『太陽に向かって走る車』(2023) |
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『太陽に向かって走る車』
この絵は、
ご依頼をいただいたお客さんの
まっさらなパネルに
お子さんが線を描き、
その「絵」をもとに
1枚の絵に仕上げる。
こんなおもしろい計画を
発案してくださったのは、
依頼主であるお客さんだ。
どんなふうになるのか。
どんな線を引いて、
どんな「絵」を描いてくれるのか。
もう、最初から最後まで、
わくわくと楽しい
「お絵描き」だった。
**
今回の主役である
男の子(4歳)は、
お客さん宅に到着した
ぼくを見るなり、
こう言った。
「ねぇ、どうして
おうちのまえを
とおりすぎたの?」
曲がるところを
まちがえたからだと説明すると、
またしばらくして
おなじことを聞いてきた。
そのたびにおなじふうに返す
ぼくとのやりとりが気に入ったのか、
何度もくり返し聞いてきた。
「まちがえちゃったんだって。
もう、あんまり言うと、
泣いちゃうよ」
わざとそう言い返すぼくに、
男の子はなんだかうれしそうに
笑っていた。
以前、誰かに聞いたことがある。
子どもがおなじことをくり返すのは、
化学者が実験をくり返して、
その結果や変化を
たしかめているのとおなじことが、
頭の中で巻き起こって
いるからなのだと。
相手の出方や変化をもとに、
反応を楽しんだり確認したり、
学習したりしているそうだ。
たしかに、自分もそうだった。
よもぎ餅をつくるために、
母と「よもぎ」を摘んでいて、
「ねえ、これ『よもぎ』?』
と、何度も、
よもぎではないとわかって、
タンポポや名も知らぬ草を見せては、
その反応を楽しんだ。
「それはよもぎじゃ
ないって言うの!」
笑いながら返す母に、
なんだか自分もうれしくなって、
しつこく何度もくり返す。
にもかかわらず、
飽きることなく
何度も応えてくれる母。
・・・そんなことを思い出す。
男の子はそのあと、
ミニカーやぬいぐるみなど、
自分のお気に入りのおもちゃを
あれこれと見せてくれた。
その場を去っては戻ってきて、
次から次へと見せてくれる。
その姿に、小学生のころ、
家庭訪問にきた先生に、
見せびらかしたり
紹介したりするでもなく、
ぬいぐるみのコレクションを手に、
玄関先にふらふらと顔を出した
かつての自分を思い出した。
あれは小学3年生のこと。
ああ、なんと幼き
小学3年生なのか。
そのときのぼくは、
大好きな先生が自分の家に
遊びに来てくれたような気持ちで、
ぬいぐるみの
クマコレクション(クマコレ)を
ひそかに「見せびらかして」
いたのだった。
ミニカーや超合金なんかじゃなくて、
ぬいぐるみなら、
きっと先生もよろこんでくれるはず。
たぶん、そんなことを
思っての行動だったのだろう。
あれこれ見せてくれる男の子に、
幼き日の自分を重ね見る。
言葉や意思表示の
術(すべ)を持たない、
幼少期の子ども。
「見せびらかし」は、
相手に対しての好意やおもてなしの
気持ちの表れだったんだなと、
あらためて気づかされた。
うれしそうに
「お気に入り」を見せてくれる男の子に、
「そのぬいぐるみ、ちょうだい?」
と、聞いてみる。
「あっ、あっ・・・!」
にわかにあわて出す男の子。
その姿があまりにも
まっすぐでかわいらしく、
次に紹介してくれたぬいぐるみにも
「それちょうだい?」と聞いてみた。
「あっ、あっ、いいよ」
目をまん丸にしてそう答える男の子に、
ぼくは少し笑って、
「いや、だめでしょう。
あげちゃったら」
と笑う。
その意味がわかったかどうかは
定かではないが、
男の子の顔に
どこかほっとした感じの
笑顔が浮かんでいた。
ああ、そうだな。
これが「遊ぶ」ってことだよな。
意味も答えもなく、
何の結果も期待しない。
ある意味「無駄」で、
何かの目的を持ってするでもなく。
目の前の時間を、
何も考えることなく、
ただただ「たのしむ」。
まさに、いま、この瞬間。
かつて飼っていた愛犬「ハナ」。
彼女にもそれを教わった。
いま、この瞬間を、
全力でたのしむ心。
次々とお気に入りを
紹介してくれる男の子の姿に、
ぼくは、
かけがえのない「瞬間」を
見せてもらった気がした。
***
ひととおりの紹介も終わり、
やや落ち着きを見せた男の子に、
さっそく色鉛筆を握ってもらった。
まっさらなパネルに向かった男の子は、
まるで巨匠のごとき迷いのなさで、
軽快な線をさらりと描いた。
本当に、何の迷いも、
てらいもない線だ。
なでるように描かれた
黄色(Canary Yellow)の線はうすく、
何の形も表してはいない。
次に描かれた
蛍光ピンク(Neon Pink)の線も、
軽やかに踊るうすい線で、
何かを描いた感じでもない。
もっとしっかりした線でもいいなと思い、
色の濃い、
青色(True Blue)の色鉛筆を渡す。
お母さんが男の子に声をかける。
何が好き?
好きなもの描いてみて、と。
「車は?」
ぼくとお母さんの言葉に、
男の子は「くるま」の絵を描いた。
形のない、
描きなぐっただけの線でも
よかったのだが。
男の子は、ばっちりと
「くるま」の絵を描いてくれた。
まったく天才画家のごとく、
躊躇(ちゅうちょ)なく描き終え、
色鉛筆を置いた男の子は、
またすぐに
たのしいおもちゃで遊びはじめた。
あっという間に、
すばらしい「下絵」が
できてしまった。
「仕事」を終えたぼくたち、
お父さんお母さん男の子と
ぼくとの4人は、
おやつを食べて、お茶を飲んだ。
大きな「ひと仕事」を
終えた男の子は、
また少し遊んだあと、
燃えつきた花火のように静かになり、
そのままお父さんのそばで
静かな眠りにおちた。
「目が覚めてぼくがいなかったら、
今日のこと、
夢かと思うかもしれませんね」
ちいさなお客さんと過ごした
まぶしい時間。
この時間を、
絵の中に閉じこめたくて。
ぼくは、
しっかりと吸いこんで
家に帰った。
大きくなった男の子が、
今日のことを感じられるような、
そんな絵にしたいと思った。
****
男の子が
下絵を描いてくれたので、
パネルを持ち帰ったぼくは、
ほとんど何もしていない。
「太陽」を描いて、
色を塗っただけ。
ほとんどが
男の子の手によるものだ。
今回のこの、
お客さんからの「提案」は、
言葉にこそ出されてはいないけれど、
男の子に対する愛情、想いが
いっぱい詰まったものだ。
だからぼくは、何もしなかった。
男の子の描いた線。
それをすべて肯定した。
肯定こそが愛。
肯定こそ尊重。
言葉じゃない。
行為でそれを表したい。
それを絵の中に閉じこめて、
何年も何十年後にも
色あせないようにしたい。
ご両親の想い。
それが伝わる1枚の絵。
記憶。思い出。時間。思い。
愛情。瞬間。記録。保存。
今回、
この仕事を受けた時点で、
目的の半分以上は
達成できていた気がする。
だからぼくは、
何もする必要がなかった。
何も考えず、
だた、思いを閉じこめた。
絵の中に時間を閉じこめた。
男の子の描いた線。
自室で一人、絵を描きながら、
男の子と一緒に遊んでいるような
感じがした。
おもちゃで遊んで、
おやつを食べて、
わいわいおしゃべりして。
たのしくて、尊い、
ゆたかな時間。
そんなことを思っての、
すごくたのしい「お絵かき」だった。
*****
これまでにも、
いろいろな依頼、
いろいろな注文があった。
たいていは「お任せ」なのだけれど。
飼っていた犬の絵を描いてほしい、とか、
お店の絵を描いてほしいとか、
車や建物、お花の絵など、
いろいろな「オーダー」があった。
亡くなったおばあちゃんの書を
絵にしてほしい、という注文もあった。
青いギターを弾く人(2009) |
エッフェル(2012) |
エッフェル2013(2013) |
月とノートルダム(2013) |
旅の風景(2016) |
心のなかに住む動物(2017) |
きぼうの子(2017) |
お菓子のお店(2017) |
花一輪(2017) |
りんごが大好き(2017) |
ウメちゃん(2019) |
ふーちゃん(2020) |
つばめ(2020) |
田中てつさん書(2021) |
松と992(2023) |
本当にいつも、
たのしい依頼ばかりで、
毎回わくわくしながら、
完成するのを楽しみに描いている。
そして毎回思う。
最高の1枚が描けたなと。
描き終えたとき、
そう思えなくなったら、
もう描かない。
そんな思いも含めて、
何年たっても色あせないよう、
絵の中に時間を閉じこめる。
想いを、記憶を、出来事を、
いまこの瞬間を、閉じこめる。
自由に描く絵も好きだけれど、
注文や依頼で描く絵も、
やめられない。
これが何枚目の絵の絵なのか、
何作目の注文なのかとか、
そんなことはわからないけど。
最高の一枚が
描けたということだけは、
はっきりとわかる。
ぼくは、ただ絵を描く。
何も考えることなく、
いい絵を描く。
それがぼくの「仕事」だ。
芸術やアートではなく、
料理や花のように。
自分がいいと思う絵を描いて、
人によろこんでもらう。
それが「絵描き」の仕事だと、
ぼくは思う。
< 今日の言葉 >
全体的に白い、
パフェ的なものが運ばれてきて。
「こちらの、上の部分が
ミソーになってるんですよ」
「へえ、ミソぉ・・・」
「はい」
名古屋だから、ミソかと思った」