先日、高校時代からの友人が、常滑の制作現場に遊びにきた。
このクソ忙しいときに・・・などとは微塵(みじん)も思わず。
あっさりとその「誘惑」に乗っかった。
友人を案内すべく、旧常滑の商店街から瀬田(せた)へ抜け、
散歩道へと足を向けた。
「シルバー・ウイーク」なる耳慣れない連休のためか、
散歩道がものすごい人でごった返していた。
『KANDA百貨店』や『sonorite'(ソノリテ)』など、
しゃれた店々も紹介しつつ。
何だかおいしそうな匂いに誘われて、屋台広場の辺りに行った。
オリエンタルで、スパイシーな匂い。
そのおいしそうな匂いの「主」は、1台の白いトラックだった。
トラックの表側に回る。
「いらっしゃいませー、おいしいですよー」
その声を耳に受けながらも、ぼくらの目は、
ラミネート加工されたメニューに釘付けだった。
チキンピタサンド(¥450)
ダール豆のスープ(ダール・スープ/¥300)
ぼくらは迷わず、それを注文した。
あせらず、ていねいに調理する店員の男性。
おそらくインド系と思われる彼は、
「ちょっと待ってね。せっかく食べるんだから、おいしく作るね」
と、白い歯をのぞかせて笑った。
待っている間、トラックの壁面にたくさん貼られたPOPを見ていると、
遅れてこの「店」の名前が目に入った。
『K2』
エベレストに次ぐ高さの山で、登頂難度は世界一とも言われる高峰。
この山の名前は、高校時代の、地理の授業で聞いた覚えがあるだけではない。
たしか、職場でもある学校の近所の、
インド・パキスタン料理の店が同じ『K2』という名前だった。
そんなことを友人に話していると、
店員の男性が手を止め顔を上げた。
「よく知ってるね。そう、それ、ぼくの店だった」
そういって彼は、「過去形」で言った。
店員の、彼の名前はムハンマド。
2年前、4店舗あった店を全部、人に譲った。
祖国(くに)のお母さんが心臓病を患ったためだ。
4店舗あった店を売り払って手術費用をつくり、
インドに帰国したムハンマド。
無事にバイパス手術を受けることができたお母さんは、
現在、元気に暮らしているいうことだ。
ムハンマドが日本にきたのは、いまから約19年前。
ムハンマドは、そのとき17歳だった。
難民という形で入国したムハンマドは、
上野公園の路上で、3カ月ほどすごした。
知り合いになったイラン人が、東京から名古屋へ行くというので、
ムハンマドは彼について行くことにした。
名古屋の、白川公園に着くと、
イラン人の彼は、ムハンマドに10万円を手渡した。
「これで、何とか頑張れ」
そのお金は、「テレホンカード」の販売などで稼いだものだった。
それから3年間、ムハンマドは、水とパンだけでしのいだ。
そして何とか会社に就職することができた。
パチンコ台の製造会社だった。
数年後、その会社が倒産すると知らされたとき。
従業員はみんな、次々と会社を去っていった。
けれどもムハンマドは、社長に言った。
「最後まで頑張ります」
その言葉どおりムハンマドは、
社長と2人、最後まで会社に残って、仕事を全うした。
「歳、いくつ?」
ムハンマドは、ぼくの答えを聞く前に先を続けた。
「ぼくは36歳」
「えっ、36? ぼくらの1コ上じゃん」
「35歳? へえ、そう」
友だちは、すでに誕生日を迎えて35歳。
ぼくはまだ誕生日がきていないけれど、
今年で35歳になる。
ひとつずつ順番に、できあがったチキンピタサンドを手渡される。
思いのほかボリュームがあり、手に持つと、ずっしり重い。
会計を済ませ、ひとくちかじる。
「めちゃくちゃおいしい」
「ありがとうございます」
ムハンマドが頭を下げる。
インドから戻って。
あちこち奔走しながらあれこれと準備をして。
ようやくまた、こうして「店」を開くことができたとのこと。
聞くと、今日で「開業」2日目だという。
白い、軽トラックを改造したこの「店」も、
ムハンマドの「手づくり」だと聞いて。
さすがにぼくは、声を上げて驚いた。
内装をはじめ、電気の配線、
きっちりと荷台に収まる「キッチン」の設計。
外装の目地は、しっかりとコーキングで埋められている。
トラックに200万円、チキン・ロースターが40万円。
「この機械、ふつうに買うと、100万円以上するね。
けど、ドバイで買って、
ドバイの空港で働く友だちに頼んで運んでもらったから、40万円で済んだ」
チキン・ロースターでこんがり焼いた、
タンドリー・チキン。
さすがにうまい。
そろそろスープが飲みたくなったぼくは、ムハンマドに言った。
「豆のスープは?」
忘れていたのか、それとも、じっくり温め直していたのか。
はっとしたムハンマドは、スープジャーを開けてスープを注いだ。
そこに、パラパラと、何やらスパイスをかけた。
「何そのスパイス?」
「これ? これは、オリジナルのスパイス」
ムハンマドは、誇らしげに微笑んだ。
さっそく「ダール豆のスープ」を飲む。
うまい。うますぎる。あまりにもうまくて、
「めちゃくちゃうまいね、これ」
と、バカみたいにストレートな感想を、大きな声で口に出した。
ムハンマドは、「ありがとうございます」とまた謙虚に頭を下げた。
「ぼくは日本人大好き。友だち、みんな日本人がほとんど。
ぼくの店にいたインド人、みんなダメだった。うそつくし、盗むし。
レジのお金、ちょこちょこ盗んだり。
レシピ盗んで店辞めて、店はじめたのもいる」
ムハンマドは、彫りの深い顔をくもらせて、
締めくくるようにしてこう言った。
「ぼく、外人嫌い」
何だか妙な説得力があるように感じたのは、なぜだろう。
「日本人の味に合わせない店、多い。だからダメ」
そんなふうにも嘆いていたムハンマド。
けれど。
ムハンマドのダール・スープは、
充分オリエンタルで、スパイシーで、
いままで一度も飲んだことのないような味わいだった。
だからこそ、ぼくはおいしいと思った。
「日本人」に「合わせる」必要なんてないと思う。
おいしければ、おいしいと思った人が集まってくる。
おいしいものに、国境なんてない。
「ごちそうさま」
「おいしかった?」
「おいしかった」
「そう、よかった」
「じゃあ。また、店ができるの楽しみしてるから」
「ありがとうございます」
しっかり者のムハンマドが手を上げ、ぼくらを見送る。
その笑みは、1コ上とは思えないほど深みのある顔つきだった。
< 今日の言葉 >
『イギリスのサマセット州ブリッジウオーターに住む
40歳のトニー・バーフィールドは、
電気製品が近くで作動するといつでもひどい痛みを覚えた。
妻が掃除機のスイッチを入れても強烈な頭痛がして、
歯が引き抜かれるような感じがした。
それに口のなかに金属的な味覚がし、体内が熱く燃えるような気もした。
しかも彼はほとんどの食品にアレルギーで、
だからトマトとオレンジくらいしか食べられなかった。
・・・(中略)・・・・
彼はひどい偏頭痛がするようになり、とてものどが渇くようになった。
そして誰かが電気機器を作動させると激痛を覚えるようになったのだ。
自分がまるで静電気を帯びているみたいに感じることもあれば、
体内が燃えているような気がすることもあった。
1990年以降は水にもアレルギーになった。
風呂に入れなくなり、濡らしたタオルで体をふくしかなかった。
食品アレルギーも、同じく1990年に始まった。
彼は3年間で20キロ以上やせ、どんどん衰弱していった。
失業し、自分1人では服も着られなくなった』
(1988年イギリス、UFOの近距離遭遇者トニー・バーフィールド氏の症例)
『UFO あなたは否定できるか』ヘルムート・ラマー/オリヴァー・ジドラ著(文藝春秋)より