2009/06/10

問題児の問題


「ばか」(2011)




中学生のころ、
学年主任の先生に、

「お前は学校はじまって以来の問題児だ」

と言われた。


当時のぼくは、
その意味がまったく分からなかった。




ぼくは『コンバース・オールスター』の
ハイカットが好きだった。

オールスターの中でも、黒がいちばん好きだった。

オールスターは、小学3年のころ初めて履いて、
それからしばらく履きつづけた。

4年生になり、サッカー部に入った。

シュート練習のしすぎで爪先部分の布が破れると、
また同じ黒いオールスターを買って履いていた。

サッカー部の先輩に、


「バッシュ(バスケットシューズ)履いて
 サッカーすんなよな」


と言われて。
何となく悔しく思い、みんなの履くような運動靴、
『アシックス・タイガー』を買ってもらった。


余談だけれど。

当時のアシックス・タイガーは、
エルパソとかヒューストンとかバンクーバーとか、
アメリカやカナダや南米の都市の名前がついていた。

ぼくは、バンクーバーという名前の、
ペパーミントグリーンの靴を2回続けて履いた。


さて。

中学に入ると「学校指定靴」というものがあった。

『月星』とか『アキレス』とかの
白いデッキシュースで、
いまにして思えばシンプルで
なかなか悪くない靴だけれど。

当時はそれが格好悪く思えてしたかなかった。

何より、選択権を奪われて、
人から「これを履け」と指定されたことが
我慢ならない。

入学してしばらくすると、
靴箱の中にしまわれた
黒のコンバースのハイカットを取り出し、
学校に履いていった。

すると、先生がぼくを呼び止め、
「黒い靴」のことを注意した。


「次に履いてきたら没収だからな」


ええっ、と思いながらも。
小学校を出たての坊主が
「大人」に抵抗できるほどの術はなく、
「はい」とも「いいえ」とも言わないまま、
知らないうちに「承知した」ような形で終わった。


下校の時間には、先生に次いで、
「ちょっとやんちゃな」上級生に止められて、
「なまいきだ」というようなことを言われた。

親に買ってもらったお気に入りの靴を、
没収という形で「盗られ」てもかなわないので、
しばらくは学校の「指定した」靴を履くことにした。

先生は「黒い靴」について注意したのだから。
黒じゃなければいいだろうと、
白いコンバースのハイカットを履いていった。


今度は廊下ではなく、
職員室に呼び出された。


小学校の職員室には
ずいぶん慣れて卒業を迎えたのだけれど。

中学校の職員室にはまだ慣れていなかった。

気のせいでなく、先生たちの顔ぶれも
かなり「大人っぽい」ように見えた。


まだ「常連」になる前のぼくにとって、
中学校の職員室は、
やくざの事務所のような威圧感があった。


そんなこんなで。

いわゆる「問題児」として
「目をつけられた」ぼくは、
気づくと職員室の常連客になっていた。


1年生の先生だけでなく、
2年生や3年生の先生たちにも名前を覚えられた。

名前だけでなく、顔もしっかり覚えらえた。


「おお、こいつが家原の弟か。
 姉さんとはえらい違いだな」


姉は、勉強だけでなく、
体育や音楽、美術もできるという、
ほとんど「オール5」の成績優秀な人だった。

姉のことは尊敬していた。

たしかに、ゲームや遊びでいつも姉に負かされていて、
いつか追いついて追い越してやりたいと
思うことはあったけれど。


姉は姉、ぼくはぼく、
姉に対して「劣等感」は持っていなかった。

それなのに。

ぼくは、ぼく以外の人から
「劣等感」を与えられた。


「ぼくってやっぱり駄目なんだ」


そう思った。


学生服の下に、
お気に入りのシャツを着ていって怒られた。

学生服で見えないからいいと思った。


気に入ったベルトがなくて、
サスペンダーをしていって怒られた。

「じゃあ何でMくんはいいんですか?」

そう訊ねると、
太った生徒はいいのだと、先生は言った。

生徒手帳にもそう書いてあった。


ぼくの通っていた中学校は、
当時、男子は「マルガリータ(丸刈り)」が
決まりだった。

フランス語でいうところの「ボンズ」。

ボンズ頭も、人から言われると魅力がない。


ボンズの髪を、
ちょっとだけ伸ばしてみたり、色を抜いてみたり。

「反抗」が目的だったわけじゃないので。
できる範囲での、ギリギリのラインを模索した。

そんな、ほんのちょっとした「変化」でも。
目をつけられていたぼくは、すぐに見つかった。

同級生の中に、
リーゼント風の髪の毛を金髪にして、
ものすごく短い学生服を着て、
「ニッカポッカ」みたいに太いズボンを
履いている子がいた。

彼は、あまり学校に出てこない。

そんな彼を注意する先生はいなかった。


比較するのもバカらしいけれど。
彼に比べれば、ぼくなんて大したことない。

中坊のぼくは、そんな幼稚な主張をしてみたが。


「あいつはいいんだ」


先生たちは、口をそろえてそう言うだけだった。

いまにして思えば、
それは「あきらめ」という「レッテル」だろう。



ぼくは、学校が好きだった。

学校に行けば部活もあるし、体育も美術もある。

勉強自体は嫌いじゃなかったし、
何より、待合せや約束をしなくても、
毎日みんなと会えるからいい。


だからぼくは、
自分では、ヤンキーでも
不良でもないと思っていた。

靴もカバンも文房具も、弁当箱も靴下も。
ただ、自分の気に入ったものだけを持っていたかった。


それだけだった。


いらいないものはいらない。

そんなものは欲しくもない。


そして気づくと「問題児」になっていた。


自分からそうなったのか。
それとも、周りの人がそう決めたのか。

いまとなっては、どっちだったのかも、
よく分からない。


まるで「ニワトリが先かタマゴが先か」だ。



高校生になると、


「お前は核だ。悪の中心人物だ」


とまで言われた。

このときはさすがに、
「ええっ」と声に出してのけぞり、びっくりした。


レッテル。


「ラベル」を貼って分類すると、
分かりやすいし簡単だ。

分かりやすくカテゴライズすることで、
仕事もはかどる。


それは、講師という仕事を
させてもらうようになって、実感した。


問題児や落ちこぼれはいない。


それは「先生」がつくる。


難しい子や閉じている子、
できるのにやらない子、
やってもなかなかできない子。

人の数だけ、いろいろな子がいる。


ラベルは、
人に貼られるものではなく、
自分で貼るものだ。


自分がなりたい自分になればいい。


だから、
自分から落ちこぼれるのも自由だ。


それでも人はラベルを貼りたがる。

熱中する人に「バカ」と貼ったり。

夢見る人に「嘘つき」と貼ったり。


自分の背中に貼られたラベル。

身体が硬くて目の悪いぼくには、
背中のラベルに何て書かれているのか、
はっきり読めない。


「人の批評を気にするくらいなら、
 最初から何もやるな」


どこかの偉い人が、
そんなようなことを言っていたけれど。


何をやっても
不本意なレッテルを貼られるくらいなら、
読めないくらいが、ちょうどいい。



< 今日の言葉 >

うんことちんちんとおっぱいうんことちんちんとおっぱい

(どんなときでもしあわせになれるふしぎなおまじない)