奈良公園の芝生の上。
朝日を浴びた新緑が、青々と輝いている。
制服姿の警察官たちが
ラジオ体操をしている、そのわきで。
ひとりの女性が、シカにせんべいをあげていた。
20代半ばくらいだろうか。
彼女はやせて線の細い、黒髪の女性だった。
チェックの長袖シャツの腕をまくり、
色あせたデニムのズボンの裾を折り上げて。
薄紫色のリュックを背負った彼女は、
奈良公園のシカに「シカせんべい」をあげていた。
彼女がせんべいを差し出すと、
どこからともなく、
シカがもう1匹、すうっと寄ってきた。
2匹のシカに、せんべいをあげる彼女。
彼女の顔も、シカのように、
黒目がちで、やさしくおとなしそうな
顔つきだった。
1枚、また1枚とせんべいを差し出す。
シカは、差し出されたせんべいを、
1枚、また1枚と、あっというまに平らげる。
せんべいを催促するシカを目の前に、
彼女は急いで紙袋から新たなせんべいを取り出す。
差し出してもまた、
すぐにせんべいをぺろりと平らげるシカ。
そしてまた、
あわてて袋のなかからせんべいを取り出す。
シカの食べるスピードに、
彼女はついていけないようにも見えた。
2匹のうちの1匹、あとからきたシカは、
ツノのある、オスのシカだった。
オスシカが、じりじりと距離をつめながら、
彼女にせんべいを「おねだり」する。
その目はオスシカを見据えたまま、
彼女の手は、紙袋のなかのせんべいを
つかみ取ろうと懸命だった。
なかば突き出すようにして、
せんべいを差し出す彼女。
ほとんど逃げ腰の彼女に、
オスシカは容赦なくじりじり詰め寄り、
バリバリとせんべいをほおばっている。
彼女が1歩下がり、2歩下がり、
ついにはオスシカに背を向けて、駆け出した。
足をゆるめてふり向く彼女。
けれども、
オスシカとの距離は開いておらず、
鼻先が彼女のすぐそばまで迫っていた。
ぎょっとして、
あわてて逃げ出す彼女。
オスシカは、軽やかな足どりで、
彼女のあとを追いかける。
薄紫色のリュックを上下にゆらしながら。
彼女は新緑の芝の上を、懸命に駆け出した。
まっすぐな黒髪をふりみだして。
朝の奈良公園を、必死に走り抜ける。
オスシカは涼しげな顔つきで、
悠然(ゆうぜん)と、彼女の背を追いかける。
止まってはふり向き、また駆け出す彼女。
彼女に詰め寄り、濡れた鼻先を近づけて。
駆け出す彼女を追い回すオスシカ。
ときには斜めにジグザグと、
ときにはまっすぐ一直線に。
逃げても逃げても。
逃げれば逃げるほどに、
彼女を追い回すオスシカ。
両手を飛行機の翼のように
広げて走る彼女の姿が、
みるみる小さくなっていく。
芝生を囲う柵をこえて、
いったん安心しかけた彼女だったけれど。
柵をひょいと飛び越えるオスシカの姿に、
びくっとしてまた背を向け走り出す。
ゆれる黒髪、踊る薄紫のリュック。
風にひるがえるチェックのシャツが、
ぼくの視界からついには消えた。
はたして、彼女はどうなったのだろう。
道をはさんで見ていたぼくには、
それ以上、追求しようがなかった。
シカのように、やさしい目をした彼女。
そんな彼女が、
せんべいをあげたはずのシカに、
追いかけ回されていた。
そんな彼女の姿に、
ふと、献血で貧血になった人のことを
思い出した。
献血カーに並んでいたとき。
やさしそうな男性が、献血カーのなかから、
担架(たんか)で運び出されていった。
その男性は、さっきまでぼくの前に
並んでいた男性だった。
車のなかに入ったと思ったら。
しばらくして彼は、
どこかに運ばれていってしまった。
腕に1本、チューブを刺して。
血を抜く量が多かったのか、
それとも自分の血を見て
クラっときてしまったのか。
彼は、献血をして貧血になってしまった。
いましがた
「献血」したはずの血液を「輸血」されて。
人のよさそうな彼は、
青白くなった顔を申し訳なさそうにゆがめ、
担架を運ぶ人たちに、
「すみません、すみません」
と、しきりに謝っていた。
シカに追われる彼女も、
なんだかそんな、人のよさがにじみ出ていた。
ぼくは、そんな不器用さが
いとおしくてたまらない。
夕方ごろ。
同じく奈良公園で。
ベンチにひとり座る、男性がいた。
見た限り、30代前半といったところか。
銀色のフレームのメガネをかけた彼は、
携帯ゲーム機かミニパソコンのようなものを手に、
ベンチに腰かけて画面をのぞき込んでいた。
ふと顔を上げた彼は、
すぐそばにシカがいることに気がつき、
機械いじりの手を止めた。
ときどき彼の手元に鼻先を寄せたりしながら、
じっと彼の目前にたたずむシカ。
彼は、目の前に近づいてきたシカに、
なにやらぼそぼそと話しかけていた。
イヌやネコにそうするように。
彼は、「おいで」とか「どうしたの」とか、
そんな言葉をかけているふうに見えた。
けれども。
当然、シカは答えてくれるはずもない。
それどころかシカは、
まるで彫像のようにじっとしたまま、
ぴくりとも動こうとしない。
じっと、彼の目を見据えるシカ。
戸惑い、たじろいだ彼は、
おそるおそる手を差し伸べて、
シカの頭をなでようとした。
と、
あきらかにシカは、
警戒(または挑発)するようなそぶりを見せて、
首を動かし、鼻先で接近するその手を拒んだ。
ひるんだ彼は、さっと手を引き、
ぎこちない笑みを浮かべた。
シカは、無表情に彼を見ている。
何がしたいのか、
何がしてほしいのか。
無表情なシカの顔からは、
何も読み取ることができない。
彼は、困ったような笑みを浮かべて、
ベンチに座ったまま動けないようだった。
シカは、動揺することもなく、
じっと彼を見据えたままだった。
そんな彼の姿も、
歩みを進めていくうち、
ぼくの視界の外に消えた。
シカを前に、困ったように微笑む彼。
ぼくは、そんな彼のぎこちない笑みが、
いとおしくてならない。
東大寺に鎮座する大仏さまも、
下品(げぼん)や中品(ちゅうぼん)で
懊悩(おうのう)するぼくらのことを、
きっと笑っていらっしゃるに違いない。
シカのような、やさしいまなざしで。
< 今日の言葉 >
「まるで、チョコバットで
メジャー・リーガーに
挑戦するようなものだ」
(『偉業を成す前に言われたいひとこと』
/イエハラ・ノーツより)