今回はおもしろくない回です。
(2022年7月13日記述)
◆
あ い う え お
五十音は、
や行とわ行の重複する音をのぞけば46。
そこに濁音(〝 )、半濁音( ° )を足して51。
「ぎゅうにゅう」
などの拗音(ようおん)を合わせると85。
そして「あっち」などの促音(そくおん)、
「っ」を1と数えて、86音になる。
この86の音の組み合わせと、
漢字や抑揚(イントネーション)で、
語句の意味や内容が変わる。
そこからできる「言葉」。
日本語の単語は、
およそ72万語あると言われている。
その中で『広辞苑』に
載っている語句は、約24万語。
日常で使われている言葉となると、
それよりはもっと少ないはずだ。
そんな、音と漢字の組み合わせで、
ぼくらは意思の疎通(コミュニケーション)を図っている。
ここに並んでいる文字も、
単なる陰影の、電気信号でしかない。
それでも、読み手が理解し「解釈」することで、
意味をなさない図像が「言葉」になる。
読み手がなければ、
ここに「言葉」は存在しない。
文字ではない、音による「言葉」も、
聞き手が理解しなければ、ただの「音」。
外国語圏の人に、
日本語で一生懸命話しても、
その意味は伝わらない。
直接であれば、熱意や必死さなど、
その温度感は伝わるかもしれないが。
「言葉」だけでなく、
その人の声や表情、身ぶり手ぶり、
会話の流れや前後関係。
そういったいろいろなものが重なって、
「言葉」がまた別の意味を持ち始めたりもする。
言葉が意図せぬ意味合いになって、
褒めたつもりが、怒らせてしまったり。
助言のつもりが、
批判や否定に聞こえてしまったり。
コミュネケイション、デフェコルト。
ムズカシデスネ〜、ホントニィ。
◆◆
そんな「言葉」に感情を揺さぶられ、
笑い、泣き、怒りを覚え、
納得したり迷ったりして右往左往する。
たいていの人は、
相手を苦しめたり
傷つけたりするつもりは
ないのだろうけれど。
「売り言葉に買い言葉」という言葉があるように。
(「言葉」ガ多クテ、ヤヤコシイデスネ)
瞬間的に、何かを忘れて、
言うべきではない言葉を口走る。
冗談のつもりが、
冗談になっていなかったり。
それが禍根(かこん)となり、言われた相手は、
長い間その「言葉」を忘れられない。
その人の、
この先の判断や価値づくりに
大きく作用することだってある。
「俺が許しても、天が絶対に許さない」
アフリカなどの呪術圏では、
こういう言葉を「呪い」と呼ぶ。
もちろん、その逆も然り。
言葉ひとつで、笑顔の花が咲く。
言葉に救われ、励まされ、
思い改めて今日に至っていることもある。
そう。
こんな「当たり前」のことは、誰だって知っている。
学校で習わなくても、
経験として感じたことがある事実だろう。
言葉。
間違って使うと、人をあやめる。
よくない感情から生み出される言葉は、
限りなく黒い、灰色の暴力だ。
『好き勝手言う人の口にも、
こんな錠がつけられたら。
そうしたら、どれだけ平和なことか』
モーツァルト先生の歌劇『魔笛』に、
こんなような台詞(セリフ)がある。
(脚本はエマニエル・シカネーダー氏)
1791年。
今から200年以上前の、
ヨーロッパでのお話。
『口は禍(わざわい)の元、
舌は禍(わざわい)の根』
これは、
二代目広沢虎造氏の『清水の次郎長伝』で、
何度か出てくるフレーズだ。
古今東西。
洋の東西を問わず、
今も昔も、ずっと同じことらしい。
◆◆◆
自分はこれまで、
どれだけ「禍」をまいてきただろうか。
自分の吐いた言葉で、
どれだけ人を傷つけてきたのだろうか。
こんな自分にさえ、消えない言葉があるのだから。
自分の吐いた言葉で何人の人を傷つけてきたのか。
そしてぼくは、怒っている。
うそつきの「大人たち」に。
言葉。
どうしてうまく操れないのか。
たくさんありすぎるから?
自分が未熟だから?
そもそも、操れないものなのか。
理解はしきれないものなのか。
言葉に頼るから、言葉に苦しむのか。
たくさん言葉を覚えれば、
少しは「うまく」なると思っていた。
少しは「やさしく」なると思った。
24万語とか72万語とか。
言葉が多すぎて、
うまく操れないのか。
それとも、
言葉を覚えすぎたせいで、
ややこしくなったのか。
「大人」になるほど、
どんどんむずかしくなってきた気がする。
子どものころ、表現できずにもどかしく、
充分すぎるほど歯嚙みをしたが。
大人になった今に感じる戸惑いと疑問は、
それとは比べようがない種類のものだ。
言葉の前に心がある。
『思考が言葉になり、言葉が行動になり、
行動が習慣になって、習慣が性格になる。
そしてそれが運命を形づくる』
そんな「言葉」もある。
思考をつくるのもまた「言葉」。
言葉がなければ、その観念も存在しない。
言葉を操るのは、その人の感覚(センス)次第だ。
口は禍の元。
『見ざる聞かざる言わざる』
日光東照宮のスリー・モンキーズ像。
これまで、
「なんたる事なかれ主義か」
と、やや否定的な気持ちで見ていたものだが。
これが、大人の階段なのか。
「さすがにそれはないでしょう」
と。
悔しくても、腹が立っても、
じっと黙ってわが身を見つめる。
それが、大人の作法なのか。
ああ、そうですね、と。
笑って過ごして、歯を磨いて寝る。
これぞ、大人の処世術なのか。
笑っていたら、寝耳に水。
わが目、わが耳を疑う言葉、言動。
聞いたはずの言葉、
言ったはずの言葉が消えていく。
なかったものに。
なかったことに、なっている。
返事はない。
ノー・コメント。
明日は明日の風が吹く。
そして気づけば自分も
『冷たい人間の仲間入り』。
使い方を誤った言葉は、
「グレーゾーン」の暴力だ。
暴力は、人をころす。
人の心をころす。
暴力は、また新たな暴力を生む。
暴力反対。
人をあやめたくはないし、
言葉をうまく操る自信もない。
やっぱり黙っているより仕方がないのかなと。
出口を失い、ため息をつく。
心のない行為。
みんな知らん顔。
大の大人が大真面目に
それをよしとするなんて。
すごく、かなしい。
「こんなの、いじめじゃん」
こっち側から見た景色は、
あっちからは見えない。
だから思う。
どうしてかなしい言葉を吐くのだろうかと。
大人になると、謝らない人がふえる気がする。
それでいいと思っているのか、
それとも、そう思いこんでいるのか。
もう、あきらめちゃっているのか、
気づいてもいないのか。
そもそも大の大人っていうものが、
そういうものなのか。
素直に謝ったら気持ちがいいのに。
幼稚園までに習った大切なことが、
勉強するほどに塗り替えられて、
いつしか無意味な「音」になってしまう。
ごめんなさいも、ありがとうも。
しおれた花みたいにかさかさになって、
足元にべったり横たわっている。
五十音の、86の音色。
楽器の演奏より
むずかしいのかもしれないけれど。
「日常の社会」においては、
ギターより「ものを言う」メロディだ。
その並べ方、使い方次第で
人をしあわせにだってできるのに。
世界をバラ色にだってできるのに。
かなしい使い方をするのは、どうしてなんだろう。
そういう自分も、禍だらけの人間。
ここに並べた言葉は、
もれなく自分に言えること。
「太鼓じゃないから音(ね)は出ないが、
叩きゃほこりのひとつも出るもんだ」
明日はわが身の自分の鏡像。
「笑顔の花を咲かせたい」
そんなふうに言ってること自体が、
甘い幻想、おせっかいで無意味な夢物語なのか。
◆◆◆◆
言葉は人を傷つけるほどの凶器にもなるのに、
聞く人がいなければ、ひどく無力で頼りない。
言葉に頼りすぎてるわけじゃない。
1枚絵みたいな「感覚」を
「言葉」で言い表そうとすると、
どうしてもたくさんの言葉が必要になる。
伝えたい思いが過熱して、
だらだらと続いて冗長になる。
そうなったとき、言葉はまた意味を失い、
空疎な「音」となっていく。
言葉は、相手ありき。
相手の捉え方次第で、雑音にも暴力にもなる。
言葉以上に大切なもの。
伝え方。タイミング。
表情。気持ち。関係性。
それぞれの思い、考え、言い分や立場。
「・・・・・・」
いろいろ考えると、言葉が出なくなる。
衝突や摩擦を嫌うなら、
結局のところ、
黙っているのが良策だったりもする。
それでも、
黙って引き下がるわけには
いかない場合もある。
なんだかばからしくて、
言う気も失せる、そんなときもある。
やり場のない思い。
考えるとむずかしくなるから、
ここら辺でやめておこう。
答えなんてないものだし、
いくら周到に準備をしても、
戸惑いは必ず
それを超えてやってくるものだ。
考えたってどうにもならない。
そのとき、その場でどうするか。
ありがとうとごめんなさい。
その気持ちがあれば、
わかる人には必ず伝わる。
そこにある、心が大事。
心は、うそをつかない。
心は、うそをつけない。
答えも法則もわからないから、
その当たり前の事実を
信じていくより仕方ない。
気持ちのわるい幻想なのか。
うその世界では、うその花しか咲かないのか。
だったらその「うそ」を信じていきたい。
「えっ? どういうこと、それ?」
もしそれが冗談なら、
心から笑えるものにしてほしい。
< 今日の言葉 >
Leck mich im Arsch!
Lasst uns froh sein!
Murren ist vergebens!
Knurren, Brummen ist vergebens,
ist das wahre Kreuz des Lebens.
Drum lasst uns froh und fröhlich sein!
Leck mich im Arsch!
*
私のお尻を舐めなさい
陽気に行こう
文句を言っても仕方がない
ぶつぶつ不平を言っても仕方がない
本当に悩みの種だよ
だから
Lasst uns froh sein!
Murren ist vergebens!
Knurren, Brummen ist vergebens,
ist das wahre Kreuz des Lebens.
Drum lasst uns froh und fröhlich sein!
Leck mich im Arsch!
*
私のお尻を舐めなさい
陽気に行こう
文句を言っても仕方がない
ぶつぶつ不平を言っても仕方がない
本当に悩みの種だよ
だから
私のお尻を舐めなさい
(Wolfgang Amadeus Mozart「Leck mich im Arsch:K231」1782年)