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『△△が楽しくなる100の方法』
『正しい△△のしかた』
『これさえ読めば・△△入門』
世の中には、
いろいろなHow To本がある。
そこには、やり方や、
「こたえ」らしきものが書いてある。
自分はこれまで、
そういう類いの本を読むことがほとんどなかった。
これからもたぶん、読む機会は少ないだろう。
* *
夏休み。
子ども向けの図工教室を
させていただいた。
午前中は「絵を描く」こと。
めずらしい物、
あまりじっくり見たことない物などを
実際手に取って、よく見て描こうという内容だ。
午後は「工作」。
自分がなりたいもの、
好きなものの絵を描き、
それを「衣服」として形にする、という内容。
みんな、すごい熱量で、
ものすごく真剣に向き合ってくれた。
そして何より、
たのしんでくれていたようだ。
またしても今回、
参加者である「子ども」たちから、
ぴかぴかして尊いものを
いっぱいもらった。
見ていて何度も鳥肌が立ったし、
湯気が出そうなくらい、
がしがしと絵を描く真剣な眼差しに、
比喩(ひゆ)ではなく
何度か涙が出そうになった。
なんと純粋な熱量だろうか。
すっかり汚れ荒んだ40越えのあたしは、
子どもたちのキラキラピュアエネルギービームを浴びて、
ばかみたいに打ちのめされたのでありました。
義務でも宿題でも仕事でもない。
言ってみれば、単なる「無駄」な時間。
何の疑問も不満も抱かず、
みんな、たのしんでくれているという事実。
子どもたちの真剣な姿に、
「指揮者」であるぼくは、感謝しきりだった。
真剣にたのしんでくれて、
ありがとう。
そう。
先生なんて、
何も教えることはない。
特にこんな、
図画工作という分野においては。
月並みなことを言うようだが、
子どもたちには教えられてばかりだ。
こちらから
教えることなんて、
何もない。
* * *
夏休みの教室で、
子どもたちを見ていて、
思うことがあった。
やりたいこと。
本人の意思。
言葉にはできないけれど、
確固たる、しっかりとした思い。
午前中、絵画の時間。
一体全体、何を描いているのか。
傍らに座る保護者の方が、
心配に眉根を寄せていたかと思うと、
「ああ、なるほど」
と、大きくうなずき、感心する。
そこから描いたんだ、だったり、
そこに注目、強調したのね、だったり。
つややかな「茄子(なす)」の表面の、
小さな傷だったり、
映り込んだ景色の色だったり。
迷わず思い切って引く線には、
後先のことや完成度より、
瞬間瞬間の純度が宿っていた。
午後の工作の時間。
紙に描かれた「イチゴ」の絵。
最初、
「イチゴそのものになりたいの?」
と、聞いたとき、
その女の子は首を横にふっていた。
「イチゴもよう」の服をつくりたいのかな、
と思って見守っていると。
しばらくして出来上がってきたのは、
「イチゴそのもの」の服だった。
途中で変わったのかもしれないし、
最初からそうだったのかもしれない。
とにかく女の子は、思いを形にした。
最後までそれをやり切った。
別日にもおなじく、
自転車模様かと思ったら、
自転車そのものを紙でつくった女の子がいた。
自分の体よりも大きな、
水色の、自転車だった。
「おとな」でも投げ出したくなるような、
膨大な工程と、途方もない「壮大な」計画。
それを最後まで「折れる」ことなく、
一生懸命やり抜いた集中力、根気。
ちいさな姿をしたその巨大な熱意には、
感動感服、頭が下がる思いだった。
紙に描かれたロボットの絵。
一体これをどうやって形にするのか。
不安げに、息子のようすを見ているお父さま。
ほかの子たちが着々と形にする中、
「わが子」はなかなか、
遅々として進んでいないように見える。
「大丈夫ですよ。
ぼくらには見えないだけで、
彼の頭の中には、
立派な完成像がきちんと浮かんでるはずですから。
信じて待ってみましょう」
そう言って見守っているうち、
絵に描かれたものと同じような格好の、
ロボットの姿が現実に現れてきた。
「すごいですね!」
「やるもんですね、びっくりです」
お父さまが、うれしそうに、
目尻を下げる。
また別の女の子は、
「かき氷」の絵を描いていた。
「かき氷になりたいの?」
と聞くと、首を横にふった。
「かき氷のもようの服?」
それでも首を縦にはふらない。
「ただかき氷がつくりたいらしいです。
いいですか、そんなのでも・・・」
心配げに代弁するお母さま。
「つくりたものがあるなら、
それを思いっきりつくってください」
その言葉に、お母さまは、
ほっとして表情をゆるめる。
そう。
つくりたいものがあるなら、
それをつくればいい。
それを思いっきりつくってほしい。
その子の「こたえ」がそれなのだから。
それを思いっきりやってほしい。
メロン味の、
大きな大きなかき氷。
それをつくりたい。
それが、女の子のこたえなのだから。
服だろうと服じゃなかろうと、
そんなことは別に、関係ない。
みんなが服をつくる中、
そんな子が1人くらいいたって、
別に構わない。
それがその子の出した
「こたえ」なのだから。
* * * *
幼稚園や小学校、
ときにはどこかの体験学習で。
幼きころの家原も、
いろいろなことをさせてもらった。
いまで言うところの「ワークショップ」。
糸ノコで合板を切って、
玄関の表札をつくる体験。
ろくろを回して、
湯飲みや茶碗をつくる教室。
初めてのこと、
わくわくすること、
どきどきすること。
失敗したらどうしよう。
そんな不安や心配を抱えつつ、
試行錯誤しながら、
そのときの精一杯の「こたえ」を探っていく。
想像。見当。迷い。選択。決定。
失敗。調整。学習。上達。吸収。
初めての「体験」には、
そんな醍醐味(だいごみ)がある。
そこに「核心」があると言っても
いいくらいだ。
世の中にはいろいろな人がいる。
いろいろな種類の「生徒」がいるし、
いろいろな種類の「先生」がいる。
自分は「教えられたくない」生徒だった。
自分で考え、悩み、
あれこれこねくりまわして、
「こたえ」を導き出したかった。
初めての「醍醐味」を、
自分で味わいたかった。
初めての「醍醐味」を、
奪ってほしくはなかった。
時間や制約に、
縛られたくなかった。
そんな、はみ出し者の、
わがまま小僧。
「教室」で何かをつくっているとき。
真剣に打ち込んでいると、
なぜかいつも「叱られた」。
「ああ、ちがうちがう!
ちがうでしょ、ほら、貸してごらん。
ここはね、こうやって、ね・・・」
ぼくは、そんなふうにしてほしくなかった。
わがままぼくちゃんなぼくは、
教えてほしくもなかったし、
叱ってほしくもなかった。
だから、
「先生」という立場で何かを「教える」とき、
自分は「こたえ」を教えたくない。
聞かれた質問には答えるけれど、
聞かれてもいないことや、
ましてや「こたえ」につながるようなことは、
なるべくなら言いたくない。
図工や美術、音楽など。
「こたえ」はあっても
「正解」のない分野ではなおのこと。
「ここは、こうすればいいでしょ」
「ちがうちがう、そうじゃなくて。
これはこうするものだから」
「そういうことを言ってるんじゃない。
いまはそういうことをする時間じゃないから」
幼く、語彙(ごい)も貧弱な「子ども時代」。
「おとな」たちに「こたえ」を手渡されるのは、
本当につまらないことだった。
自分で考えたいのに。
自分はこうしたいのに。
そんなんだったら、やる意味ないじゃん。
こんな志向が、ひとにぎりの、
面倒くさい区分の人種だけのものだとしても。
この世の中には、
おなじような志向の人が
きっと1%くらいはいるはずだから。
だから自分は、
「先生」をさせてもらうとき、
その1%の気持ちで、
「教えない先生」になる。
そして聞く。
何を、どうしたいのか。
本人の意思を聞いて、
それを具現化する手伝いをする。
なるべく「だめ」とか言いたくない。
「じゃあ、やってみようか」
自分は、そういう「先生」でいたい。
* * * * *
以前にも書いたと思うけれど。
「良き指導者は、馬に水を与えるのではなく、
馬が水を飲みたくなるように仕向ける」
その言葉を胸に。
みんながやりたくなるような「環境」をつくる。
みんながやりたくなるような「空気」をつくる。
あとは「いいね」とか「どうしたい?」とか、
本人が思い描いている方向へと導いていく。
「おとな」になると、
「それは無理だ」とか「こういうふうにしたほうがいい」とか。
簡単にできる方向へと、舵(かじ)を切ろうとする。
「おとな」になると、
「やりたいこと」をやるんじゃなくて、
「できること」をやろうとする。
まだ見ぬ冒険。
無謀な挑戦。
不可能な計画。
だから、やってみる。
だから、やってみたい。
やってみる価値がある。
やる前からできると
わかっていることなんて、
やる必要が、ない。
そんなふうに考える、
数%の「子ども」たち。
「子ども」なんだから、
思いっきり失敗すればいいのに。
過程こそが未来の栄養なのに。
「おとな」が口を挟んで
「成功」させようとする。
満足感だけの成果なんて、
あとあと大したものも残らない。
「先生」の達成感のために、
「子ども」たちの経験値を
薄めてしまってはいけないと思う。
先生の主張なんていらない。
プラモデルとかジグソーパズルならわかるけど。
予定調和の結果が待っているだけだったら、
そんなものに情熱を注げるはずもない。
結果がわからないからこそ。
わからないから、見てみたい。
わからないから、全力でやる。
だから。
まだ見ぬものに設計図を与えて、
工程をなぞるだけの「作業」に
してほしくはなかった。
ぼくは、
0(ゼロ)から生み出したかった。
自分で考えたかった。
自分で考えたもの、思い描いたものを忠実に、
何とか現実に具現化したかった。
できるかどうかは別として、
とにかく、やってみたかった。
自分で、やらせてほしかった。
だから、
自分が「先生」や「教室」をやるとき、
「こんな先生がいてほしかった」
と思う像を体現している。
あくまで少数の、
ひねくれて頑固な数%。
ほんの数%の、教えない先生。
大多数のパーセンテージ。
教える先生もいてほしいし、
また、いなくてはいけない。
教わりたい子どもも、
たくさんいたほうがいい。
さまざまな先生。
先生を、選べないときもある。
けれど、その言葉は選べる。
その姿勢、その考え方、
その感性は選ぶことができる。
どんな先生の、どんな言葉を選ぶのか。
感じるか、取りこぼすか。
受けるも流すも自由。
押しつけたり、決めつけたり、
口を出したり、手を出したり。
自分は、そんな「先生」にはなりたくない。
教えてくれなくていいから、
ただ、思いっきりやらせてほしかった。
ただそこにいるだけの先生。
見ようによっては、
何もしない、
まったく頼りにならない先生である。
自分が思うに。
その状態が、いちばんいい。
みんなが熱を持って、
自由に、真剣に、夢中になっている状態。
困っている子や、
きょろきょろしている子には、
さりげなく、のりやはさみを
そっと差し出す。
こたえは渡さない。
ヒントのそのまた手前、
次につながる手がかり。
よきサポート役であるよう。
けっして「主役」の前には立たない。
そう。
主役は「子ども」たち。
彼らから、奪ってはいけない。
未熟で拙(つたな)く未完成な、
精一杯の「こたえ」を。
初めてのことへの混乱と、
試行錯誤と解決への過程を。
失敗の悔しさを。
できないことへの悔しさ、
みじめさを。
時間や段取り、
安全面や合理性。
おとなの都合に押し込めて、
可能性をつぶさないでほしい。
無限に広がる可能性を。
感じたもの、思い描いたものを外に出し、
思いっきり完成させた、よろこびを。
きらきらしたものを、
どうか、奪わないでください。
こどもたちはみんな、
可能性と才能の塊。
それをつまらないものに仕立て上げるのは、
おとなたちの「ものさし」だ。
人にはいろいろな種類がある。
そこに少数も多数も規格もない。
数%のひねくれ者の代表、
数%の「子ども」の代表の言葉を
ここに記します。
いろいろなことを教えて、
ばかなぼくたちを、
かしこくさせないでください。
ぼくたちは自分で感じて、
自分で考えて、自分で決めます。
これ以上、聞いてもいないことを、
教えないでください。
これ以上、おもしろいことを、
つまらなくしないでください。
ぼくたちは、
あなたたちが思うよりもずっと
いろいろなことを
わかっているのです。
< 今日の言葉 >
「あなたが本当に自分のしていることを信じているならば、ある量の緊張が生まれる。あなたが素直に疲れはじめ、あるいは、一本足で長い間立っていようと素直に努めるならば、あなたを見つめている人にある種の共感が生まれるはずだ。これは一種の肉体反応であり、見る人はその足を、その緊張を感ずる」(ブールス・ナウマン)