*
「大阪のじいちゃんち」
と呼んでいた場所が、
じいちゃん亡きあと、
「大阪のばあちゃんち」
と呼ばれるようになって。
その、
祖父母の家だった場所には、
事業を継いだ親戚が暮らしている。
なくなっていないのは
うれしいことだが。
お盆休みに
帰省する場所ではなくなった。
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それでも、
記憶の中には残っている。
ぼくの大好きな、
大事な場所の記憶として。
* *
ばあちゃんの家へは、
毎年、お盆には必ず行った。
幼稚園、小学校のころは、
家族といっしょに、
父の運転する車で行き、
中学になると、
部活動の試合や練習などの日程で、
一人だけ近鉄電車で行ったりした。
近鉄アーバンライナー。
毎時0分発のこの列車は、
名古屋を発ったあと、
次に停まるのは大阪市内だったので、
2時間ほどですいすい行けた。
近鉄『なんば』駅から地下鉄に乗る。
御堂筋線『中津』駅で降り、
出口を左に出たら、
ビル群の谷間をまっすぐ歩く。
ホテルをこえて、
寿司屋をこえた先、
1つ目の十字路をすぎた左手。
そこが、ばあちゃんちだ。
じいちゃんが
いなくなってからのお盆は、
ばあちゃんに会うこと、
仏壇にあいさつすること、
迎え火、送り火をたくこと、
お坊さんにお経を読んでもらうこと、
そして、
京都へお墓参りに行くこと。
そのほかには、
父がいろいろな場所へ
連れて行ってくれたり、
ばあちゃんと一緒に
ごちそうを食べに行ったり。
通天閣や大阪城、
淀川の水上バスをはじめ、
神戸ポートピアランドや、
宝塚ファミリーランドも行ったし、
甲子園で野球も見た。
毎回、
京都のお墓まいりのついでに、
すぐ目の前の清水寺はもちろん、
祇園や南禅寺、金閣寺などにも
連れて行ってもらった。
夜には、大文字焼きも見た。
小学生ごろになると、
家にいるちょっとした時間を
もてあまし、
姉とうろうろ遊びまわった。
2つ上の姉はしっかり者で、
決まりや約束事をきちんと守る。
ぼくは、
そんなことおかまいなしで、
好奇心にまかせて、
ずんずん突き進んでしまう
こまりんぼうなお子様だった。
父がごろごろと寝そべり、
高校野球などを観ていると、
退屈レーダーが
すぐそれをキャッチして、
お尻がむずむず、
おむずかりになる。
そんなときは、
たたっと2階から降りて、
1階の事務所や工場の中を探検する。
事務所の電卓で遊んだり、
回転イスでぐるぐる回って
気持ち悪くなったり。
会議机の横にある、
巨大な業務用クーラーに
顔を近づけて、
前歯がきんきんになるまで
顔を冷やしてみたり。
事務所に飽きると、
工場の中を見て回り、
裏口から公園のほうへと
ぬけ出してみたり。
建物と建物のすきまの、
その細い「道」を
必死でカニ歩きする姉とぼく。
たぶん、表に回って、
ぐるっと道を歩いて行ったほうが
すんなりと通りへ
出られるのだろうが。
子どもは、どうしたって、
こういう「ぬけ道」を好んで歩く。
裏手のパン屋さんでお菓子を買って、
道を渡った「タコ公園」で
お菓子を食べる。
タコ公園。
公園の正式な名前は
知らないままだが。
タコの遊具がでーんと
真ん中にある公園なので、
ぼくらはタコ公園と呼んでいた。
地元の子どもが遊びに来る。
「なんや、おまえら。
どこ小や?」
おお、関西弁だ!
などと、最初のころには
感動したものだ。
関西弁をしゃべる「子ども」は、
新鮮だった。
うちで関西弁をしゃべるのは、
みんな「大人」だったからだ。
テレビで観る人も、
どちらかといえば大人が多く、
初めて「生で」子どもが
関西弁を話すのを聞いたとき、
えも言われぬ感動を覚えた。
その感動は、
後年、初めてアメリカへ行った際、
生「Oh My God!」を聞いたときに
味わったものとよく似ている。
タコ公園で、
見知らぬ少年から
声をかけられたときには、
驚き、感動とともに、
多少なりとも「ひるみ」があった。
おとなしく、引っこみ思案の姉は、
ぎゅっと唇を閉じ、
大きな目を何度かぱちぱちさせた。
「あり小」
そう答えるぼくに、
大阪の少年は、
眉をひそめて首をかしげた。
「どこぉ、それ?
きいたことないわぁ」
うしろに束なった少年たちも、
なぁ、と言われて、
口ぐちに「わからん」「しらんわ」
と、首をかしげる。
けれども。
気づくと数分後には、
タコの遊具で一緒に遊んでいた。
何をするというでもなく、
のぼったりおりたりする姿を、
おたがいに「ほほぅ、やるな」
といった塩梅(あんばい)に
披露しあって、
ほほ笑む程度の融和だったが。
そのときは充分、
一緒に遊んでいる感じがした。
ぼくも姉も、
どちらかというと、
運動は得意なほうだ。
ちょっとだけトリッキーに、
少しばかりアクロバティックに。
そんな所作をお披露目すると、
明らかに「おお!」という、
畏敬の色がその目に灯った。
ぼくらは少し得意げになって、
彼らからの敬意を全身に浴びた。
しばし時が経ち。
そろそろ帰ろう、と、
姉がそっと服の裾を引っぱる。
手にしたお菓子を見て、
そうだった、
お菓子を買いに行ってくるって
言っただけだったと思い出す。
タコの遊具をすべりおり、
ちらと彼らの顔を見る。
別に手をふるでもなかったが、
心の中では「バイバイ」と
しっかり手をふっていた。
大阪弁の子ども。
大きくなってから、
タコ公園に行ったとき、
彼らの残像をたしかに見た。
一人、キャメルを吸いながら、
なつかしい記憶にふっと笑った。
* * *
ばあちゃんちから
梅田の駅のほうへと向かう道すがら。
小学生のぼくには、
好きな場所があった。
木製の看板には、
たしか「北野カトリック教会」と
書かれていた気がする。
もう、いまはなき、その教会。
その思い出に向かう前に、
教会までの道を歩いていきたい。
ばあちゃんの家を出て右へ向かい、
十字路を左に曲がる。
すると、
タコ公園とはまた別の
公園が見えてくる。
公園の向かい側にはローソン。
そこでよく『夢氷』という、
カップ入りのかき氷を買った。
ガリガリとした粒状の氷ではなく、
さらさらの、粉雪のような氷だ。
味は、イチゴとメロンがあり、
どちらか選びがたいほど
おいしかった。
その『夢氷』をよく公園で食べた。
それは、中学生くらいだった
かもしれない。
近くの予備校の
お兄さん、お姉さんが、
やけに大人っぽく見えたころだ。
ロフトができ、
心斎橋やアメリカ村へ
行くようになったころには、
お兄さんお姉さんに見えた彼らが、
自分と変わらぬ年ごろに見えた。
その公園の思い出のひとつ。
家に迷いこんだ白猫、「ゴマ」。
そのゴマが家に来た最初の年——
ぼくが高校1年のころのこと、
ゴマひとりを
留守番させるわけにもいかず、
父の車でともに帰省した。
道中、ひどくおびえて、
何度もえづき、何度か吐いた。
ようやくたどり着いた
ばあちゃんちでは、
事務所や工場があったりで、
放すわけにもいかなかった。
ケージ(檻)も胴輪もなく、
急場しのぎで、犬のように
首輪に紐をつけた状態だった。
外の空気を吸いに出ようと思い、
ゴマを抱え、散歩に出た。
車の通りの多いタコ公園ではなく、
ローソン前の、公園を選んだ。
猫を飼うのは初めてで、
父も母も姉もみんな、
猫のことがわからなかった。
犬を飼っていたこともあって、
公園まで着くと、
まるで犬の散歩のようにして、
と、その瞬間。
まるで稲妻のような速さで、
首輪につないだ紐(リード)が
ゴマの首を苦しめないよう、
その距離を保つため、
紐を手にしたぼくが
あわててあとを追いかける。
そうして追いかけるうち、
ゴマは、
公園にそびえ立った木の上に、
するすると
のぼって行ってしまった。
高さにして3メートルほどは
のぼっただろうか。
ぼくの身長(177センチ)+
腕の長さ+紐の長さ、
どれもがぴんぴんに伸びきって、
これ以上どうにもならない
という状態になった。
まるで、季節はずれの、
まぬけな凧揚げのようだった。
ゴマ自身も、
自分でよじのぼったその高さに、
困りはてて身動きできない様子だ。
その爪は、
めいっぱい大きく広げられ、
いまにも折れんばかりに、
鋭く突き立てられている。
そばにいた母に紐をたくし、
木をよじのぼる。
手がかりとなる枝もなく、
鋭い爪もないので、
のぼり棒のようにしてよじのぼった。
ゴマに、
ようやく手がかかった、
その瞬間。
力つきたのか、
それとも逃げまどったのか、
ぼくの腕の中に、
ごろりと転げ落ちた。
きっと猫のことだから、
うまく着地するのかも
しれなかったが。
初めての猫に、ぼくたちはもう、
気が気ではなかった。
落ちる!
逃げる!
ここは大阪!
迷子!
どうしよう!
おそらくゴマのほうでも、
それはおなじだったはず。
初めてばかりの初めてづくしで、
心の底から混乱していたことだろう。
そのときばかりは、
人目もはばからず、
ゴマの救出劇を母とともに喜びあった。
・・・と、
寄り道が長くなりましたが。
公園をすぎ、
十字路を右に折れて少し歩くと、
先ほど登場した教会前に到着。
石造りで、
いかにも古そうなカトリック教会。
町なかにこつ然と
中世の世界が現われたような
建物の姿は、
梅田駅まで向かう途中、
何度も目にしてきた。
けれども、
家族で歩いているときに、
立ち寄ることはなかった。
その前を通りすぎ、
つないだ手を母に引かれながらも、
首がもげそうなほど
ふり返りつづけたその建物が、
しばらくして「教会」だと
わかったとき。
小学生のぼくは、
信者でも何もなかったが、
ひまさえあれば何度も足しげく、
その教会へと遊びに行った。
最初は外から、
おそるおそる眺めるばかりだったが。
「どうぞお入りなさい」的な雰囲気に、
きょろきょろと辺りをうかがいながら、
そろりと足をすべりこませた。
親に話すと、
叱られそうな感じがするとき。
そういうときは一人、
単独行動だった。
庭には、
きれいな花が咲きならんだ
花壇もある。
クリスマスツリーみたいな
大きなモミの木もあった。
砂利を踏みしめ、
建物へと近づくと、
アーチ状の入口があった。
うっすらと暗い玄関に、
板チョコみたいな形の
木製の扉が見える。
『どうぞお入りください』
そんなふうに書かれていたのか。
それとも、勝手にそう感じたのか。
扉を押し開け、教会の中へ入る。
たぶん、
生まれて初めて入った教会が、
この教会だったと思う。
一歩入った室内は、
寺や神社とはまたちがった種類の、
静粛で、おごそかな感じが漂っていた。
板敷きの床は
きれいに磨きこまれて、
ぴかぴかだった。
靴を履いたままでいいのかな、
と躊躇(ちゅうちょ)するほど
つるつるだった。
ステンドグラスもあった気がするが。
正直、内部の様子は
あまり詳しく覚えていない。
うす暗くて怖かったのか、
おどおどとして先へは
進めなかったのか。
内部の詳細な記憶はない。
玄関先に、
小さな冊子がたくさんあった。
4×10センチくらいの、
横長の冊子で、
表紙の色が、赤や黄色、緑など、
何色かあった。
色紙の表紙には、
『悔(く)い改(あらた)めなさい』
みたいな文言が、
題名のように書かれていた。
何冊か手に取ってみると、
表紙の色だけでなく、
内容もちがっているようで、
番号や挿絵、文言なども
それぞれちがった。
表紙をめくると、
中には挿絵と文章が記されていた。
ぼくはその、
挿絵がすごく気に入ってしまった。
見なれたマンガの絵よりは、
劇画調というのか、
やや写実的で、
線や影のタッチが、
アメコミみたいに重厚な感じだった。
人が、欲望におぼれている場面。
人をだましている場面。
神さまに許しを請う場面。
そして、神さまにやさしく
抱(いだ)かれている場面など。
詳しい内容はわからないが、
絵を見ているだけで
おもしろかった。
その濃ゆい絵柄は、
訴えかける力も強かった。
何だかどきどきしながら、
その冊子に夢中になっていると、
いきなり背後から声がした。
「よかったらどうぞ」
ふり返るとそこには、
神父さんがいた。
絵に描いたような神父さん。
初神父さん。
本当にいるんだ、神父さん。
やさしそうな神父さんだった。
何となくあわてたぼくは、
小冊子数冊を手にしたまま、
小さな声で、
「ありがとう」と言って、
ほどなくして教会をあとにした。
ばあちゃんちに帰って、
冊子を見返す。
いいなあ。
いい絵だなあ。
そして数日後。
はたまた翌年か。
また教会へ行った。
そして小冊子をいただく。
行くたびにちがう
「巻(かん)」がある気がして、
何度も教会へ足を運んだ。
そうこうするうちに、
すがた形を覚えられてしまったようだ。
「熱心でえらいね」
と、声をかけられたかと思うと、
神父さんは、クッキーをくれた。
「ありがとう」
おずおずと頭をさげて
クッキーをもらう。
公園で食べてみた。
さっくりとして、ほんのり甘い、
おいしいクッキーだった。
それが最後だったのかは
覚えていないが。
教会の中には、入らなくなった。
もしかすると、
小冊子を見たばあちゃんが、
難色を示したせいだったかもしれない。
ばあちゃんは、
戦争経験者なので、
髪を金髪にしたぼくを見て、
「なんやの、あんた。
そんなアメさんみたいな髪して!」
と言うくらいの人だったから、
黒船文化にはちょっと厳しい。
それとも、父の言った、
言葉のせいだったかもしれない。
「なんや、そんな
気色の悪いもん集めて」
冗談なのか本気なのか。
ぼくにはときどき、
父の言葉の真意がわからなかった。
そんなわけで。
小冊子集めは終息し、
教会は、外からじいっと
眺めるだけの存在になった。
父やばあちゃんは、
アンチクライストかもしれないが。
ぼくはちがった。
高校のとき、
クリスチャンの彼女と
付き合っていたのは、
まるで関係のないことだが。
ぼくは、
お寺も神社も教会もモスクも、
みんな好きだ。
* * *
小学生のころ、
姉と二人、梅田の繁華街まで出た。
さすがにぼく一人では、
ご両親も許してはくれず、
しっかり者の姉と二人で、
よく「かっぱ横丁」へ行った。
梅田の交差点は、
幅が広くて、人がたくさんいて、
車がたくさん走っていた。
電車もいっぱい走っていた。
信号待ちの最中、
小さなぼくらは、
黒くすすけた高架の腹を見あげて、
その巨大さに圧倒された。
向こうには、済生会病院の、
古くてかっこいい建物が見える。
ここには一度、
おじいちゃんも入院した。
外観だけでなく、内装も、細部も、
博物館のように見ごたえがあった。
横断歩道を渡って、
人の流れに沿って右手へ進む。
建物の中を、
長ーい廊下のような通路が
つづいていく。
つづいた廊下がときどき途切れて、
一瞬、外(道路)に出る。
その景色もまた、黒くすすけていた。
そしてすぐまた通路(屋内)に戻る。
あの、何とも言えない
排気ガスのにおい。
東京ともまたちがう、大阪のにおい。
ぼくはその、排気ガスくさい
においが好きだった。
大好きな思い出のつまった大阪の街。
おじいちゃんとの思い出。
おかげで、
大阪の排気ガスのにおいをかぐと、
うきうき胸がときめいた。
そのにおいは、
ほかの街とは、ちょっとちがう。
そんな気がした。
梅田の地下街、
「虹の街」だったか。
ぼくらの楽園、
『キディ・ランド』があった。
無理やり訳すと、
「子どもっぽい国」。
そこには、
夢のようなおもちゃたちが、
所せましとならんでいた。
ゴムでできたヘビやカエル、
ネズミや虫など。
切れた指や手首もあった。
頭にはめると、
釘が貫通しているように見える
おもちゃもあったし、
モンスターのゴム製マスクや、
スライムや
ルービックキューブなんかも
ここで買った。
ギザギザの溝が刻まれたバーを
後輪の歯車にすべりこませて、
勢いよく引くと、
びゅうんとタイヤが回って走る
オートバイのおもちゃ。
そのおもちゃの
ブリスター(容れ物)の台紙は、
折りたたんでのりづけすることで、
ジャンプ台になった。
勢いよく走らせて、
思いっきりジャンプさせて。
ばあちゃんの部屋のテレビにぶつけて
叱られたりもした。
裏から数字が「読める」、
手品トランプや、
入れたタバコが三分割に切れて、
また戻(ったように見え)る
という手品道具もあった。
姉は、そういった手品道具や、
かわいいぬいぐるみなどを買った。
ぼくは、気色の悪い
おもちゃばかりを買って、
ここでもまた、ばあちゃんに
嫌な顔をされるのでありました。
LSIのゲームも買った。
(エル・エス・アイ:大規模集積回路)
姉が『ルパン宝石強奪ゲーム』を
買ったとき、ぼくは、
『KING MAN(キング・マン)』を
買った。
当時、たしか4,980円で、
ばあちゃんにもらった
おこづかいで買った。
ばあちゃんちの事務所で、
姉と二人、そのゲームに熱中した。
電池だとすぐになくなるので、
AC電源アダプターを
コンセントに挿し、
ひたすらやりこんだ。
途中、姉とゲームを交換して、
またまた熱中した。
弟らしい発想だが。
姉のゲームをやっていると、
なんかこっちのほうが
断然おもしろいんじゃないか、
という気になってくる。
返すころになると、
よけいにいとおしく感じ、
返すのがためらわれる。
「テテテ、テテテレテテ、
テッ、テッ、テッ!」
(『ルパン宝石強奪ゲーム』の音楽です)
そうこうしていると、
姉に怒られる。
「5回って言ったじゃん。
早く返してよ」
「もう1回」
「もう1回もう1回って、
もうそれ何回目?」
「だからもう1回だけ」
そんなやりとりの末、
けんかが勃発。
見るに見かねた父が、
カミナリを一発。
「何しとんねん!
きょうだいやろ。
けんかすな!」
一人っ子の父には、
「きょうだいげんか」が
わからないのだと。
少し大きくなったとき、
母に言われた。
とにかく、
父のカミナリは恐ろしい。
「地震・カミナリ・火事・親父」
怖いものTOP4のうちの、
カミナリと親父の
ダブルパンチ。
パンチパーマも合わせて、
トリプルパンチ。
パンチパーマの父の姿が、
そのときばかりは、
本物の鬼に見えた。
小学生から中学生になると、
『キディ・ランド』より、
『紀伊国屋書店』へ行くことのほうが
多くなった。
最初はその、
「紀伊国屋(きのくにや)」が
読めなかった。
知ったかぶりで、
「キイクニヤ書店」と言って、
姉にさんざんやりこめられた。
「え? 『の』は?
『の』はどこ?
どれで『の』になるの?」
なんて聞いてみたり。
姉はいつでも、
ぼくよりすぐれていて、
何でも知っていた。
トランプでもオセロでも、
いつも勝てない。
ぼくが勝てる相手は、
母だけだった。
ただ、母は、ルールもろくに覚えず、
適当にやるので、
勝ったところで
少しもうれしくはなかった。
負けた母も、
まるでくやしそうではなく、
いつでもにこにこと
笑っているだけだった。
話は『紀伊国屋書店』に戻って。
ここでは、
ふだん見つけられないような書籍と
出会うことが多かった。
インター・ネットのない時代。
本は、足で探すことがほとんどだった。
タイトルなど、書名を知っていれば
注文もできるが、
存在すら知らない書籍とは、
書店や図書館で出会うしかないと
言ってもよかった。
ここ、紀伊国屋では、
楳図かずお先生の『鬼姫』、
『ロマンスの薬』をはじめ、
沼正三先生の『家畜人ヤプー』などにも
出会えた場所だ。
そんなときは、帰省も大阪も
たこ焼きもそっちのけで、
買いたてほやほやの本を
読みふけった。
2階の居室に寝転がり、
ひたすら本を読みつづけた。
「スイカ切ったよー、食べるー?」
とか、
「そうめんゆでたよー、食べるー?」
という、階下からの母の声にも、
「うーん」
と返すだけで、数分が経過。
気のないラリーをくり返し、
区切りがつき、
階下に降りたころには、
スイカも、そうめんも、
ほとんどなくなっていたりして。
「あれ、ぼくのは?」
と、不満をもらす声に、
父が一瞥(いちべつ)。
「はよ降りてこんからや」
そう言って父が消えたあと、
遅れて母が、
冷蔵庫からよく冷えたそれらを
そっと運んでくれる。
スイカよりも、
カブミツ(カブトムシ用の蜜)よりも
甘〜い甘やかしで
ぬくぬくと育ったぼくは、
父に怒られ、
母にすがるということを、
幼少期から
思春期前(中1)ぐらいまで、
ひたすらくり返していた。
それは一種の劇場のように。
父は父の役割を演じ、
母は母の役割を演じ、
ぼくはぼくの役割を演じる。
そんなとき、
姉は観客のようなまなざしで、
「またやってる」
というふうに、
なかばあきれつつも、
あたたかな姉らしい目で、
苦にがしく笑っていた。
大阪のばあちゃんちは、
ふだん、
ばらばらな家族がひとつになる、
団らんの場所だった。
いつも仕事で帰りが遅い父。
家にいるのは母と姉とぼくと犬。
ばあちゃんちへ行くと、
父も、ばあちゃんもいる。
じいちゃんの、気配もある。
だから、大阪の記憶は、
全部好きだ。
丸ビルで食べたインド料理も、
最上階で食べた中華料理も。
鉄板を前にした
『ぼてぢゅう』での食事も好きだった。
大阪の、お好み焼き。
そしてその妙技。
熟練したコテさばきは、
ショーを見ているように鮮やかだった。
「エビせんべい、食べます?」
そういって、
エビの殻を鉄板に押しつけ、
塩をふってできた、天然の、
焼きたてエビせんべいをほおばった。
一人一人の席に、
湯気をあげる鍋が仕込まれた
しゃぶしゃぶ屋さんでは、
お肉を注文したそのときに、
塊肉をスライスしてくれた。
大阪に行くと、
ちょっと豪華な食事にも
連れて行ってもらえた。
すっぽんやフグも、
大阪で初めて味わった。
『ぶぶ亭』で食べた明石焼。
見るのも初めてだったけど、
びっくりするほどおいしかった。
「かっぱ横丁」には、
噴水があちこちにあった。
噴水の中には、
たった1〜2階を
移動するためだけの、
飾りみたいな短かい
エレベーターもあった。
銀色の、
フラフープみたいなリングを、
弧を描いてきれいに通過する
水鉄砲みたいな噴水や、
雨みたいに降り注ぐ噴水もあった。
水は、赤やオレンジなどの
照明に照らされ、
幻想的な景色をつくっていた。
<イメージミックス(記憶の複合)> |
当時、池のような噴水に、
かっぱの人形(セメント彫刻)が
あった。
色は全身白っぽく、
形はけっこう「リアル」だった。
かわいらしさは
微塵(みじん)もないが、
店先に置かれた、
信楽焼のたぬきのような、
愛らしさがあった。
自分が何歳のころかは
覚えがないが。
家族で夜ごはんを食べ終え、
ばあちゃんちへ戻る帰り道、
かっぱの噴水で、事件があった。
べろべろの酔っぱらいが、
かっぱ池に飛びこんだのだった。
正体不明に酔っぱらった、
ワイシャツにネクタイ姿の男性は、
よろよろとよろめきながら、
あろうことか、
かっぱの子どもにしがみついた。
「ゴット〜ン!」
いまにも池に飛びこもうと、
身がまえた姿勢の子がっぱは、
鈍い音を立てて、
酔っぱらいの男性とともに、
かっぱ池に飛びこんだ。
それが、意図したものか、
そうでないかは分からないが。
ぼくは、無性に腹が立った。
観衆たちは、
声をあげて笑ったり、
冷ややかな視線と
苦笑いを送る人たちも
たくさんいたが。
ぼくにはちっとも笑えなかった。
本当に本当に腹立たしかった。
まだ無力なガキで、
逆によかったと思う。
そのときのぼくは、
どうすることもできず、
ただただその酔っぱらいを
にらみつけていた。
ぼくの大好きなかっぱ横丁を、
こんなふうに壊すなんて。
ぼくは、許せなかった。
後日、その池を見たところ、
トラ柄のロープが張られ、
根こそぎ折れてしまった
子がっぱのあたりには、
ぐるぐると何やら
ブルーシートのようなものが、
トラ柄のロープで
巻きつけられていた。
「阪神タイガース」
などとは、
もちろん思ったりもせず。
無事に直ることを心で祈った。
後年、その池の様子を見ると、
かっぱの子どもが直っており、
家族としての姿が戻っていた。
ただ、体の色が白ではなくなり、
それぞれに色が塗られていた。
「父さんがっぱ」は青、
「母さんがっぱ」はピンク、
「子がっぱ」は、たしか緑、と。
甲羅(こうら)や髪の毛(?)を
各色に塗られ、
体はクリーム色っぽい色に
包まれていた。
初見、元に戻っていないことに、
ちょっとがっくりきたが。
それでも、
かっぱは戻ってきている。
かっぱの家族がそこにいる。
ほっと胸をなでおろしたぼくは、
ポケットの中の10円玉を、
そっと池に投げこんだ。
そしてそのまま目を閉じて、
小さくひとつうなずいた。
よくわからない、
儀式みたいな心持ちで。
その、ほんの数秒のあと、
ぼくは口笛を吹きながら、
小さな足で、大股に歩いて行った。
ぼくは、大阪が好きだ。
最近全然行ってないけど。
大好きな思い出が
いっぱい詰まった大阪は、
いつでも、ぼくの胸の中にある。
そうなんですやねん。
ほな、ほんまに
さよならやがな。
とか言いつつ。
最後に、
ばあちゃんちの間取りの記憶を
記録して終わりやでー。
えらいおおきに!
*
|
事務所のある母屋は、
昭和30年代の建物。
地肌は、
細かな小石の混ざった
コンクリート製だった。
右手奥に見えるのは、
ばあちゃんちの工場だ。
絵図の正面扉が事務所の玄関口、
右側壁面に見える扉が、
母屋(住居)入口である。
<ばあちゃんち台所> |
母屋の玄関を入るとすぐ、
台所がある。
台所の床は、
赤いパンチカーペット敷き。
(ここでもパンチ!)
中央部には床下収納があり、
瓶ビールや三ツ矢サイダーが
ならんでいた。
冷蔵庫には常時2本、
三ツ矢サイダーが入っており、
風呂あがりによく冷えた
三ツ矢サイダーを飲むのが、
ばあちゃんちでの「贅沢」だった。
そして、飲んだら必ず、
床下収納からぬるい
三ツ矢サイダーを取り出し、
冷蔵庫に冷やしておくのが
大阪家原家での「流儀」だった。
ばあちゃんちでは、
いち早く電子レンジが採用されていて、
生まれて初めて「チン」に触れたのは、
ばあちゃんちだった。
浄水器なるものの水を
初めてご家庭で味わったのも、
ばあちゃんちだ。
当時、大阪の水道水は、
独特のにおいがあり、
飲料水として使う場合、
浄水器を通していた。
けれどもぼくは、
ときどき水道水を飲んだ。
大阪のにおい。
大阪の、水のにおい。
大阪の、水の味。
書道用の「すずり」で
水を飲んでいるような、
独特の「くさみ」。
ラブ大阪、
ビバ大阪のぼくは、
石のような味がする
大阪の水が好きだった。
その水を飲むと、
「大阪に帰ってきた」
と感じた。
おそらく、いちばん初めのころには、
まだ浄水器が
ついていなかったのだろう。
そのときの経験が、
「大阪」=「大阪の水」という記憶を
育んだのだと思う。
大阪の街で、
古めかしい喫茶などへ入ったとき。
たまーにこの「大阪の水」と
出会えることがあった。
「ああ、大阪に帰ってきた」
その「大阪の水」を飲むと、
夏の、お盆の、
ばあちゃんちの記憶がよみがえる。
じいちゃんがいたころの風景も、
ふわりとよみがえってくる。
じいちゃんが使っていた
歯みがき粉は、
チューブに入った
「練り歯みがき」ではなく、
缶に入った「粉歯みがき」だった。
「なるほど。
だから歯みがき『粉(こ)』って
いうのだな」
少年はそこで、
呼称のルーツを知る。
じいちゃんの歯みがき粉、
『ライオン・ザクト歯みがき粉』を見て
そう思ったこと。
じいちゃんにあこがれて、
大きくなってから、
真似してそれを使いつづけていたこと。
(歯がけずれるから、
大きくなるまではあまり
使わないほうがいいと
じいちゃんが教えてくれた)
いつも清潔で、
きちっとしていたじいちゃんは、
いまでもぼくの手本であり、
永遠のあこがれでもある。
絵図の左側に見える扉は、
深い飴色の茶色い木戸で、
事務所へとつながっている。
台所の奥に見える部屋は、
ばあちゃんの居室である。
<とても急な階段> |
赤いカーペットは、
床から階段上までつづいている。
絵よりも急で、
段数ももっと多い。
手すりは
メロン色(たぶん物干し竿)で、
金具は真鍮(しんちゅう)製。
じいちゃんの手製で、
さすがコンマ何ミリの仕事を
していた人だけあって、
とても精度の高い仕上がりだった。
ぼよんぼよんとした
手すりのしなりが楽しくて、
小さなころよくぶら下がって遊んだ。
それでもびくともしない。
が、ここでもまた、
ばあちゃんに叱られるのありました。
最上部、
正面に見える扉はベランダへ、
右側引戸は2階居室へとつながる。
ベランダ扉の左手には木戸があり、
開けるとそこは収納だった。
<階段上から1階を見下ろす> |
赤いカーペットは、
1階床から階段、
2階床までつながっている。
階下に見えるのは台所。
階段頭上には、
木製の棚が据え付けられていた。
そこには、
お中元またはお歳暮の石鹸が
たくさん置いてあった。
階段右手の棚にもあった。
その数は、
生涯、石鹸には困らないくらい
あるように感じた。
右手の棚には、
タオルや洗剤などの生活用品、
掃除機などが収納されていた。
白い壁と、
深い茶色の木肌の色と、
赤いカーペット、
そして真鍮の金。
そんな調和が好きだった。
階段照明のスイッチも好きだった。
にぶい光を放つ銀色の金属に、
黒いスライド式スイッチ。
ぱちん、といういい音と
気持ちのいい感触のあと、
遅れて「ブ〜ン」という音がつづき、
のんびり、チカチカっチカっと
光を灯す。
蛍光灯は好きじゃなかったけど、
ばあちゃんちの
階段の灯りは好きだった。
でもね、
あんまりパチパチやると、
またばあちゃんに怒られるんだよ。
灯りは、階段の上というより、
2階の天井部分にあったので、
夜の階段は、
光をたたえたトンネルみたいで
かっこよかった。
昼間でもうす暗く、
最上階の光を受けた逆光の階段は、
天国へとつづく階段みたいで
かっこよかった。
<ばあちゃんち2階> |
左手の窓は、
ベランダに出ることができる。
(ばあちゃんに見つかると叱られる)
なみなみのガラス(波板ガラス)で、
道向かいに高いビルが建つまでは、
夜、遠くに見えるネオンが、
ゆらゆら、ちらちらと明滅して
すごくきれいだった。
「東亞合成 アロンアルファ」の
ネオンサイン。
ぽたり、ぽたり、と、
しずくを垂らすクマの絵の図柄を、
よく覚えている。
おなじく、
なみなみガラスの古い棚は、
ばあちゃん亡きあと、
引き取ってきて、
いまなお本棚として使っている。
絵図、右側の部屋から
正面奥(絵図上)へ進むと、
洗面所があり、
その右手に便所がある。
<2階便所> |
扉は深い色の木戸。
床は、形と色がちがう
3、4種類の楕円形のタイルが
模様を描く。
和式スタイルの便座の頭上には、
水洗のための「ひも」が
ぶらさがっている。
便所には、
トイレットペーパーではなく、
「ちり紙」が置かれていた。
箱は『聖護院八ツ橋』の、
朱色の缶。
ばあちゃんちの2階の窓は木製で、
鍵は全部「きゅるきゅる式」だった。
(正式名称:「真鍮ネジ締め式」)
<2階奥の部屋> |
絵図の左手が洗面所。
正面奥の窓からは、
工場の屋根が見下ろせる。
右手の小部屋は、
かつての父の部屋であり、
そののち、
ばあちゃんの衣装部屋的な
存在になっていた。
すりガラスの窓には、
緑色のマジックで、
車や人物の絵が描かれていた。
絵の感じからして、
幼少期のものではなく、
少年期以降の「らくがき」と思われる。
家族で帰省したとき、
中学・高校生になったころには、
ここで本を読んだり、
一人だけこの部屋で寝た。
この部屋の手ぜまさが、
「ひみつきち」みたいで心地よかった。
<ばあちゃんち1階事務所> |
小さなころ、
姉とよく遊んだ事務所。
姉と遊んでいるとき、
ばあちゃんに叱られることはないが、
一人で遊んでいると
たいてい叱られる。
勝手に戸棚を開けて、
「チェックライター(※)」と呼ばれる
事務機器などで遊ぶからだ。
(※手形・小切手・株券・領収書などへ数字や記号を印字する事務用品。手動式の、ダイヤル兼レバーを回し、数字や記号を選択する。ホッチキスのように閉じると印字される)
(ちなみにじいちゃんは、
ぼくがそれで遊んでいたとき、
にこにこと微笑みながら、
その様子を
そばで見守ってくれていた。
じいちゃんは、
ぼくが何か「変なこと」をすると、
「おもろいこと思いつくな、ほんまに」
と、いつも喜んでくれた)
お盆休み中の事務所では、
家族5人が
会議机で朝ごはんを食べたりした。
(夜ごはんは基本、外食だった)
業務用クーラーはさすがに強力で、
みそ汁などは
あっという間に「冷や汁」になった。
昭和30年代の古い内装で、
昔からの家具がならぶ中に、
無機質で簡素で、灰色の、
事務用棚や事務机が配された風景は、
なんだかとても異国的に感じた。
靴を履いているせいか、
食事中、自分が外国人に
なったような気持ちになった。
クリスタルの灰皿や、
卓上ライターのあるテーブルと、
白いレース編みの
カバーがかかったソファ席は、
昔ながらの
喫茶のようでもあった。
家でもお店でもない、
事務所という場所は、
現代的というより、
「モダン」という言葉が似合う
不思議な空間だった。
絵図、右手の扉は、表の道路に出る。
事務所の「玄関口」だ。
<ばあちゃん居室> |
この部屋に仏壇があり、
帰省するとまず1番にここへ来る。
ばあちゃんは、
1日のほとんどをここで過ごす。
そのため、
とても機能的にまとまっている。
まるで
宇宙ステーション内の
居住空間のように。
小さな
「一人炊き炊飯ジャー」があったり、
乾物や缶詰、保存食品があったり。
ぼくらがいないときには、
質素な感じの食事を、
ささっと食べている様子だった。
外食へ行くと、ばあちゃんは、
ステーキなどの分厚いお肉を
好んで食べた。
一人でばあちゃんちへ
遊びに行ったときは、
昼食などでよく
ステーキを食べに行った。
近所にホテルが
いくつかあったので、
希少な部位の
おそろしく高級なステーキを
おしみなく食べさせてもらった。
あとは近所のお寿司屋さんへ
行ったりした。
晩年のばあちゃんは、
歩くとき、
ぼくの腕を「杖」にした。
その手の力強さに驚かされた。
その力は、
お肉をしっかり食べていたからだと、
ぼくは思っている。
90歳で、
ランニングシューズの
ソールのように分厚く、
鉄板からはみ出そうなほど大きな
Tボーンステーキを
きれいに完食するのだから。
ぼくは最近、
お肉をあまり食べない母が
やせ細ってきているような気がして、
ハムでもソーセージでもいいから、
お肉を食べたほうがいいよ、と、
なんとなくそう言いつづけている。
あのとき腕に感じた
ばあちゃんの握力が、
そう言わせるのだ。
ばあちゃんの居室、
絵図の上部にある窓は、
工場の中とつながっている。
窓の手前には
ダイヤル式の黒電話が置いてあり、
電話を取ったばあちゃんが、
受話器の口を押さえながら、
工場の中に向かって大きな声で呼ぶ。
すると、従業員のおじさんが来て、
そのまま受話器を受け取り、
しゃべっている姿を見た。
絵図の下側の窓は、
事務所内とつながっており、
ここからばあちゃんを呼んだり、
ばあちゃんが誰かを呼んだりした。
後年は、
こちら側の棚の上に、
ファックスが置かれていた。
「ほないまから
ファックス送らせてもらいます」
90歳を過ぎた
明治生まれのばあちゃんが、
ファックスを送信する姿を見たとき。
何やら得体の知れない、
大きな感動のような気持ちで
いっぱいになった。
ファックスとばあちゃんなんて、
アメリカ人と
ちょんまげくらいに縁遠い。
とにかくぼくには、
神々しいほど衝撃的な
光景だった。
絵図の左手扉は、
1階のトイレとつながっている。
壁に「ふすま」を
超番(ちょうばん)で留め、
「ドア」として設えたもので、
取手の代わりに、赤い、
丸い「球(たま)」が付いていた。
工具や工作器具のレバーなどでよく見る、
赤や黒い球状の「にぎり」部分。
じいちゃんの工場では、
オイルレベルゲージという製品の他に、
この「にぎり」も製造していた。
赤や黒のベークライトに
穴を穿(うが)ち、
鬼目ナットを打ちこんで
作られる「にぎり」。
じいちゃんが生きているころには、
サイズのちがう
たくさんのにぎりが
どんどん作られていくのを
飽きずに眺めた。
箱の中に、
ころころと転がる赤や黒の球は、
飴玉のようでもあり、
ビリヤードの球のようでもあり。
工場内の灯りを反射する球は、
本当にうつくしく、
とても尊いものに映った。
そうやって見えたのも、
それを作っているときの
じいちゃんの顔や姿の
せいかもしれない。
いつもお盆休みに遊びに行くので、
じいちゃんのそんな姿は
ほんの数回しか
目の当たりにしたことはないのだが。
いつもはおだやかな
微笑みをたたえるじいちゃんの、
真摯で真剣な眼差しは、
ゆるぎない、
はるか崇高なものに感じた。
ちなみにじいちゃんは、
戦争で左目を失っており、
ガラスの義眼が入っていた。
けれども、
じいちゃんの仕事ぶりにも、
ふだんの日常生活でも、
そんなことは
露ほども感じさせなかった。
そんな事実を
忘れさせてしまうほど、
にこやかにおおらかに、
つよく正しくうつくしく、
まっすぐに生きておられた。
ばあちゃんは、
そんなじいちゃんのことを
心の底から敬愛していた。
亡くなってからも、
その気持ちはまったく変わらず、
いつまでも敬愛しつづけた。
それはぼくもおなじである。
歳を重ねるほどに、
うすまるどころかよりいっそう、
畏敬の念が強くなるいっぽうだ。
<1階便所> |
1階のトイレは、
ばあちゃん居室からだけでなく、
事務所からも直接、
行けるようになっていた。
絵図の左手は、外だった。
首を伸ばせば、
外の景色がほんのりうかがえる。
幼少期のぼくには、
そんな不思議な構造がおもしろく、
ちょくちょく1階の便所を利用した。
お詫びと訂正。
ここまで書いて、急に思った。
トイレの床、
楕円形のタイルは、1階だった。
2階便所の床は、
2センチ角の四角いタイルで、
白とピンクの市松模様だった。
どうかみなさま、
頭の中で修正・上書きして
ご覧くださいまし。
手洗場には、
手拭き用タオルが
据え付けられていた。
輪っか状に垂れ下がった
タオルで手を拭き、
使い終わったら、
はじのほうを持って
下方向へと引っぱっていく。
すると、
使い終わった部分が飲みこまれ、
きれいなタオルが顔を出す、
というものだ。
「キャビネットタオル」
と、呼ぶらしい。
レンタル製品であり、
定期的にタオル部分を
交換してくれるものなのだが。
幼少期のぼくは、
ベルトコンベアみたいな
形状のタオルが、
くるくると回っているだけだと
思っていた。
だから、
本当にきれいになったのか、
どうしてきれいになるのか、
ただ単にしわを伸ばして
いるだけなんじゃないかと、
首をひねった。
そこで、
タオルにちょっとした
「しるし」をつけて、
タオルを引っぱってみて、
たしかめようとした。
しるしは、
なかなか見えてこない。
引っぱれども引っぱれども、
いっこうにしるしは、見えてこない。
けんめいに引っぱるうち、
タオルのループ状の部分、
輪っかのところがだるだるになり、
だらしないほどたるんできた。
まずい。
ばあちゃんにまたしかられる。
あせるほどにどんどん状況は悪化して、
飲みこまれることなく
どんどん伸びていったタオルが、
ついには便所の床まで
到達してしまった。
「・・・・!」
そして。
「なんやの、これ!
あんたはもう、
いらんことばっかりしな!」
トイレに来たばあちゃんに、
当然もれなくばっちりと、
しっかり叱られたのでありました。
キャビネットタオルの内部には、
2本の軸(芯)があり、
使い終わったタオルを引くと、
下の芯に巻き取られて
上から新しいタオルが
リリースされる、と。
どうやらそんな
仕組みのようです。
よい子のおともだちは、
キャビネットタオルを見ても、
ぼくみたいにひっぱっちゃ
だめだよ。
そんなことすると、
おばあちゃんに
しかられちゃうから、ね。
そんなわけで。
こんどこそ、
ほんまのほんま、
うそやのうて、
ほんまの終わりやで。
しまいまで読んでもろて、
おおきにありがとう。
ものごっつぅうれしいわ。
そしたら、
ここらでエンジングや。
ほな、さいなら!
< 今日の言葉 >
「思いこみや前知識は、
見識をせまく限定する。
だから自分は、
初めて行く場所、
初めて会う人などの情報を、
検索したり、
調べたりはしないんです」
(『家原利明の知恵袋』より)