よくケガをした。
けっこうな深さの傷で、
縫うほどのケガを
することが何度かあった。
けれども、
骨折したことは一度もない。
ギブスや入院に
憧れたこともあったが、
いまにして思えば、
「ケガ」で済んで
よかったのかもしれない。
自転車の補助輪が
外れて間もないころ。
たしか、
幼稚園の「年長さん」に
なったばかりのころだと思う。
近所にある急な坂を
どうしても下ってみたくなり、
補助輪を外したばかりの自転車を押して、
坂の頂上に上がった。
いま見ると、
大したことのない、
ちょっとだけ急な坂だろうが。
そのときは、
スキーのジャンプ台ほど
急勾配に感じた。
と同時に、
耐えがたいほどの魅力を
感じる坂でもあった。
自転車にまたがり、
坂を下った。
ほんの数秒の出来事だったけれど。
顔に、すごい風を感じた。
坂を下り切ったそのときまで、
僕は「止まる」ということを
考えていなかった。
たぶん、知らなかったんだと思う。
目の前に、赤い、
大きな自動販売機が飛び込んできた。
坂の終わりは、
ちょうど急カーブになっている。
このままじゃ自動販売機に激突する。
そう思って、急ハンドルを切った。
ブレーキは間に合わなかった。
地面には、
細かな砂利や砂が
散らばっていた。
タイヤが砂に滑り、
僕は、自転車もろとも横転した。
自動販売機には
ぶつからずに済んだのだけれど。
半ズボンをはいていた僕は、
右太ももをざっくり擦りむいた。
痛くて、熱くて、
泣きそうだった。
歩くどころか、
立ちあがることもできなかった。
たまたま通りかかった
近所のおばさんが、
すっころんだ僕を見て
駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
僕は「さかからおりてころんだ」という感じに、
聞かなくても分かるような説明をしたと思う。
僕のことを
知っていたらしいおばさんは、
「あるけない」と訴える僕を抱きかかえ、
家まで運んでくれた。
「病院はいいの?」
というようなことを聞かれたが、
「いい」と答えて、玄関先で別れた。
バカな僕は、
ろくにお礼も言わず、家に入った。
家には母がいるだろうと思い、
急いで台所に向かった。
早く、泣きたかったからだ。
けれど、母はいなかった。
どこを探してもいなかった。
母は、どこかに
出かけているようだった。
太ももからは、
だらだらと赤い血が流れ出し、
止まる気配がなかった。
救急箱は、
背の高い棚の上にある。
イスを運んで、
救急箱を下ろした。
開けてみると、
包帯やらガーゼやら、
軟膏やらがいろいろ詰まっていた。
そのときの僕には、
オキシドールが「正解」だと思えた。
あいまいな記憶をもとに、
オキシドールをガーゼにしみ込ませて、
ピンセットでつまみ、
傷口に当てる。
ちょん、と触れるたび、
激痛が走った。
ガーゼの繊維が、
ギザギザになった傷口に引っかかり、
よけいに痛かった。
しかたなく、直接、
傷口にオキシドールをかけた。
熱いような痛みが、
じゅわっと広がる。
「消毒」の痛みが引くまで、
歯を食いしばり、
足をばたつかせて、天井を見ていた。
しゅわしゅわと生まれる泡が、
いかにもバイキンと戦っているようで、
どんどん「治って」いくように感じた。
白いブリーフが、
赤くまだらに染まっていく。
オキシドールをかけては
ばたつき、天を仰ぐ。
そんな「治療」を
何度も何度も繰り返し、
次第に傷口に生まれる泡が
弱々しくなってきたころ。
カラカラと、
裏口の扉の開く音がした。
「どうしたの!」
僕を見るなり、
母がうろたえた。
ここまでの経緯を
たどたどしく説明しながら、
僕はどんどん涙声になり、
ついには声をあげて泣き出した。
痛みより、淋しさや不安から
解放された安心感で、
思いっきり泣きじゃくった。
結局、病院には行かなかった。
母は連れて行こうとしたが、
僕がかたくなに拒んだせいだ。
傷の「治療」は終わった。
そう思っていたからだ。
そのおかげで、右太ももの傷は、
ふっくらとピンク色に盛り上がり、
成長とともに、いびつな感じで引きつった。
小さなころは、
10センチくらいに感じた大きな傷も、
いまでは5センチくらいに「縮んだ」。
唇みたいに赤かった色も、
すっかり肌の色に近づいて、
いまでは高級エビせんべいに
押し込まれたエビか、
植物か何かの化石みたいに
馴染んで見える。
表面の素材感は、
やはりほかの肌とは違って見えるけれど。
かつてプールや着替えのたびに
気にしていたほど、
主張するような存在でもなくなった。
『さしずめ俺はかつてつくった傷さ
忘れるほど目立っていないつもりさ
でも 拭こうが こすろうが
確かにまだそこにある』
(『あえて抵抗しない』ゆらゆら帝国)
これまた年長さんのころ。
縦穴式の、フタつきで深い、
ドブの合流地点を見つけた。
フタの上から
ほの暗い水面をのぞき込み、
あやしく揺れる自分の影を見ていたら、
そのまま頭からすっぽり落ちた。
そのときは、
たまたまそばにいた、
いとこのおじさんが気づいてくれて、
汚水まみれの僕を助けてくれた。
残飯らしき米粒や
泥まじりの葉っぱや枝をまとった僕は、
あちこちにできた擦り傷を
ヒリヒリと意識しながらも、
視野だけはなぜか冷静だった。
ドブの脇の石垣に
へばりついた、1匹の毛虫。
黒っぽい、青紫色の体に、
黄色とオレンジの斑点が
やけに鮮やかで、
いまでもそのコントラストは
鮮明に覚えている。
母の日のこと。
タンスの引出しに乗って、
よじ登り、
そのままタンスの
下敷きになった。
異変に気づいた母が駆けつけて、
重たいタンスをどけてくれた。
タンスの引出しに
はさまった僕の両足は、
油粘土みたいな従順さで、
深い溝を刻んでいた。
このときは、
大した外傷を負わずに済んだけれど。
タンスの上にあった、
姉と僕との名前が書かれた
1対の「変わり雛」が、
僕の方だけまっぷたつに割れていた。
床に落ちた姉の方ではなく、
布団の上に落ちたはずの僕の方が、
ぱっくり割れていた。
そう思えば。
3歳のとき、
アパートの2階から
転落したらしいのだけれど。
傷ひとつ負わず、
何ともなかったと親に聞かされた。
その記憶は、
ほんの少しだけあるような気もする。
頭を縫ったり、
膝を縫ったり、
口の中や頬を縫ったり。
何度ケガをしても、
こりずにケガをする、
どうしようもないガキだった。
10代になると、回数は減っても、
ときどき流血するような傷を
おみやげに帰宅した。
おかげで外科治療の「進歩」を、
自ら体感することができた。
「外に行くたび、
ケガして帰ってくる」
小さなころ、母に、
そう言われた覚えもある。
たぶん、2階から落ちたとき、
ケガをする代わりに、
かんじんな何かを
「落して」しまったのだろう。
それとも、
変な具合に頭を打ちつけたのか。
よく分からないけれど、
とにかく「こりないバカ」
だということは、
確かだと思う。
いまでも、
知らないあいだに
血が出ていたりすることが多々ある。
気づかないうちに、
カサカサになったカサブタが
できていることもある。
いつでも生傷の絶えない、
わんぱく小僧の僕は、
育ち盛りの、
30代の男の子なんです。
< 今日の言葉 >
夕刊 → タ 干 リ → タ モ リ
(夕刊からタモリへの変化)