2016/03/14

初めてのアルバイト 〜時代遅れの春の思ひ出〜








高校時代、

友人ら2人とともに、

春休みの期間を利用して、

アルバイトをしよう、

ということになった。


高校1年から2年に上がるあいだの春休み。

高校1.5年生のような

半端な身分のぼくたちは、

社会においてもまるで半端な身分で、

アルバイトをするのも初めてだった。



アルバイト先は、ぼくが選んで、

いくつか候補を用意した。



ひとつ目はゲームセンター。

なぜゲームセンターなのか、というと、

たいした理由もない。


重要なのは、立地だった。



繁華街のはずれにあるその店は、

時代から置き去りにされた感じの外観で、

夜になると、極彩色のネオンがチカチカと明滅する。

アメリカ、というよりは、

日本が栄華を誇っていた昭和初期の銀座ような、

そんな顔つきだった。



面接に向かうその足で、

まずは「お客」として、

ひとまず店内を散策する。


外観にこそ感動したものの。


そのお店に入るのも店内の階段を上がるのも

初めてのことだった。


階段を上がり切ったところで、

ふと、目に入った光景。


それは、休憩中の店員さんの姿だった。



上は白いYシャツに黒いベスト、

下は黒いズボンに黒い靴といういでたちの男性は、

両の肘(ひじ)を高くあげて、

何やら必死にかき込んでいた。


白い、プラスチックの容器の縁に、

少し乾いた緑色のワカメが垂れ下がっているのが見えた。

どうやらその男性は、

みそ汁をかき込んでいるらしい。



カーテンのすきま、

フロアから見えるその位置で、

仕事着で正装した男性が一心不乱に

みそ汁をかき込んでいるその姿を見たのは、

時間にしておそらく2、3秒のことかも知れなかったが。


それを目にした瞬間、

ぼくの足は止まり、

くるりときびすを返すとすぐに、

いまきた階段を下りて店の外へと退却した。


「どうした?」


友人のひとりが言った。


「店の人が、みそ汁、食べてた」


はぁ? と、言いたげな友人をよそに、

もうひとりの友人が、

息せき切ったようすでわり込んできた。


「おれも見た。やばかった」


それでもまだ解せないようすの友人を置き去りにして、

ぼくと友人は争うようにして、

今しがた見た光景を描写し、彼に伝えた。


「すごい勢いで食べてた」


「白い、プラスチックみたいな容器だったよな、なぁ?」


「そうそう、たぶん『ユニマット』みたいな
 コーヒーとか飲むカップ。取手が黒かったし、あれじゃないかな」


「たしかに。一瞬、コーヒーかと思ったもんな」



「なんでみそ汁だって分かった?」

と、ひとり取り残されたままの友人。


「乾いたワカメが、びろーんって、貼りついてた」


「そうそう、乾いたワカメが。なぁ」


「おまえも見たのか、あのワカメ」


「おう、見た見た」


意外にしっかり目撃していた友人に感心しつつ、

共感が笑いを誘って、さきほどの光景をあらためて反芻した。


「何よりにおいが・・・。
 煮立った感じの、みそのにおい。
 ちょっとダメだったなぁ、あれは」


10代のぼくは、まったくもってデリケート・ボーイな発言を、

さも正しきことかのように、堂々と公言した。

すると、思いのほか(その光景を目撃したほうの)友人が、


「あ、おれもそれ、嫌だった」


と、まさかの同感を得た。



高校で知り合った彼とは、

つき合いはじめて1年だったが。

その一瞬の出来事を介して、

感覚の、細かくてぎざぎざした部分で

共感できたように思えて、うれしく感じた。


日常生活において

どうでもいいようなことだけれど、

それが意外と肝心なことだったりする。


そんな言葉にできない共感を言葉にするでもなく、

ぼくらはただ、

つい先ほどのみそ汁事件を

興奮気味に話すだけだった。



けれど、それで充分「わかって」いた。

充分に分かち合っていた。




そんなこんなで、というか。


そんな「些細なひと場面」を理由に、

件のゲームセンターでのアルバイトはやめにした。





次の候補。


これまた繁華街のはずれにある、

ハンバーガー屋さん。


繁華街から裏手に入った場所にあるそのお店は、

歓楽地からもほど近い。

すぐそばの表通りには、

おしゃれな若者たちの歩く姿も多く見られるが、

ここ、ハンバーガー屋さんの周辺には、

おしゃれ、どころか、

若者の姿もほとんど見当たらない。


いまではそれほどでもないけれど、

当時はちょっとだけ不安な界隈だった。



とはいえ、

高校生当時のぼくは、

そんなことに気づいてもいなかったし、

気づいていても、

さほど気にも留めなかったであろう。



アルバイト先の候補に選んだハンバーガー店。


行ってみて初めて知ったことだが、

ハンバーガー店の反対側に、

ラーメン屋さんの看板があった。


見ると、入口が2つあって、

一方にはハンバーガー屋さんの看板があり、

そちらから入るとハンバーガー店のカウンターに対面する。

もう一方、ラーメン屋さんの看板が大きく出ている側から入ると、

ラーメン店のフロアにつながる。


店内に壁も仕切りもなく、

中に入ればつながっているのだが。


ハンバーガー店とラーメン店とが共生した、

不思議な構造のお店だった。




ハンバーガー店も、ラーメン店も、

どちらもチェーン店らしいのだけれど。

どちらもここら辺りの地域では見かけない、

聞いたことすらなかった初対面のお店だった。



「こんにちは」


と、店の扉を開ける。



ハンバーガー店でのアルバイト希望を示すかのごとく、

ハンバーガー店側の入口から入った。


「いらっしゃいませ」


と、お客さんのいない客席から

立ち上がりかけた男性に、


「あの、アルバイトの面接で連絡した者ですけど」


と、言葉を継いだ。


こういう役回り(窓口、または切り込み役)は、

たいていぼくの仕事だ。


にわかに機敏さを解いた男性は、


「ああ、はいはい」


と、やわらかな口調でぼくらを見た。


歳のころは50代半ばといったところか。

灰色の髪をオールバックにした、

清潔感あふれるやさしそうな男性。

喫茶店のマスターを思わせるこの男性が

店長だった。



「アルバイト希望は?」


男性は、

3人の中から誰なのかを探す感じで、

言葉を持った。



「ぼくら、3人なんですけど」


「え、3人?」


驚きに動きを止める男性。

眉毛が黒々と立派だった。


「はい。3人です」


「3人、ねぇ・・・」


語尾を濁す店長に、

何の意図もなく、思ったままを口にした。


「あ、もし3人じゃなかったらいいです。
 ほかのところを探してみます」


「・・・いや、いいよ。3人でも。
 いいけど、いつも3人いっしょってわけには
 いかないかもしれないけど、それでもいいかな?」


友人たちに顔を向け、

小さな声で「いいよな?」と確認したぼくは、


「はい、大丈夫です」


と、ほがらかに応えた。


・・・いまにして思えば、

何とも迷惑な話である。


当時のぼくは、

何の根拠も裏づけもないことを、

なぜだか堂々と主張するという、

とんだ「ほがらかさ」の持ち主だった。


「どうぞ」と店長にうながされ、

客席の赤いソファに腰をおろす。

店長1人対3人の、

三角形の形で座る。


「それじゃあ、履歴書、出してもらっていいかな」


「履歴書は、持ってきてません」


これまた「すなおに」即答で応えるぼくに、

店長は小さく笑って、


「あ、そうなの・・・」


と、つぶやくように返した。


店長からお店や仕事の説明を

ひととおりしてもらったあと、

いつから出られるか、などという、

具体的な話になった。


「明日からでも」


そう応えるぼくらに、


「それじゃあ、ここに
 名前と電話番号を書いてくれるかな」


と、電話の横とかに置いてありそうな、

白い紙の、メモパッドを差し出した。



名前と、電話番号。

3人が順に書いていった。



それは、1枚の紙で充分おさまるほど簡素なもので、

まさしく「メモ」にひとしいほどの情報だったけれども。


あろうことか、

ぼくらはそれだけで「採用」に至った。



言い換えると、

面接に受かった、のだ。



時代、というもののせいだけではないだろう。



少し変わったお店の、

一風変わった面接の風景。




かくしてぼくら3人は、

このハンバーガー店(ラーメン店)で

アルバイトすることが決まったのであります。














アルバイトの風景の前に、

このお店の話を少ししたい。



第一印象で感じたとおりに、

店長はもともとこの場所で、喫茶店を営んでいたらしい。


喫茶店をはじめて

どれくらい経ったころの話かは分からないが、

売上が芳しくなくなり、

フランチャイズとして再起したとのこと。


当初はラーメン店として運営しはじめて、

最近になって、半分をハンバーガー店として

追加(縮小?)改装したそうだ。



まだ右も左も分からない、

バカで生意気な高校生の小僧が感じたのは、


「なんでそんなふうに、
 あれもこれもやるんだろう」


ということ。


もともとぼくが、あまり器用でなくて、

ひとつずつしかできない気質だから、かも知れない。




それはさておき、当時のぼくには、

あっちにもこっちにも手を伸ばすその姿が、

ふらふらしているような感じで

何だか「あぶなげ」に見えた。




1階が店舗で、2階が更衣室。


更衣室へは、非常階段のような、金属製の屋外階段で上がっていく。


更衣室、といっても、

2階の1室をそのまま使っていて、

おそらく10畳くらいはあったと思う。


床はリノリウム、

壁面はコンクリートブロックの肌地そのまま。


部屋のぐるりを灰色のスチール製のロッカーが囲んでいて、

窓側の壁に、ダンボール箱やら道具類などが

無造作に積まれていた。


空いた部分でも広さは充分にあり、

試合前のボクサーが前に後ろに、右に左に、

フットワークを利かせながら

ミット打ちで汗を流せるくらいのスペースはあった。


昭和の日本映画なんかに出てきそうな、

そんな雰囲気の「更衣室」。


その上、3階には、

店長の「事務所」があった。




3階には上がってはいけない、

と言われていたが。


働きはじめたころ、

一度だけ、急用で店長を呼びに上がったことがある。



書類やら書物などの詰まったスチール本棚に囲まれた、

手狭な感じの、店長の「事務所」。

そのとき見た店長の姿は、

ボールペンを片手に、

眉間にしわを寄せ、ひどくむずかしそうな顔で

机に置かれた書類のようなものをじっとにらみつけていた。


いつもおだやかで、

柔和な顔つきの店長からは想像もつかない、

すごく深刻で硬質な顔つきで。


一瞬、声をかけるのを躊躇するほど

剣呑(けんのん)な感じだった。


ぼくの声に気づいた店長は、

不意にわれに返ったように、はっとしてこちらに顔を向け、

遅れていつもの顔を取り戻そうと努力しているさまが見て取れた。


ぼくは、店長が見せまいとしたその顔に、

嫌な気持ちではなく

むしろ「やさしさ」のようなものを感じた。


その「やさしさ」が

万人にとって(または処世の上で)

「いいもの」なのかどうかは別として。



店長のその姿に、

ぼくは、不器用な人なんだろうな、と思った。



事実、お客さんがいない時間帯に、

思わず仕事の手を止めて、

わいわいおしゃべりに花を咲かせるぼくらに対しても、

声を荒げて叱り飛ばすことは、けっしてなかった。


そんなときは、

手招きするような右手を添えて、


「もしもし」


とおだやかに「つっこみ」を入れるだけだった。





だからこそよけいに、

ラーメン&ハンバーガーという「二足のわらじ」が、

あぶなげに見えたのかも知れない。




さらには、メニューの品目。


その数もさることながら、

日増しに新しいメニューがふえていく。


いちおう「九州ラーメン」がメインのお店なのだが。

とんこつラーメンをはじめ、

しょうゆラーメン、みそラーメン、

コーンしょうゆラーメン、コーンみそラーメン、

チャーシューメン、やさいラーメン、

みそバターラーメン・・・とラーメンだけでも、

たくさんあるうえに。


チャーハン、八宝菜、天津飯、

唐揚げ、焼き餃子、バリそば、

五目やきそば、酢豚などなど。


それらにサラダ、

ライスなどを組み合わせた

ランチメニューや定食があったりして。


ラーメン店というより、

もはや中華料理店なみの品揃えだった。


何かに着想を得た感じで、

店長が、厨房で働く男性に、

何やらぼそぼそと伝える姿を何度か見た。


そのあと、知らないメニューがひとつ、

またひとつとふえていた。




高校生のぼくが見ても、


「メニュー、多いなぁ。大丈夫かなぁ」


と思うほどだった。



ちなみにハンバーガー店のほうも。


ハンバーガー、チーズバーガー、

テリヤキバーガー、テリヤキチキンバーガーをはじめ、

ハッシュポテトをはさんだ、

『ベーコンポテトバーガー』『ベーコンポテトチーズバーガー』、

リング焼きの要領で丸く焼いた目玉焼きをはさんだ、

『エッグバーガー』『ベーコンエッグバーガー』

『ベーコンエッグチーズバーガー』、

その目玉焼きとともに、同様サイズの小型お好み焼きをはさんだ、

『お好み焼きバーガー』。


中でも変わっていたのが『ラビバーガー』だ。


簡単に説明すると、バンズ(パン)のあいだに、

餃子(ラーメン店で出しているのとは別の、ハンバーガー用の、

幅8センチくらいで正三角形のもの)をはさんだハンバーガー。


焼いたバンズにマスタードを載せて、

野菜(レタス)を敷いて、

グリドル(鉄板)で焦げ目をつけて

蒸し焼きにした「ラビ(餃子)」をはさむ。

最後、ケチャップなどの代わりに、

ギョウザのタレに近い味のソースをかけ、完成。




「ラビ」=「ラビオリ」=「ギョウザ」

といった命名由来らしく、

注文する人こそ少なかったが、

これが意外とおいしかった。

(注文する人は、確実に「リピーター」だった)


ほかにも『100円バーガー』というメニューが、

期間限定でも数量限定でもなく、

毎日、いつでも常にあった。


この『100円バーガー』なる存在、

大手ハンバーガー店よりも早かったような気がする。


焼いたバンズにレタスを敷いて、

ケチャップ&マスタードをかけて、

しっかり焼いたミートパティをはさむという、

いたってオーソドックスなハンバーガーだが。


値段のわりに、

そのパフォーマンスは高い。



なぜなら<その1>。


注文を受けてから作るので、

いつでもできたてのあつあつが味わえる。

いまでこそ「ふつう」となっているが、

当時は作り置きのバーガーもあった時代で、

できたてが食べられるのはうれしいことだった。



なぜなら<その2>。


ハンバーガー好きなぼくが気持ちを込めて、

バンズ、ミートパティともに理想の焼き加減で、

理想のケチャップ、マスタードの量で、

冷めないように素早く包んで提供しているのだから。


それはおいしいはずだ。


少なくとも、

自分が「おいしい」と思える形を信じて、

ひとつひとつ本気(マジ)で作っていたつもりだ。


そう。

このお店(ハンバーガー店)をアルバイト先に選んだ理由も、

ハンバーガーが好き、という安易で安直な、

ぼくの独壇場で決めたことだった。




『100円バーガー』


消費税導入前だったので、

その名のとおり「100円」だった。


その値段のおかげもあって、

一度にたくさん買っていくお客さんが多かった。


お店が歓楽街の片隅に位置していたこともあり、

夜のお店で働く外国人女性が、


「ハンバーガー、ニジュッコ、クダサイ」


と、カタコトの日本語で注文する風景は、日常だった。


20個を一気に焼くのは、

なかなか至難の業で、

瞬間的に、なかなかの大忙しになる。


そんなお客さんが3、4人つづいたときには、

目の前に並んだバンズが実像ではなく残像に見える。


サイドメニューは、

ポテト(S/Lサイズ)、チキンナゲット(5個/8個)、

バニラシェイク(S/M/Lサイズ)

という定番メニューに加えて、

『オムレットケーキ』なるものがあった。


この『オムレットケーキ』。

直径10センチ、厚さ1.5センチほどのスポンジに

ホイップクリームをはさみ、

半月型に折りたたんだデザートで、

調理や加熱などが必要なものではなく、

冷蔵庫から取り出してお客さんにお出しする、という一品だ。


あまり認識度が低いのか。

オムレットケーキを注文するお客さんは少なく、

いつも冷蔵庫の中で大量に積まれたままだった。


「しかたないな」と。


世に出ぬまま終わったオムレットケーキたちを、

哀れみの気持ちを持ってして

自らの胃袋の中に収めたこともしばしば。




さてさて。


そんな感じのお店で、

人生初のアルバイトをはじめた

高校生のぼくたちの運命やいかに、でございます。







★ ★







アルバイト初日。


ほんの少しの緊張感と、

手にあまるほどのわくわく感を携えて、

友人らに先駆けてひとり、

初めての「出勤」を迎えた。


2階に上がって「制服」に着替える。


水色の半袖開襟シャツに、

黄色がかったグレーの帽子。

帽子は、軍隊のような「ギャリソンキャップ」型のあれだ。

そこに帽子と同色のエプロンをつけて。

ズボンは、あったような気もするが、

着用しないでもいいよといった感じだったので、

出勤時の、自前のズボンそのままだった気もする。


更衣室には、

面接時には見なかった人が2人いた。


ひとりは男性。

ぼく(ら)と同世代の彼は、

「せんちゃん」と呼ばれる、黒ふち眼鏡の男子だった。


もうひとりは女性で、

歳はぼくらより上の、大学生。

肩に届かないほどの長さのちりちりヘアで、

真っ赤な口紅をつけた、細身の女性だった。


「着替えするから、出てって」


ぼくら男子は、

彼女の言葉に押し出されるようにして、

階下に向かった。



着替えをすませた彼女に、

ぼくは、仕事を教えてもらうことになった。


ぼくの「担当」は、ハンバーガーの調理。

これは、ぼくが希望して申し出た「仕事」だ。


お客さんもまばらな午前中を利用して、

さっそくハンバーガーづくりの工程を教わった。


「いい? これがバンズ。
 で、このバンズをこうやって、バンズの下をまず
 これにこうやって並べて入れたらすっと引き抜くの。
 で、ここに上のバンズを並べたら、こうやってレバーを引いて、
 ブザーが鳴ったらこうやってレバーを上げて、
 上のバンズをさっきのこれですくって、こうやってここに置いたら、
 これで下のバンズを取り出して、今度はここにこの向きで並べて・・・」


といった具合に。

動きと言葉がよどみない速度で展開していき、

まばたきすら忘れた目と耳で、必死にそれを拾っていった。


工程がひと段落すると、


「やってみて」


と、実践教育へと移行する。


「いい? ミートパティはね、こうやって、
 ターナーでぎゅっと押しつぶして、
 裏返すときはこんな感じでやらないと、
 こげがグリドルに残っちゃうから。
 はい、じゃあ、やってみて」



先ほど述べたように。

ハンバーガーの種類が、とにかく多い。

ハンバーガーの種類に応じて、

手順も異なり、ソースや具材も変わってくる。


となると、

それぞれの物が置いてある場所も、

当然変わる。



先輩の手際のよさ、

教え方がよかったこともあり、

さらには緊張感と集中力が物を言って、

メモを取ったりすることもなく、

ほぼほぼ一巡ですべての工程を覚えることができた。


ハンバーガー好きも功を奏したのか。

いまにして思えば「奇跡」のような業だった。



ハンバーガーの包み方で多少つまづいたものの、

フライヤー(揚げ物)、シェイク、

そしてハンバーガー。

それらすべての出来上がりのタイミングを量って、

できるがぎり「同時に」仕上がるようにしなくてはいけないと。

むずかしそうなことを

簡単にさらりと言われたものだから、

やっぱりそれが「当たり前」なのだろうと

思わずにはいられなかった。


お客さんからの注文が入ったとき、

現に先輩の女性は、あれこれ段取りしながら、

きっちり同時に商品を揃えていた。


「それじゃあ、いい?
 ためしにやってみるからね。
 ・・・はい、オーダー入りま〜す。
 ワンテリチ、ワンポテベ、
 ツースモール、シェイクワンです」


先輩に見守られながら、

ぼくも「同時」を目指した。


分からないことはその都度、聞きつつも、

なるべく手は止めず、

なるべく頼らないよう、注文をこなした。


「包み方もよくなったし、大丈夫そうだね。
 あとはやっていくうちにうまくなるから」


時計を見ると、2時間ほど経っていた。


それが長いのか、

短いのかは分からないけれど。

とにかく目の前のことに集中した。


そのままお昼をはさみ、

午後になった。



その日のぼくの勤務は、16時まで。

先輩女性も同じく、16時までだった。


ホールを担当していた「せんちゃん」も、

同じ時間にあがるようで、

3人そろって2階に上がった。




そこで初めて聞かされたのだけれど、

先輩の女性は、今日でここを辞めるとのことだった。



「彼女はお金持ちのお嬢さんで、暇つぶしに働いていただけ」


という話を、あとになって店長から聞いた。



せんちゃんとぼくが、

最後なら、ということで、

近くのお店でお菓子を買って、

ささやかな「会」を催したのだけれど。


お菓子をひとつふたつ、つまんだかと思うと、


「ありがとう。それじゃあ帰るね」


と、満面の笑顔を見せて、

風のように去っていった。


手には、この場にふさわしくないほど分かりやすい、

ブランド物のバッグが握られている。


見送る感じで踊り場に出ると、

真っ白な高級車が彼女を飲み込み、

すうっと街道に消えていった。


最後、こちらを見上げて手をふる彼女は、

ぼくらみたいな高校生には大人すぎるほど大人に見えた。




翌日。


午前中は客足も伸びず、ひまな時間を利用して、

店長が「ラーメン店」の仕事を教えてくれた。


洗い物をはじめ、定食のサラダや

チャーハンなどの飯物のときに付くスープの作り方、

テーブルの整頓やオーダーの取り方、通し方など、

ラーメン部門の流れをひととおり教えてくれた。


正直、自分は「ハンバーガー部門」を希望して面接したのだから、

「ハンバーガー担当」で「ハンバーガー専門」なのだと思っていた。

だから、ラーメン部門の一連の流れに魅力も感じなかったし、

あまり気乗りもしなかった。


けれど、仕事なのだからやらなくちゃいけない。


せっかく覚えた流れをいざ実践・・・と

言いたいところだったけれど。


お客さんがなかなか現れず、実践業務には移れなかった。


そこうこうするうちに、もてあました店長が、



「それじゃあ、メニュー表、書いてくれる?」



と切り出した。


言われるままに、

色画用紙にマジックペンで、メニュー表を書いていく。


「上手だねぇ。じゃあ、全部書き直してもらおうかな」


仕事を与えられたぼくは、

黙々とメニュー表を書いていった。


ときどきお客さんは来たもののの、

ほとんど中断されることもなく、

全部のメニュー表を書きあげた。


しばらく席を外していた店長が戻ってきて、

満足そうにメニュー表を見た。


「ありがとう。もう時間だから、あがっていいよ」



気づくと時間がすぎていた。

2日目の仕事も、あっという間に終了した。



3日目くらいにして、

ようやく友人といっしょになれた。


この友人は、例の「みそ汁事件」で共鳴しあったほうの友人だ。



この日はたしか土曜日で、人の入りが多かった。

多いのはお客さんだけでなく、店員の数も多かった。


ハンバーガーのカウンターに、

初めて見る女子が2人いた。



ひとりはメガネをかけていて背が高く、

ひとりは色白でころんとした体型だった。


聞くと、彼女らも高校生で、

私立の女子校に通っているらしい。


そんな彼女らをそっちのけで、

ぼくと友人は、いっしょになれたうれしさと、

今日までの「冒険譚」をそれこそ女子高校生のように

矢継ぎ早に話しはじめた。




そして、

仕事の流れをまるで知らない友人に、

食器洗浄機の使い方などを教えたあと、


「よし。おまえはフライヤー担当だ」


などと勝手に「揚げ物担当」に任命して、

そのほかの仕事はおれがやる、と、

これまた勝手に「免除」を与えていた。



オーダーが入るたび、友人が顔を突き出し、


「ポテト、入った?」

「ナゲット、入った?』


などと聞いてくる。


「残念ながら、入っておりません」

「ワンラージ、お願いします」


とか返しつつ。


そんなやりとりをするのがたのしくて、

ただただバカみたいにそれをくり返した時間帯も短くはなかった。



揚げるたびに、目測を誤るのか。


いつも少し多めに揚げてあまらせてしまう友人と、

こっそり余剰分をつまんでは、

揚げたてのポテトに口のなかをヤケドするというバチがくだったのは、

きっと揚げ物の神さまの思し召しでしょう。







★ ★ ★








職場の人たち。


気のせいか、お店で働く人たちは、

少しばかり特徴的な人が多かったように思う。




先ほど登場した、女子校に通う2人。


彼女らも、いわゆる「女子高校生」のような感じではなく、

ひと昔前の昭和のマンガに出てくる、

「ズッコケ女子高校生」めいた匂いを放つ、不思議な2人だった。


年齢のわりには幼い感じで、

そのくせ異性に興味を持ちはじめた感もあり、

言うなれば、生意気な小学生の女子のようでもある。


2人並ぶそのさまを、

無理矢理そうやって見ようと思えば、

ガチャピンとムックに見えなくもない。




また別の女性たち、

ぼくらより歳上の、女性3人。


ラーメン部門に属する女性2人と、副店長の女性。


彼女たちは、3人とも太っていた。


ランチタイム、

ラーメンを食べに来たお客さんが、

店長にこう言った。


「あんたんところの店は、太った人しか雇わんのかね」


別に酔っているふうでもなさそうなそのお客さんは、

くさすふうでもなく、結構まじめなトーンで店長に尋ねたのだった。


ちょうどそのとき、

壁際に腕を組んで並んで立っていた3人の女性たちは、

みな一様に、口もとを尖らせ、

あごを上げてそのお客さんを斜めに見おろした。


そのさまは、

失礼かも知れないけれど、

とにかくすごくおもしろくて、

何度思い返しても笑いがこみ上げた。


あまりに動きがそろっていたから。


3人が並んで立つさまを、

無理矢理そうやってみようと思えば、

『ゴロピカドン』に見えなくもない。



「くそムカつくな、このジジィ」

「てめぇが言うな、ハゲ」


などとお客さんの目の前で、

小声とはいえ平気で言ってのけるような、

かなりスパイシーな女性2人。


彼女たち2人は、

洗い物ひとつも譲り合い、

オーダーを取りに行くのも

ため息をついてから仕方なしにゆったりと向かう。

立ち話しているときはたのしそうで、

何か仕事が入ると、

あからさまに面倒くさそうな顔をして、

その気持ちをそのまま口に出す。


店員なのに、お客さんに悪態。

仕事なのに、仕事するたび悪態。



その、常識を覆した感じがおもしろくて、

ちょくちょく漏れる「心の声」を、

ひそかにたのしませてもらっていた。



そんな尖った2人を、

やさしくなだめる店長と、

口には出さぬとも

お客さんをじっと黙ってにらみつづける副店長。


やや大型な2人と並んだ店長は、

たしかに少し、小柄に見えた。


かばうわけでも何でもなく。


ひとりひとりと話すと、

各人みんな、いい人だったし、

おもしろいことを言えば笑う。

そんな人たちだった。




同世代アルバイトの男子。


先に出てきた「せんちゃん」は、

よく上記の3人に「いじめられて」いた。


そのときの図式も、

「2人」が積極的に出て、

「副店長」はその場で見守る、という形だ。


本人たちからすれば、

おもしろ半分にいじっていただけなのだろうが。

かわすことができず、

まともに受けてしまうせんちゃんにとっては、

やっかいな相手だったかもしれない。


そのまっすぐな感じがまた、

彼女たちからするとたのしかったのだろう。



あるとき、

あまりに「いじめられ」すぎて、

せんちゃんが泣いたことがあった。


「男のくせに、そんなことで泣くなよな」


彼女たちの、ひとりが言った。


せんちゃんは、そのままトイレに姿を消して、

しばらく出てこようとしなかった。



後日。



シフトの関係とか、事情とか、

たまたま、かもしれないけれど。


気づくと、せんちゃんを見かけなくなった。



同世代の男子「はしぱん」。


なぜ、彼が「はしぱん」と呼ばれるのか。

橋本、とか、名前にちなんだ由来かと思ったが、

そうではなかった。


「パンを箸(はし)で食べたから」


はしぱん。

名前ではなく、エピソードからつけられたあだ名だった。



そんな、はしぱん。


ラーメン部門のカウンター前に立ち、

厨房に注文を通したあと、

手持ち無沙汰に腕組みしながら料理ができるのを待ち、

ときどき誰かの目を盗むかのように、

こっそり「乾燥わかめ」をつまんで食べる。


この乾燥わかめは、

チャーハンなどの飯物に付くスープの具で、

厨房から送られてきたスープに、

ホール担当の人がスプーンでぱらりとトッピングするのだが。


はしぱんは、

カウンターわきに置かれたこの乾燥わかめを、

こっそりつまみ食いしているのだ。



習性のような、生態のような感じで営まれる、

はしぱんの、乾燥わかめつまみ食い。


数えたわけではないけれど。

その回数は、尋常じゃなかった。


そんなに乾燥わかめばかり食べて大丈夫なのか、

塩っからくはならないのか、という心配をよそに、

はしぱんは乾燥わかめを、

こっそりつまんではひょいと口に入れ、

控えめに口を動かしながら、

奥歯でコリコリといい音を立てて噛みしめる。


その目は、何を見ているのか、

何も見ていないのか。

遠く、定まらない箇所に据えられている。


ときどき、

やっぱり咽が渇くのか、

コップに水を注いで、ごくごくと飲み干す。


ぼくと友人は、

はしぱんに気づかれないよう、

ハンバーガーのキッチンの中から

そのようすをじっと「観察」して、


「お! また食べた!」


などと歓喜の声をもらしていた。


一体、何がおもしろいのか。

バカな男子高校生2人は、

そんなはしぱんを見てくすくす笑っていた。


そして最後、

今まさに、という瞬間に

はしぱん本人の目の前へ、



「乾燥わかめ泥棒!」


と、躍り出た。


やや薄めの反応で驚く、はしぱん。


「そんなに乾燥わかめ食べて水飲んだら、
 おなかの中でふくらむんじゃない?」


二の句を継げずにいる、はしぱん。


はしぱんは、

何か困ったり戸惑ったりしたとき、


「はぁああ〜?」


と言いながら、

腕を組んで半目の白目になる。


そのときも、

半目の白目になりながら、腕を組み、


「はぁああ〜?」


と、言うに留まった。


さらなるやりとりのあと、

おいしいから、という、はしぱんの言葉に押されて、

ぼくらも乾燥わかめを食べてみた。


たしかに、おいしかったけれど。


そんなに頻繁に食べるような類いのものでもないと思った。



しばらくして、仕事に復帰すると。

ひまを持てあました はしぱんは、

何ごともなかったようにまた、

乾燥わかめをつまみ、

奥歯でコリコリと噛みしだいていた。





もうひとりの男子、「ミズノ」。


ぼくと友人は、

彼を「シェイクマン・ミズノ」と呼んだ。


というのも、

彼は、ことあるごとに、

シェイクを飲んでいたからだ。


まさに「湯水のごとく」。


水飲み用のガラスのコップを

シェイクマシンの注ぎ口に添え、

ヴォン、という鈍い音とともにレバーを引いて、

白くてやわらかなバニラシェイクをなみなみと注ぐ。


そして、

あふれんばかりに注がれたシェイクを口もとに運ぶと、

テキーラよろしく一気に丸呑みするのだ。


いつでも、ことあるごとに、

と思っていたのだが。


ぼくらの印象が

間違っていたことに気づかされた。


ほかの誰でもなく、

シェイクマン・ミズノ本人の口から聞かされた事実。


「店長が上にいるときは飲まない」


聞くと、彼がシェイクを飲んでいたのは、

店長が不在のときだけとのことだった。


店内にいなくても、

(事務所)にいろときはけっして飲まない。

カメラでもあるのか、と思ったら、


「音でばれる」


ということだった。

何でも、あまりにも飲みすぎて、

店長が「異変」に気づいたらしい。



たしかに一度、

シェイクのレバーを何度も下ろしたとき、

事務所にいるはずの店長がいきなり現れて、

えらくびっくりした。


あのおっとりした店長が、

これほどまでに勢いづくとは。


いったいシェイクマン・ミズノが

どんだけほどシェイクを飲んだんだろうと

裏読みせずにはいられなかった。




シェイクの売上もないのに、

補充ばかりしていたせいで見つかったのだと。


シェイクマン・ミズノが照れたように笑った。




ぼくは、

シェイクマン・ミズノが好きだった。


なぜだか分からないけど、

好きだった。


なんかいいやつだな、

と思っていた。



勤務してどれくらいだとか、

正確な数字は聞いたのか聞かなかったのか忘れたが、

ここでの仕事は長いらしく、

この店の中で、シェイクマン・ミズノは、

まあまあ長い部類に入るらしい。


そう思うと、

歳は上なのかも知れない。


けれど、そんなことは気にもせず、

ぼくらは自然と「タメ口」で話しかけた。


彼にとっても、

それが「自然」らしかった。



なるほどなぁ。音でばれるのか」


妙に感心したぼくは、

その日を境に、

音を出さずにシェイクを注ぐことに

気持ちを注いだのであります。



そしていつしか、

音を出さずに注げるようになって。


作りすぎたシェイクを処分するとき、


「できるようになったよ、サイレント・シェイク」


と、シェイクマン・ミズノに向かって、

誇らしげに言った。


ぼくらは、

処分するべきシェイクを、

サイレント・シェイクでコップに受け取り、

思いっきり飲み干した。


もう一杯、もう一杯、と。


ぼくらは、シェイクマン・ミズノにも負けない勢いで、

バニラシェイクを何杯も飲んだ。


大好きなシェイクを、

これほどまでにたらふく飲んだのは、

あとにも先にも、そのときばかりのことだった。





最後のひとり、厨房の男性。


歳は、30代半ばか後半か、

もしかすると20代後半だったかも知れない。


白いコック帽の下には、

おそらく天然であろう、

ちりちりの、アフロヘアのような黒髪がのぞいている。


黒々とした眉と、

剃り上げて青いあごひげ。


もみあげは、

耳の上の辺りでまっすぐ剃り上げられていて、

その部分もやはり青々として見えた。


白いコックコートの下には、

洗いこんで水色になったデニムのズボンを履いていた。

そのデニムというのも、

裾がかなり広がった、いわゆる「ベルボトム」だった。


裾は、ベルボトムの裾のラインがきれいに広がって見える、

短めの丈だ。


服装には、どちらかというと無頓着なふうに見受けられたので、

こだわりを持ってそのスタイルを貫いている、

といった感じではなさそうだった。


そんな無頓着な雰囲気も助けてか、

短め丈のベルボトムは、ただただ裾が短い感じに見えた。



そう。

時代が止まっている。



スタイルではなく、当時のままの生粋(きっすい)な感じが、

そのまま留まっているといった風合いだった。


かっこいいとか、そういう意味ではないが、

ぼくからすると、

それが一周(二周半くらいかも)して「いい感じ」に映った。



いいように言えば、

止まってはいても、流されてはいない。

そんな気がしなくもなかった。



厨房の男性は、

それほど背が高いわけではなかったが。

毎日のように、重たい中華鍋をふるっているせいもあるのか、

腕(前腕)がまるまると太く、

青い血管が浮き上がった筋肉質な腕の持ち主だった。


その肌の色は、透けるように白い。


顔は、劇画調のきりりとした「男前顔」で、

それとは対照的に、くりっとした二重の目は、

外国の子どものような瞳でかわいらしかった。


仕事中、厨房の男性は、

ときどきタバコを吸いに戸外ヘ出る以外、

まったく厨房から出てこない。


ぼくが彼を思い出すとき、

その背景には必ず厨房の風景が浮かんでくる。


黒々とした鉄色の、やや薄暗い、黒っぽい風景に、

蛍光灯の光で白々と浮かんだ、白衣の男性。


その姿は、正面向きではなく、

コンロに向かって鍋をふるう、横向きの映像だ。





アルバイトの期間中、

厨房の男性としゃべることは、一度もなかった。


声すら聞いたことがなかった。



あいさつをしても、

こちらにちらりと顔を向けて、

小さく頭を下げるだけだった。


それでも、無愛想な感じはなく、

ぼくがシェイクマン・ミズノとしゃべっているとき、

ちらりと視線を向けることも何度かあった。



何日か経ったころ。

休憩前、シェイクマン・ミズノがぼくに尋ねた。


「昼ごはん、何がいい?」


聞くと、メニューにあるもの何でも

好きなものを頼んでいいとのことだった。


ぼくは、天津飯か何かを頼んだ気がする。


すると、


「餃子とかはいらないかって」


シェイクマン・ミズノが、つけ足した。


「あ、食べたいです」


ぼくの返事に、シェイクマン・ミズノは少しふり返って、

すぐそばに立つ厨房の男性にぼそぼそ話しかけたかと思うと、

また声をあげてぼくに聞いた。


「いくつ食べたいかって」


「え、じゃあ、5個で」


と、またふり返ったシェイクマン・ミズノが、

先と同じくぼそぼそ話して、


「わかったって」


と、伝えてくれた。



最初、言葉が通じない、外国の人かと思った。

見た目も、見ようによってはそう見えなくもない。


けれど、ちがった。


あいさつすると反応してくれるので、

聞こえていないわけでもない。


初めのうち、本当に謎だった。



幾日かすごすうちに、厨房の男性は、

シェイクマン・ミズノとしか会話をしない、

ということに気がついた。


店長から、業務的な「指示」を聞くときこそあるが、

そこに「会話」は存在しない。


そのほかの人とは、会話どころか、

視線すら交わそうとしなかった。

だから、誰も彼と口を聞こうとしなかった。


思うに、したくないのではなく、

できない、といったほうが当たっている気がした。


しばらく接するうちに見えてきたのは、

「ものすごく人見知りなのでは」ということだった。



シェイクマン・ミズノと話しているときは、

白い歯をのぞかせて、少し笑うこともあった。


その笑顔がまたかわいらしく、

ちりちりヘアともあいまって、

彼が天使に見えた瞬間がなかったとは言いがたい。



もともと中華料理店で働いていた、とか、

日本人だよ、だとか。

厨房の男性については、

シェイクマン・ミズノから聞いた情報しかない。


ぼくは、厨房の男性と話したかった。

仲よく、とまではいかないにせよ、

少しでもいいから彼の話が聞いてみたかった。




お店に、厨房の男性とシェイクマン・ミズノとぼくの

3人だけになったとき。


ぼくは、シェイクマン・ミズノと話しつつも、

それとなく、厨房の男性を意識して、

会話の輪のなかに誘いこんでみた。


厨房の男性に直接、話を向けることはなかったが。

会話が進むにつれて、こちらをちらちらと見る回数もふえ、

少しばかり興味を示してくれていることが伝わってきた。


何を言ったのかは覚えていないけれど。


ぼくの言葉で、

厨房の男性が表情をくずした。


ほんの少しの、一瞬のことかも知れないけれど、

彼が、ちらりと白い歯をのぞかせて、

小さく笑った。


何だか分からないけれど。

ぼくにはそれが、すごくうれしくかった。



とはいえ、そこから急に距離が縮まるわけでもなく。

翌日からはまた、あいさつをしてもぺこりと会釈を返すだけで、

会話が起こることもなかった。



ただ、翌日からの「まかない」に、

頼んでもいない唐揚げがごっそり乗っていたり、

メニューにないおかずをつけてくれたりしてくれるようになった。


そんなとき、ぼくがお礼を伝えると、

ほんの少し白い歯を見せて小さく笑ってくれるようになった。




「辛口にもできるけど、どうするかって」


おかずがふえて、

ときどきぼくらの会話に表情をくずしたりするようになっても、

相変わらず会話をするには、

シェイクマン ・ミズノの「通訳」が必要だった。



厨房の男性のすぐ横に立ち、

ぼそぼそと小声で話す、シェイクマン・ミズノ。


とにかく、厨房の男性が心を許しているのは、

シェイクマン・ミズノ、ただひとりだけだった。






シェイクマン・ミズノは、

何だかいつも笑っているような顔つきに見える。

困ったときも、照れたときも、

笑ったような顔をする。

おもしろいときにもその顔が笑っているのかどうかが

逆に分からなかったりする。


シェイクマン・ミズノは、

そのせいでよくお客さんに怒鳴られる。


はしぱんも、

そこそこ「怒らせ屋」なところがあるが。

シェイクマン・ミズノのそれはさらに顕著で、

怒った人をどんどん怒らせる威力があった。



ときどき、

こわそうな感じのお客さんも来る。

場所がら、というのか、

そういう商売のお客さんもちらほらいて、

そういうお客さんへ接客するときにかぎって、

何やら粗相(そそう)してしまう。


それが、シェイクマン・ミズノの才能だ。


そしてそのあとの「態度」が、

妙に「へらへら」しているふうに見えるのだから。

なかなかどうして困ったあんばいだ。



一度、テレビとか映画とかでしかあり得ないような、

おそろしく巻きの入った、うそみたいな怒号を聞いた。


火種はその人、シェイクマン・ミズノだった。


怒りの声が響くや否や、

店にいる誰もが凍りついた。



空気さえも凍りついた、そのときに。

まさかの店長不在だった。



「おぉう、コラァ! どうすンだって聞いとんだろうがぁ」



響き渡る怒声以外、店内にあるものは静寂のみ。

シェイクマン・ミズノは、

困ったような、照れたような面持ちで、

そのまま「笑って」立っている。




このままでは、何もおさまらない。



そんななか、

何も言わず、さっと静かにあらわれて、

シェイクマン・ミズノの前に躍り出る人物があった。


それは、厨房担当の男性だった。



何も言わず、立ちつくす厨房の男性に、

怒りのお客さんは、ちょっとたじろいだようすだった。


「何だぁ、おまえは」


それに答えるでもなく、

厨房の男性は、コック帽を取り、

何も言わず頭を深く下げた。



どれくらいその時間がつづいたのか。

それは、よく覚えてないけれど。



沈黙のあとにつづいたのは、

落ち着きを取り戻した、お客さんの声だった。


「まあ、いいわ。よく言っとけよ、こいつに」


急に失墜したかのように。

お客さんは、そのまま席を立ち、

会計を済ませて店をあとにした。



色を取り戻した店内に、

安堵と興味のささやきが起こる。



いったい、何がどうなったのか。

厨房の男性が、何かをしたのか。



渦中の人物である厨房の男性は、というと。


厨房に戻って、まるで何ごともなかったかのように、

いつものように中華鍋をふるいはじめた。



見た目ばかりでなく、

行動までもがまるで劇画調だった。



ちりちり頭で、裾の短いベルボトムの男性。


いつも見なれたその横向きの姿が、

そのときばかりはたくましく、

すごく大きく崇高(すうこう)に見えた。







★ ★ ★ ★








そんな、味の濃ゆいお店でのアルバイト。


春休みの期間中、

14日間のうちのたった10日間働いただけの場所だけれど。

すごく長く、ずいぶんそこにいたような気がする。



新学期がはじまる少し前。

次のシフトを決めるころ、

ぼくらはすっかり忘れていたことを思い出した。


春休みだけの短期アルバイト。


そんな肝心なことを伝えるのを、

すっかり忘れてしまっていた。


そのことを伝えると、

店長は、一瞬、残念そうな顔を見せたあと、

すぐまたいつもの顔に戻って、


「そうなんだね、そうか」


と、つぶやくように言った。



やんちゃでわがままで生意気な男子校高校生のぼくらを信頼して、

せっかく採用してくれた店長に対して、

何だかひどく申し訳なさを覚えた。



終わりになって、いつも気づく。



感謝も、おわびも、敬意の気持ちも。

表現方法を知らなかったぼくらは、

たいして気持ちを伝えられないまま、

申し訳ない感じだけを残して頭を下げた。




結局、何もできないし、

しないまま、だった。




そんな、うかつな自分を、

いまになってつくづく恥じるのであります。


終わりになって、いつも気づく。

そんな自分を。





アルバイトの終わりの日が近づいて。

勤務中、会える人たちにはそのことを伝えた。



ガチャピンとムックも、きまりが悪そうな顔で、

遠回しに別れの言葉をぼそりとこぼした。


はしぱんは、腕組みし、

半目の白目で何度かうなずいてくれた。


ゴロ、ピカ、ドンの三人官女は、

裏のないやさしい顔つきで、

いつでも遊びに来なよ、と、微笑んでくれた。


シェイクマン・ミズノは、ああ、うん、と言って、

いつもの困ったような、笑っているような顔だった。



最後、厨房の男性にあいさつをした。


いつもは横顔ばかりなのに、

その日はちがった。


いきなり鍋をふるう手を止ると、こちらに向きなおり、

透きとおった声でぼくに言った。


「がんばれよ」


その声は、人生の先輩だけが持つ、

力づよくて頼もしい音色だった。



初めて声を聞いた、ということよりも、

ぼくは、その声の清らかさに驚きと感動を覚えた。


厨房の男性は、歯をのぞかせて少し笑うと、

すぐまたいつもの横向き姿に戻った。



厨房の男性が見せた、まっさらな笑顔。


時代に取り残された服装や髪型にはそぐわないほど。

その顔は、洗い立てのシャツのようにすがすがしくて、

まったく劇画調の微笑みだった。







初めてのアルバイト。


まるで短編映画のような濃密な日々が、

春休みの終わりとともに、静かに幕を下ろした。




何年か経って、

そのお店に行ってみたとき。

建物はあったが、中は空っぽだった。



もう、そこには何も残っていない。



けれど、たくさん残っている。





春になると、ときどき思い出す。


繁華街の片隅ですごした、

劇画調の、時代遅れな日々を。







< 今日の言葉 >


釈迦釈迦ポテト(ありがたい)

(イエハラ・ノーツ/2015年12月の記述より)