ワークショップ。
直訳すると「働く店」。
ワークショップと聞くと、
まっさきに思い浮かぶのは「男の店」。
作業服や軍手などを扱う「男の店」だ。
そんな私は、プロレタリアート。
男の店、と聞いて、
よからぬ想像をするあなたは思春期です。
平成日本では「体験型講座」のことを、
ワークショップと呼んでいる。
今回、10月末に開催される
グループ展の一環行事として、
ワークショップを行なった。
これまであまり乗り気でなかった分野ではあったが。
「何ごとも経験だわ」
ということで、せっかくの機会、
やらせていただくことにした。
何の特技も技術もないぼくは、
「手で描く」
という内容にした。
紙に、手で描く。
指や手を絵具に浸し、
直接、紙に画を描くというものだ。
グループ展の打合せのとき、
「ワークショップもお願いします」
と言われて、
腕組み、うーん、とうなること2、3秒。
何の取り柄もないぼくは、
「手で描く」のがおもしろそうだな、
と思い立ち、そのままそれに決めたのだった。
当日。
いい天気の日曜日。
もし誰も来なかったら
ひとりでお絵描きかぁ、と思ったりもしたが。
ありがたいことに、
14名のお子さま+2名の大人さまが
参加してくださった。
はじめのごあいさつ。
ぼくは何も教えられないので、
とにかくやってみてほしい、ということを伝えた。
紙は、白、茶、黒、黄、水色のなかから、
好きな色を選んでもらった。
会場内を回って、
赤、青、黄、白の絵具をみなに配っていく。
発泡トレイに、絵具をぶりっと出し、
つる首ボトルで適量の水を注ぐ。
「そしたら、指でしっかり混ぜてね」
みんな、しっかりだったり、
あいまいだったり、
好きずきに絵具と水を攪拌(かくはん)していく。
「それじゃあ、紙に、描いてみてください」
言うが早いか、
あちこちの手が動き出し、
紙にぺたぺた、べたべた、
絵具を塗りたくりはじめた。
お兄ちゃんのようすを見て、
自分なりに真似をしながら描いていく弟。
ひかえめに、おずおず試すように
指先で絵具を置いていく女の子。
何の迷いも躊躇(ちゅうちょ)もなく、
まっすぐな目で、
手のひらにすくった絵具を
勢いよくこすりつける男の子。
形があったり、なかったり。
原色だったり、あれこれ混ざった褐色だったり。
しばらくすると、
誰ともなく、色と色とを混ぜ合わせ、
好きなように混色しはじめた。
色と色を混ぜてできた不思議な色をぼくに見せて、
「これなにいろ?」
と聞いてくる女の子。
あたらしい色ができるたび、
その子はぼくに見せて、何色なのか聞いてきた。
何も気にせず、
あっちやらこっちやら手を突っ込んでいるうちに、
全部が灰色になった男の子。
けれども、その灰色は、
あたたかかったり、つめたかったり、
明るかったり、深みがあったり、
どれもちがった灰色だった。
つくろうと思ってもつくれない、
クロード・モネ師匠の
『ルーアン大聖堂』の絵を思わせるような灰色を見て、
その子のお母さまが、
「私、こういう色、好きかも」
とおっしゃっていた。
陶器などでも、
こういう色合いのものを好んで選ぶ、と。
見るとその男の子は、
グレーの服を着ていた。
今回、参加されたおとなのみなさんは、
最初、おっかなびっくりのごようすで、
「何かを描こう」という感じだった。
けれども次第に、
わが子や周りの子どもたちに触発されてか、
何かに気づき、
そのうち夢中でたのしみはじめた。
「たのしいです!」
さっきまで「おとな」だった人たちが、
まるで子どものような目で、
いきいきと色を塗りつける姿に、
見ているぼくまでたのしくなった。
★ ☆ ☆
ここで、しばし脱線。
ぼくは、子どものころ、
大人になればもっとたくさんのことが
できるようになると思っていた。
そうとばかり、思っていた。
事実、お酒が飲めたり、選挙に行けたり、
ブーブー(自動車)の運転ができるようになったり。
高いところにらくらく手が届いたり、
かたいジャムのフタをたやすく開けたり
できるようになった。
子どものころ、
できないことがくやしくて。
やらせてもらえないのがくやしくて。
「おとなばっかりずるいではないか。
ようし、いまにみておれ。
わらわもおおきゅうなったら、
みかえしてやるわい」
そんなふうに思って幾年(いくとせ)か。
少しずつ背が伸び、
体も大きくなり、
本を読んだり授業を受けたり、
いろいろな所に出かけて、
いろいろなものを見たりした。
たしかに、できることはふえた気がする。
けれども。
できなくなったことも、
それとおなじくらいに、
ふえたんじゃないか。
ときどきふと、そんなふうに感じる。
明日のことは考えず、
「いつまで遊んでるの、もう、早く寝なさい!」
と言われて、はあい、と
しぶしぶベッドに向かう、子ども。
遠足のお菓子を、
分かってはいても、
前日ちょっとだけ食べてしまう、子ども。
で、気づくとほとんど食べてしまう、子ども。
なんどもなんども、
しつこく同じ遊びをくり返す、子ども。
知らないおともだちと、
いきなり砂場遊びをはじめられる、子ども。
家族旅行で訪れた、夏の湖。
知らない「おともだち」と出会って。
たった1日遊んだだけなのに、
名前も知らぬその「おともだち」に、
最後、泣きながら手をふることができる、子ども。
いつでも本気で、
いつでも元気。
ときどきずるかったり、
うそもつくけど、
自分の心にうそはつかない、子ども。
子どものうそは、すぐばれる。
正直な、うそだから。
怒られたらすねるけど、
最後は、きちんとあやまる。
お菓子をもらうと、ありがとう、と言う。
うれしいから、きちんとお礼を言う。
稚拙(ちせつ)な言葉で、
きれいなことをまっすぐに言える。
子ども。
大人は、どうだろう。
大人になると、
できることがふえると思っていたのに。
できないことも、
おなじだけふえたような、そんな気がする。
できない、というより。
もう、してはいけないことだったり、
そんなことをしていたら
世間さまに笑われる、なんていう種類のことも、
どうやらあるらしい。
小学校低学年のころ、
女子がぼくの頭にスカートをかぶせてきた。
窓辺だったせいで、
赤いタータンチェックのスカートが、
日に透けてきれいだった。
遊びに行った帰り道、
自転車で、国道を走るトラックと競争していて。
全力でこいで、
いい感じにスピードが出てトラックと並んだ。
得意げになって運転手さんの顔を見た、
その次の瞬間。
ものすごい衝撃で、
何かにぶつかった。
自転車のハンドルが胸に当たって、
呼吸ができない。
ふと見ると、
目の前に別の自転車が倒れていて、
男の子がおなかを押さえてうずくまっていた。
「ご・・・ごめんなさい、
だいじょうぶ、ですか?」
何とか声をふり絞り、近寄ると、
ぶつかった相手は、
同級生のフカクサシンジくんだった。
小学1年生のころ。
どうしてもほしくて、
美容院のゲームウォッチ『ファイヤー』を
こっそり持って帰ってきて。
そしらぬ顔でゲームに興じていたら、
母に、
「どうしたの、それ。そんなの持ってなかったでしょ?」
と言われて、うそをつき、
しらを切り通そうと思ったのだけれど、
最後に結局、白状した。
母に叱られ、
今日行ったばかりの美容院にまた戻り、
母といっしょに頭を下げた。
階段の手すりで、
ミニカーを走らせたり。
こうもりみたいに
逆さまで鉄棒にぶら下がって、
むしゃむしゃお菓子を食べたり。
シャボン玉を追いかけて、
自転車にひかれそうになったり。
神社の裏の雑木林で、
決死のジャングル探検をしたり。
鼻の穴にミント・キャンディをつめて、
取れなくなって、
鼻の奥がスースーして痛くてこわくなって、
指で取ろうとするほど奥に転がって、
一生このままなんじゃないかと不安になったり。
人をたのしませようと思って、
おもしろい格好で、変な顔をして歩いたり。
父とふたり、遊びに行ったり、
母とふたり、買い物に行ったり。
大人になると、
やらなくちゃいけないことが、
たくさんある。
やってはいけないことも、
あれこれある。
大人の世界の、
むずかしいしきたりも、
どうやらたくさんあるらしい。
大人って大変!
そう思って、
子どものころとおなじ気持ちでいつづけたら、
ときに、人から怒られる。
子どものころとおなじような気分でいたら、
ときどきがっくり、うなだれる。
正直、そんなつもりはなかったのに。
体ばかりが大きくなって、
頭も心も、ちっとも大きく育っていない。
いっぱいご本も読んで、
たくさん勉強してきたつもりなのに。
ますます分からないことが、ふえてくる。
いつでもなかよく半分こ。
わるいことをしたら、ごめんなさい。
うれしいときは、ありがとう。
いつでも全力一期一会。
学校とか、おとうさん、おかあさんに、
いろいろ教わったはずなのに。
何が何だか、
分からないことだらけで、
手も足も出ない。
そんな大人は、
子どもなのか、大人なのか。
朝、新聞を読んでいて、
小学生の書いた作文に目が留まった。
『雨の日 学校休みにして』
題名を見て、
読む前に「カメハメハ大王かっ!」と、
言わずにはいられなかったが。
読んでいくうち、
すごくきれいな気持ちになった。
その小学生の作文は、
「雨が降ると、いろいろな危険があります。
なので、雨の日は学校が休みの方が良いと思います」
という書き出しではじまり、
雨が降ると、
地面がぬれてすべりやすくなって転んだり、
雨にぬれてかぜをひいてしまうかもしれない、
というふうにつづられてていた。
学校を休みたいだけじゃないの?
なんて、いじわるなことを思ったあなた。
ちがうのです。
かぜをひくと、
学校を休んで授業に行けず、
勉強におくれたその子が、
いやな気持ちになってしまうから、
雨の日は家で勉強をしたらよい、と。
なんだかうつくしく、
すてきな考え方ではありませんか。
わるい気持ちは、そこにはない。
★ ★ ☆
さて、ここらで
『手で描く』のお話に戻りましょう。
子どもたちの、
小さな手のひらがいろんな色に染まって。
いろいろな絵が、できあがっていく。
みんな、わくわくたのしそうで、
目がきらきらしていた。
ぼくは、なんだうれしい気持ちになった。
何もしていないし、何も教えてないのに。
みんなが、気ままにたのしんでくれている。
たのしいと、たのしい。
うれしいと、うれしい。
本当はみんな、単純なことなのにね。
色とりどりに染まった、手。
手だけでなく、
発泡トレイの「パレット」も、
色とりどりに染まっていく。
「えのぐください」
そういってパレットを差し出す子たちに、
「何色がほしい?」
「あおと、きいろ」
「どこに出す?」
「ここ」
まだ汚れていないパレットがあるのに、
赤や黄色が混ざったパレットを指差す男の子。
ぼくは、絵具のチューブをしぼって、
青と、黄色を出す。
別の女の子は、
赤色がほしいと言い、
赤色の入ったパレットではなく、
黄色の入ったパレットを指している。
大人の人が、
「こっちでしょ、赤色は」
といった感じでうながすも、
首を横にふる女の子。
ぼくはその子が言う場所に、
黄色い絵具をひねりだす。
そう。
ぼくもかつて、そうだった。
そうしてほしいのに、
そうしてほしいわけがあるのに、
そうじゃないでしょ、と言われたりして。
説明できるだけの語彙(ごい)がなくて、
「ちがうの! そっちじゃない、こっちがいいの!」
とか、まったく「子どもじみた」表現しかできず、
どたばた地団駄を踏み鳴らした。
それは、いまでもなくなったわけじゃない。
言葉をたくさん覚えたつもりでいても、
それでもかなわない、伝わらない感覚がある。
まあ、さすがに地団駄は踏まなくなったけど。
そんなとき、
ジェントル&エレガントなぼくは、
軽ろやかなジルバのステップで、
笑顔で踊ってみせるのです。
★ ★ ★
今回、手で描いてくれた子どもたち。
1枚ではなく、2枚、3枚と描いてくれた子もいた。
大人になったら、
今回のことも忘れてしまうかもしれない。
けれども、それでいいと思う。
とにかく「いま」をたのしむこと。
たのしんだ感覚がたくさんあれば、
それで、いいと思う。
そんなことを言っていて、
大人になっても「子ども」のままで、
ろうごとかしょうらいなんかより、
にじ色のドラゴンのたおし方とか、
ピンクの雲でできたお城のこととか、
そんなことばかり真剣に考えていたら。
きれいな気持ちで、本気なら、
そしたらきっと、
やさしい「大人」が、
手を差しのべてくれるはずでございます。
まじりっけのない、
純粋な子どもと、純粋な大人。
はたしてどちらが、
いろいろできるのだろう。
ぼくはまだ、
その答えが分からない。
きれいな色。
おもしろい形。
指先の感触。
手のひらのしわ。
赤と黄色がマーブル状に混ざっていく、瞬間の色。
まぜること。
こすること。
とばすこと。
かさねること。
紙のにおい。
絵具のにおい。
渇かすときのドライヤー。
生まれて初めて、やったこと。
生まれて初めて、できたこと。
ぼくは、何も教えられない。
映画を観るとき、
予告編は観たとしても、
見所を教えてほしくはなかった。
旅行に行くとき、
地図は持ったとしても、
ガイドマップはほしくなかった。
だから、ぼくは教えたくない。
みんなの「初めて」のじゃまをしたくない。
などと気どったことを言っても、
教える技術も何も、ないのだけれどね。
ぼくは、何も教えられない。
聞かれたことには答えられるけど、
聞かれてもいないことを伝えることはできない。
言われたとおりに、
そのままそのものをつくることが苦手でもある。
だから「ワークショップ」というものに、
戸惑いがあった。
今回、やってみて初めて分かったこと。
それは、
やっぱりやってみなくちゃ分からない、
ということ。
教えなくても、
子どもはおもしろいことを
何でも見つけだす、ということ。
色は、みんなをたのしくするということ。
おなじ物を使って、
おなじように描いても、
みんなまるでちがった絵になるということ。
だから、たのしい、ということ。
たのしく描いた絵は、
やっぱりたのしい、ということ。
そしてみんなが、
たのしんでくれたということ。
ワークショップが終わって、
一言二言くらいではあったが、
みんなとみなさんと、お話しした。
みんなとみなさんは、
きたときよりもきらきらしていた。
それは、言葉よりも雄弁で、
何よりうれしい「こたえ」だった。
たのしいだけじゃ、不毛なこともあるけれど、
たのしまなくっちゃ、意味がない。
やっぱり、たのしいのがいちばんいい。
純度。
言葉や理屈よりも、
感覚は、正直なものですね。
みなさん、そろそろお気づきでしょうか。
写真の枚数が多かったために、
わたくしめが長々と話を引っぱっていることを。
こうして言葉にたよっているぼくは、
まだまだ未熟な大人なのか。
それとも、無計画な子どもなのか。
はたまた、子どもでも大人でもない、
ただの、困ったちゃんなのか。
ひとりの男の子が、
どうしたものか、
鼻の穴のなかにシールを入れて、
取れなくなった。
1センチにも満たない、
ピンク色の、ハート形のシール。
心配するお母さまをよそに、
ぼくは、どうしてもそれが見たくなり、
男の子の鼻の穴をのぞかせてもらった。
ちいさく、ほの暗い、
男の子の鼻の穴。
左の鼻の穴の奥に、
ピンクのハートがちらり。
息をするたび、
ピンクのハートが、ゆれていた。
そのさまに、
思わず笑ってしまったが、
本人は無表情のまま、
ハートのシールを取りたくて、
指先でほじくり出そうとした。
あわてて制するお母さま。
そんなことをしたら、
ピンクのハートが、
もっと奥に行ってしまう。
お母さまは、
ピンセットで取るからと言い聞かせ、
男の子を引きつれ事務局へ向かっていった。
(さいわいにも、そのお母さまは、
施設のお知り合いの方だった)
男の子の、
ちいさな洞窟のなかの、
ハート形のシール。
よく見る感じの、
ハート形のシールだったが。
男の子の鼻の穴のなかに閃(ひらめ)くそれは、
何か、すてきな宝物のような感じに見えた。
< 今日の言葉 >
「やっぱりおいしいわ、ゴリラのチョコ」
(先日、母が言っていた言葉。聞き返すとそれは、
「ゴリラ」ではなくどうやら「ゴディバ」のことが言いたいらしかった)