『ロボットでした』
「ゆらゆら帝国」の作品に、同名の曲があるけれど。
幼少から青年期の自分を思い返すと、
まるで「ロボット」のような感じだった。
ロボット。
映画『メトロポリス』の「マリア」をはじめ、
サイボーグ009やダイターン3(スリー)、
『おれは なみだをながさない
ロボットだから マシンだから』
で、おなじみのグレートマジンガー。
巨大で合体するロボットもいれば、
便利な道具で助けてくれるネコ型ロボットもいる。
人間への安全性。
命令への服従。
自己防衛。
これは、
アイザック・アシモフ先生の記した「ロボット三原則」。
現実には、人の操作(オペレーション)に従い、
仕事や作業を正確にこなす、
各種のロボットが活躍している。
ロボット。
ぼくがここでいう「ロボット」は、
お掃除とかをしてくれるロボットではなく、
どちらかというとグレートマジンガーのような感じに近い。
操縦者(パイロット)が乗り込むかたちの、
人形(ひとがた)ロボット。
命令に従順ではあっても、
わがままな「パイロット」の言うことしか聞かない、
困りもののロボットである。
「ロボット」と自分。
世代でいえば、ガンダム世代。
グレートマジンガーは、夕方や夏休みの再放送で観ていた。
そういった外的な刺激が
影響しているのかどうかはわからないが。
当時の自分には、ほかに形容しようのない感覚だった。
その「感覚」というのは、
まるで自分が「巨大ロボット」で、
そのなかに自分が乗り込んで、
「巨大ロボット」を操縦している、といった感覚だ。
言い替えると、
自分のなかにまた「小さな自分」がいて、
それが等身大の自分を動かしている。
そういったほうが、
わかりやすいかもしれない。
グレートマジンガーでいうところの「剣 鉄也(つるぎ てつや)」、
ダイターン3でいうところの「破嵐 万丈(はらん ばんじょう)」、
トライダーG7でいうところの「竹尾 ワッ太(たけお わった)」。
ぼくのなかにいる「小さな自分」こそ、
本当の自分であり、それがぼく自身である。
「小さな自分」は、
顔のちょうど真ん中あたり、
目と目のあいだくらいの場所にいる。
ときどき胸のあたりに下がったりするものの、
顔の真ん中あたりが定位置だ。
いま、あえて大きさを説明すると、
15〜20センチくらいの身長で、
立っているのか座っているのかは定かではない。
ともあれ、
その「本当の自分」である「小さな自分」が、
両目の穴から外の世界を見て、
音を聞き、匂いを嗅ぎ、
いろいろ感じて、指令を出す。
すると「等身大のぼく」がそのとおりに動いて、
外の世界からまた新たな情報を拾い集める・・・
といった具合に。
物心ついたときからずっと、
そんな感覚が常にあった。
四六時中意識していたわけじゃないけれど、
それをつよく感じたり、
あまり感じなかったり。
忘れている瞬間もきっとあったにちがいないが、
とにかく、自分は「等身大の自分」を操る
「パイロット」のような存在だと感じていた。
そう。
ほかの人のことは、わからない。
まして「感覚」については、なおのこと。
きっとみんなもそうなんだろうと、
疑うことなく思っていた節もある。
ロボット。
ガンダム的にいえば、モビルスーツ。
パイロットのぼくは、
いつでもすこし距離を置いて、
外の世界を感じていた。
たとえば生活のなかで。
「どうしてこのようなことをせねばならんのだ?」
と、素朴な疑問を抱いたとしよう。
すると、パイロットである「小さなぼく」は、
しばし考え、沈黙する。
となると自然、
「等身大ロボット」のぼくも沈黙する。
思考が停滞すると、パイロットは、
顔のあたりから胸のあたりへと下がっていったように思う。
そんなとき、誰かに「こうしないといけないんだよ」とか、
「いいからこうしなさい」というようなことを言われると、
ロボットとパイロットとの距離が一気に広がり、
外界の刺激がみるみる遠ざかって行く感じがした。
遊離感。
・・・ここまで書いて、ふと思った。
このことを、
以前に書いたか、少しふれたか、
それとも人に話しただけなのか。
記憶は曖昧もこみちだけれど、
書いたついでだ、
このまま突っ切らせてもらおう。
さて。
パイロットとロボットの関係。
不本意なことや理解不能なことが起こると、
外界との交信をゆるやかに断ち、
パイロットの自分は「離脱」してしまう。
いうなれば、
座席ごと脱出する「射出脱出」のような感じだが。
もうすこし有機的な曖昧さで、
すうっと消えていく、蒸気や煙のようでもある。
こういうとき、
感情はもとより、等身大の自分の表情、
特に「目」が「死んでいく」のが自分でもわかった。
誰かがおもしろいことを言ったとして。
それがおもしろければ、笑う。
けれども、その「おもしろいこと」が、
誰かの言ったものの借用だったり、
テレビの誰かのまねごとだったり。
そういうときには、くすりとも笑わない。
もっと言えば、
感情が停止していく感じになる。
当時はそれを「感覚」で感じていたのだが。
いま、あえてそれを説明すると、
「その人がそのとき、
その状況で言った(やった)からおもしろいのであって、
それをいま、まったく別の人がやったところで、
独自性も状況も無視したただのまねごとでは、
何のおもしろみもないではないか」
と、いうことである。
借用するなら、上手に使ってもらいたい。
当時は「ちがうなぁ」のひとことでしか
説明できなかったが、
そんなふうに感じていたのは確かだ。
笛吹けど踊らず。
みんながげらげらたのしそうに笑っていても、
自分だけはまるでおかしくも思えない。
それがさみしいとか、
疎外感を感じることもなく、
「なにがおもしろいのだ?」
と、首をかしげるばかりだった。
たとえば、
クラスの大半が夢中になるような、
そんな「流行」があったとしよう。
みんなは、それについて熱心に話し、
それにまつわる情報や商品を買い集め、
熱心に追いかける。
たいていの場合、
ぼくにはそのよさがわからなかった。
たいがい「流行」から「落ちこぼれ」てしまう。
マンガでいえば、
『キン肉マン』や『北斗の拳』など、
たまたま興味が重なったものについて話してみても、
共感できるものが少なかったりして。
もちろん、共感できる友もいたのだが。
多種多様。十人十色。
受け取り方がちがうのは
しごく当たり前なはずなのに、
当時はそれが理解できなかった。
「どうしてそんなところがおもしろいのだ?
もっと、これこれこういうことを話したいのだが」
そんなとき、
パイロットの自分は「逃避」する。
等身大の自分を残して「離脱」する。
取り残された「等身大の自分」は、
必死に理解(共感)しようとしながらも、
死んだような目をして、
ただただ「へえ」とか「ふうん」とか、
実りのない返答をくり出すばかりだった。
そして後日、
パイロット家原少佐は、
等身大ロボットの自分を操って、
本屋の片隅にある『仮面ライダー怪人大全集』や
『AKIRA』などを買うのでありました。
はたしてこの感覚が、
いつごろはじまったのか。
覚えていないだけで、
キャベツ畑でおぎゃあと生まれた時からすでに、
この感覚はそなわっていたのでしょうか。
いちばん古い記憶では、
ふたば幼稚園に入ったころ、
というと、4、5歳のころだ。
そしていつごろそれは、
なくなったのか。
最後に覚えているのは、
中学生のころだ。
高校に入ったころにはもう、
それを感じなくなっていた気がする。
感じなくなった、
そのきっかけは、なんだったのか。
この、ロボットのような感覚も、
30歳をこえてからたまたまそういう話題になり、
人に話してみて初めて「個人的な」ものだとわかった。
この遊離感を「逃避」と呼ぶのか、
はたまた「拒絶」と呼ぶのか。
呼び名よりも、その現象こそが本質。
自分はずっとロボットだった。
とても「従順」とは言いがたく、
パイロットの言うことしか聞かない、
困ったロボット。
ロボットだけれど、
たのしくわらい、夢中になり、
ときには泣いたり、怒ったり。
切れば血も出る骨もある。
〽南蛮鉄のぉ〜お、骨がぁあるぅ〜。
犬と話ができると真剣に信じて、
夢みたいなことばかり考えて、
そう思ったら
そうだと言って聞かないパイロット。
パイロットは、
ぼくの「心」だったのかもしれない。
安全。服従。自己防衛。
便利な道具も出せないし、
地球の平和のために悪と闘ったり、
目からビームを出したり
空を飛んだりはできないけれど。
パイロットの言うことは、絶対に聞く。
パイロットの言うことしか聞けない、
わがままで従順なロボット。
「ワタシハ、ダレ?」
もしかするとまだ、
ぼくはロボットなのかもしれない。
いかにもややこしく
めんどうなパイロットを乗せた、
困ったロボットである。
< 今日の言葉 >
ルマンドの破片と、
えんぴつの削りかすはまぎらわしい。
(『うっかりまちがえて食べちゃった!』の巻)