H先生という英語の先生がいた。
この先生が、ひどく風変わりな先生だった。
生徒からは一目置かれているのか、
それとも単に距離を置かれていたのか、
それは分からないが。
とにかく「畏(おそ)れられていた」存在だ。
H先生の第一印象は、というと。
まず初めに思ったのは、
「やせたチンピラ」といった印象だ。
やせた「チンピラ」。
そう見えるのも、目鼻立ちがしゅっとしていて、
クールな顔立ちをしているからだろう。
一重で切れ長の目、
まっすぐに通った鼻梁(びりょう)、
やや薄い唇と、細面(ほそおもて)の輪郭。
僕の個人的な分類では
「男前」の部類に入る顔立ちだ。
けれどもやはり、
「チンピラ」というイメージよりも先に、
何よりまず「やせた」という印象が、
強烈に飛び込んでくる。
そのやせ方も、
細身とかそういった話ではなく、
まさしく「ガリガリ」なのだ。
やや毒舌気味の、生物の先生は、
修学旅行時に教師どうしで
風呂に入ったときの印象を、こう語っている。
「ガイコツかと思った」
生物の先生も、
H先生の裸を目の当たりにしたのは
このときが初めてだったらしい。
湯船にぷかぷかと浮かぶガイコツ。
たしかに毒舌気味の先生ではあるが、
まんざら言いすぎではない。
白いワイシャツは、
本来あるべき肩の部分が両腕側に落ち、
腕のボタンを外してまくられている。
カーディガンなどを羽織ったときも同じだ。
誰か、体の大きな人の服を
借りて着ているような感じで、
洋服ばかりがやけにダブついて見えた。
ズボンも同じで、
スーツ下のズボンのウエストを
巾着袋のようにぎゅっと絞り、
無理矢理ベルトで止めているようだった。
そのベルトも、かなり手前の箇所に
自作の穴をもうけて
何とか留めているといった感じだった。
これも同じく、生物の先生の弁だが。
「あいつは風俗で性病をもらってきた」
とのことだ。
その真偽は不明だが。
実際、H先生は
「甲状腺肥大」という病気を患っており、
甲状腺ホルモンが
ばんばん出っぱなしになっている、と。
平常時、
ただ教壇の前に立って話している状態でも、
全速力で走っているのと同じくらいの
心拍数なのだと聞いた。
つまり、
「いつでも走っている状態」なのだ。
かつてはスポーツ好きだった
「好青年」が、見る影もなく、
「走り続ける」体のせいで、
食べても食べてもどんどん
カロリーを消費していくばかり。
そして、体重が激減。
身長173センチで体重43キロ。
それ以下とも聞いた。
いまにして思えば、
立っているだけでも奇跡のような
状態だったのかもしれない。
そのせいで、指先はふるえ、声もふるえる。
ただ、英語(授業)に対する熱意には、
まじりっ気がなく、まっすぐなものだった。
当然、授業への取り組み姿勢も厳しくなる。
水を打ったように、
しいんと静まり返った教室内には、
H先生の、ややビブラートの効いた声と、
ノートに走る鉛筆の音ばかりが続いている。
誰ともなく、
「この授業はヤバい授業」
という空気を読み取り、
誰もがそれに迎合する緊張の時間。
おしゃべりのやまない僕も、
さすがに話し相手を探すまでもなく、
黙って授業に集中した。
進学校の中でも、
比較的「ゆるめ」のクラスにいた僕らにとって、
ひどくまれな時間だった静寂の授業。
長い、50分だった。
H先生はどこかつかみどころがなく、
忘れ物や「粗相」をした生徒に対して、
「てめえ、ふざけんなよ!
ナイフで刺したろか!」
と語気を強めて言う。
本気で殺意を感じるほどの、非日常性で。
そしてやや間を空けたあと、
「・・・これ冗談」
と、ぽつり付け足す。
生気のない顔色で無表情に言われても。
そんなの、ちっとも冗談に聞こえない。
いくら目を閉じ、肩をすくめてみせても、
言われた生徒の側には、
前半部分(「刺したろか!」の部分)の
緊張感・恐怖感だけが手元に残り、
しばらくおろおろと
落ち着かない気持ちで青ざめる・・・。
そのせいで、ときどき使う、
「では、ここの問題。申し訳ありませんが、
いまからやっていただけますでしょうか」
といった感じの、
やけに丁寧な言葉づかいまで、
妙な「すごみ」を持った。
とにかく、高校生の「ガキども」には、
脅威の存在だったに違いない。
そんなこともあってか、
生徒の大半はH先生のことを嫌っていた。
たとえ嫌いじゃないとしても、
ほとんどの生徒が苦手としていた。
つかみどころのない、
型破りな英語教師。
H先生は、誰にも媚びず、
どこかひとりぼっちな人だった。
理不尽で大人げない理由や、
私情をからめて怒る先生がちらほらいる中で、
H先生は、筋が通っている気がしたのもあるが。
僕は、H先生が好きだった。
それを公言したり、
好感を持っているそぶりを見せた覚えもないが。
魚心あれば水心、とでもいうのか。
なぜかH先生も、
僕に好印象を持っていた(?)ような気もする。
学期末のテストなどで、
カリカリと真面目に回答欄を埋めているさなか。
「昨日よぉ、
パチンコで3万スッてよぉ・・・。
もう、ヨメさんがコレでなぁ」
と、ジェスチャーまじりに
話しかけてくるものだから。
自然と「コレ」の部分で顔を上げてしまう。
(ちなみに「コレ」の部分では、
人差し指を「ツノ」に見立てて
「カンカンに怒っている」様子を表現)
「先生、ぼく、テスト中なんですけど・・・」
「おお、悪りぃ悪りぃ」
僕の席のすぐ前に置いた
パイプ椅子に腰かけたかと思うと、
しばらくしてまた、
「ヨメさんがカンカンだったもんでな、
昨日、晩飯がよぉ・・・」
と話が続くのだ。
それが得意科目のテストなら、
話にもつき合える。
けれど、赤点必至の数学や物理などでは、
そんな余裕もない。
もちろん、H先生にそんな気づかいはない。
だから、数学や物理のテストの試験官が、
H先生じゃないことを祈るしかなかった。
どうしてなのか分からないが。
そんなふうに気さくに話しかけられる生徒は、
僕のほかに、
ほとんどいなかったように聞いた。
生徒だけでなく、先生にも、
「おしゃべり」ができる相手は、
あまりいなかったようだ。
ある日、
いつものように、H先生の授業が始まった。
ときどき授業の開始に
遅れてくることもあったが。
そのときは多分、
チャイムが鳴ってすぐに現れたと思う。
いつものように教科書を開き、
いつものように授業がはじまった。
けれど、その日は違った。
授業開始から20分ほどして、突然、
黒板に英文を書くH先生の手が止まった。
チョークを置く、硬質の音。
「悪りぃ・・・ちょっと
横にならせてもらっていいですか?」
いきなりそんなふうに言われて。
また、いつものように「冗談」なのかと、
その真意を量れずにいた。
「しばらく横になれば、治るんで。
本当すんません」
H先生は、言葉どおり、
そのまま地べたに横になりはじめた。
黒板と教卓のあいだ、
床より10数センチだけ高い、
ちょうどシングルベッドほどの大きさの教壇の上で。
H先生は、そのまま目を閉じ、
じっと横たわっていた。
予想外の出来事ではあったけれど。
教室内は、相変わらずしいんと
静まり返ったままだった。
普段の「英語の授業」と何ら変わらず、
静寂と秩序を保っていた。
何も言わず、
じっと横たわったままのH先生。
押し黙ったまま、
じっと座り続ける生徒の僕ら。
5分、10分、20分と、
時計の針が静かに時を刻んでいく。
このまま死ぬんじゃないか、と。
誰もがそう思った。
そして。
終業を知らせるチャイムが鳴った。
H先生は、
じっとしたまま動かない。
廊下には、
ほかのクラスの生徒たちがあふれ出し、
にぎやかな声が響き渡る。
休み時間のはずなのに。
不気味なほど静かで、
誰ひとり席を立たない異様な光景に、
廊下から教室をのぞき込む生徒も出てきた。
5分ほど経っただろうか。
「先生、チャイム鳴ったんですけど・・・」
声をあげて聞いてみた。
返事がなかったらどうしよう。
そんな不安を抱きながらも。
「・・・おぅ、悪りぃ。
休憩にして下さい」
思いのほか、
しっかりした声が返ってきた。
H先生の声を聞くと、クラスのみんなは
ほっとしたように、それぞれ
目的地へと散らばっていった。
心配そうに、
先生をのぞき込む女子もいた。
「ここで、大丈夫ですか?」
僕の問いかけに、H先生は、
目を閉じたまま答えた。
「おう。もうちょっと
このままいれば、大丈夫だから」
休憩時間、
違うクラスの友人たちから質問攻めにあい、
ことの顛末を話していて。
あっというまにチャイムが鳴って
教室に戻ると、
そこにH先生の姿はなかった。
自己診断のとおり、
何とか回復したH先生は、
職員室に戻っていったらしい。
その後の英語の授業で。
「先日は大変失礼致しました。
貴重な授業時間を無駄にしてしまって
申し訳ありません」
授業の冒頭でH先生は、深々と頭を下げた。
それが本気なのか、冗談なのかは分からないが、
真剣な面持ちだったのは確かだ。
「遅れた分もあるので、今日は
2倍のスピードでやりたいと思います」
こんな、よく分からない宣言にすら、
妙な説得力を持たせてしまうのが、
H先生の魅力でもある。
黒板に、つらつらと英文を書きつづる。
書きはじめの位置に比べて、文末は、
すいぶん上のほうに上がっている。
斜めに並ぶ、いくつもの英文。
手のふるえもあって、
決して読みやすい文字とは言いがたい。
それは、昨日今日にはじまったことではない。
けれども。
よほど読みづらかったのか、
回答を求められたFくんが、
真剣な口調で訴えた。
「先生・・・ぼく、
筆記体よめません」
H先生が手を止め、
ドスの利いた声ですかさず吠えた。
「ばかやろうっ、これ、
ブロック体だぞっ!」
誰もが声をあげて笑いたかったはずだが。
みんな、声を殺してうつむき、
必死で笑いを押しつぶしていた。
そんなH先生も、
僕らが3年になったころ、手術をした。
術後の経過もよかったようで、
みるみるうちに「肉」がついてきた。
骨ばかりだったH先生の体が、
健康的な肉をまといはじめると、
心なしか、笑顔が増えたような気がした。
教室内の、生徒の笑顔ではなく。
H先生の、冗談とも本気ともつかない、
不思議な笑顔。
いまにして思えば。
H先生は僕らを
試していたのではないかと、
そんなふうに思えてならない。
冗談なのか、それとも本気なのか。
魚心あれば水心。
そんな、気がする。
< 今日の言葉 >
「100年と言っても大した長さではない。
おばあさんが3人続けば到達する長さだ」
(ジャン・リュック・ゴダール/
映画誕生100周年のインタビューでの言葉)