ぼくには、2歳上の姉がいる。
勉強ができて、バイリンガルで、音楽もできて、運動もできる。
料理も上手で、絵だって描ける。
そんな「オール5」の姉。
子どものころのぼくは、何をやっても姉に勝てなくて、
いつもくやしい思いをしていた。
★
小、中学生のころ。
学期が終わると、父に「通知表」を見せるのが恒例だった。
テーブルを挟み、イスに座った父。
まずは姉から呼ばれて、通知表を手渡し、
父と対面したイスに座る。
「おう、ようがんばったな。えらいえらい。
このままがんばりや」
そんな声のあと、ぼくの名前が呼ばれる。
ぼくの、番だ。
まるで「面接」のようなこの時間。
1学期、2学期、3学期と。
必ず年に3回おこなわれる「通知表見せ」の儀式。
これが終わると、
父から「のし袋」に入った「おこづかい」がもらえる。
やっぱりおこづかいは欲しいので、
面接みたいなこの「儀式」は、
避けたくても避けては通れないものなのだ。
小学校のころなどは特に。
通知表を見せると、決まって父は、
成績よりも厚く「情操面」についてふれるのだが。
「なんや、また『落ち着きがない』て書かれとるやないか」
少々、苦笑いの顔で、ぼくを見る。
そんなときは、怒られているような気持ちになり、
小さな声で「うん」とか「はい」とか返すのが精一杯だった。
元気が取り柄のぼくだけれど。
父には、めっぽう弱かった。
かくいうぼくも、
通知表の5段階評価は、
それほど悪いわけではなかったが。
逆に言えば、それほど「いい」わけでもなかった。
国語や図工(美術)、体育などは、たいてい「5」だった。
社会や理科、英語なども「4」か「5」のときが多く、
ほとんどの教科で悪くても「3」だった。
ただ、算数(数学)や物理などは、
同じ「3」でも「ギリギリ」といった感じだった。
苦手なものはまったくだめで、
それ以上、上がる気配もない。
父は、成績そのものよりも
そんなところを指摘した。
中学のころ、
音楽の成績で一度だけ「1」を取った。
もともとおしゃべりが多く、
授業中、先生から何度も注意を受けていたのだが。
リコーダーのテスト(実技)のとき、
ぼくは「縦笛」であるはずのリコーダーを横にかまえ、
フルートのような格好で吹きはじめた。
美術の授業中に、エドゥアール・マネの
『笛を吹く少年』の絵を見たせいも、あるのだろうか。
さすがにそのときのぼくは、
「マネのまねです」
と返せるほど、
とんちの利いた小坊主ではなかった。
むしろ「くそ」がつくほど生意気だったぼくは、
「家原くん、ちゃんと吹かないと『1』にするよ」
と、警告する音楽の先生に対して、
「そんなことで1にできるのなら、やるがいいさ」
と、言い放ち、
縦笛を横にかまえ、吹きつづけた。
ああ、おそろしい。
なんとも腹立たしいくそガキだったと、
われながらつくづく思う。
そしてそのまま「横笛」スタイルで吹きつづけ、
何の楽曲だったかは忘れたが、
詰まることなく完璧に吹き終えた。
課題曲を、なめらかによどみなく、
かつ正確にきっちり吹奏して。
それでも「1」になるなら「そういうこと」なんだ、
という、自分の中での「確認」もあったので。
ふだんよりめちゃくちゃ集中して、
ていねいにしっかり吹奏したのだが。
結果は「1」。
そりゃそうだろ、と言いたくなるが。
当時は「やっぱりそういうことか」と鼻白み、
次の学期の音楽の授業では、
いっさい口をきくこともなく、
黙々と、ただただ押し黙って「まじめ」にすごした。
返事をするにも声は出さず、手をあげ、
質問されても首を縦横に動かすばかり。
本当に、バカげた「甘えんぼう」だった。
よくもまぁ、こんなくそ生意気なガキを相手に
授業をしてくれたものだと、
申し訳なさばかりが先に立つ。
その結果。
「1」だった評価が、
次学期には「3」に戻った。
さて。
話は戻って。
国語、数学、理科、社会、英語、美術、音楽、体育、家庭科。
どれをとっても「5」ばかりが並ぶ姉。
ときどき「4」をもらうことはあったが、
あっても1、2、3学期を合わせて
1つか2つだけだったように思う。
同じ学期に「4」が2つ並んでいたことはなかった気がする。
そのときのぼくには、
図工や美術でよく姉が「4」をもらっていた印象があった。
もともと絵を描くのが好きで、得意だと思っていたぼくは、
姉が「4」でぼくが「5」のときには、
唯一、姉に勝てたような気がして、
すごくうれしかった。
父は、5ばかりが並ぶ華々しい成績の姉と、
でこぼこの成績のぼくとを比べるようなことはしなかったのだが。
どうしてもぼくは、
何かひとつでもいいから、姉に、勝ちたかった。
美術や図工で「5」をもらうのがあたりまえだったぼくは、
その「あたりまえ」をすごく大切に思っていた。
父は、姉の「5」よりも、
ぼくが「3」から「4」になったことをほめてくれたし、
「4」から「3」になった理由を考えさせた。
それでも。
ぼくには、勝てない姉に勝ちたい思いがあった。
何をやっても勝てない姉。
いつもくやしい思いをさせられるくせに、
うらやましくて尊敬する存在の姉。
通知表の「5」よりも、
生活の中で感じる「優」の部分に、
ぼくはいつもあこがれていた。
★ ★
トランプをやっても、勝てない。
オセロをやっても、大差で負ける。
ぼくが読めない漢字もすらすら読めるし、
知らない言葉もたくさん知っている。
手品を見ていても、その「タネ」がすぐに分かる。
遊園地の「びっくりハウス」でも、
「あれ、なんでさわれないの?!」
と、驚くぼくに、
その「しくみ」をすぐに説明できる。
国旗を見ればすぐに、国名を答え、
クイズやなぞなぞでも、いともたやすく正解を言い当てる。
姉が出すなぞなぞにこたえられず、
ヒントばかりもらっていたぼくに対して。
姉が、ぼくの出したなぞなぞにこたえられなかったことはない。
おりがみの折り目は正確できれいだし。
靴ひもの蝶々むすびも、
ぼくみたいに「縦」にはならないし、
走っていても、ちっともほどけなかった。
部屋もきれいで、本は本棚に整列していて、
洋服はきちんとたたまれている。
靴下の一方がなくなることもない。
明日の準備もしてから寝るし、
宿題も、帰ってからすぐやる。
朝、学校へ行くときも、
髪の毛にきちんと櫛(くし)を入れて、
きれいな三つ編みやポニーテールを
服に合わせた色のゴムでしばる。
ぼくみたいに寝ぐせだらけの髪の毛で、
そのまま行こうとするのを母につかまえられて、
あったかいおしぼりみたいなタオルで
頭をなでられることは一度もなかった。
学校でも、ほめられるのは姉のほうの「家原」で、
怒られるのはいつも、弟のほうの「家原」だった。
小学校でも、見ず知らずの先生に、
「ほう、家原の弟か」
と、言われ、
なんだか値踏みする感じで
じろじろ見られたりした。
中学校では、
「なんだ、弟は出来が悪いな」
と、露骨に言われたりもした。
朝礼のとき、
朝礼台に立つ先生がマイクごしに、
「コラ、家原ー!!」
と叫んでも。
へらへら笑っているほうが、怒られたほうの「家原」で、
肩をすくめて恥ずかしそうにしているのが、
優秀なほうの「家原」だった。
そんなときはあとから姉に、
「ちょっと、もう! 恥ずかしいからやめてよね」
と、苦い顔をされた。
ぼくが小学6年になったころ。
姉は中学2年だった。
その年、市の選抜を選ぶ陸上大会に出場した。
ぼくの通っていた小学校の「陸上部」では、
たとえ他の部活に入っていたとしても、
スポーツテストで上位だった生徒が
各競技の選手として選ばれるのだが。
ぼくは、走り幅跳びの選手として「選抜」された。
姉は、中学校の部門で、
ハードル走の選手として参加していた。
市内の陸上競技場。
中央には手入れの行き届いた芝(ピッチ)があり、
サッカーやラグビーの試合など、
テレビ中継でも見たことのある場所だった。
コロッセオのような、楕円形の競技場。
スタンドをぐるりと囲んだ巨大な照明。
びっしり並んだオレンジと青の観客席。
そして、赤茶色のゴムでできた、立派な陸上トラック。
競技場という場所は、
ぼくにとって、非日常的な空間だった。
わきあがる好奇心を抑えきれず。
競技のことなどそっちのけで、
ぼくは、友人といっしょに競技場内を散策して回った。
遊び回って観覧席に戻ると、
先生から声をかけられ、
「おい、幅跳びの練習の時間だぞ。
何やっとるんだ、早く行け」
と、叱られた。
急いで支度をしてグラウンドに下りると、
トラックに立っている、姉の姿が見えた。
ちょうどハードル走の競技がはじまるらしい。
トラックを走り、
次々とハードルを飛び越えていく姉。
1着ではなかったが。
いつも家で見かけているはずの姉の姿が、
そのときはすごく「かっこよく」見えた。
競技を終えた姉が、
友人らしき人たちといっしょに、
観覧席に戻るため、
ぼくのいる砂場の近くを通りがかった。
「ねえちゃん」
ぼくの呼びかけに気づいた姉は、
顔を少しこちらに向け、ちょっと笑ってそのまま
通用口へと消えていった。
迷いに迷った足合わせも、何とか決まったころ。
走り幅跳びの練習時間が終った。
そしてまた、ぼくは競技場内をうろちょろしはじめた。
競技場内の散策に満足したころ。
ぼくは、友人に持ちかけた。
「『ギリギリゲーム』やろうぜ」
表面を被う透明のプラスチックカバーがずれて、
半分むき出しになった状態の非常ベルのスイッチ。
スイッチの先端は、
カバーに押されて、心なしか「沈んで」いるように見える。
ほんの少し触れるだけで、
いまにも作動してしまいそうな非常ベル。
そんな「あぶない」ものを見つけたぼくは、
「非常ベルのスイッチに指先をどこまで近づけられるか」
という「競技」への誘惑に駆られた。
2センチ、1センチ。
4ミリ、3ミリ、2ミリ・・・・。
友人と交互に、人差し指の先をスイッチへと近づける。
息を止め、指先に意識を集中させて。
競技の展開が膠着(こうちゃく)しはじめたとき。
ぼくは、指先を近づける友人の肩を軽く押した。
「ちょっ、押したらあぶないって!」
反射的に手を引いたおかげで、
友人はスイッチを押さずにすんだ。
「このカバー、はずしてみようか」
ええっ、と声をあげる友人をよそに、
ぼくは、ずれてはずれかかった透明カバーを指先でつまんだ。
と、そのとき。
けたたましい音が、競技場全体に鳴り響いた。
動物的な早さでその場から離れたぼくと友人。
高鳴る胸を抑えつつ、
何ごともなかったかのような顔で、
なんだなんだ、ときょろきょろする。
やばい。
どうしよう。
ぼくにはそのベル音が、
生涯、鳴り止まないんじゃないかと思うほど、
永遠に感じた。
耳をつんざくようなやかましいベル音が鳴り止むと、
あたりが急にしんとなり、
耳の奥で、ベルの残響音がわぁんわぁんとつづいた。
ほっとするのもつかの間。
ほどなくして、
同級生がぼくのもとへ駆けよってきて、
「もう幅跳びの時間だよ!
家原はどこ行ったって、先生がすごく怒ってるよ!」
と、息を切らせて言った。
あわてて先生のもとへ行くと、
「おまえ、何回も放送で呼んだんだぞ!
うちの学校の名前に泥を塗る気か」
と、ものすごく怖い顔で怒られた。
ぼくは、自分の名前がアナウンスされていることにも気づかず、
友人とわいわいふざけていたのだった。
さすがに言い出せなかったが。
さきほど非常ベルを鳴り響かせ、
競技場を騒がせた「犯人」でもある。
泥を塗るどころか、全身まるで泥だらけだった。
競技場まで来て。
またしてもぼくは、
名前をとどろかせてしまった。
家に帰って。
やはり姉に、そのことを言われた。
さらに、
非常ベルを鳴らしたのはぼくだと告白すると、
姉はあきれた顔で、
「バカじゃないの?」
と、ひとこと言っただけだった。
笑ってくれると思ったのに。
姉は、冷ややかにそう言っただけだった。
★ ★ ★
幼稚園のころから、
ぼくと姉は習字をならっていた。
お習字があまりたのしく感じられなかったぼくは、
大筆ではなく小筆を使って、
輪郭をなぞって中を塗りつぶしたりして字を「描いて」、
よくお習字の先生にしかられた。
小学校2年生くらいからか。
習字道具だけ持って家を出て、
公園で友だちと遊んだりしたあと、
絵の具の「しゅいろ(朱色)」を使って
自分で「手なおし」を入れたりしてごましていたが。
すぐにそれも母親にばれて、
ぼくだけお習字をやめてしまった。
中学生になってもつづけた姉は、
お習字の「段」が「特待生」になって、
やがて麻雀の「役」のような、
聞いても覚えられない感じの「称号」になっていった。
お習字の展覧会へ、母と姉と3人で行ったとき。
広々とした場所に飾られた姉のお習字の横には、
銀色や、金色の紙が貼られていた。
まぶしかった。
うらやましかった。
ぼくも、絵のコンクールなどでよく入賞して、
どこかの会場に飾られたりしたが。
金色や銀色の紙は貼られたことがなく、
赤い紙や白い紙に「佳作」だとか「入選」、
または「入賞」といった文字が書かれていた記憶しかない。
姉のもらった、金色や銀色の紙が、
すごくうらやましくて、
ぼくにはまるで手の届かないようなものに見えた。
同じく幼稚園のころから、
ぼくと姉は、スイミング・スクールにも通っていた。
スイミング・スクールが嫌いなのか、
それとも塩素のにおいが嫌いなのか。
自分でもどっちが先かは分からなくなっていたが。
スイミング・スクールに行くのが嫌で、
スイミング・スクールへ行く日には
いつも「おなかがいたく」なった。
塩素のにおいをかぐだけで、
いつも「おなかがいたく」なった。
水泳パンツまで履いて、
あとはプール場へと下りるだけ、というところまできて、
観覧席の母のもとへと向かい、
「おなかいたい」
と、甘えた弱音を吐いていたぼく。
「あんた、おもちゃ買ってくれたら行くって言ったから
買ってあげたのに。どうするの?」
「おなかいたい」
「しょうがないねぇ、もう・・・」
まったく甘やかされてばかりのぼくは、
そんなふうにして観覧席から、
姉の泳ぐ姿を見ていた。
先ほど買ってもらったばかりのおもちゃを手に、
最初は申し訳ない気持ちでおとなしく、
次第に調子に乗って、
「おかし食べたい」
などと言って、母に、
「おなか痛いって言った人が何を言ってるの」
といさめられながらも、お菓子を買ってもらって、
「お姉ちゃんには『しー』だよ」
と、人差し指を立てて口もとにあてる母に、
素直に元気よくうなずく、軟弱な、甘ったれ坊主だった。
甘えるぼくと、甘やかしてくれる母。
もう、今日は泳がなくていいんだ、
と分かった刹那(せつな)に、
本当に、さっきまで「いたかった」はずの「おなか」が、
うそじゃなく、まるで「いたくなく」なるのだから。
まったく「不思議な」ご都合である。
ぼくのスイム・キャップに縫いつけられたワッペンは、
カエルとか、カメとか、
なんだか「子どもっぽい」絵柄ばかりで、
上がるはずの級も8級だとか、7級だとか、
まるで初級のままの状態だった。
姉のスイム・キャップには、
イルカが勢いよく飛び跳ねた絵柄だとか、
2級とか、1級とかの数字が誇らしげに書かれたワッペンだとか。
色も、デザインも、
なんだか強そうでかっこいい絵柄のワッペンばかりだった。
しかも、これまでのワッペンがずらりと並んでいて、
頭の半分以上は、数々のワッペンで埋まっているのだ。
流行りだったのか、
それともそういう「きまり」なのか。
当時通っていたスイミング・スクールでは、
歴代のワッペンを縫いつけたままにしておくのが「主流」で、
姉の頭には、きらびやかな「勲章」が輝いていた。
まさしく「冠」のごとき光を放つスイム・キャップを、
ぼくは、うらやましげに眺めるだけだった。
幼稚で子どもっぽい絵柄のワッペンで止まった、
ぼくの、すかすかのスイムキャップ。
弱々しく、何の輝きも放たないぼくのスイムキャップは、
色白でやせっぽっちのぼくの頭に、
なさけなく乗っかっていた。
「おなかがいたい」
塩素のにおいに反応して起こる、腹痛。
そんなふうにして、
やがてぼくは、スイミング・スクールに行かなくなった。
そろばん塾にも通った。
姉は、これまたずいぶん長くつづけていたが。
ぼくは、それこそ「一瞬」通っただけだった。
そろばん、で思い出したが。
大阪の祖父母の家へ遊びに行ったとき。
姉と、電卓で遊んだことがある。
祖父母の家は自営業だったので、
母屋の延長に「事務所」があった。
お盆休みで誰もいない事務所の中。
姉と2人、
事務イスに座って「会社ごっこ」をした。
そんななか、電卓を見つけた姉は、
「ねえ、1から順番に100まで、
どっちが先に足せるか競争しようよ」
と、ぼくに持ちかけてきた。
「いいよ」
電卓を手にするぼく。
「それじゃあ、いい? よーい、スタート!」
『1』『+』『2』『+』『3』『+』『4』『+』・・・・
電卓のキーを叩いていく2人。
黙々と打ち込みつづける姉と、
小さく声を出しながら打ち込むぼく。
「できたっ!」
ぼくがまだ「60いくつ」とかのときに、
勢いよく、姉が手をあげた。
「うそだ、早すぎるよ!」
「本当だって。ほら、5050。
1から100まで足すと、5050になるんだから」
そう言われても、
ぼくには正解かどうかも分からない。
姉の、涼しげな顔が、たまらなくにくたらしい。
ぼくは、意地になって最後まで打ち終えた。
「・・・+、98、+、99、+、100、できたっ!」
電卓に並んだ数字を見てみる。
そこには5050とは似ても似つかない、
おそろしくでたらめな数字が並んでいた。
「どっかで『+』とか押し忘れたんじゃない?」
ぼくの電卓をのぞき込みながら、
姉がふふっと笑う。
「もういっかいやろ」
ぼくの挑戦に、いいよ、と、
こともなげに受けて立つ姉。
5050。
こたえを覚えたぼくは、
バチバチとでたらめにキーを叩きながら
しばらく打ち込んでいる「ふり」をして。
頃合いを見て「5」「0」「5」「0」と入力した。
「できた!」
手を止め、きょとんとした顔の姉が
ぼくを見すえる。
「うそだ、早すぎでしょう?」
「ほんとだって」
「どれ、見せて」
「ほら、5050」
しばし黙って見つめる姉。
と、ふっと笑ってこう言った。
「あんた、足してないでしょ?
5050って打っただけでしょ?」
なぜに「ばれた」のか。
ぼくは「ちがうって、そんなことないって」と、
うそがばれたときの常套句(じょうとうく)を口にする。
そのときは分からなかったが。
いまにして思えば、
数字の上に「+」とか「100」とか、
そういう「しるし」がなかったから。
だからばれたのかもしれない。
いや、姉には、ぼくがやりそうなことくらい、
最初からお見通しだったのかもしれない。
習い事に向かないと分かったのか。
母も、もうそれ以上、
ぼくを習い事に通わせようとはしなくなった。
母自身、お茶、お花、お習字、
洋裁、和裁、お料理、お琴や三味線など、
ずいぶん習い事をして育った人だ。
日本舞踊は、4歳くらいから習っていたらしい。
そんな気質を受け継いで、
習い事をいくつもつづける姉。
けれど、ぼくに習い事は
無理だったようだ。
姉は、エレクトーン教室にも通っていた。
教室から帰ったあとも、
家で何時間もエレクトーンを弾いていた。
教会みたいな音楽をはじめ、
映画の音楽や歌謡曲。
夕方、ごはん前の時間。
ぼくは、姉が弾く演奏をそばで聴いていた。
きれいな音楽は、聴いていて気持ちがいい。
たのしい音楽は、聴いていてたのしくなる。
「あ、まちがえた!」
聴いているだけのぼくは、
姉の弾きまちがいを見つけては、
そんなふうに水をさした。
無視して黙って弾きつづける姉だが。
しまいには本気で怒って、
「もう、うるさい!!!」
と、怒鳴り、立ち上がる。
そうなると「わー」っと逃げるぼく。
・・・まったく。
どうしようもない弟だ。
★ ★ ★ ★
堅実で、聡明で、計画性のある姉。
姉は、おこづかいをもらっても、
すぐには使わない。
「貯金箱」というものに「貯金」をして、
「おこづかい帳」というものにきちんと「記帳」していた。
かたや、ぼくは、というと。
モンスターの手が伸びてきて、お金を取っていく貯金箱や、
キング・コングがビルをのぼって、最後にお金を落とす貯金箱や、
ご存知の方も多い『パックン貯金箱』など、
貯金箱ばかりをたくさん持っていた。
「あんた、貯金箱ばっかり買って。
貯金するお金がなしになってるでしょ」
母にそう言われても、言い返す言葉がなかった。
姉のまねをして買ったおこづかい帳は、
知らないあいだに「らくがき帳」と化した。
そんなことだから。
もらったはずのおこづかいも、
すぐになくなってしまう。
堅実で、聡明で、計画性のある姉。
放埒(ほうらつ)で、バカで、無計画な弟。
ああ、あれがほしい。
どうしよう。
・・・そうだ!
困り果てた末にひらめいたぼくは、
姉の貯金箱に折り曲げた厚紙を突っ込んで、
100円、200円と、
こっそりお金を抜き取った。
鍵のついた、郵便ポスト型の貯金箱。
ずっしり重かったはずの姉の貯金箱は、
日を追うごとに軽くなり、
じゃらじゃらと重厚だった音も、
どんどん鈴の音のような
か細い音に変わっていった。
このままではいつか、ばれてしまう。
ばれないように。
「ずるがしこい」ぼくは、
お金を抜き取るたび10円玉を入れていった。
これなら大丈夫だ、と。
ぼくは、完璧にそう思っていた。
ある日。
学校から家に帰ってきて、
自分の机に向かうと、
机の上に大きな文字が刻まれていた。
「ドロボー」
三角刀で彫られたその文字は、
まさしく姉の気持ちをそのまま代弁しているようだった。
荒々しく、やや斜めがかった「ドロボー」という文字。
その勢いと、刻まれた溝の深さが、
姉の怒りをつぶさに表していた。
ばれた、ということより、
「ドロボー」という言葉のつよさに、
自分のやったことの罪深さを知り、
さぁっと血の気が退いたことをよく覚えている。
それまでにも、姉が食べずにとっておいた
クッキーやチョコレートなどをこっそりくすねて食べたことも
何度となくあった。
ぼくは、クッキーやチョコレート、スナック類など、
お菓子はもらったらすぐ、うれしくてぱくぱく食べてしまう。
そんなぼくに対して、姉は、
大事にしまっておいてから、ちびちびとゆっくり食べていく。
ぼくが食べ終わったのをあわれむかのように。
姉は、さもおいしそうに、
いかにも美味がごとく、
ゆっくりと小口で味わっている。
ぼくは、口を開けずに小口でほおばる
姉の咀嚼(そしゃく)音が、妙に腹立たしくて、
ついつい「きーっ!」と歯ぎしりしてしまうのだった。
もしかすると、姉は、
そんなぼくを見越して「おちょくって」いたのかもしれないが。
「姉だけ」おいしそうにお菓子を食べている姿が、
ものすごくくやしかった。
自分はとっくに、食べてしまったくせに。
なんだか「ずるい」と地団駄を踏む思いだった。
ばれないように、と。
包み紙をていねいに開けて、きれいに形を整えたり、
ちょっとずつかじったり、「かさまし」したりして、
なんとかごまかしてきたつもりだったが。
おそらく全部、ばれていたにちがいない。
理由は何にせよ、盗られたことには変わりない。
これまでの怒りが、ついに形に表れた瞬間。
ぼくは、姉のものをくすねるのはやめようと思った。
★ ★ ★ ★ ★
何をやっても、優れている姉。
子どものころは、あこがれよりも、
うらやましさやくやしさのほうが強く、
いつか打ち負かしてやりたいとばかり思っていた。
まるで勝てない「強敵」のような存在。
ぼくにとっての「姉」は、
遊び相手でもあり、いろいろ教えてくれる「お姉ちゃん」でもあり。
羨望と嫉(そね)み、憧憬と畏怖(いふ)をごちゃ混ぜにした
超えられない壁のような存在だった。
そのせいもあってか、
いわゆる「シスコン」にはならなかったのだろう。
とはいえ、
幼少のころは、姉によく遊んでもらっていた。
学区のいちばんすみっこだったこともあり、
家の近くに、同じ学校の同級生がおらず、
小学校低学年のときはよく
姉の友人たちの遊びに「入れて」もらっていた。
ゴムとび、あやとり、きせかえごっこ、おままごと。
どれも「おんなのこ」の遊びで、
「おしとやか」なものが多かったが。
それはそれで、おもしろい部分もあり、
その中で自分のたのしみに見つけて、新しい遊びを考えていた。
あるとき。
きせかえごっこで、
姉や姉の友人たちが、ぼくに「おんなのこ」の服を着せて。
髪をしばって、口紅やほお紅などを塗りたくられたことがある。
けれけらと笑いながら、
ぼくを「おんなのこ」にしていく姉と友人たち。
たのしげに笑う、4、5人の女の人に囲まれて、
「女装」をさせられるぼく。
ぼくには、みんなが笑っている「自分の姿」が見えない。
そのときぼくは、すごく腹が立ってきて、
おんなのこの格好のまま、その場を飛び出して家まで帰った。
理由ははっきりしないが。
なんだか無性に
くやしいような腹立たしいような気持ちになり、
半べそ状態で家に帰った。
いま思い返しても、
そのわけは分からないけれど。
以来、
姉にまじってする「おんなのこのあそび」が、
急に「おもしろくなく」思えた。
そうこうするうちに
ちょっと離れた場所の同級生とも遊ぶようになり、
姉の友人たちの遊びに入れてもらう機会は、
次第に少なくなっていったように思う。
あるとき。
たしか、ぼくが中1で、
姉が中3だったときのこと。
たしか姉が、夏服を着ていた季節だった。
ふざけていたのか、何なのか。
当時、飼っていた犬のあたまを、姉がぺしぺしと叩いていた。
ぼくにとっての「弟」である、犬の「レオ」。
強くではないが、何度もしつこく叩いている。
レオの顔は、嫌がり、こまっているようだった。
理由が何であれ、ぼくにはそれが許せなかった。
「おい、おまえ、やめろ」
ぼくが姉のことを「おまえ」と呼んだのは、
これが最初で、最後のことかもしれない。
「おまえって。あんた、誰に向かって言ってんの?」
「やめろって」
叩くのをやめようとしない姉の腕をつかみ、手を止めさせる。
手をふりはらい、立ち上がった姉が、
「何すんの! 放してよ!」
と、ぼくを両手で突き放した。
女に手を出してはいけないと。
小さいころから父に言われてきた。
けれども。
突き飛ばされ、半歩下がったぼくは、
とっさに姉の肩を突き返した。
半開きだった網戸がはずれ、
庭に、制服姿の姉が横倒しになった。
思った以上、姉の体が遠くまで飛んだことに驚き、
ぼくは、指先から血の気が退くのを感じていた。
時間が、風景が、みんな止まって見えた。
声よりも先に、
ぼくも、姉も、驚きの色を浮かべ、
おたがいの顔を見た。
それが、一瞬だったのか。
それとも、しばらくつづいたのか。
庭先に横たわった姉と、
ぼう然と立ちつくしたままのぼく。
止まった時間を前に進めるように。
引っ込みのつかなくなったぼくが、
引っ込みのつかないまま、ぽつりと言った。
「・・・・もう、二度とすんなよ」
負けてばかりのぼくが、姉に「勝った」瞬間。
「かった」のではなく、「まさった」だけの瞬間。
知らないあいだに「まさっていた」ことを知らされたぼくは、
自分でもびっくりしながら、
ちらりと姉の顔を見てすぐにきびすを返し、
そのまま2階の自分の部屋に駆け上がった。
そのあとのことは、よく覚えていない。
けれどもその夜、なんだか気まずい夕食だったような記憶がある。
そして思った。
もう二度と、こんなことはすまいと。
つよく、心に誓った。
★ ★ ★ ★ ★ ★
「これって知ってる?」
マンガや映画、音楽。
おいしいお菓子やめずらしい料理。
情報収集力があり、分析家で、若干ミーハーな部分もある姉。
未知の文化を「家原家」に持ち込んでくるのは、いつも姉だった。
読書家の姉は、
文庫本や分厚いハードカバーの小説や、
写真集、雑誌、図鑑や辞書など、
おそろしくたくさんの書籍を持っていた。
まだそれほど本を読んでいない小・中学生のぼくには、
図書館に行かずとも、
姉の本棚でじゅうぶんに足りた。
いわゆる「売れ筋」の本もあれば
『星の王子様』や『ピーターパン』もあり、
三島由紀夫や坂口安吾、アガサ・クリスティーなどの「古典」もあったし、
美術館の図録やら『朝起きてから寝るまでの英語』やら
著名人の半生を書いたドキュメントとか『魔女狩りの歴史』だとか。
大塚公子氏の『57人の死刑囚』や
コリン・ウィルソン氏の『殺人百科』などもあった。
少女系が中心ではあったが、マンガもたくさん持っていた。
姉の本棚には、いろいろな分野の本が
多岐にわたってならんでいた。
しかもそれが、きちんとジャンル分けされているのだから。
図書館や書店に行かなくても、
ぼくにはそれでじゅうぶんだった。
そんなせいもあって、
本は、たくさん読める環境にあった。
姉の本棚の本を読みつつ、
興味のある本を自分で買っていくうち、
しだいに自分の本棚も少しずつ、充実していった。
読書家の姉は、映画も好きだった。
レイトショーや「女性DAY」、
「9月1日の1,000円DAY」などでは満足できず、
劇場の年間パスポートのようなものを購入していた姉。
ひまさえあれば、というより、
映画を観るための時間を設けては劇場に通っていた。
劇場だけで、年間100本以上観ているという時期もあったが。
家で、衛星放送や有料放送などで録画した映画もかなり観ていたので、
これまでいったい何作品観てきたのか、ぼくには分からない。
高校生のころの姉は、翻訳の仕事がしたいと言っていた。
映画の字幕を書けたらいいな、と。
映画好きの姉にとっては、たまらない仕事だろうし、
ぼくもそれはすごくぴったりな仕事だと思った。
高校生の姉の部屋からは、
いつも「洋楽」が流れていたし、
夜になると、いつも英語の会話が聞こえてきた。
あるとき、姉がリビングで映画を観ていた。
当時は「字幕オフ」などという機能はなかったので、
画面の下部分に紙を貼りつけ、
字幕を隠して映画を観ていた。
途中参加のぼくは、
何の気なしに、観るでもなく見ているうちに、
だんだん映画の内容が気になりはじめた。
けれども、
いまさらその「字幕オフの紙」をはがしてとも言えず、
映像と、断片的に聞こえてくる英単語で、
内容をつかみ取ろうとしていた。
「あはははっ」
姉が笑った。
映像を観ているかぎりでは、
まったく笑えない感じだったのに。
あきらかに姉は、
「字幕オフ」の映画の「セリフ」で笑ったのだ。
同じ家に生まれた姉弟なのに。
ぼくには、急に姉が「外国人」になったような感じがした。
高校生になった姉は、イギリスに短期留学をした。
帰国した姉は、
プチ帰国子女となった。
帰国した姉のスーツケースからは、
いろいろなおみやげといっしょに、
外国のにおいがふわりとこぼれてきた。
まだ見ぬ英国の風を家原家に持ち込み、
自分が見聞きしたイングリッシュ文化をぼくに「伝道」する姉。
まるで「ちょんまげ」のぼくは、
黒船に乗って帰ってきた姉から、
遠い伴天連(バテレン)の国の
英吉利(エゲレス)の話を興味深く聞いた。
大学に入った姉は、
アメリカ、シカゴに留学した。
姉のいない生活がしばらくつづき、
お盆に大阪へ帰省するときも姉は不在だった。
アメリカから帰国した姉は、
あきらかに「変わって」いた。
ピアスを開け、ぐりぐりのパーマをかけて。
体も少し「大きく」なっていた。
心なしか声まで変わっているように感じた。
事実、体重が少し増えたせいで、
声までもが少し「太って」いた。
すらりとした姉の姿は、
アメリカでの生活を経て、
若干「アメリカン・サイズ」になっていたのだ。
身長171センチの姉は、
「アメリカだと、自分が小さく感じてうれしかった」
と微笑んだ。
「けど、空港におりたらみんな小さくて。
急に自分が大きくなった気がした」
と、すぐに眉をひそめた。
スーツケースからは、
輸入版のCDとよく似たアメリカのにおいと、
たくさんのおみやげがわらわらと出てきた。
そのなかにあった「ディップ」。
サワー・クリーム・オニオン味と
チェダー・チーズ味の2種類のディップが、
何缶かころころ転がっていた。
お菓子&輸入菓子好きのぼくにも、
初めて目にするものだった。
姉いわく、
「これを『リッツ』につけて食べるとおいしい」
とのことだった。
さっそく食べてみる。
たしかに、めちゃくちゃうまい。
が、これは「太る」だろうと思った。
なぜなら、かつては「おしとやか」に
ちびちびと食べていた姉が、
それこそ『パックン貯金箱』のような勢いで、
ひとくちでぱくりとほおばって、
次々と口に運んでいたからだ。
しかも、夕食前のひとときに。
そのすぐあとのこと。
帰国を祝って出された、豪華な夕食。
そこには、
揚げたてのフライド・ポテトがあった。
山盛りのフライド・ポテト。
ぼくも大好きなフライド・ポテト。
と、そこに、姉は何も言わず、
いきなりぶりぶりと勢いよくケチャップをまき散らした。
「!!!!」
赤く染まったフライド・ポテトをわんさとつかんだ姉は、
まるでサラダのような感覚でむしゃむしゃと食べはじめた。
「!!!?」
ぼくが「L」を頼むのに対し、
姉は「S」でもたまに残すくらいだったのに。
そのときぼくは、
かつて大和撫子だった姉が
見事「外国人」に変貌をとげた姿を目の当たりにして、
ただただ口を開けたまま
真っ赤に染まったフライド・ポテトと姉とを
交互にながめるばかりだった。
姉がしてくれたアメリカでの生活の話は、
まるで「映画」のような「小説」のような、
そんな風景に感じた。
「本当、lazy なんだよね」
ときどき、発音のいい英単語がまざる姉。
そのときのぼくは、
ラジオの「パーソナリティ」よりも
「ルー大柴」を連想した。
後日、アメリカで撮った写真も
たくさん見せてもらった。
そこには、ぼくの知らない異国の風景と、
ぼくの知らない姉が映っていた。
まじめで、優等生で、ひかえめな姉。
写真の中の姉は、
いままでぼくが見たこともない感じの、
のびのびとした笑顔に見えた。
それは、どちらかというと、
うれしい驚きでもあった。
やがて、ふえた体重も、元に戻った。
見た目は元に戻っても、
目に見えない部分で、たしかに姉は「変わって」いた。
まじめで、優等生で、ひかえめだった姉。
そんな姉が、
大学の友人たちとバンドを組んでライブをやったり、
中型二輪の免許を取って、沖縄を縦断したりするのを、
ぼくは、なんだかうれしく思った。
長身の姉が、
ハーレーのパーツをまとったバイクで出かていく。
ぼくが履かなくなった破れたジーンズと、
ぼくが履いていたエンジニア・ブーツで、
バリバリと、乾いた排気音を立てながら、
どこかへ遊びに出かけていく。
あいかわらず、何でも知っていて、
何をやるにもきっちりやり切る姉だったが。
ほんの少し、
ぼくが姉に教えられることもできてきた。
姉のほうからもときどき、ぼくに聞いてくるようになった。
姉が大学を卒業したころ。
それくらいの時分からは、おたがい、
あまり関わりが少なくなった。
ときどき顔を会わせたとき、
おお、とか、ああ、とか、
そんな感じで軽くあいさつを交わして、
ぽつぽつと近況を話すくらいだった。
そして姉は、結婚した。
いつもくやしい思いをしてばかりのぼくだったけれど。
姉の結婚が決まったときには、
照れくさいけど会ったときに「おめでとう」と言った。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
結婚して、家を出た姉。
いまでは3児の子を持つ、立派な「お母さん」だ。
ずいぶん「大人」になって。
姉の家でコーヒーを飲みながら話していたとき、
姉が、ぽつりと言った。
「あんたがうらやましかった」
えっ、と思った。
うらやましかったのは、ずっとぼくのほうなのに。
びっくりしたぼくは、姉に聞き返した。
「なんで?」
「要領いいし、自由だし。
なんか、いっつも好き勝手やってて、うらやましい」
姉は、いまでもぼくのことが
ときどきうらやましく感じると言う。
「それに、いっつもあんたばっかり
母さんからかわいがられてさ。ずるいって、本当」
なんだか笑えてきたぼくに、
つられたのか、しかたなく姉も頬をゆるめる。
苦々しく口を尖らせた姉が、笑いながらつづけた。
「やっぱり、男の子だし、下の子だし。
長女は損だよなぁ」
「ぼくからすると、いっつも姉ちゃんばっかり、
キャンディ・キャンディの自転車とかキティちゃんのセーターとか。
ばあちゃんからいっぱいプレゼントもらってさ。
ぼくはいっつも『おさがり』ばっかりだったからうらやましかった」
事実、祖母は姉をかわいがっていた。
「けど、あんた、おじいさんにかわいがられてたじゃん」
たしかに、祖父はぼくをかわいがってくれた。
それは、祖母があまりにも姉をかわいがるから、
かわいそうに思ってそうしてくれていたのだと、
ぼくは思っていた。
「とにかく、あんたがうらやましい」
かつては姉をうらやんでばかりいたぼくだが。
そのぼくを、姉は、
いまでも「うらやましく」思っている感じだった。
ずっと勝てない存在で、
ずっとうらやんでいた相手に、
ずっとうらやましがられていたことを初めて知らされて。
分からないものだな、と、つくづく思った。
久しぶりに映画『GATTACA(ガタカ)』を観たせいか。
ふと、そんなことを思い出した。
『欠点を探すのに必死で、気づかなかっただろ。
・・・・可能だっていうことを』
(映画『GATTACA(ガタカ)』のセリフより)
劣等感。
いまあるぼくは、
かつて持ちつづけた姉に対する劣等感のおかげだと、
まちがなく言える。
とはいえ。
ぼくが「劣等生」で、
姉が「優等生」だということも、変わりのない事実だ。
ぼくは、いまでも姉を尊敬している。
劣等生と劣等感。
それは、似ているようで、まったくちがう。
優と劣。
事実や見ているものが同じでも、
見えるもの、感じることは、それぞれちがう。
だったらぼくは、おもしろいものとか、
いいものを見つけてわくわくしたい。
そう。
それが、劣等生のぼくが身につけた「あそびかた」なのだ。
< 今日の早口言葉 >
アカウミガメ アオウミガメ キウミガメ
あかかきあげ あおかきあげ きかきあげ
アカキリン アオキリン キキキリン