2022/05/11

展覧会の絵日記 2022 〜其の2〜



* *


先回につづいて、
今回は2回目。

『其の2』(# 9〜#15)です。

長ったらしい前置きは抜きにして、
さっそく本編へどうぞ。









3月15日

#9『Mr.ルチャリブレ』


15日、2枚目の絵。
(『其の1』#8 参照)

ルチャリブレとは、
メキシコのマスク・プロレスのことをいう。

そして
レスラー(選手)のことは、
ルチャドールを呼ぶ。


(以下、長い回想のはじまり)


話は1年前に
さかのぼる。


昨年の展覧会の準備のとき、
近所の犬の絵を描いた。

「けんちゃん」と呼ばれる雑種犬で、
道路に面した家の小屋に、
鎖でつながれていた。

ずいぶん老犬なんだろう。
やせて、顔ばかりが大きく見える。
その姿は、老齢の雄ライオンを
彷彿(ほうふつ)させた。

ぼさぼさの体毛はところどころ抜け落ち、
くすんで灰色がかった色をしたけんちゃん。
お世辞にも「きれい」とは言いがたいが。
ぼくは、けんちゃんが好きだった。

前を通りかかるたび、

「けんちゃん、おはよう」

とか、必ず声をかけていた。

けんちゃんにしては
迷惑だったかもしれないが。

たるんだ顔の皮に
埋まってしまったかに見える
その細い目(線?)をちらりとこちらに向けるだけで、
それほど興味のないようなそぶりで
じっとしているけんちゃんが、
ぼくには愛おしい存在だった。


それでいてけんちゃんは、
しっかりとした番犬である。

知らない人が通りかかると、
低い声で吠えたてる。

吠えられはしないぼくは、
少なくとも「敵」とは
思われていないようだった。



ある寒い夜。

家々の屋根や道路の上に、
うっすらと白いものが降り積もる。

いきなり来た寒さに、
空も、木々も、
みなが戸惑っているかのようだった。

夜、けんちゃんらしき
犬の鳴き声を聞いた。

めずらしいこともあるものだ。

しかしその声は、
なかなか止むことがなく、
やや悲痛な感じで、
何かを訴えかけるかのように続いていた。

時刻は午前2時すぎ。

しばらく続いたその声に、
気になって、けんちゃんの元へと
走ろうかとも思ったが。

あまりの寒さに
窓を開けることすらためらい、
そのままベッドにもぐりこんだ。


次の日も、寒かった。
昨日にも増して寒いような気がした。


夜。

またしてもけんちゃんの
鳴き声が聞こえた。

悲しげに鳴く声。

さすがに気がかりになったぼくは、
けんちゃんの姿が見えるわけではないのだが、
窓を開けて顔を突き出してみた。

外は白く染まっていた。
吐く息が、どこまでも白く伸びた。

気づくとけんちゃんの声は
止んでいた。

しばらく待ってみたが、
鳴き声はもう、聞こえなかった。


それからしばらく、
展覧会の準備やらで忙しく日々を送って。
家に帰らない日が何日か続いた。

寒さも和らぎ、
少し時間ができたころ。
けんちゃんの家の前を通りがかった。


あれっ、いない。


「けんちゃん」

ためらいがちに呼んでみる。

もちろん返事はない。

それはいつもと同じだが、
いるべきはずの場所に
けんちゃんはいなかった。

いくら探してみても、
けんちゃんの姿は見あたらなかった。


何日かして、玄関先に、
けんちゃんの飼い主の
おばちゃんがいた。


「おはようございます」


「・・・おはようございます」


いつもの低い声だが。
小声であいさつを返すおばちゃんの顔が、
どことなく寂しげに見えた。

よほど聞こうかと思ったが。

こわくてとても聞けなかった。


その後、
何回通っても、
何日か過ぎてからも、
けんちゃんの姿は、見えなかった。



あまりの寒さに、けんちゃんが・・・。

あのとき、躊躇(ちゅうちょ)などせず、
外に出ていれば・・・。


後悔ばかりが頭に浮かんだ。


少し離れた別の場所には、
あずきちゃんという犬がいた。

さらさらの髪をなびかせて、
若くきらきらした目で庭を駆け回る。

広い庭、家屋に寄り添うようにして、
小さな「はなれ」があった。

「小屋」と呼ぶには大きめの、
その小さな建物は、
あずきちゃんの「お家」だった。

エアコン完備で、
たとえ人が過ごしても
四季を通して快適であろう。


ボールを投げると
嬉しそうにくわえて持ってくるあずきちゃん。

犬っ気の多いぼくは、
あずきちゃんのことも
もれなく好きだった。


かたやエアコン付きの
専用ハウスに住まう犬。

かたや狭い檻(おり)の中、
鎖につながれて過ごす犬。

おなじ犬でもこんなにちがうのか。

比較見本のような相対性。
優劣や貴賎(きせん)ではない、
絶対的な「ちがい」。


いなくなってしまった
けんちゃん。

ぼくは、
浮かんでくる涙をじっとこらえ、
愛しのけんちゃんを偲んで
空を見上げた。


そして、
けんちゃんの絵を描いた。


細い、線のような目で、
こちらに顔を向けるけんちゃん。

今日までの時間を思い返しながら。

春の、
あたたかな陽気に包まれた
けんちゃんの姿を、
19センチ角のパネルに
描き刻んでいった。


数日後。


「けんちゃん!」


思わす声を
はり上げてしまった。

けんちゃんは「無事」だった。

無事も何も、
ひとり勝手な思い込みに
沈んでいただけである。


いつもの定位置に戻った
けんちゃん。

あまりの寒さに、
室内に入れてもらっていたらしい。

思ったとおりであると言えば
それまでのことではあるが。
たしかめるまで、
不安は拭い去れずにいた。


けんちゃんもあずきちゃんも、
愛されている。

しあわせの尺度。

人の(犬の)境遇を勝手に決めつける、
勝手な思い込み。


ひとり、教訓めいた心持ちで、
けんちゃんの元気な姿を
その懐かしき匂いとともに
しっかり感じ取ったぼくは、
描きあげたけんちゃんの絵を、
ニスも塗らずにそのまま置いていた。


1年経って。

どこか悲しげだったけんちゃんの絵を、
上から塗りつぶした。

塗りつぶしながら、
どんな絵が出てくるのか楽しみにして、
手と目と感覚が行きたがる方向にまかせた。


そして出てきた覆面レスラー。

まさにけんちゃんの絵を
マスク(覆う)して出てきた
ミスター・ルチャリブレ。


そう。

長いわりには落ちのない、
そんなに昔の話でもない
昔話でありました。











3月15日

#10『とんがり島の風景』


15日、3枚目の絵。

この日は勢いにまかせて、
描きに描いてみた。



こちらもおなじく、
1年前のパネルに「上描き」した絵。

もとは
人工衛星の絵が描かれていて、
題名は『地球の周りを回るもの』だった。

想像したとおりに描いてはみたものの。
想像の域を超えず、
何だか物足りなさを感じたため、
ニスを塗らない状態で、
そのまま壁にかけていた。


人工衛星が描かれた画面。

消しゴムで色を薄めて、
背景色とおなじ
蛍光ピンク(ネオンピンク:PC1038)で
ごしごし塗りつぶしていく。

そしてそこに、
オレンジ(PC918)や
ポピーレッド(PC922)の線を遊ばせていく。


何が出てくるんだろう。


映像や線や模様や風景が、
秒速で現れては消えていく。

これだ!と思ってつかまえた断片が、
何だこれ?だったり。

よし、と思って進んだ景色が、
なんかちがうなぁ、だったり。

そうして線や色と
「お戯(たはむれ)れに」なるうち、
何だかおもしろいものが浮かんできてはしぼみ、
不意に過ぎ去っていく。


途中、パネルをぐるりと回し、
天地を反転させてみる。

お、いい形が出てきたぞ、と思い、
手を止めてまた眺めてみる。

腕組みすること数分、
または数十分。

さらにパネルを回してみる。
今度は45度、1/4回転。

描いては眺め、
眺めては回す。

そんなことを繰り返す。



すると見えてきた。


島の風景が。

とんがった島の姿が
見えてきた。



こうなるともう、
迷いはない。



頭に浮かんだ像をつかまえに、
ひたすら無心で手を動かす。


ここまでの道のりが、
近い(早い)こともあれば、
遠い(遅い)こともある。

どちらがいいというわけでもない。

時間をかければ
いいというものでもない。


大切なのは、
純度と密度。


遊んだ時間が長ければ長いほど、
その絵の濃さがぐっと増す。

絵の深みというのか。

純度や熱量をたっぷり含んだ絵は、
実質的な時間や顔料以上に、
画面に厚み、奥行きを持たせる気がする。


あくまで「気がするだけ」の
ことかもしれないが。


この「気がする」に耳を傾け、
信頼し、委ねてみるとおもしろい。



もちろん、
このやり方ばかりで描くわけでもない。

習作を描いてから進める場合もあるし、
いきなりまっすぐ完成する絵もある。


色鉛筆は、重ね塗りに限界がある。
適度な緊張感と不自由さ。
絵の具とはちがった魅力がある。

木製のパネルは、紙よりも丈夫だ。
だから、破れる心配はほとんどない。

濁ったり、限界を迎えたり。
消したり削ったり、削れちゃったり。


今回のように
どんどん重ねて描く場合は、
足し算と同時に、
彫刻的な、
引き算もしながら進めていく。


計算ではなく、
あくまで感覚。

計算は、苦手なもんで。


言葉にすると長ったらしくてややこしく、
説明するほど退屈でつまらなくなるけれど。


反射神経、運動神経、
選択、感覚、判断力。


そんなものをぐるぐる活動させて、
進むべき「こたえ」へとひた走る。


ぼくはこの、
「描きながら描く絵」が、
嫌いじゃない。
むしろ好きだ。

わくわくするし、どきどきする。


自分でも、どんな絵になるのか楽しみで、
完成を急いでしまうこともあるが。

そんなあわてんぼうにも、まだまだ、
経験と研鑽(けんさん)の余地がある。




そんなこんなで生まれた
『とんがり島の風景』。


原画は、背景が蛍光ピンクなので、
まぶしくて、あざやかで、
ここで見る絵とはまるで別物だ。


現物ってすごい。

本物っていい。


とんがり島の景色を見ながら、
そんなことを感じてもらえたら、
あたし、まぢうれしいっス。








3月17日

#11『じっとしている』


長い歳月で、
蔦(つた)がからんだ、
車や建物。

そんな絵を描いてみようと思って、
描きはじめた絵。

で、こんな絵になった。


人間も、
ひたすらじっとし続けたら、
苔(こけ)とか蔦とかに
包まれていくかもしれない。

そうすれば、
花も咲き、果実も実り、
やがて動物たちも
集まってくるかもしれない。


絵本の『おおきなかお』みたいな絵になった。


(過去記述:『おおきなかお』参照)

https://aoaocuq.blogspot.com/2021/03/blog-post.html









3月20日

#12『エルヴィス』


高校3年生、
18歳の誕生日。

エルヴィスのポストカードとおなじポーズで、
おなじような写真を撮った。

横向き姿の立像。

エルヴィスのような
立派なもみあげ(sideburn)を持たぬ
高校生の家原は、
現像したモノクローム写真の肖像に、
黒いペンでもみあげを描き足した。


エルヴィスとぼくとの思い出。

一方的で、取るに足らない思い出ではあるが。


家を焼いてもいいし、車を盗んでもいいから、
とにかくぼくの青いスウェードの靴だけは
踏まないでほしい。

その思い出は、
薄く色あせたりはしていないが。
薄いままのもみあげは、
決して濃くなったりもしていない。



ちなみにぼくは、
映画『Loving You』(1957年)の
ころなんかも好きだけど。

68年から69年、70年、
映画界から歌唱界への「復活」を遂げたころの
エルヴィスの唄が、特に好きだ。


68年、NBC(テレビ)の公開放送で唄った
「Lawdy, Miss Clawdy」
「Wearin' That Loved On Look」などは
すごくたのしげで、
聴いていて身体が踊ってしまう。

69年「A Little Less Conversation」は、
曲も映像も、わかりやすく「かっこいい」し、
「Wearin' That Loved On Look」で始まるアルバム、
『From Elvis In Memphis』も味わい深い。


そして70年、
ラスベガスの舞台『オン・ステージ』。

そこで熱唱する
「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」には、
聴くたびに感動を覚える。

ショウの終盤、
「ポーク・サラダ・アニー(Polk Salad Any)」から
「サスピシャス・マインド(Suspicious Mind)」、
「好きにならずにいられない(Can't Help Falling in Love)」までの流れは、
思わず息を飲んで見入ってしまう。


なんだろう、あの熱は。


あんなふうになれたらいいなと。

今日も
ありそうでなさげなもみあげをなでる
家ルヴィスでありました。









3月21日

#13『大人の時間』


絵を描くときには、
お酒は飲まない。

お菓子とジュース。

お菓子は「サウンド(音)」。
味も大事だけど、
噛みごたえの、その音が重要。

噛んだときの音。
噛みしめるリズム。

音楽を聴きながら、
スナックの音を、
骨伝いに、脳でじかに感じて噛みしめる。

骨伝導。

食感は味。

スナックは音色。

ごはんだと、すぐにお腹がいっぱいになるから。
お菓子だと、たくさんサウンドを感じられる。


ちなみにジュースは、
100%のフルーツ・ジュースが
いちばんいい。

搾りたてなら、最高にいい。

フレッシュ・ジュースは、
果物(くだもの)のスープです。


ノー・アルコホール、
ノー・ドラッグ。

オーガニックでは
ないかもしれないけれど。

音色や味覚。
「色味」を感じることが大切。

ナチュラルで
ファンタジックで
スリリングなアドベンチャーを目指して、
オラ、絵ぇ描いてんだ。


煙草をやめた今では、
空気ばかりを吸ったり吐いたり。

だからときに、
お酒も飲みます。


そんなとき、
絵が描きたくなることもあって。

その絵は作品というより、
お絵描きに近い。

そんなお絵描き、
落描きの時間はまた格別でやんす。


言ってることが
矛盾してるようですが。

「お酒を絵具の一部にしたくない」

簡単に言うと、
そういうことなのです。



「大人の時間」


夜、「電氣ブラン(お酒)」を飲みながら、
鉛筆でデッサンした絵を元に、
翌日、色鉛筆で描いてみた絵です。










3月26日


#14『ステラ』



カステラを食べながら描いた絵。
だから、名前は「ステラ」にした。

お菓子とジュース、
などと言いいながら。

このときは、
カステラと牛乳。

卵たっぷりのカステラには、
やっぱり牛乳がよく似合う。










3月28日

#16『おかしな家』



おかしな家でもあり、
お菓子の家のようでもあり。

家をつくるつもりで描いた絵。

二次元だと、
重力などのつじつまを無視して、
自由に建設できるから楽しい。


こんな家があったら、
アリみたいにあちこちよじ登って、
なめたりかじったりして
自由にこわしてみたい。


つくってこわして
またつくる。


出口はまだ、
ずっと先のようです。




* *



さて。

今回も長話にお付き合いいただき、
ありがとうございます。


尺としては、
先回の『其の1』とほぼ同じ。

次回の『其の3』は
どうなることやら。

乞うご期待です。



< 今日の言葉 >


「俺は死んだら、間違いなく天国に行ける。
 ”なぜお前が ” だって?
 よく祈ったか?・・・いいや。
 分かち合ったか?・・・そうでもない。
 謙虚だったか?・・・全然だ。
 じゃあなぜ天国へ行けるって自信がある?
 教えてやる。
 真実しか言わないからさ」

(映画『ワンダーラスト』/冒頭の語りより)


※原題:『Filth and Wisdom』(悪徳と知恵)