たっぷりこぼしたよだれの上、
まるで小鳥にお布団を
かけてあげるようなやさしさで、
そっとハンカチを置く。
姑息(こそく)な偽装工作を終えたA男は、
そそくさとその場から逃げるようにして
席を立った。
開く前の扉に立ち、降りる準備をする。
短いはずの時間が長く感じる。
窓の外は、まだまだ真っ暗な景色のままだ。
「落としましたよ」
思わぬ声に、
ぎくりとして背筋が凍る。
知らぬふりを決め込んだA男は、
聴いてもいない音楽に
耳をあずけているふりさえ辞さなかった。
「あの、落としましたよ、これ」
声の主は、ほかでもなく、
よだれの被害者の彼女だった。
その声のあまりの近さにふり向くと、
にっこり笑うやさしい笑顔と対面した。
「どうも」
反射的な感じでハンカチを受け取り、
曖昧な会釈(えしゃく)を返す。
申しわけなさと自己嫌悪とがとぐろを巻き、
2匹の蛇となってA男の良心を締めつけた。
「あの、実はその・・・」
言いかけたそのとき、
停車した車両が扉を開いた。
そのまま人の流れに押し出されるようにして
降車したA男は、
激しい絶望と罪悪感に見舞われ、
駅を出てすぐのコンビニで
ありたっけの小銭を募金箱に入れ、
それでもくすぶりつづける
後悔の念を鎮火(ちんか)させることができず、
飲めもしないレモンサワー(500ml)2本を
あおるようにして飲んで、
したたかに酔い、
ふらふらと歩いてドブにはまり、
派手に吐きちらし、
その場にくずれ落ちた。
「よだれをたらして、ごめんなさい」
届かぬ声はあまりに虚しく、
あまりにも無力だった。
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