2016/06/30

学芸会のサメ
















幼少期や学生時代に、

おそらく誰しも経験したことがあるであろう、学芸会。


ぼくは、学芸会が苦手だった。


ふだん、どちらかというと目立つほうで、

何もしていないときでも

誰か(特に先生方)に見られているぼくではあったが。


学芸会という慣例行事が、

どうしても好きになれなかった。




学芸会の記憶。



転入した幼稚園での初めての学芸会。


題目は『うらしま太郎』。

そのなかでぼくの役は「サメ」だった。



幼稚園時代のぼくは、

小学校以降の自分と比べて

引っ込み思案で内向的ではあったが。

頭のなかは、それこそいま現在と

まるで変わっていない。


いや、いまよりむしろ、

こだわりがつよくて、

ひねくれた気質だったともいえる。



「なんで『うらしま太郎』なのか。

 そもそもなんで “ 学芸会 ” なんていうものを

 やらなくちゃいけないのか」



なぜ、どうして、が

うち寄せる波のごとく去来する。


そして思う。


「いやだなぁ、やりたくないなぁ」



配役決めの日。

特別、乗り気でもないその催しものに、

率先して手を挙げるわけでもなく。


気づくと台詞(セリフ)の少ない、

物語の進行とはさして関係もないような端役が残り、

残された「ぼく」にその「役」が

割り当てられる。



それが「サメB」の役だった。


「A」でもなく、「B」。


サメAの台詞に追従するだけの、

主体性もなければメッセージ性もない、

「サメB」だ。



選ぶというより残りもの的な配役だったが、

別段、その役に不満はなかった。


学芸会自体に乗り気でないのだから、

不満こそなければ、よろこびもなかった。


けれど、「サメ」ならまだ、

ちょっとかっこいい気もするし、

まだましかな、とも思った。


そう思いつつも。


「学芸会がはやく終わればいいのに」


そんなことばかりを考える、

消極的で逃げ腰な、

こまった5歳児の家原(サメB)でありました。




学芸会の準備。


おけいこ(練習)の時間は本番よりもいやだったが、

小道具や衣装をつくる時間はたのしかったし、

むしろ好きな時間だった。


そのあいだじゅう、

絵を描いたり、つくったりしていいのだから、

これほどたのしい時間はない。



「サメB」の役は、

先が3本に分かれた、

でっかいフォークのような「やり」を持って、

おでこに「サメ」の絵のついた「かんむり」をつける。



ここでまた、

ぼくのなかの「おむずかりマン」が目を覚ますのであります。


「『やり』なのに厚紙? アルミホイルでくるむの?

 ぜんぜん『やり』っぽくない!」


「おでこに『サメ』の絵? しかもサメの全身の絵?

 これをあたまにつけるだけで『サメ』なの?!」



・・・・もちろん、当時の語彙(ごい)は、

上記のようではなかっただろうが。

気持ちのうえでは、まったく上記のようなことを思った。



その気持ちをどんな呼び名で呼べばいいのか、

それは分からないけれど。


ぼくには「やり」が「まがる」のがゆるせなかった。

金属なのに「紙」でつくるのがいやだった。


アルミホイルじゃなくて、

七夕さまのお祭りのときに使った、

銀色のおりがみだったらどんなにかいいのに。


金属の板を切ってつくったら、

どれほどかっこよくなるだろうか。



厚紙でつくった「やり」は、

案の定、おけいこを重ねるごとによれよれと折れ曲がり、

きらきらと光を放っていたはずのアルミホイルも、

いくつものしわを刻んで、

鈍く光を照り返すだけの「銀色の紙」に変わっていった。



そして「サメ」の「かんむり」。


この「かんむり」とは、

帯状に切って環っかにした厚紙の両端を折り曲げ、

そこに輪ゴムをはさんでホッチキスで留めたもので、

その紙の「かんむり」を

孫悟空の輪っかのようにかぶる。



画用紙に油性ペンで輪郭を描いて

クレパスで彩色したサメの絵を、

厚紙の台紙で補強して、

それを「かんむり」のおでこの辺りに貼りつけて完成。



その「かんむり」の形状は、

いくらがんばってつくっても、

およそ本物のサメとはほど遠い仕上りになる。



「だって、おでこにサメの全身が描いてあるんだもん!」



この気持ちも、

どういう名前をつけたらいいのか分からないけれど。


「サメ」の役に決まり、

「サメA」のYくんといっしょに先生から説明を聞いて、

「サメ」の役が「かんむり」をかぶるだけの

仕上りになることを知ったとき、

ものすごくはずかしく、ひどく情けないような気持ちになった。



衣装はなく、白の長袖シャツに赤い蝶ネクタイ、

吊り紐のついた紺色の半ズボンに、

白いソックス、上履き。


たしかに色合いだけはサメっぽいが。

「かんむり」以外は、ただの幼稚園児だ。



完成度。


いまにして思うと、

そんな言葉がしっくりくる。


ぼくの演じる「サメ」の姿には、

完成度がまるで感じられなかった。




てっきりぼくは、

青くて先の尖った帽子状のサメの頭をかぶって、

背中には三角形のヒレがついて、

手なども青い靴下的なものを「履く」のだろうと、

そんなふうに想像していたのだけれど。


そんなぼくのサメ像をあっさり裏切った、

「かんむり」だけの「サメ」。


そうと分かっていたら、

ほかの役にすればよかった。


現に、主役である「うらしま太郎」は、

ちょんまげ状のカツラをかぶり、

浴衣のような上着をはおって、

本物の藁(わら)でできた腰蓑(こしみの)を巻き、

籐(とう)で編んだ魚籠(びく)を腰に据えつけ、

手には竹でできた本物の釣り竿を持っていた。


(うる覚えだけれど、
 おけいこのたびにちらかる腰蓑の、天然素材の藁が、
 途中からビニールひもを裂いてつくった、
 「ポンポン」状のものに変わった気がする)



竜宮城の「おとひめさま」しかり。

「おじいさん」「おばあさん」しかり。


やりたいかどうかは別として、

「カメ」の役も、

タイツやダンボールを駆使して、

かなり「カメっぽい」仕上りだったように思う。



けれども、もう、引き返せない。


ぼくの「サメライフ」は、

すでにその歩を進めてしまったのだから。



「サメ」の仕上りに締念(ていねん)を抱いたぼくは、

同時に「サメ」への愛着も失った。


・・・・本当に、わがままで身勝手な、

こまった5歳児の家原でありました。




代わりに、

というわけでもないが。



『うらしま太郎』の物語においても、

重要な小道具のひとつである「たまてばこ」。


その「しかけ」について、

各組の先生方が額を寄せあい、あれこれと思案していたとき、

その輪にそっと近づいた。



「たまてばこを開けたら、

 うらしま太郎がふっと息を吹きかけて、

 中の小麦粉をとばして “おじいさん” になるのはどうか」



さっそく試す、先生方。


思ったように粉は飛ばない。

ちらかり、よごれることが好ましくない。

“おじいさん” になるのに、コツがいる。

しかも、くるしい。



「ドライアイスはどうか」


試すまでもなく、意見交換で却下。



当初は、たまてばこが「煙幕」のような役割を果たして、

その裏でうらしま太郎がおじいさんに「変身」する、

ということを考えていたようだったが。


たまてばこはたまてばこ、

おじいさんへの変身は、

うつむいたときに小道具で「おじいさん顔」へと変わるようにする、

というような格好になった。


実際の本番は、たしか、

耳に輪ゴムでかける形の、厚紙に綿毛を貼りつけてつくった

白い眉毛と白いひげをすばやく装着する、

という感じだったように思う。



「けむり」がもくもくととびだす「たまてばこ」。



どういう経緯かは忘れたが、

その「たまてばこ」をつくらせてもらえることになった。



担任の先生は、

運動会の国旗や紙しばいづくりなどで、

ぼくが「図画工作」が得意なのを知っていた。


何となくではあるが、

担任の先生が後押ししてくれたような記憶はある。



もくもくと、けむりがとびだす「たまてばこ」。


ぼくは、ない知恵を絞って、

「わた」と「はりがね」でけむりをつくった。


ふたを開けると、

ばね状にぐるぐると巻いた針金が

びよよーん、と反撥して、

「けむり」に見立てた白い綿がゆれおどるという仕組みだ。


ふり返ってみて、

完成度、という点では、

稚拙だし心もとない仕上りだったと思うが。


箱のなかに、

径の大きさを変えて

強弱を変えたばねを複数配置して、

けむりのうごきに変化をつけたところだけは、

わがままでややこしい気質の5歳児をほめてやりたい。



そんなこんなで迎えた学芸会、本番当日。


台詞を忘れたり、

出番をまちがえたり。


笑ってごまかしたり、

泣きべそをかいたり。


幼稚園児のやることだから、

きっとそれがほほえましいのだろう。



ただ、ぼくにはそれが、

よく分からなかった。





★ ★






小学校にあがって。


それでも学芸会は存在していた。


ぼくたちの小学校では、

学芸会の年と図画工作展の年が交互に行なわれていた。


1年生のときが学芸会だったら、

翌年、2年生のときは図画工作展。

で、次の3年生が学芸会、4年生が図画工作展、

5年生が学芸会で、6年生が図画工作展という、

ビエンナーレなスタイルだった。


ぼくらの学年は、

1、3、5年生の奇数年が学芸会の年だった。


記憶ちがいでなければ、

学芸会には、ちょっとした「投票」のようなものが

あったように思う。


劇を観終わったあと、

いちばんよかった学年の劇に丸印をつけて投票する、

といった程度のものだったが。



学芸会について、

ある先生がこうこぼすのを耳にした。



「最終学年(6年生)のときに学芸会をやるほうが

 有利に決まってる。うちらの年は、最後が5年だから不利だ」



ぼくは、それを聞いて、

ふうん、と思った。


先生でもそんなふうなことを

思うんだな、と。



1年生のときは『おおきなかぶ』。

役は「まご1」。


小学生になって、やんちゃで活発にはなったものの、

幼稚園時と同様の理由で、

学芸会(そしてその配役)には乗り気でなかった。


とはいえ、

役の衣装などはおおむね個々人に任されていたので、

「まご1」の衣装は、

なるべく「むかしっぽい」衣服を選んだ。


たしか、「かぶ」の衣装は、

全身白いタイツ、または体操着で、

緑色の葉っぱをあしらった「かんむり」をかぶっていた。


なるほど、完成度は高かったが。

ぼくは、ぜったいに「かぶ」の役だけは

やりたくなかった。


「かぶ」役をやった

教室のおともだちのみんなには悪いが。

もし「かぶ」の役になったら、

大泣きしてでも役を代えてもらっただろう。



「まご1」の台詞は、


「そんなことないよ、きっと、ぬけるよ」


そのひとことだった。






3年生時の演目は『ムーシ町の音楽会』。


学芸会をやるにあたって、

初めて知った物語だった。


いろいろな虫たちが集まる森の「ムーシ町」なる場所で、

虫たちが音楽会を開くというもの。


音楽会の審査をするのはロボットで、

カブトムシだったかなんだったかは忘れたが、

ムーシ町のなかでもえらくて地位のある虫のボスが、

自分の審査のときだけ有利な採点をするよう

事前にロボットを「調整」して、

いざ音楽会本番に臨む。


けれども、実力と見合わぬ評価に、

その細工がばれて大騒ぎ、

そしてごめんなさい、

といった感じの内容だ。



ぼくの役は「バッタ」。


ぼくは仮面ライダー(旧1号ライダー)が好きだったので、

バッタならいいかな、とも思った。


目立たず、注目も集めない、

群衆のなかの端役。




「バッタ」の役は、

帽子のような形状の、バッタの頭部をかぶる。


その帽子の制作のとき、

ぼくは、風邪で学校を休んだ。


後日、授業後にひとり、

図工室でバッタの頭部をつくった。


担任の先生が見守るなかで、

ひとり「自由に」つくれるバッタの頭。


図工室も、道具も画材も、全部貸し切りだ。



先生から手順を聞いて、

つくりはじめる。


作業が落ち着いたころ、

先生が席を外した。


のびのびした気分でバッタの頭部をつくっていたら、

しばらくして先生が戻ってきた。



「ちょっと、それじゃあ気持ち悪いから」



ぼくがつくった「バッタ」を見るなり、

先生はつくりなおしを提唱した。



「ほかのバッタ役とも、合わせたほうがいいから」



細かくびっしり、ひとつひとつ描いた複眼。

仮面ライダーの上あごのように、

立体的につくった、きざきざの鋭い歯。

しぶく、地味で生々しい色。

そして、床にもつきそうな、長い触覚。



言われてはっとした。


ぼくはまだ、ほかの子たちのつくった

「バッタ」の頭部は、一度も見ていない。


たしかに、気持ち悪いといえば、

そうなのかも知れない。





粘土の授業でも、目玉とか、歯の一本一本とか、

服の縫目とか繊維とか、

細かい部分をつくりこんで先生が「引く」のが分かった。


お面づくりでも、

真っ黒なフランケンシュタインのお面をつくって、

おでこにひとつ、傷をつくった。

そこだけ本物かと思う赤い傷口を見て、

先生が浮かべた困惑顔は、

いまでもはっきり覚えている。



まただ。

思いっきりやると、すぐこうなる。


ついつい夢中になった、バッタの頭。




つくりなおし、というより塗り直し、

描き直し、長い触覚も短く切った。



時間ももう遅くなってきたから、と、

先生にそう促されて。

チューブのままの色を塗った。



図工室にあった「みどり色」の絵具は、

絵具セットの「ビリジアン」とはちがい、

やや明るめで、ビビットな色合いだった。



かぶり物をつけての練習日。


ぼくのなかでは、

衣装も深緑や黄緑色で、

緑っぽく統一する絵が浮かんでいたのだけれど。


ほかのみんなが、

かぶり物以外は「自前の私服」だったので、

ぼくもそれに準じた。


目立ちたくなかったから、

不本意だけどそうした。


けれども結局、ビリジアンではない、

みどり色のバッタのせいで、

群衆のなかで人目を引いた。


担任ではない、

ほかのクラスの先生に言われた。



「おまえ、そんなところで

 目立とう精神を出してもしょうがないぞ」



風邪で休んで、図工室のみどりの絵具が、

時間がなくてやり直して・・・・



いろいろな言葉が浮かんでは消えた。


けれど、結局どれもが言い訳のようで、

口を開けばまた怒られるだけだと口をつぐんだ。



バッタ役は、縦笛で『虫の声』を演奏しつつ、

群れで行進しながら登場する。


台詞を言うときには、

一歩前に踏み出し、言い終わったら退く。



ぼくの台詞は、


「本当だよ。ボスも、はりきっているよ」


のひとこと。



ボスが、何をどう張り切っているのか、

どんな意見に対しての「本当だよ」なのか。

それはまるで覚えていないけれど。



ぼくは、自分の役を全うした。



退場するときにもまた、

陣形を組んだまま『虫の声』を演奏し、

舞台そでへと消えていく。



それが「バッタ」の仕事だった。






5年生になった。



小学校最後の学芸会。


演目は『雨ごい源兵衛(げんべえ)』。

このお話も、学芸会で初めて知った物語だった。


日照りつづきで凶作に見舞われた村の長が、

村人のひとりである「源兵衛」に雨を降らせてくれと頼む。

しかし、雨ごいなどやったこともない源兵衛は、

その願いを断りつづける。

しつこく迫る長に、ついには源兵衛も折れ、

やぶれかぶれで「でたらめな」雨ごいをしてみたら、

偶然にも雨が降ってよかったよかった、といった物語。


(ひとくちメモ:『雨乞い源兵衛』は、上方落語の演目のひとつとのこと)



そのなかでぼくは、

主役の「源兵衛」をやることになった。


その理由は、

親友がその役をやる、ということで、

同じ役をやろうよ、と持ちかけられたからだった。


その親友とは、

3、4年生のとき同じクラスだったが、

5、6年生になって、ちがうクラスになった。



《目立たぬ端役出身の家原、ついに初主演の座に!




こうして『雨ごい源兵衛』の稽古がはじまった。


台詞も覚え、

ちょんまげのために

髪も切らずに伸ばしつづけた。


役が決まって早々、

母に頼んで「もんぺ」もつくってもらった。




そんなある日、

監督/指揮の先生から、


「おまえの役、替える。おまえは庄屋8だ」



と、いきなりの宣告。


理由はよく分からないが、


「いちばん台詞の長い役だから」


というようなことを言われた。



源兵衛」から「庄屋8」へ。



落胆はなかったが、

ものすごく横暴に感じた。



髪も伸ばしたままにしていたし、

もんぺもつくってもらったのに。


ぼくの頭のなかでは、

本番当日を迎える「源兵衛」像が

くっきりとできあがっていた。


だが、もろくもそれが崩れ去った。


ぼくの思い込みだったかもしれないが。

ぼくはその先生に「気に入らないやつ」と

見なされていた感じだった。


自分だけひどくしかられたり、

つめたくあしらわれたり。

そんなものは錯覚だったかも知れないが。



「おまえのスキップ、なんか変だな。

 ちょっとここでスキップしてみろ」


と、学年全員の前で

何往復もスキップをさせられたときには、

心の底からそう感じた。



まぁ、それに見合うくらい、

小学生のぼくは生意気だったんですけどね=♡



鏡映しのぼくは、

「きらいな」人に対しては、

「きらい」だということを全身で表現していたのでありました。


そう。


まるで「怒ってください」といわんばかりの態度で。







それくらいの時分のとき、思った。

というか、気づいた。


学芸会、という催し。


自分が考え出したわけでもなく、

満足しているわけでもない学芸会という習わし。


そしてさらには、

自分が選んだわけでもない演目。



そんな「会」に、

積極的に参加しているんじゃないですよ、

という「意思表示」。



逃げの口実。




こだわりすぎる、

0か100の自分。


やるならやる。やらないならやらない。


納得しないと気がすまない、

自分にとっての「100」じゃないと

気が乗らない、ややこしい自分。



「みんなでいっしょに、たのしく」


どうしてなのかは分からないけど、

なぜだかそれができない自分。


ほかのみんながたのしんでいることが、

ちっともたのしく感じなくて、

ばかばかしくて、

くだらないことに見えたりして。


自分がたのしいと思うことは、

ほかのみんなから見ると

ばかばかしくて、

くだらなくて、

すこしも分かってもらえないことだったり。



みんなと同じことをやるのがいやなんじゃなくて、

自分がやりたいと思えないことをやるのがいやだった。




やりたくないことをやるのは、

すごくかっこわるい。


すごくはずかしい。



その思いがつよすぎた。



「おまえはいつも目立とうとする」


「人とちがったことばかりする」


「ふざけるな。まじめにやれ」



そうやっていつも怒られた。


誤解。



だけど、そのお叱りも

まちがってはいない気もする。


目立ちたくないのに目立ってしまう。

足なみをそろえようとしても、

歩調が合わない。

いつも「ずれて」輪からはみ出る。



そんな自分がいやだ、とは思わなかったが。

何をしても怒られつづける日々は、

さすがにしんどかった。





『雨ごい源兵衛』の稽古期間中。

姉の本棚にあった、

美内すずえ先生の『ガラスの仮面』を読んだ。


たまたま、ではあったが。

ばかなぼくは、


「ぼくも北島マヤみたいな演技で、

 お客さんを感動させてやろう」



と、本気で思った。




学芸会当日。



雨が降ったお礼の祝宴に、

源兵衛をさそいに源兵衛宅を訪れる。

ぼくの演じる「庄屋8」の役どころは、

そんな場面だった。


着物に下駄で、和傘をさして、

源兵衛の家の戸口へ向かう「庄屋8」。


風が強くてあおられているさまを、

杖をふりまわして歩く「寛平じいさん」よろしく、

よろよろふらふらと蛇行しながら、

傘をはげしくゆらめかせ、

酔っぱらいのように遅々とした足どりを進める。



源兵衛、源兵衛はおるかの」



扉を叩くその台詞にも気持ちを込めて、

ばかっぽくてせっかちなようすを表現した。


宴(うたげ)にさそうも、

戸惑う源兵衛は腰を上げない。


まあ、とにかく待ってるから、

というように出ていく庄屋が、

去りぎわ、殺し文句のように言い残す。



「酒もあるでのぉ」



このとき、客席の観客を見渡しつつ、

ねちっこい台詞まわしで、にやにやと笑ってうなずいた。


そのまま、

舞台そでへと消える「庄屋8」。


客席から笑いが起こった。


感動こそ与えられなかったが、

笑いは随所で取ることができた。


観客席の端で見ていた監督/指揮の先生も、

腕組みしながら、白い歯を見せて笑っていた。





★ ★ ★






学芸会の記憶。


中学時代に学芸会はやらなかったのか、

それから先の、記憶はない。



5年生、

小学校最後の学芸会。


そこで、何かをつかんだ、とも思わない。

何かが変わった、とも思わない。


けれども、

ちょっとだけ何かを感じた。


そんな気もする。




怒られてばかりの自分。


みんなと同じことをやるのがいやなんじゃなくて、

自分がやりたいと思えないことをやるのがいやだった。



やりたくないことをやるのは、

すごくかっこわるい。


すごくはずかしい。



目立ちたいわけでもなく、

迷惑をかけたいわけでも、怒らせたいわけでもなく。


やりたいことがやりたい。

ただ、それだけだった。


そんな思いがつよすぎた。



いまの自分はどうだろう。


いまではほとんど、

先生にも怒られなくなった。


先生に怒られなくなったいまの自分は、

はたして、

ほめられるような「いい子」になれたのだろうか。


あいかわらず、

それは分からないけれど。



「本当だよ。

 ボスも、はりきっているよ」



そう。

ボスも、張り切っている。


だからぼくも張り切っていきたいと。



人生の端役にならぬよう、

張り切っていきたい。


一度っきりの大舞台、

自分自身が主役を演じ切り、

自分自身の台詞をしゃべっていきたい。



そう思う、次第であります。







f i n.













< 今日の言葉 >


マルコポーロとタマゴボーロ。

似ているけれど、全然ちがう。


(「世紀の大発見シリーズ」/イエハラ・ノーツ2016より)