2022/07/23

つづけることを、やめること








22歳のころ。


一生乗れる車はないかと、

そう思って選んだ車。


それが、

フォルクスワーゲンのビートル、

空冷式の古い型、「タイプ1」だ。


ビートルは、

製造が終わった今でも

世界の各社が、

旧式の車体のための部品を

製造しつづけている。


レコードや乗馬のように。

継承される「文化」になった

車種のひとつだ。



自分が子どものころ、

東京に住む親戚のお兄ちゃんが

乗っていた記憶。


「おおきくなったら、

 ぼくもこれにのりたいな」


そんなのは夢のような願望で、

現実とはほど遠い「憧れ」だと

どこかで思っていたが。


免許を取り、

1台目の車(軽の商業用ワゴン車)との生活を

充分すぎるほど謳歌(おうか)して。


その車が壊れて

(このときもさみしかったなぁ)

廃車になった1996年。

1台のビートルとたまたま出会い、

古い夢が、現実になった。


1965年式の、

メタリックブルーのビートル。

その色は、

当時日本に輸入されていた

純正の色を再現したものだ。


初めてのビートルは、

クラッチのつなぎがむずかしく、

これまでミッション式の車に乗っていた自分にも、

1速や2速に入れるとき

クラッチの位置が合わず、

ゴゴゴ!と激しく「ノッキング」することが

しばらくつづいた。


そんなとき、助手席の同乗者は、

この世の終わりが来たかのように

驚きの短い悲鳴をあげたあと、

「ああ、またこれね」

といった感じで、静かに緊張を解く。


数カ月後、

慣れたと思ったころにも、

坂道などではゴゴゴ!の振動に見舞われた。


ハンドルの重さはもちろん、

ワーパーの頼りなさ、

前照灯(ヘッドライト)の暗さ、

エアコンなし、

手動式の、くるくる手回し窓。

(後の2項目は最初に乗った軽ワゴン車も同じ)


エンジンは後ろ、

ガソリンはボンネット(前)を開けての給油。


わからないことだらけで、

戸惑いと失敗の連続だった。


故障や不具合の場面も

数え切れないほどあった。


大きな国道の路上で、

いきなりクラッチワイヤーが切れて、

惰性で脇道に避難したこと。


いきなりエンジンがかからなくなって、

車中で何時間も過ごしたこと。


突然、クラクションが止(や)まなくなり、

大音量で鳴り響く音に困り果て、

広々とした田園のど真ん中に「避難」したこと。


旧車に乗っておられる方には

よくある、ごく当たり前の「ハプニング」。


そんなのを、

市内はもちろん、

他県のまるで知らない土地などで

何度も何度も経験した。


20代当時、

会社勤めをしていて、

お金にも心にも余裕がったあったせいか。

それとも、単なる馬鹿なのか。


路上で身動きとれなくなることに対して、

まったく不安も怖れもなかった。


無知がゆえのつよさ。


おかげでずいぶん

「鍛えられた」気がする。



◆◆






本当に、例を挙げたら

きりがないくらい。


些細な故障から

なかなか大変なトラブルまで。

春夏秋冬、早朝深夜。

西や東でたくさんの「思い出」をつくった。


そんな日々のいくつかは、

こちらの記述>に譲るとして。



たしか2002年のことだったと思うが。

深夜の路上にて後方から追突され、

1代目のビートルが廃車になった。

(その模様は<こちら>で)


そうして出会った、

2代目のビートル。


1971年式、黒い車体で、

扉のある横部分だけ白の、

ツートンカラーのビートル。

座席などの内装は赤。


71年式でも、

いわゆる「アインロンテール(※注1)」ではなく、

内装を含め「6ボルト(※注2)」の形に

改造してあるものだった。


(※注1)

1968年式以降、

後部ブレーキランプがやや大きめで、

上部がとがってアイロンのような

形をしているものをそう呼ぶ。


(※注2)

1966年までの低年式(古い型)のビートルは、

バッテリーが12ボルトではなく、6ボルトだった。

6ボルト式では、雨の夜など、

ライトとワイパーの同時稼働で

バッテリーが上がったりした。

そんな「低年式時代」のビートル、

またはその型式のビートルのことを、

「6ボルト」と呼ぶ。



2代目のビートル。


レンタカーを走らせ、

他県で見つけて、

電車に乗って取りに行った。

なかなかの小旅行。

帰りはそこから乗って帰った。


あのときの、

少しの緊張感と、高揚感。


初代とちがって「ツインキャブ」だったので、

踏み込んだときの音が力づよく、

トラックのようなエンジン音に感じた。


廃車になった1代目から、

ホーンリングのついた白いハンドルと

銀色のルームミラーを引き継いで。


気になっていた「ちがい」が

「良さ」に変わりはじめたころ、

アクセルも、ギアも、ハンドリングも、

次第に「自分のもの」になっていった。



◆◆◆






知らない土地へたくさん出かけて、

きれいな景色を見た。


寒い夜、毛布にくるまって車中泊をした。


夏の暑い夜は窓を開けて寝て、

知らない土地で、夜中、

蚊の音や知らない野良猫たちのけんかに

起こされたりした。


富士山や兼六園、

江ノ島や天橋立。

名勝、旧跡、観光地をはじめ、

たくさんの商店街、

たくさんの山道、

名もなき街道をともに走った。


ビートルの窓から見える景色。

それは、特別だった。


窓は景色のフレームだ。


朝焼け、星空、

港や岬、雑踏やビル街、

樹々や川や紅葉や桜。

土砂降りや雷、真っ白な雪も。


数え切れないほどの景色を

写し込んできたビートルの窓。


自分が見たのと同じだけ、

その透明なガラスに感動を閉じ込めている。


ぼくは、

ビートルのことが

大好きだった。


一生乗るつもりで、

一生乗れるから、

ビートルを選んだ。



会社を辞めて。

仕事もままならず、

収入も進路も不安定だったころ。


故障のたびに泣かされて、

ビートルに乗りつづけるのを

何度か断念しかけたことがある。


「今度、故障したときには・・・」


「もう直らないかもしれない」


けれどもビートルは、

その都度、回復してくれた。


もちろんそこには、

お世話になっている車屋さんの熱意もあった。


2代目のビートルを買って間もないころ、

路上で動かなくなった際に救出してもらい、

そこからの縁で、

以後ずっとお世話になっている整備工場さんだ。


自分の加入している自動車保険に、

レッカーサービスがあることを知らずにいた自分は、

平日休日、昼とも夜とも問わず、

公衆電話から連絡して、

いつも助けてもらってきた。


いろんな土地で、

JAFや車屋さんに助けてもらった。


決して「いい思い出」ではないはずだが。

どの風景も、思い出すとなぜだか頬がゆるむ。


運がいいのか何なのか。

命だけは、無事だった。


それどころか、

ケガさえしたことがない。


2代目のいちばん大きな「事故」は、

凍結道路で滑ったことだ。

(その模様は<こちら>で)


そのとき、

同乗者を守ることに必死で、

ビートルのことは、考えなかった。


大破したビートルを見て。

もうだめかな、やめようかな、と、

本当に思った。


けれども。


周囲からの声もあり、

「まだ乗りつづけてもいいんだな」

と心からそう思えて、

つよい気持ちで決心した。


「ぼくはビートルに乗りつづける」


無理かと思われた修理もうまく進み、

修理前よりきれいになって帰ってきた。


帰ってきたビートルに乗り込み、

いつものようにエンジンをかけ、

アクセルを踏み込む。


乾いた、空冷特有の排気音。


聞きなれた音と振動に、

ぼくの心は氷解する。


「ありがとうございました」


車屋さんをあとにすると、

自分の手のひらに接吻して、

その手でハンドルをそっと撫でる。


誰にも内緒の、自分だけの「儀式」。


「おかえり」


修理から戻るといつもしていた、

恥ずかしくて誰にも言えない、

自分だけの「儀式」。


車から降り、自宅の車庫に停めると、

ビートルの「背中」をぽんぽんと2回叩く。


これも、降りるたびにつづけてきた、

自分だけの「儀式」だ。


何の理由もなく、何らジンクスでもなく。

言葉を交わさないビートルとぼくとの、

ちょっとしたコミュニケーション。


無意味で無駄な儀式だけれど。

ぼくはその「挨拶」を欠かしたことは、

一度もなかった。



◆◆◆◆






ビートルに乗りつづけて、

どれくらい距離を走ったのだろうか。


現代の車に比べて桁(けた)の少ない、

走行距離メーターの数字。

もうこれで何周目なのか。

途中で数を忘れてしまった。



新しい土地での生活。


そこでは、ビートルのことを

歓迎してくれる人ばかりではなかった。


ビートルは、

旧式の車ということもあり、

オートバイのように

「暖機(だんき)運転」が必要だ。


寒い冬などは、

しばらくエンジンを回して

暖めてやらねば発進できない。

そうしないと、

エンジンがしゃっくりを起こしたみたいに

つまずいて、

ゴトゴトと蠕動(ぜんどう)して

まともに走れない。


だから、冬の朝などは特に、

エンジンが暖まるまで

じっと暖機運転をしなくてはいけない。


思うままにアクセルを踏み込んで、

エンジンを安定させたいのだけれど。


朝の8時や9時では、

何となく気が引けて、

やや遠慮がちにエンジンを回しつづける。


現代の、ごく一般的な車に

慣れ親しんでいる人には、

決して静かとは言いがたい排気音。


いくら「遠慮」していても、

それが「遠慮」には聞こえない。


寒い、冬の朝で、約5分ほど。

発進することなく、

その場でじっと回しつづける

エンジンの音。


オートバイや旧車の

排気音を知っている人には

ごく一般的な音でも、

知らない人からすれば、

単なる騒音に過ぎない。



一軒家の集まる住宅街。

市街地のアパート。

閑静な住宅街の駐車場。

古いアパートの一角。


これまでのさまざまな場所では、

たまたま「ゆるされて」きた

だけだったのだろう。


新しい土地では、

それが「ゆるされ」なかった。



最初は気のせいかと思った。


車を停めた車庫の近所の人たち。

顔を合わせたときには、

頭を下げて、おはようございます、

こんにちは、こんばんは、と、

笑顔で挨拶してきたのだけれど。


姿も見えず、声も聞こえないみたいに、

素どおりされてばかりだった。


平日にふらふらしている身分のぼくは、

見た目、決してさわやかな風貌ではない。


そんな反応には、

すっかり慣れた自分ではあったが。

どうやら風体の問題ではなさそうだった。


そう確信したのは、

ある寒い日の朝、車庫の近所の人が、

窓からビートルとぼくとをじっと見ていて、

目が合うと、

その窓を勢いよくぴしゃりと閉めたこと。


ひどく怒っているみたいな感じだった。


少なくとも「歓迎」はされていない。

そう思うに充分な出来事だった。



◆◆◆◆◆






新しい土地での生活が始まったころ。


これまでにないくらい、

ビートルの不具合が連発した。


路上での故障。

いきなりの停車。

駐車場でのエンジン不動。


が、不思議と「行き」に

それは起こらず、

帰り道に起こることが多かった。


これまでも、仕事や急用、

どうにもならない場面での故障は

ほとんどと言っていいほどなく、

まるで状況をわきまえているかのようにすら

感じたものだった。


「おりこうさんだね、ビートルは」


"タイミングを選んで故障する"ビートルに、

そう言って背中(車体)を撫でたものだが。

よくよく考えれば、

故障によかったも何もないはずだ。


それでも自分は、

"いいタイミングでの故障"に、

いつも「不幸中の幸い」で

毎回「救われた」と思っていた。



新天地での故障も同じで、

どこかから戻ってくるときにばかり

頻発した。


まるで何かを拒むかのように。


何かを報せているかのように。


家に帰る道すがら、

ビートルの具合が悪くなった。


「怒られるから、

 家に帰るのが嫌なのかな」


少し真面目に、

そんなふうに思ったりした。



修理費がかさんだことにも疲弊したが。

繰り返しつづいた「路上遭難」に、

不安と苦難を感じるようにもなっていた。


これまで住んでいたのは、

少し歩けば「公衆電話」のある所ばかりだった。

だからそれを「当たり前」だと思っていた。


自分は、携帯電話を持っていない。

持っているのは電話番号帳とテレフォンカード。

必要な番号は頭に記憶している。


これまで、それで何とかなった。

何とかなってきたから、

それでよかった。

それで、充分だった。


路上で動かなくなったビートルを置いて、

とぼとぼと電話を探して歩く。


コンビニ。駅前。学校前。消防署。

公衆電話は、そんな場所にある。

はずなのだが・・・・。


公衆電話がこんなにないものか、と。

痛いほどに思い知らされた。


これまでの知識や経験が、

あてにならなくなってしまった。


「すいません、車が故障して。

 携帯電話がないので、

 電話を貸してもらえませんか?」


ようやくたどり着いたガソリンスタンドで、

不審がられながら電話を借りる。


そしてはるばる迎えに来てもらって、

そこからレッカーを手配して、

車屋さんにお願いする。


そうやって誰かに迷惑かけるのも、

何だか「無理」だと言われているようで。


これまで奇跡的に

乗りつづけられてきたこと自体が

本当に奇跡に思えてきて。


今まで一度も

考えたことのなかった発想。


ぼくは少しずつ、

弱気になっていった。


これまでの「当たり前」が、

「スタンダード(標準)」とも限らない。


そう実感した。



疑心暗鬼かもしれないが。


誰にも怒られていないのに、

誰かに怒られているような、

そんな気がして。


得体の知れない、

罪悪感のようなものに包まれはじめた。



◆◆◆◆◆◆






ビートルに乗りつづけて20余年。

かつてに比べ、部品の生産・供給も

「当たり前」でなくなりつつある。


海を越えてでも、

部品が見つかればまだいいが、

見つからない場面も出てきそうだと、

言う人もいた。


時代も変わって、

インターネットやオークションなど、

頼れる術も増えているが。


時流ばかりは何とも言えず、

身をまかせるより仕方ない。



部品待ちで、長引く修理期間に、

代車に乗る期間のほうが「日常」になった。


夏、エアコンの効く代車の快適さ。


路上で止まる不安のない(少ない)、

安定した車。


何の問題もなく、

思ったとおり、予定どおりに

用事をこなすことができる確実さ。


この「当たり前さ」に。


これまで「当たり前」だった日常が、

じわじわと覆(くつがえ)されていった。


車を走らせ、車窓を眺める。


「ああいう感じの車も、いいもんなぁ」


修理からの帰宅を

待っているはずのぼくの頭に、

ビートル以外の車の影が浮かびはじめた。



そんなある日の朝、

代車を停めた駐車場に行くと、

見知らぬおじさんに声をかけられた。


「なんだ、あのうるさい車、

 売ったんか?」


初対面のおじさんは、

車庫のすぐ横に住む住人らしかった。


「うるさいですか?」


やや申し訳なさを込めて、

聞き返してみる。


「うるさいんじゃなくて、

 くさい車って言ったんだ」


何か患っているらしく、

鼻にチューブを付けたおじさんは、

ボンベの乗ったキャリーを

ごろごろと引きながら、

自宅へと消えた。


その場に取り残されたような

気がしたぼくは、

代車に乗り込み、

しばらく中空を見つめたあと、

エンジンをかけて発進した。


しばらく走って、赤信号で停まる。


何だかわからないけど、

すごくかなしかった。


みんなに嫌われてるみたいで、

すごくかなしかった。



◆◆◆◆◆◆◆






原因というものは、

ひとつではない。


些細なことや重大なこと、

いろいろな出来事や要素がからみあって、

ひとつの結果にたどり着く。


単純さと複雑さ。

論理と直感。

現実と理想。


そう。

タイミング。


思考と行動が結びつき、

目の前の現実がそれと合致したとき。


結論は、具現化される。



一生乗るつもりだったビートル。



2021年、11月のある日。


「もう、いいかな」


なぜだか急に、そう思った。



これまで乗りつづけてきたことに、

理由なんてない。


いつでもやめられたし、

やめるタイミングはいくつもあった。


もう無理かなと、

もうやめようかなと、

何度となくそう思ってはきたものの。

実際にやめるには至らなかった。


長い修理から

戻ってきたビートル。


これまでにないくらい快調で、

ここ数年間でいちばんいい音をしていた。


ツインキャブをやめて、

シングルキャブにしたせいもあるのか。

アクセルとの連動(レスポンス)もよく、

ミリ単位で前進、制動してくれているふうだった。


そんな最高の瞬間に。


もういいかな、と、不意に思った。



20年前は、

足や雑誌などが頼りだった車選びも。

今ではインターネットで、

24時間、全国各地の車が見られる。


京都。福岡。静岡。愛知。

遠かったり、理想とちがったり。


あれこれ見ては腕組みしていて。


「え、本当?」


と、声に出してしまうほど、

ものすごく近所に

思うかたちの車があった。


早速、連絡して見させてもらう。



見るだけのつもりが、

そのまま「選んで」きてしまった。



心の準備があったような、ないような。


曖昧で現実味のなかった心に、

いきなり「別れ」がやってきた。



ビートルとの別れ。



長年ずっと一緒だった、

ビートルとのお別れ。



「そっかぁ・・・そうだよなぁ」


見慣れた坂を登りながら、

こみ上げる思いに鼻をすする。


窓を濡らした雨が、視界をさえぎった。

いきなりの雨に、あわててワイパーを動かす。


乾いた音が、窓に響いた。


晴れ渡った空、

雨つぶなど一滴も落ちてはいない。


視界をさえぎったのは、

雨ではなく、自分の目にあふれた涙だった。


うそみたいに雨だと思い、

何の疑いもなく

ワイパーを動かしてしまったほどに。


涙は、唐突だった。



「お別れなのかぁ・・・」


涙目に、

走馬灯のように流れる風景を映しながら。


白昼の車内で涙を流した。


ありがとうとさようなら。


たのしい思い出をたくさんありがとう。


深くは考えず、

何かに導かれるようにして

ここまで動いてきて、

急に現実としてわが身に

降りかかってきた「お別れ」。


自分の足元に伸びる影。


その存在に初めて目が向いたのは、

小学校2年生のときだった。


この影とずっと一緒に生きてきたんだな、と。

これからもずっと一緒なんだな、と。


その「当たり前」に気づいたときの気持ち。


ビートルは、自分の「影」のように、

ずっといつも一緒だった。


はなれること、手放すこと。


そんなことが現実に起こるなんて、

想像すらしてこなかった。



さようなら



さよなら、なんだな。



白いハンドルをぎゅっと握りなおすと、

胸の奥が、そわそわと苦しくなった。



どうしよう。


やめようかな。



などと思ったりしたが。


心にうそはない。



もう、充分。



思い出は消えない。


しがみつくものでもなければ、

誰かに奪われるようなものでもない。


ビートルとのたのしい時間は、

誰よりも自分がいちばんよく知っている。


自分さえ忘れなければ、

決して消えることはない。



大好きだったビートル。


白くて細いハンドル。

スプリングのはみ出た赤い座席。

三角窓から注ぐ風。

助手席との会話も大声になる、

高速走行でのエンジン音。


形も、色も、音も、匂いも。


語り尽くせないくらい、

ぼくの体に、心に、感覚に、

深く深く浸み込んでいる。


恋人というより、親友のような。


「彼女(she)」というよりかは

「彼(he)」という感じ。


傷だらけでぼろぼろだけど、

最高にかっこいい、

世界一の車。



2021年11月。


青空の下、

ビートルの車窓から見える公園の木立は、

戸惑いながら、

やや遠慮がちに黄色く染まりはじめた、

万華鏡のような景色だった。



◆◆◆◆◆◆◆◆






手放すことを考えて、

「買い手」をいろいろ当たってみた。


未練がましく、

手元に置いておこうかと

思ったりもしたけれど。


ふと、

思い出した言葉があった。


「ぼく、おおきくなったら、

 ビートルにのるのがゆめなんだ」


どこかで聞いたことの

あるような言葉だが。


それは、

3人いるうちの2番目の甥っ子が、

まだ小学校低学年くらいのころに、

言った言葉だ。


彼の「夢」。


パンデミックでフランスへの留学が

頓挫(とんざ)して、

現在の彼の夢は、

行き場を失ってしまっていた。


そんな彼に、

ほこりのかぶった古い夢を持ち出し、

聞いてみた。


ビートルに乗る夢。


あれは、本当なのかと。

その夢はまだ、本当なのかと。



「ええっ! 本当に⁉︎」


開口一番、

彼はうれしさに目を輝かせた。


彼はちょうど

免許を取ったばかりだった。

旧車好きの甥っ子たちは、

時代に沿わず

「MT(マニュアル)」免許を取得している。


さらには、

使い道がなくなっている、

フランス行きの貯金。

それがあるので、諸経費も払える。


親類相手に、しかも甥っ子から、

お金をもらうのもどうかと思ったが。

甥っ子も、ただでは気が引けるということで、

「いくらくらいで考えてる?」

と聞いてみた。


「40万円くらいかなぁ」


甥っ子の年齢は、ちょうど二十歳(はたち)。

もうすぐ21歳になる。


「それじゃあ、20万円で」


高いのか安いのかわからないが、

頭にあった数字を言った。


「ええっ! いいの⁈」


初めと同じような声をあげる。


おまけに、黒いハンドルや諸々の部品、

あと、困った時や整備の時に役立つ、

ヘインズのマニュアルと、

トミー毛塚先生の「VWハンドブック」、

さらには実家貸駐車場の

片隅(かたすみ)を占拠したままの、

初代ビートルもセットで譲った。






故障したままの初代ビートルは、

すでに彼ら(1番上と2番目の甥っ子)の

おもちゃになっていたが。

長年、部品取り用に残してあった。


それらをすべて、彼に委ねた。



「ありがとう」


「こちらこそ、ありがとう」



ぼくは、うれしかった。


この「奇跡」のような結末が。



「さようなら」のはずが、

「行ってらっしゃい」になった。



この先、ずっと彼に、

大事にかわいがってもらえるのだから。

こんなにうれしいことはない。



「まだ実感ないけど。

 小さいころからの夢が、かなったんだなって」



甥っ子は、きらきらした目で、

感慨深く、目の前の現実をかみしめていた。


付き添いで来た、上の甥っ子も、

わがことのようによろこんでいた。



3人で「試乗会」をして。

無事に運転できることがわかったので、

最終的な「審査」も「合格」だった。



もう、これで安心だった。



『三5 ゆ 34-73』


名義変更の時点で、

残念ながらこのナンバーとは

お別れになるが。


ビートルとは、いつでも会える。

これからも大切にしてもらえる。



みんなが笑顔のハッピーエンド。


きっとビートルも、

よろこんでいるにちがいない。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆






「一生乗れるような、車が欲しい」


ビートルを選んだときと

同じ思いで選んだ、

新しい車。


20年前の車だけれど。

ずっと乗れる、

ずっと乗りつづけられる、

そういう車だ。


新しい車とも、

また20年先の景色が見れたら、

すごくうれしい。




ビートル最後の運転は、

新しい車が来たときだった。


ビートルを貸駐車場に移動するため、

少しだけ久しぶりにエンジンをかけた。


音、振動、匂い。


懐かしいようで馴染み深い、

ビートルの感触。

乗り出すと一瞬で体に溶け込む。


新しい車は、

アクセルの位置やら踏み代やら、

まだまだ不慣れなところがあったが。


久しぶりのはずのビートルは、

手足のごとく連動して、

阿吽(あうん)の呼吸で一緒に走れた。


一緒に走っているという感覚。


この感じがたまらなく愛おしかった。



大好きだった、

ビートルとの別れ。


それは、決して悲しいことじゃない。


きっかけの種はいろいろあるが、

決めたのは自分だから。


「もう、いいかな」


自分の心がそう言った。



つづけることを、やめること。



自分はこれまで、

つづけることは得意で、

やめるのが苦手だった。



つづけていけば、必ずきっとよくなると。

そう思って何でもつづけてきた。


意地なのか根性なのか。

固執なのか気質なのか。


それとも、

夢見がちで子どもじみた

ただの馬鹿なのか。


つづけることに、苦はなかった。


ややもすると、

それが「当たり前」だと思えてしまう。


やめることは、簡単だ。

簡単だから、いつでもいい。


そう思って、つづけることを選んできた。



つづけることを、やめること。



やめることは、悪いことではない。


自分の心がそう言うのなら、

つづけることをやめればいい。


やめるのも、つづけるのも、

自分の心次第。


自分の見てきた「現実」。


見てきた景色、感じた記憶、

味わった感覚は、

誰にも奪うことのできない、

うつくしくて清らかな経験なのだから。






< 今日の言葉 >


Leck mich im Arsch!
Lasst uns froh sein!
Murren ist vergebens!
Knurren, Brummen ist vergebens,
ist das wahre Kreuz des Lebens.
Drum lasst uns froh und fröhlich sein!
Leck mich im Arsch!



私のお尻を舐めなさい
陽気に行こう
文句を言っても仕方がない
ぶつぶつ不平を言っても仕方がない
本当に悩みの種だよ
だから
私のお尻を舐めなさい


(モーツァルト作「Leck mich im Arsch:K231」1782年)