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愛知県一宮市、
三岸節子記念美術館でのグループ展。
12日間にわたる展示でしたが、
おかげさまで大盛況のうち、
無事に終了いたしました。
ご来場いただいたお客さま、
貴重なお休みの中わざわざお越しいただき、
本当にありがとうございました。
先回の東京の反省をふまえ、
今回は毎日会場に滞在したおかげで、
たくさんのお客さまとお会いすることができました。
にぎわう会場の中、
ゆっくりお話できなかったお客さまも
いらしたかと思います。
まだまだ対応力不足の家原ですが、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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今回のグループ展は、
実行委員の方からお声をかけていただき、
参加に至った。
ふだん、ひとり好き勝手
わがままにやっている自分にとって、
グループ展という場は、
いろいろと学べる場所なので、
収穫も多い。
今回は特に、いろいろなことを学び、
本当にたくさん、感じることができた。
今回のグループ展へ参加するにあたり、
個人的な思惑があった。
「1枚の絵でどれだけ伝えられるか」
90×90センチの平面作品1点。
よけいな装飾を排除して、
作品1枚のみの展示で、
どれだけの「圧」を伝えられるか。
そんなことを試してみたくて、
準備期間の3カ月弱、
1点のみに向かいつづけた。
画材は、
これまで色鉛筆が中心だったけれど、
今回はエナメル塗料で描いてみた。
2015年に岐阜で展覧会を催したとき、
居室の壁面、天井、床にペンキで模様を描いたのだが。
赤、青、黄、白、黒、
5色の塗料を調色して色をつくり、
そのときとおなじようにして
1枚の絵を描いてみたかった。
今回、自分の「やってみたい」を試してみたくて、
ある種「わがまま」にやらせてもらった。
展示場所も、
自分だけ広く壁を使わせていただき、
真っ白で大きな壁面に1枚、
ぽつんとぼくの絵だけを飾った。
グループ展だからこそできる、
ひそやかな挑戦だ。
搬入の日、
設営が終わったぼくの作品を見て、
主催者の方にこう言われた。
「これだけ? 今回はさみしいね」
その方の印象としては、
おそらく、2年前の岐阜の会場や、
これまでの展覧会の印象がつよかったのかもしれない。
そう言われて見てみると、
たしかに自分でも、
「うーん、小さかったかな」
と、思いかけたが。
ひとまず明日からの「本番」でじっくりながめて、
もう一度たしかめてみることにした。
絵の題名は《ひとつの国》。
翌日、会場で見た自分の絵は、
たしかに大きくはなかったが、
けっして小さくはないと思った。
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ぼくは、絵を、
じっくり見てもらいたいと思っている。
じっとながめて、ぼんやりしながら、
あれこれ思考を泳がせてほしい。
絵のなかを旅する感覚。
むずかしいことは抜きにして、
思い思い、自分の感覚で、
絵と、遊んでもらえたらうれしい。
白い大きな壁面に、ぽつんと飾った1枚の絵。
1点だからこそ、
じっと向き合い、じっくり感じてもらえるのでは。
だからこそ、白い壁に1枚だけ、
見おろしたり見上げたりするのではなく、
見る人と向き合う高さで飾りたかった。
そんな、小さくて大きな「挑戦」。
会期中の12日間、
会場に来られたお客さんから、
自分のたしかめたかかったことの「こたえ」が聞けた。
思い思いの感想や見え方。
発見や気づき。
わくわく、どきどき。
たのしい気持ち。
時間。色。かたち。
絵の前を素通りする人、
立ち止まって見入る人。
ためしたいことがためせて、
伝えたかったことが伝わったし、
それ以上のものも感じ取ってもらい、
教えてもらうことができた。
ある日、赤いサッカーのユニフォームを着た、
小学校低学年くらいの男の子が来場した。
背番号10番の彼は、会場に入るなり、
立ち止まることなくぐるりと場内を回っていたのだが、
ぼくの絵の前までくると、ぴたり足を止めた。
真剣なまなざしで
吸い寄せられるように見入っている彼に、
彼の母親らしき人が、
「何、この絵が気になるの?」
とたずねた。
彼は視線をはずすことなく、
そのままの姿勢で黙ってひとつうなずいたあと、
しばらくじっとぼくの絵と向き合っていた。
また別の日、
親御さんに抱っこされた赤ちゃんが、
ぼくの絵をじいっと凝視していた。
ときどきぼくの顔を見て、
「ほう、きみが描いたのかね」
と、言わんばかりに絵とぼくを見くらべて、
また視線を絵のほうに戻して、
じいっと見つめつづけていた。
また別のある日。
やや背中の丸い年輩の女性が、
ぼくの絵の前に立ち止まって、
声をはりあげた。
「いやぁ、すごいねぇ! いいわ、これ!」
ふり返った女性は、
ぼくがその絵を描いたと知ると、
さらにうれしそうにつづけた。
「こっちかこう見ると、ほら、
ずうっとここがつづいて見えるでしょう。
こっちからこう見ると、ここがぬけて見える。
すごいねえ。本当にすごいわあ、これ」
言いながらその女性は、
「絵を見てたら体がぽかぽかしてきた。
体がすっごくあったかくなって。
もう、あつくなてきちゃった」
と、羽織っていた上衣を脱ぎはじめた。
サッカー少年、赤ちゃん、
おばあちゃん。
3名とも、おせじにも美術に詳しいほうではなさそうだが。
だからこそ、その反応はすごくうれしかった。
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会場には毎日11時に着くよう、
車で「出勤」していたのだが。
黄金週間のなか日、
お休みということもあり、
まるでお祭りのように道路が混んでいた。
このままでは11時に
間に合わなくなりそうだ。
携帯(電話)も
カーナビ(ゲーションシステム)も持たないぼくは、
古びた(紙の)地図をめくって、
裏道をさがした。
通ったことのない県道だが、
なんとか会場に行けそうだ。
よしとうなずくと、
渋滞のしっぽから離脱して、
県道へ折れた。
快適な走行で、車が風を切って進む。
これなら11時に間に合いそうだ。
見なれぬ風景は広々とのどかで、
並走する国道の混雑がうそのようだった。
途中、コンビニエンスストアに寄り、
煙草を買って車に戻った。
運転席に座ってキーを回す。
と、何も言わない。
「うんともすんとも」
それすら言わない、無音の状態。
もう一度回してみるも、やはり同じ。
今回にはじまったことではないが。
1971年生まれ、
齢46歳の車は、ときどき具合が悪くなる。
周囲を見渡す。
公衆電話も見当たらず、
バスや線路も見当たらない。
煙草をくゆらせ、しばし黙考。
『私を待ってる人がいる』(いい日旅立ち/山口百恵)
そう。
会場に行くのが最優先。
コンビニ(エンスストア)の店員さんに断りを入れ、
一路、会場へ、レッツラゴー。
で、ここはどこなのか。
先ほど煙草を買ったレシートは、
よりによって車の後部座席にぽいと置いてきた。
現住所どころか、
車の置場の所在地すら分からない。
それでも。
「なんとなく、こっちのほう」
そんな曖昧模糊(あいまいもこ)な手がかりを頼りに、
両の足を前へ前へと進ませる。
見なれぬ風景。すごく牧歌的。
青い空、白い雲。
田んぼや畑の緑が萌ゆる。
ずうっとつづく、まっすぐな路(みち)。
畑仕事の老夫婦。
庭で洗車をしているおじさん。
信号の地名看板は、
いくつか越えても、
同じような地名がつづく。
「◎◎町△△方」
「◎◎町☆☆方」
名字を残して名前だけが変わる、
兄弟のような地名。
何度となく、
ヒッチハイクをしようかと思いかけたが、
自分の風貌に自信がないため断念。
少し道が細くなり、
まっすぐつづいた道から西へと進路を変えた。
あ!
お世話になっている歯医者さんの看板発見!
けれどもまったく、見知った風景ではない。
煙草を吸おうと思ったら、
オイルライターのオイルが枯渇していて、
ジジジと火花が散るだけに終わった。
予備のライターおよびマッチは車の中。
ひとり、ふふふ、と笑って、
手持ちのお茶で喉をうるおし、
いざ、先へと足を進めた。
時刻はすでに11時20分すぎ。
テレフォンカードはある。
何より、公衆電話がない。
たとえ連絡しようにも、
案内チラシに書かれた美術館の番号以外、
グループ展参加者の番号は誰ひとり知らない。
しばし歩くと、
なんだか見知った風景に
近づいている雰囲気がしてきた。
・・・という印象も、おそろしく曖昧で、
不確かで直感的なものでしかなかったが。
なんとも、その啓示どおり、
見知った道へとつながって、
おなじみのバス通りへとたどりついた。
ふだん、いろいろ道草をしているおかげで、
裏通りからも表通りへとたどり着ける。
そう。
こうやっていつも「なんとかなる」おかげで、
まるで反省のない、こまった男なのであります。
会場に着いたのは11時40分ごろ。
結局、1時間ほど歩いたことになる。
あとのことは考えず、
ひとまず会場入りだけを考えて到着して。
そのことは忘れて、
たくさんのお客さんとお話をした。
知り合いであるお客さんが来られて、
絵の話はそっちのけで、
今朝の冒険(アドベンチャー)を報告すると、
「帰りはどうするの?」
と、心配してくださった。
まだ、どうするのかは考えていないが、
ひとまず、車が動くかどうか試して、
動かなかったらまたそのとき考えるということを話すと、
美術館の閉館時間にまた来るから、
車が置いてある場所までひとまず乗せていってあげるよ、
という、ありがたい言葉をいただいた。
夕方、5時。
約束どおり、
知人夫妻が戻ってきてくれた。
奇しくも、
そのご夫妻が乗る車は、ニュービートル。
ぼくの車は、旧(キュー)ビートルだ。
歩いてきた記憶を頼りに、
車を置き去りにしてきたコンビニ(エンスストア)まで向かい、
迷うことなく無事に到着した。
「車って早い」
マジで実感。
マジ卍(まんじ)。
車に乗り込み、
おそるおそるエンジンをかけてみる。
ドルン、と初爆が起こり、
何ごともなくエンジンが始動した。
「これは止めてもまたかかるやつだ」
またもや何の根拠もないが、
20年以上乗りつづけてきた経験からか、
あっさりエンジンを止めて、
救世主のご夫妻とごはんを食べに行くことにした。
会期中、
朝7時に起きてすぐ朝ごはんを食べて、
閉館するまで何も食べないまま、
という日が少なくなかったが。
この日もそうで、
ぼくは、とてもはらぺこだった。
市内中心部の真清田(ますみだ)神社。
その脇にある定食屋さん。
初めて行ったのは、もう何年前か。
以来、何度か行ったことのあるお店だ。
いつもなら迷わずハンバーグを頼むのだが、
ここのところ、
ハンバーグを立てつづけに3回食べていたので、
迷いながらもチキンカツ定食を頼んだ。
いつもにもまして今日は、空腹だった。
それを差し引いても、
すごくおいしい晩ごはんだった。
助けてもらった、にもかかわらず。
おふたりに、すっかりごちそうになってしまった。
「救世主(メシヤ)なのにまた飯屋で、Wメシヤですね」
お世話になったご夫婦に、
そんな気の利かないお礼しか言えない、家原であります。
ふたたび車の元へと送っていただいて。
元気よくエンジンが回ったことに安堵し、
コンビニ(エンスストア)の店員さんにお礼を言って、
すっかりお世話になったご夫妻にもお礼を言い、
おかげさまで無事、帰宅することができたのでありました。
そう。
こんなふうにして、
会期中はいろいろな方々に、
いただいてばかりだった。
うれしい言葉をかけていただいたり、
おいしいお菓子を差し入れていただいたり、
おもしろいお話を聞かせていただいたり。
いろいろなものを、たくさんいただいた。
みなさま、
本当にありがとうございました。
★ ★ ★ ★ ★
グループ展は勉強になる。
だから、ときにはいいと思う。
今回のグループ展では、
言葉にはできないくらい、
本当にいろいろなことを感じ、いろいろなことを学べた。
いろいろな人がいて、
いろいろな考え方がある。
いろいろなやり方、いろいろな在り方、
いろいろな生き方がある。
グループ展では、お客さまだけでなく、
ほかの作り手の方々からもたくさん学べる。
自然を見つめ、うつくしい版画をつくる人。
敬愛する人を追って、人物を彫りつづける人。
料理人の仕事をしながら、制作をつづける人。
自分の手のひらを見つめて、それを描きづける人。
ストレスの権化の夢を見て、それをぬいぐるみとしてつくる人。
いろいろな考え方、表現、在り方、
いろいろな世界、価値観、自分のかたち。
人から学ぶことは多い。
みんなちがうし、
みんなおなじ。
そして、
作品はうそをつかない。
その人がそのまま、
その人のそのままが、
作品に出る。
作品は、その人そのものだ。
作品は、人を映す鏡でもあり、
自分を映し出す鏡でもある。
今回、いろいろな人の作品を見て、
本当にそうだと思った。
いままでできなくて
今回の作品でできたことは、
いまの自分の成長のあらわれだ。
作品の未熟さは、
いまの自分の未熟さ。
できたこと、できないこと。
たりないもの、よぶんなもの。
いまの作品が、いまの自分。
それが、すべて。
作品は、うそをつかない。
そんなことを、すごく思った。
たくさんのことを、いっぱい感じた。
今回なぜ、
そんなにいろいろなことを感じ、
学ぶことができたのか。
それはやっぱり、
毎日会場にいて、生で感じたこと。
それに尽きる。
会場では、約束や連絡もなく、
知っている人、知らない方が、
ぼくを迎えてくださった。
会期中の12日間、
白くて大きな壁に飾られた自分の絵を見て、
自分自身、いろいろ感じた。
たたかう相手は自分自身。
ほかの、誰でもないのだと。
それがたしかめられて、
本当によかった。
くどいようだが。
今回のグループ展では、
いまの自分では言葉にできない、
名前も付けられないような感覚的なものも含めて、
本当にたくさんの収穫があった。
「おはようございます」
美術館入口、毎朝あいさつをしても、
ついぞ一度も応えてはくれなかった、三岸節子像。
あいさつは返してくれなかったが、
毎日会場に向かうぼくに、
きっとごほうびをくれたにちがいない。
拝啓、三岸節子さま。
ありがとうございました。
ぼくもいつか、
銅像が立ててもらえるくらい、
りっぱな絵描きになってみせます。
とにもかくにも。
ご来場いただいたお客さま、ならびに、
興味を持っていただいた方々へ。
このたびは本当に、ありがとうございました。
一宮三岸節子記念美術館皆勤賞家原利明
< 今日の言葉 >
「ヒットもないし、ぱっともしない」
(歌手または作り手として言われたくない言葉)