場面や状況に応じて見せる反応などを、

正確に見定めることだ。


相手が、器械や物なら。

反応は、規則性があり、

一貫して安定していることが多い。


とはいえ、

完璧な「物」などない。


経年による変化、

偶然とか、たまたまとか、

予測不能な事態は必ずある。


絶対とは、

確率や統計に基づき、

経験則によって導き出された、

希望的な予測に他ならない。


(かんたんにいうと、

 「いままでそうだったから、

  たぶん今回も

  そうなるとおもうよ」

 っていうねがいだね)


観察で得られるものは、

量と時間によって累乗していく。


つまり、

長く観察すればするほど、

どんどん「わかって」くるのだ。


長さではなく、質。

数ではなく、体験。


付き合うほどに、わかってくる。


・・・当たり前のことしか

言っていないが。

事実、本当に、そうなのだ。



中には、

観察されることを

嫌うものもある。


ころころと目まぐるしく移ろい、

軸が定まらず、変わっていくもの。

「相手」を置き去りにして、

ひらひらと飛び移るもの。


新しいものに、罪はない。


追われるのが好きで、

仲よくなりたがらないものは、

いずれいなくなる。


観察。


僕は、消えないものと、

仲よくしたい。


消えないものと仲よくするための、

これまで見てきたたくさんの「答え」。


そのすべが

役立つわけでは

ないのだろうけれど。


誠実さ。


長く付き合えるものには、

それがある。


誠実さとは、何か。


言葉にすれば、

定義があるように見える。

けれどもそれは、目には見えない。


目には見えないけれど、

確かにある。


言葉にはできない、感覚的な、

見えない細い糸のようなものが、

しっかり一本つながっている。


一見、ばらばらのようで、

しっかりつながっている。


その場かぎりの愛想ではなくて。

ずっと仲よくしたいという思いが、

見えない糸となって

細く、長く、つながっている。


物も、人も、よく似ている。


物を見れば、人がわかる。

その人が大切にするものが何なのか。

それが、わかる。


隠しても隠しきれない。

偽っても装いきれない。


その人の選ぶものが、

その人自身を、形づくる。



* * * * *



大切なもの。


たくさんはいらない。

ひとつあれば充分だ。


たったひとつだからこそ、

じっと向き合える。

ひとつだからこそ、大切にできる。

それだけをずっと、大事にできる。


永遠も、不変も、幻想でしかない。


けれど、永遠は存在する。

不変も幻ではない。


外にではなく、内にある。


「もう何もいらない」


そう思えるようにななった時。


その時こそが、

それを手に入れた瞬間だ。


それまで僕は、

じっと見つめる。

静かにじっと観察する。


小さな種が

発芽するのを持って。

その瞬間を、見逃さないように、

僕は、ずっと見つめ続ける。




< 今日の言葉 >


チャ〜オ、チャ〜オ

ウーノ、バベーネ♫


(イタリアで思いついた歌)