2025/01/20

かなしい言葉たち の音色




今回はおもしろくない回です。


(2022年7月13日記述)







あ い う え お



五十音は、
や行とわ行の重複する音をのぞけば46。
そこに濁音(〝 )、半濁音(  ° )を足して51。

「ぎゅうにゅう」
などの拗音(ようおん)を合わせると85。

そして「あっち」などの促音(そくおん)、
「っ」を1と数えて、86音になる。



この86の音の組み合わせと、
漢字や抑揚(イントネーション)で、
語句の意味や内容が変わる。

そこからできる「言葉」。

日本語の単語は、
およそ72万語あると言われている。

その中で『広辞苑』に
載っている語句は、約24万語。

日常で使われている言葉となると、
それよりはもっと少ないはずだ。

そんな、音と漢字の組み合わせで、
ぼくらは意思の疎通(コミュニケーション)を図っている。


ここに並んでいる文字も、
単なる陰影の、電気信号でしかない。

それでも、読み手が理解し「解釈」することで、
意味をなさない図像が「言葉」になる。

読み手がなければ、
ここに「言葉」は存在しない。


文字ではない、音による「言葉」も、
聞き手が理解しなければ、ただの「音」。

外国語圏の人に、
日本語で一生懸命話しても、
その意味は伝わらない。

直接であれば、熱意や必死さなど、
その温度感は伝わるかもしれないが。

「言葉」だけでなく、
その人の声や表情、身ぶり手ぶり、
会話の流れや前後関係。

そういったいろいろなものが重なって、
「言葉」がまた別の意味を持ち始めたりもする。


言葉が意図せぬ意味合いになって、
褒めたつもりが、怒らせてしまったり。

助言のつもりが、
批判や否定に聞こえてしまったり。


コミュネケイション、デフェコルト。

ムズカシデスネ〜、ホントニィ。



◆◆



そんな「言葉」に感情を揺さぶられ、
笑い、泣き、怒りを覚え、
納得したり迷ったりして右往左往する。

たいていの人は、
相手を苦しめたり
傷つけたりするつもりは
ないのだろうけれど。

「売り言葉に買い言葉」という言葉があるように。
(「言葉」ガ多クテ、ヤヤコシイデスネ)

瞬間的に、何かを忘れて、
言うべきではない言葉を口走る。

冗談のつもりが、
冗談になっていなかったり。

それが禍根(かこん)となり、言われた相手は、
長い間その「言葉」を忘れられない。

その人の、
この先の判断や価値づくりに
大きく作用することだってある。


「俺が許しても、天が絶対に許さない」


アフリカなどの呪術圏では、
こういう言葉を「呪い」と呼ぶ。


もちろん、その逆も然り。


言葉ひとつで、笑顔の花が咲く。

言葉に救われ、励まされ、
思い改めて今日に至っていることもある。


そう。

こんな「当たり前」のことは、誰だって知っている。
学校で習わなくても、
経験として感じたことがある事実だろう。


言葉。


間違って使うと、人をあやめる。

よくない感情から生み出される言葉は、
限りなく黒い、灰色の暴力だ。


『好き勝手言う人の口にも、
 こんな錠がつけられたら。
 そうしたら、どれだけ平和なことか』


モーツァルト先生の歌劇『魔笛』に、
こんなような台詞(セリフ)がある。
(脚本はエマニエル・シカネーダー氏)

1791年。
今から200年以上前の、
ヨーロッパでのお話。


『口は禍(わざわい)の元、
 舌は禍(わざわい)の根』


これは、
二代目広沢虎造氏の『清水の次郎長伝』で、
何度か出てくるフレーズだ。


古今東西。
洋の東西を問わず、
今も昔も、ずっと同じことらしい。



◆◆◆



自分はこれまで、
どれだけ「禍」をまいてきただろうか。

自分の吐いた言葉で、
どれだけ人を傷つけてきたのだろうか。


こんな自分にさえ、消えない言葉があるのだから。

自分の吐いた言葉で何人の人を傷つけてきたのか。



そしてぼくは、怒っている。

うそつきの「大人たち」に。




言葉。


どうしてうまく操れないのか。


たくさんありすぎるから?

自分が未熟だから?


そもそも、操れないものなのか。

理解はしきれないものなのか。


言葉に頼るから、言葉に苦しむのか。



たくさん言葉を覚えれば、
少しは「うまく」なると思っていた。
少しは「やさしく」なると思った。


24万語とか72万語とか。

言葉が多すぎて、
うまく操れないのか。

それとも、
言葉を覚えすぎたせいで、
ややこしくなったのか。

「大人」になるほど、
どんどんむずかしくなってきた気がする。


子どものころ、表現できずにもどかしく、
充分すぎるほど歯嚙みをしたが。

大人になった今に感じる戸惑いと疑問は、
それとは比べようがない種類のものだ。


言葉の前に心がある。


『思考が言葉になり、言葉が行動になり、
 行動が習慣になって、習慣が性格になる。
 そしてそれが運命を形づくる』

そんな「言葉」もある。


思考をつくるのもまた「言葉」。
言葉がなければ、その観念も存在しない。
言葉を操るのは、その人の感覚(センス)次第だ。


口は禍の元。


『見ざる聞かざる言わざる』


日光東照宮のスリー・モンキーズ像。
これまで、

「なんたる事なかれ主義か」

と、やや否定的な気持ちで見ていたものだが。


これが、大人の階段なのか。


「さすがにそれはないでしょう」

と。

悔しくても、腹が立っても、
じっと黙ってわが身を見つめる。


それが、大人の作法なのか。


ああ、そうですね、と。
笑って過ごして、歯を磨いて寝る。


これぞ、大人の処世術なのか。


笑っていたら、寝耳に水。
わが目、わが耳を疑う言葉、言動。

聞いたはずの言葉、
言ったはずの言葉が消えていく。

なかったものに。
なかったことに、なっている。


返事はない。


ノー・コメント。


明日は明日の風が吹く。


そして気づけば自分も
『冷たい人間の仲間入り』。



使い方を誤った言葉は、
「グレーゾーン」の暴力だ。


暴力は、人をころす。

人の心をころす。


暴力は、また新たな暴力を生む。


暴力反対。


人をあやめたくはないし、
言葉をうまく操る自信もない。

やっぱり黙っているより仕方がないのかなと。
出口を失い、ため息をつく。


心のない行為。

みんな知らん顔。


大の大人が大真面目に
それをよしとするなんて。

すごく、かなしい。


「こんなの、いじめじゃん」


こっち側から見た景色は、
あっちからは見えない。



だから思う。


どうしてかなしい言葉を吐くのだろうかと。


大人になると、謝らない人がふえる気がする。

それでいいと思っているのか、
それとも、そう思いこんでいるのか。
もう、あきらめちゃっているのか、
気づいてもいないのか。

そもそも大の大人っていうものが、
そういうものなのか。


素直に謝ったら気持ちがいいのに。


幼稚園までに習った大切なことが、
勉強するほどに塗り替えられて、
いつしか無意味な「音」になってしまう。

ごめんなさいも、ありがとうも。

しおれた花みたいにかさかさになって、
足元にべったり横たわっている。



五十音の、86の音色。

楽器の演奏より
むずかしいのかもしれないけれど。
「日常の社会」においては、
ギターより「ものを言う」メロディだ。


その並べ方、使い方次第で
人をしあわせにだってできるのに。
世界をバラ色にだってできるのに。

かなしい使い方をするのは、どうしてなんだろう。


そういう自分も、禍だらけの人間。

ここに並べた言葉は、
もれなく自分に言えること。


「太鼓じゃないから音(ね)は出ないが、
 叩きゃほこりのひとつも出るもんだ」


明日はわが身の自分の鏡像。


「笑顔の花を咲かせたい」


そんなふうに言ってること自体が、
甘い幻想、おせっかいで無意味な夢物語なのか。



◆◆◆◆



言葉は人を傷つけるほどの凶器にもなるのに、
聞く人がいなければ、ひどく無力で頼りない。


言葉に頼りすぎてるわけじゃない。

1枚絵みたいな「感覚」を
「言葉」で言い表そうとすると、
どうしてもたくさんの言葉が必要になる。

伝えたい思いが過熱して、
だらだらと続いて冗長になる。

そうなったとき、言葉はまた意味を失い、
空疎な「音」となっていく。


言葉は、相手ありき。
相手の捉え方次第で、雑音にも暴力にもなる。



言葉以上に大切なもの。

伝え方。タイミング。
表情。気持ち。関係性。

それぞれの思い、考え、言い分や立場。


「・・・・・・」


いろいろ考えると、言葉が出なくなる。

衝突や摩擦を嫌うなら、
結局のところ、
黙っているのが良策だったりもする。


それでも、
黙って引き下がるわけには
いかない場合もある。


なんだかばからしくて、
言う気も失せる、そんなときもある。


やり場のない思い。


考えるとむずかしくなるから、
ここら辺でやめておこう。


答えなんてないものだし、
いくら周到に準備をしても、
戸惑いは必ず
それを超えてやってくるものだ。


考えたってどうにもならない。

そのとき、その場でどうするか。



ありがとうとごめんなさい。

その気持ちがあれば、
わかる人には必ず伝わる。


そこにある、心が大事。

心は、うそをつかない。
心は、うそをつけない。


答えも法則もわからないから、
その当たり前の事実を
信じていくより仕方ない。


気持ちのわるい幻想なのか。
うその世界では、うその花しか咲かないのか。


だったらその「うそ」を信じていきたい。



「えっ? どういうこと、それ?」


もしそれが冗談なら、
心から笑えるものにしてほしい。








< 今日の言葉 >

Leck mich im Arsch!
Lasst uns froh sein!
Murren ist vergebens!
Knurren, Brummen ist vergebens,
ist das wahre Kreuz des Lebens.
Drum lasst uns froh und fröhlich sein!
Leck mich im Arsch!



私のお尻を舐めなさい
陽気に行こう
文句を言っても仕方がない
ぶつぶつ不平を言っても仕方がない
本当に悩みの種だよ
だから
私のお尻を舐めなさい

(Wolfgang Amadeus Mozart「Leck mich im Arsch:K231」1782年)





2025/01/05

天井のようかん

 





古い車に乗っていたとき、

いつもどこかしら

気になる箇所があった。


走っていると、どこからか

かすかに聞こえるきしみ。

電装系の配線の不安。

アイドリング音のばらつき。

扉の閉まり具合。

開け閉めしにくいガラス窓。

破れたシートカバー。

ところどころ剥げた車体の塗装。

・・・などなど。


言いだしたらきりがない。

気にしだしたら止まらない。


整備工場の人と話していて、

こう言われた。


「どこまでをよしとして、

 どこまで直してくのか。

 古い車だから、

 完璧な状態になんて、

 ならないですよ」


たしかに。


ここを直しているあいだに、

別のところが悪くなったり。

いつか壊れるんじゃないか、

また故障するんじゃないか、と。

予兆ばかり気にしていて、

気が休まらなかったり。


古い車は、古い車なのだ。


気になる箇所を替えだしたら、

丸ごと全部、

替えなくてはいけない場合もある。


見えない箇所は、

オーバーホール

(全部ばらばらに解体して

組み立て直すこと)して、

きれいな部品か新品に替えるしかない。


自分で点検・整備をするか、

整備工場に通うのか。

それともいっそ、

新しい車に買い換えるか。


古い車に乗るということは、

古い車の状態と向き合い、

それとどう付き合っていくか、

ということである。


長い年月を経た、古い車。

長い年月乗っていれば、

必ずどこかしらが

悪くなってくるものだ。


それは、人間も同じ。


歳を重ねれば、

必ずどこか不具合が出てくる。


痛みや症状を気にして、

医者や病院へ通い続けるか。

それとも、

そんな状態を「日常」として

いたわりながら、

付き合っていくか。


母の姿に、思うことがあった。


母は、病院が苦手だ。

おそらく、

何かしらの経験が織り重なって、

母の中で、病院の印象が

よくないものへと

育っていったのだろう。


かくいう自分も、

長年、病院が苦手だった。

今でも得意ではないが。

数年前に、気胸で入院して以来、

病院への印象が

悪くないものへと変わった。


**


毎日、

笑顔で話していた母のようすが、

突然おかしくなった。


そわそわと落ち着きなく、

気もそぞろで、

なかなか話が通じなくなった。


夜、母に呼び止められた。


「ちょっと見てほしいんだけど」


母を追って寝室へ向かうと、

薄暗い部屋の天井にぶら下がる、

和室仕様の照明器具を指差した。

灯っているのは、

オレンジ色の小さな豆電球だった。


「電気の上に、ようかんが

 乗っかっとるんだけど。

 ちょっと見てもらえん?」


「ようかん?」


「そう。羊羹」


「え、なに、どういうこと?

 なんで羊羹が

 そんなとこに乗るの?」


「わからんけど。

 なんか羊羹が乗っかっとるから。

 ちょっと見てくれんかなぁ」


「その羊羹って、どこにあったの?

 この部屋にあったの?

 母さんが、何かやったの?」


「よくわからんのだけど。

 あれ、ほら、羊羹じゃない?

 夜中に寝とって

 顔にべちゃっと落ちてきたら

 嫌だなって思って。

 ない? そこに、羊羹。

 あの丸いのって何?

 羊羹じゃない?」


何を言っているのか、

さっぱりわからなかった。


羊羹・・・?

オレンジの光の輪っかのことか。

それとも、丸い影のことか。

どうして羊羹がここにあって、

さらにはどうやって

照明器具の上に乗っかるのか。


まるでわからず、謎だった。


電気を点けて、調べてみた。


「何もないよ。

 大丈夫だから、安心して寝てよ」


「そう?

 じゃあ、よかった」


「おやすみ」


「ごめんね、ありがと。おやすみね」


翌日、母に聞いてみた。


「昨日の夜のあれ、何だった?

 羊羹って、何だったの?」


「・・・たぶん、ちょっと

 ぼけとったと思う。

 寝ぼけとったのか、ぼけとったのか。

 ようわからんけど、

 ちょっとおかしくなっとったんだわ」


「何だったんだろうね、羊羹って」


「ようわからん。

 半分、夢見とったのかもしれん。

 なんか、そんなのが

 あるように思えて」


母と二人、声を上げて笑った。


この夜の一幕を思い出すと、

今でも笑いがこみ上げる。



ぼくは、医者でもなければ、

専門家でもない。


ただ母は、

普通に生活をしている。

笑顔で会話を交わし、

買い物に出かけたり、

食事の支度や掃除をしたり、

お友達とランチ会に出かけたりして、

ごく普通の日常生活を過ごしている。



また別の日に。


母のようすがおかしくなった。


会話がかみ合わない。

何かにあわてているようで、

視線も合わず、

一方的な「話」をくり返す。


そのとき気づいた。


病院へ行く日が、近づいている。


思い返すと、

例の『羊羹の怪』事件の日にも、

病院の話をしていた。


母は、病院が苦手だ。


それを言葉にすることもなく、

無意識に「嫌だな」という

気持ちが開花して、

行動や思考に表出する。


決して言葉には出さない。


病院に行きたくない、とか、

病院は怖いな、とか、

苦手だなとかは言わない。


ただ、頭の中は、

病院のことで

いっぱいになっている。


はっきりとした不満こそ

もらさないが、

カレンダーをちらりと見ながら、

ぼそりとつぶやく。


「もうすぐ病院行かないかんね」


その都度、母はくり返す。


「どうしよう、どうやって行こう」


「大丈夫。ぼくが車で送るから。

 帰りも迎えに行くから大丈夫だよ」


このやりとりを、

もう何十回くり返したことか。


こと、病院の話となると、

話が通じなくなる。

それがわかった。


もっと言えば、

おそらく母が「嫌だな」と

思っている事柄に関しては、

聞いた話も覚えておらず、

自分で言ったことも

記憶していない。


当初は戸惑い、困惑したが。


『嫌なこと=スルー』


忍法、受け流しの術。


なるほど。


忘れるのではなく、

おそらく最初から

「受けつけていない」のだろう。


原因というか、

根拠がわかったので、

かなり雲が晴れ晴れとした。



母が病院へ行く理由は、

治療でも診療でもない。

2年前に、

心臓のカテーテル手術をしたため、

病院側が求める

「定期検診」に行くのだ。


「なんでこんな病気に

 なったんだろう」


母さんは病気じゃないよ、

心臓は、手術してもう治ったよ、

データの収集とか、検査のためだから、

何の心配もいらないよ、と。

何度説明しても、母はくり返す。


「もう治らんのかなぁ。

 なんでこんなことになっちっゃたんだろう。

 痛くも苦しくも、何ともなかったのに。

 何で手術しなきゃ

 いかんかったんだろう」


1年以上、

くり返し伝え続けてきたせいか。

それとも、伝え方が上手くなったのか。

「病気」ではないということは、

少し理解してもらえてきたようだ。


そして最近、

定期検診だということも

理解できたようで、


「そんなんだったら、行きたくない」


と、母がまっすぐ顔を向けた。


「どっちでもいいよ。

 母さんが決めればいいことだから」


わかるかわからないかは置いておいて、

ぼくは、行く利点と、行かない難点とを

ゆっくり嚙みくだいて伝えた。


母の中で、いろいろな思いが錯綜する。

表情からも、その葛藤が見て取れた。


病気、怖い。病院、怖い。

行く、怖い。行かない、怖い。

行かない、先生に怒られる。

怒られる、怖い。


これはあくまで想像だが。

おそらく母の頭の中(または胸の中)では、

いろいろな利害がぶつかり合って、

答えをはじきだそうと

懸命に計算しているようだった。


「まぁ、今年は行くわ。

 来年からは、もう、やめるかもしれん」


来年になればまた、

同じこと言うかもしれない。

けれど、ひとまず母の中で、

決着がついたようだった。



報告も兼ねて、姉に連絡した。


姉が言った。


こないだね。

 私も歯医者に行ったんだけど、

 行くまでがめちゃくちゃ嫌だったから、

 お母さんもそうなのかなって。

 歯医者ってあんまり

 いい思い出なかったから。

 でも、早く治療したほうが

 大ごとにならないんだよね。

 わかってるけど、ってやつ。

 習い事のイヤイヤなのとかも

 そうだったよね」


さらに姉が助言をくれた。


なるべく笑顔で、

たいしたことないような雰囲気を

まわりでつくって接すれば、

母も「笑顔」で

過ごせるんじゃないかと。


本当にそう思う。


自分が子供時代に

けがをしたとき。


「わぁ、大丈夫?!

 すっごい血が出てる!

 ええっ、いやだぁ!

 ねぇ、大丈夫ぅ?!

 救急車とか呼んだほうが

 いいんじゃない?」


わーわーと騒ぐ人や級友に、

不安が増し、

よけいに怖くなった覚えがある。



まわりの笑顔が、

何よりの安心感を生む。


入院したとき、

上手に接してくれた看護師さん、

お医者さんはみな、

必要以上に騒いだりせず、

やわらかな笑顔をたたえていた。


もちろん、医師たちは

「プロ」だから、

いろいろな知識も対応力もある。

経験に保障された「笑顔」でも

あろだろうが。

少なくとも、

笑顔の効果は周知のはずだ。



笑顔がいちばんの薬。


最近、本当にたくさん

そう思わされる。



***



母が大河ドラマを

観たことを話してくれた。


「昨日のは、本当によかった」


とにかくすごく感動したそうだ。


テレビどころか、

世間にもうといぼくは、

虫食いだらけで間違いだらけの

俳優さんの名前を聞いても、

誰のことかわからず、

顔すら浮かんでこない。


しかも相手は母だ。

内容もあやふやで、

源氏物語が下敷きとなっている

ドラマなのだと知ったところで、

今どういった展開で、

どういう場面だったのかは、

聞いてもよくわからない。

役名ではなく、

虫食いだらけの

俳優さんの名前で語られる

「源氏物語」は、


「△△さんが、きれいだった」


という感想のみで終わった。


「今、どこらへんなの?

 どんな場面だった?」


「観たけど覚えとらん」


「けど、感動したんだよね?」


「うん、すごくよかった」


「そうか。じゃあ、よかったね」


何がどうだったかは覚えていなくても、

感動したことは、覚えている。


だったらいいか、とぼくは思った。


心が動いているのだから。


逆のほうが、ちょっと寂しい。


何を観たのか、どういう話だったか、

事細かに覚えているのに、

心が動かなかったことのほうが、

ぼくは悲しい。


感動を忘れることのほうがつらい。


晩ごはんに何を食べたのかは

忘れてしまっても、

おいしかったことは、

しっかり覚えている。


何を話したかは覚えていなくても、

すごく楽しい時間だったことは、

はっきり覚えている。


だったらぼくは、

それでいいと思う。


これも、笑顔の法則だ。



ピピピピ、と、

警告音を鳴らす炊飯器を前に、

母が小さくのけぞった。


「わっ、怒られた。

 母さん、怒られてばっかりだわ。

 ぼけた人がやっとるもんで。

 最近の機械はかしこいねぇ。

 こうやってすぐ教えてくれる」


母は、怒られてばかりだった。


機械だけでなく、

生前の父に、怒られてばかりだった。


だから、言えないのだ。


嫌なことを、嫌だと。



ぼくは、聞くようにしている。

母の気持ちを、

言葉に出してしてもらっている。

聞かなければわからないから、

どうしたいかを母に聞いている。


失敗や失態も、

大ごとでなければ、

なるべく笑顔で、

笑い飛ばすようにしている。


作り笑いや愛想笑い、

苦笑いや失笑ではなくて。

声に出して笑っている。


笑っておいたほうが、楽しいから。


どうしたらいいのかがわからない母は、

自分の感情を、鏡写しにする。

目の前の人の反応を見て、

今の状況を推し量る。


それって、もしかすると、

小さな子供と同じじゃないだろうか。


父や母の顔を見て、

これがいいことなのか、

わるいことなのかを読み取り、

判断する。


だとしたら、

よけいな心配で心を煩わせないよう、

笑顔で接したほうがいいだろう。



体のことを思って、

健康を気遣って行くはずの病院が、

かえって母の負担になるのなら。


ちょっとした検査や

健康診断などであれば、

お休みするという選択肢も

ありかもしれない。


病院へ行かなくちゃ、と、

落ち込む母を見ていると、

本当に「病気」になってしまいそうで。


一般論ではなく、

ぼくの母親に関しては、

それもよいかと思ったりした。


もしもぼくが母の立場なら、

きっとそれが嬉しいはずだから。


人生の「折り返し」を

とうにすぎた母なのだから。

ぼくは、

好きにやって欲しいと思う。

やりたいことをやって、

食べたい物を食べて、

嫌なことは嫌だと、

わがままに生きて欲しい。


ぼくはそれを横で見ながら、

ときどき注意したり、

手助けしたり、助言したり、

あくまで「傍観者」として、

母のするままに任せていきたい。



****



1970年代の車に乗っている甥っ子と、

うなずきあって話したことがある。


「古い車に乗ってると、

 多少のことでは、

 あせったりあわてたり、

 しなくなるよね」


トンネル内で停まった話。

ワイパーが止まった話。

エンジンがかからなくなった話など。


不測の事態に直面するたび、

嫌が応にも「成長」させられる。


別にトラブルが好きなわけではない。


けれど、難儀な局面と向き合って、

解決、解消していくたび、

少しずつ見え方が変わっていく。


古い車も、老いた母も、

ぼくにいろいろ教えてくれる。


悩んでも、準備しても、

怒っても、あわてても。


起きるときは起きるし、

なるようにしかならない。


笑顔がいちばん。


よくわからず、

つられて笑う母の笑顔に、

ぼくの笑顔も

さらに大きな笑顔になる。


問題とか、災難とか。

何があったかっていうことを

忘れてしまっても、

笑顔でやり過ごした

ことさえ覚えていれば、

それで充分だ。


また同じことが起こったとしても、

今度こそ本当に笑って、

笑顔で乗り越えられる。


学びや学習、反省は、

母ではなくぼくがすればいい。


老いた母は、

なおもぼくを、育ててくれる。


いつまでたっても母は母だし、

ぼくは子供のままだ。




自分の50歳の誕生日を祝うとき、

母の偉業も一緒に祝った。


『祝50』


ぼくが生まれて50年ということは、

母がぼくを産んでから

50周年の記念でもある。






「産んでくれてありがとう。

 50年間、

 育ててくれてありがとね。

 50歳ってことは、

 母さんとの付き合いが

 50年ってことだからね」


「50年! そんなになるかね。

 まぁ、立派に大きくなって。

 ・・・あんたが生まれたのは、

 朝だったもんで。

 おじいさん(母の父)に

 病院に送ってもらって、

 15分くらいしたら、

 ころんって生まれた」


「全然痛くなかった?」


「もう、全然。

 あれ、あれ、って言っとるうちに、

 ころっと生まれて。

 よっぽど生まれてきたかったんだねぇ」


50年前、ぼくは、

この世界に勢いよく飛び出してきたらしい。


昨日観た大河ドラマの内容を忘れる母も、

ぼくを産んだ日のことはずっと覚えている。


50周年のことも、

いつか忘れてしまうかもしれないけれど。

一緒に食べた、おいしいケーキの味は、

いつまでもきっと忘れないだろう。


「何、このイチゴ。

 ぴちぴちしとって、おぉいしいねぇ」



ぼくも、忘れない。

エプロンについたアップリケの犬。

真っ白なケーキと母の笑顔。


50年目に見たこの景色を、

ぼくはずっと忘れない。






 


< 今日の言葉 >





(日付は1カ月まちがえているけれど、

 嬉しいことが書かれた母からの書き置き)



2025/01/01

へ2び0ど2し5



 



今年もきました2025年。

待ちに待ったへび年が。


一度っきりの2025年。


へびだけに、

首を長くして

うずうずしていました。


やぶへびなんて

言いますが、

こうしてとぐろを

巻いていると、

ヘビーなことも

いろいろ

ありまスネーク。


意気ごみばかりで、

竜頭蛇尾にはならないよう、

アイ・ハブ・ア・ドリームで

がんばりマングース。


ぼろは着てても

心はニシキヘビ。

またこんどでも

アナコンダでもなく、

いま目の前のことを

だいじゃにすれば、

きっと巳(み)んなも

よろコブラ。


それ蛇(じゃ)今年も

にょろしくお願いします。




へ んてこりんな

び ーチサイドで

ど っちつかずの

し ョータイム。


へ リティッジで

ビットなコインで

ど レッシングだらけの

し ョッピング。


へ んそう上手な

び けいのあの子は

ど 日休みの

し ョーペンハウアー。


へ まばかりでも

 どうだにせず

ど っしりかまえて

し ょ行無常。


へ いじょう心で

び くともしない

ど こから見たって

し ゃかりきコロンブス。


へ んかや流れに

び んかんじゃなくても

ど ント・マインド

し らんぷり。


へ っちゃらだよね

び ニール袋の

ど んぐり100個

し らばっくれた

へ んぴな街

び ルの谷間の

ど こをさがせば

し ャングリラ。



< 今年の抱負 >


チョコへびソフト